12/法典Ⅰ
/12
弓坂と公園で別れた後、ただぼんやりと街を歩き回った。
目的などなく、あるいはこのまま家に帰らないことこそが目的だったのかもしれない。それは、夕方に回ったルートを再度辿る、そこになんの意味も持たない行為。思考は停止していたといっていい。何も考えられない状態、半ば忘我したままあてられたように歩き回る。
何かが、絶望的に欠けていた。そんな気がする。
間違いだと、弓坂は言った。……その通りだろう。一時の気の迷いにしろ、あの瞬間の籠野静月は異常だったと、それは認めるしかない。言葉を当てるならば、それは好意ではなく妄執。どこかから衝動が聞こえて、それに抗えなかっただけ。
おおよそ、人間の持つ感情とは遠く掛け離れた衝動。
何がしたかったのか。何をしようとしたのか。そのどちらも解らない。
足取りは不確かでありながら、一通り夕方の道程を終えた後に定まっていた。
何故か吸い寄せられるように。別の意思が体を操っているように。
そうして辿り着いた――件のマンション。
夜空を突き刺すように伸びた円形をした新築のそれを前にして、自然と脚が止まった。
――同時に、いつものあれが襲ってくる。
ぞくり、と背筋に駆け抜ける悪寒。眩暈に伴う吐き気と頭痛。立っていることさえも困難な錯乱状態。あの夜、道で弓坂に声を掛けられる前に感じたのと同じあれが再び精神を揺らす。それも、今までにないくらいに強烈な頭痛だった。
「ぁ…………ぅぐ……」
堪らず膝を突く。
……こんな、こと。弓坂と式を解いて回っているときには感じなかったはずなのに。
ふと思い出す。俺が頭痛を覚えたのはいつか。それは起動前の術式に対してではない。式単体になら、軽い眩暈程度の不快感だけでやり過ごせた。頭痛を伴うのは、これで二度目。一度目は――結界の発動後。
「……って、ことは」
このマンションの周辺、あるいは建物の内部に結界が張られている。
――――止めろ。
住人全員が姿を消したマンション。弓坂は、その原因を魔術師の闘争だと明言した。
だとしたら。
――――離れろ。今すぐに。ここから。
今更、この場所に結界が張られる理由はなんだ。
――――考えるな、すぐに逃げ出せ。
結界は、弓坂に敵対する魔術師が使う魔術。それは周囲を殲滅する為の力。
それが今この場所に、形を成していることが意味するそれはつまり。
――――――ここにいれば、殺される。
マンション内部で、今まさに、弓坂絵空が戦っているのではないか。
頭部に一層激しい痛み。眩暈。世界が揺れている。点滅する赤の光。また、あれが来る。強い赤色の輝きが網膜を焼き、同時に激しい熱が全身を侵すあの感覚。ちかちかと点いては消える赤い光景。誰かが何かを言っていて、誰かが何かを叫んでいる。その声に応えるように、意識は抗えず吸い寄せられて――
「行か……ないと」
帰らないと。
それは、どこに。
決まっている。
帰る場所なんて一つしかない。
早く、家に帰らないと。
どこかで語りかけてくる衝動が遂には自我を捻じ伏せ、足取りは依然覚束ないまま、目指すべき家とは反対にマンションの中へと歩みを進めた。その時、頭痛の治まった意識にはどう問いかけても引き返すという行動が見付からなかった。
†
マンションの内部に至る勝手は、まるで住み慣れた場所のように体に記録されていた。
エレベーターに乗り込むと、指先が押し込むボタンは予め決められていたらしい。目的のフロアを示す数字に直ぐ様明かりが点る。重力が抜ける、体だけが同じ場所に留まるような一瞬の浮遊感の後、エレベーターは数字の階へ昇っていく。
誰もいない空間。
故に四方を壁で囲まれた箱が目的地に達するまでを阻む障害は何一つない。機械は与えられた役目を全うし、内部にいる人間を所定の場所に送り届ける。そうして数分も掛からない内に、到着を告げる不気味な機械音が鳴り響いた。
左右に開かれる鉄の扉。高級感を出す為か、赤塗りの絨毯が敷かれた廊下。窓の穿たれたクリーム色の壁。差し込む月明かり。廊下に満ちるのは温もりのない無情の光。誰もいない。そう、誰もいないのだ。静かであって当然。賑わうことなどない。
今更になって思う。どうして自分はこんなことをしているのか。
解らない。けれど、体はそれを知っていた。
まるで当然のように、脚は廊下を歩く。エレベーターの扉が閉まり、それで逃げ場が封鎖された。踏み出す毎に沈む体が浮遊感を錯覚させる。意識は朦朧としているのに、この時の足取りだけは明確。迷うことなく決められた道程を踏み外すことなく進んでいく。
そうして辿り着いた扉の前。
左右両隣の部屋と何一つ変わらない扉の前で体が止まった。
ぼんやりと、冴えない意識が焼けるように覚醒する。
頭を離れていた自我が突如として元の場所に戻り――瞬間、抗えぬままその光景を瞳が受け入れた。
有り得ない、と、再来した頭痛さえ感じないほどにただ衝撃を否定した。けれど眼球に捉えるその標札に記された名前が変化することはなく、繰り返し夢想を疑う度に頭痛は酷くなっていく。
こんなモノは偽りだ、と心が叫び、
これこそが真実だ、と体が訴える。
二つの異なる主張は互いに摩擦し合い、削り合い、磨耗する。それが悉く籠野静月という存在の『色』を擦り減らして行き、結果激痛となって体と心を蝕む。抗えない。頭の中から鉄槌で頭蓋を殴打されているような痛みと揺れ。眩暈に伴う吐き気。
痛い、なんてものじゃない。
それは痛覚としてではなく、もっと別の何かで。
籠野静月を際限なく削り取っていった。
「あ…………がぁ……ぐ…………ぅ」
耐え切れずに頭を抑えて倒れ込む。
重力の感覚は、とうに失せていた。シートベルトなしで延々と回転し続けるジェットコースターに乗せられているみたいな、上も下も右も左も混沌と入り乱れる強烈な浮遊感。床が深く沈んだ気がする。天井が圧力を伴って降りて来ている気がする。
予感するのはただ一つ明確な、己の破綻と崩壊。
死とは異なる、内部がぐちゃぐちゃにされて分け隔てが消え去り成型を失うような、そんな感覚とそれに伴う恐怖と絶望。原色の点滅が網膜を焼く。鼓膜を打ち付ける超音波染みた誰かの声。呼んでいる。その声は呼んでいる。呼んでいるのは一体誰で――呼ばれているのは全体誰なのか。
“――共界”
赤い影が呼びかける。魂を掌握するような、絶対的な韻を響かせて。
砂嵐の向こうに霞む、蜃気楼みたいな遠い記憶。埃を被って、霧に覆われる果ての光景。
赤い少女が手を伸ばしている。
少年は、残された命を削って少女の手に触れようとして――――
「懐かしいか、人形」
追憶を切り裂く、冷え切った声が夜のマンションに流れた。
その声を聞いた途端に乱れていた意識が纏まる。というよりもばらばらだった感覚が無理矢理一つの場所に集められた気分だった。生命体としての本能が、自己を結束しなければならないと判断したからこそ。――つまり、その存在に意識を集中していなければ自らが破壊されると、声を聞いただけで思わされた。
依然として続く頭痛に片目を閉じながらも、反対の目をどうにか抉じ開け直視する。
黒く伸びた影を辿って行き着く場所。距離にして十メートル以上も離れた位置にいる存在に、音だけで生命を揺らされた。その絶対的存在感。揺らぐことのない、周囲を統べる覇気を惜しげもなく撒き散らす男。
黒い外套を纏った男だった。
全身を包む黒の装束でありながら、男の短髪は白銀。鉄のような鈍い輝きが、黒よりも深い混沌を主張する。黄鉛色の瞳は呼吸も同然に放つ殺意に相俟って、その視線は直視したものに死を予感させるに十分。研ぎ澄まされた、その鋭利な殺意。無駄のない、一瞬でも気を抜けば四肢を断裂されてしまいそうな危機感。
それに、俺は見覚えがあった。
直接記憶に留まっているわけではない。
けれど、肌で感じるこの脅威は一度目ではないと確かに断言できる。だから体は知っていた。この者に出遭ってしまったことが運の尽きであると。生きたいという当然の願いは叶うべくもなく、逃げ出そうとさえ思えない。
絶対。
黒い絶望の影は、その一言に尽きる立ち姿でそこにいた。
「…………なんだ……おまえ」
動かない体。
痺れる関節。
立ち上がれないまでもせめて、膝立ちの状態にまで持ち直す。視線には申し訳程度の敵意を籠めて、この圧倒的な存在に飲まれて潰されないようにと張り続ける。
こちらの質問に対し、男は然も当たり前のように自らの名乗りを上げた。
「魔術師だよ、おまえと同じだ」
「……俺は、魔術師なんかじゃ、ない」
は、と男が笑いを零す。
そんな冗談はこれまで聞いたことがないとでもいうように、溢れ出した哄笑は空間を震撼させる。
「なにを馬鹿なことを。貴様のその在り方、その存在が魔術師のそれでなくてなんだと言うつもりだ」
「どういう……意味だよ」
訳が解らない。
男の言っている意味を、その意図を欠片ほどにも掴み取ることが出来なかった。
魔術師。
そんな超常の存在と称されるような理由を、俺は持ち合わせていないはずだ。この身は凡庸な、日常に染まった色に満たされている。魔術師などとは比べようもない。条理の内を出ることなどあるはずもない、そんな――
「理解していないのか、それとも記憶がないのか。どちらにしても、それは貴様の行使した魔術の結果ではないということだな。なるほど、中身が伴わない空人形は、さらに四肢を糸で操られる玩具であったか。これは滑稽だ」
「……何の用だ、魔術師」
こいつの言っていることは何から何まで訳が解らない。解らない、はずなのに。この男の言葉はいちいち突き刺さって無視できない。聞いていれば、それだけで壊れてしまいそうだった。だからわざと口調を強めて問うてみる。敵対すれば滅びるのは自分の方だと解っていながらそれでも、出来得る限りの敵意を載せて黒い魔術師を睨み付けていた。
銀髪の男は、俺の強がりに似た精一杯の敵対姿勢を嘲笑い、あくまでも自然な振る舞いの中に殺意を溶け込ませる。両手を天秤の皿のように持ち上げる、その無防備な姿勢すらも直ぐ様こちらの首を撥ね飛ばせることを如実にアピールしていた。
一歩。
たった一歩魔術師が踏み出せば、それだけで俺の体は灰になってしまうのではないかと、正面から対峙するこの状況では思えてくる。息をするそれだけで、肺がきりきりと痛んで心臓が早鐘を打っていた。
だがその緊張は、呆気なく終わりを告げる。それはやはり、一触即発の空気を充満させる黒い存在により打ち破られることになった。
「そう構えるな。少し話があってここまで来て貰っただけだ。有り難く思え、人形。この結界はおまえに共鳴する様に式を組んだのだぞ」
「なにが目的か訊いてるんだよ、魔術師」
「無駄話を挟む余裕もないか……つまらん人形だ。いいだろう。率直に言う――『法典』をこちらに渡せ。俺の要求は、それだけだ」
「なにを……馬鹿なこと、言って」
欲しいと言うならくれてやる。だが、なぜ俺にそんなものを要求するのかが解らない。『法典』と呼ばれるモノは魔術師の悲願にして叡知の結晶。だとしたらそんなもの、俺が持ち合わせている訳がない。魔術師でないこの俺が、『法典』なんて超越した奇跡を所持しているはずがないことぐらい、簡単に解るはずではないか。
「なるほど。ここまでくると人形どころか道化だな。あの女に何も聞かされていないとは」
「何が、言いたい」
ふん、と鼻を鳴らした魔術師は、続いて思案顔に表情を変化させる。この状況が飲み込めていないのは俺だけではなく、あの魔術師の方も同じであるらしい。だが少なくとも、手持ちの情報量は向こうの方が多いこと、それは確か。噛み合わない歯車の修正が出来るのは、この場で唯一そこにいる異常だけだった。
やがて、黒の魔術師が唐突に切り出す。
「『法典』とは即ち、世界の『これまで』と『これから』を記録した概念だ。魔術とは世界の記録をなぞり、その神秘を使役する行為。故に我々の最終目的は万物の記録といえるのだ。魔術師であるのなら『法典』を求めるのは必然。不思議には思わないか。何故、こんな辺境の街でそのような神秘を巡る争いが起きているのか。明らかに舞台として不足ではないか」
……不覚にも、言われるまでそんなことは考えもしなかった。『法典』の争奪をこの街でする必要なんてない。そもそも『法典』は神話の概念に等しい存在だと弓坂は言った。そんなものを奪い合うこと自体が元より道理になっていない。曰く、魔術とは文明に閉鎖された学問の名であると言う。奪い合う対象などどこにもないのに、学問の探求者が二人殺し合う理由なんてあるはずがないのではないか。
「否。『法典』はここにある、この地にだ。教えてやろう、人形。『法典』とはおまえのすぐ近くにあるモノだ。何故行動を同じにしているのかは知らんが、おまえはここ数日の間かなりの頻度で『法典』と共にあった。その様子ならば大方、俺の結界に鼻の効くおまえを利用していただけなのだろうが」
「……ちょっと、待てよ」
さっきからこいつ、なにを言ってるんだ?
魔術師は笑う。歪に口元を引き上げて。至上の秘密を口に出すことに快楽するような、そんな表情。
男を取り巻く殺意すら朧に霞ませるほど全面から染み出す内面の悦楽感。
全力で否定した。不意に浮かんだ。その仮説を。
まるで、こいつの言い分では『法典』が――
「弓坂絵空こそが、魔術師の悲願――人類の滅亡を司る因果。あれこそが『法典』だ」
聞いてはいけないことを、聞いてしまった。
「……嘘、だ。そんなこと」
口に出して否定しても、それは戦慄するほどにぴたりと納得の行く設定だった。弓坂自身が『法典』だとしたら、この地で争いが起こる理屈にも当てはまる。弓坂が結界の廃除に拘って、決して魔術師そのものを倒そうとしなかったこと。
これ以上この街に迷惑を掛けられない。
弓坂が、そんなことを言っていた理由も全て説明が付く。
「あれは存在そのものが災いの根源なのだ。『法典』が地上に存在する限り魔術師は奪い合い、殺し合う。その度に周囲は超常の元に滅びを辿るのだ。そうして幾つもの街を、幾千もの人間を殺してきた。戦火に焼かれた者も、刃に身体を串刺された者もいる。あれが存在していれば、この先も犠牲は増え続ける。――誰かが、それを手中に収めるまではな。弓坂絵空という『法典』は、単独では周囲に破滅を齎す災厄でしかないのだよ、人形」
何か、不思議な気分だった。
今はただ、弓坂が『法典』だとかそんなことはどうでもよくて、一つだけ。
「……れよ」
ことの真偽など、どちらでも構わない。そんなことは後回しだ。些細なことだと思えるくらいに、今はもっと別の感情が色濃く頭の中を満たしていた。激情に脳漿が沸騰する。『法典』、魔術師、そんなものは委細関係ない。
この時はただ。
目の前にいる魔術師が――弓坂を貶めるこの男が、どうしても許せなかった。
「黙れよ、おまえ」
恐れは憤りのドーピングでどこかに消えた。
頭痛だけは引いてくれないが、今はそれぐらいがあって丁度いい。このまま感情に任せて動けば、自分が何をするか解らないからだ。自己の限界を超えた暴走を抑制するのは、理性ではなくこの痛み。肉体への抑止を解除して、今は唯一激情の色に意識を預ける。
不可能などと思うことはない。
何故ならこの身は、一度その奇跡を為し得たのだから。
意識を集中する。
外界ではなく、己の内へ。遙か彼方を遡り、世界に刻まれた回路を見つけ出す。
そうだ。一度出来たのならもう一度、それを復元することも可能なはず。二度目の停電の夜に見た光を探してひたすら意識を飛ばす。敵わなくても構わない。この黒い魔術師の口を一瞬でも塞ぐことが出来るならそれで十分――
「蒙昧だ、人形。実に滑稽だぞ」
魔術師が何か言っている。
それを雑音と、聞き逃すことが出来ていたのなら、或いは。
「自分を殺した女の為に、何故そこまで自らを消耗する」
否、例え戯言だとしても、その言葉を聞き逃すことなどきっと出来なかった。
「え……」
間抜けな声を出して、集中の途切れた反動のように激痛が再来した。それもこれまでの比ではない。もっと痛烈な、脳にあらゆる方向から圧力が掛かって潰されてしまいそうな、そんな感覚。
俺の反応が予想通りだったのか、魔術師は愉快気に口元を歪めた。にやり、とここにきて初めて見せる悦楽の感情。自分以外の人間など全て娯楽の為の消耗品なのだと信じて疑わない、そんな人間が浮かべる人の絶望を是として嗜好する表情だった。
何も言えない。呆然と魔術師を眺めることしか許されず、頭痛さえも忘れて立ち尽くす。
「正確には、貴様の状態は『死』とは異なるのだが、イロが無いのだから実質それに同じだ。誰が何を代替にして貴様を生かしているのかは知らんが、籠野静月という存在は既に果てている」
「なにを……言ってるんだよ、おまえ」
魔術師が一歩前に出る。それだけで、マンションに張られた結界が震えた。まるで主の行進に呼応して咆哮するかのような、世界を揺らす巨大な波動に全身が痺れる。
「憶えていないとはいえ、完全に忘却された訳ではあるまい。記録と記憶は別物だ。事実として、貴様の中にそれが残っていたからこそ、この結界に呼ばれてここにきた。その頭痛は、記憶を封じ込める魔術と、結界に呼応する記憶との軋轢だ」
平衡感覚が無くなって、頭痛に視界が白む。
思考は停止して、現実を逃避することに全力を費やしている。ただ痛みだけがリアルで、目の前に迫る圧倒的な絶望への反感はどこかに消え去っていた。こうして、頭を抱えて蹲ることしか出来ない。客観的に見れば目の前の絶対者に膝を屈しているように見えてみっともないだろう。
魔術師に頭を掴まれる。
刃物のような鋭い殺意が渦巻く黄銅色の眼光が、さも楽し気に嗤う。
男は俺の頭を万力染みた握力で鷲掴みにしたまま、無理矢理持ち上げる。脚に力が入らない。自力で立つことができない今は、脚は地についているのに体が宙吊りにされている気分だ。
「思い出せ、人形――」
心に直接語りかけてくる言葉は、まるで暗示。
「――これが真相だ」
やっと、忘れられそうだったのに、そんな都合のいい防衛反応を許さず、男は無理矢理にその現実を直視させる。目を閉じることもできず、白んだ視界の中にでも、答えは確固としてそこにあった。
マンションの一室。
住人がいなくなってもまだ、主の帰りを待ち続ける扉の脇には家主を表す名が無情に記されている。
灰色の大理石に黒く彫られた名前が。
籠野、と見覚えのある字面を並べていた。