10/鏡岬深紗希Ⅰ
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珍しく、昼休みの教室に鏡岬の姿がなかった。購買に走ったにしてはやけに帰りが遅いし、加えて普段なら訊いてもいないのに申告してくる「購買行ってきます!」宣言がなかった。まるで逃げるように、あるいは教室を出ていく姿を誰にも見られないようにと。こっそり、彼女は姿を消した。
世間を俯瞰するまでもなく、異常と言うならここに転がっている。近頃どうも鏡岬の様子が可笑しい。本人は気取られないように努めているようだが、明らかに纏う空気が違うのだ。気付かないはずなど、なかった。
鏡岬に異変を感じているのは俺だけではなく、御道もまたやはり同じことを思っていたらしい。鏡岬のいないこの昼休みに、唐突に金髪風紀委員長は切り出した。
「鏡岬、ここのところ毎日剣道部の奴等に声掛けてるんだよ」
「そうなのか? そいつはまた……なんつうか、健気って言うか。一応訊くけど、あいつ、何でそんなことしてるんだ?」
「……解ってんだろ、訊いてくんな。甚だ面倒くせえけど、一応答えといてやる。あいつさ、毎日毎日、やる気ねえ剣道部の連中を練習に誘ってるんだよ。そりゃあもう、生徒会じゃあちょっとした議題に上がるくらいだ。全国級の剣道少女が、こんな廃れた部にいていいのかってな。……あ、結果なんて言わなくてもいいよな」
結果に関してなんて、一応さえ確認の必要もない。この学校の剣道部はそもそも並み程度の実力もないのだ。実力のある選手はいるだけで周囲のモチベーションを上げる場合があるが、それがあまりにも規格外であるなら話は別だ。高過ぎる壁が与えるのは挑戦心なんかではなくただの絶望なのだから。
とはいえいくらなんでも在籍の剣道部員全員がやる気を喪失するというのは、さすがによくあることとはいえないが。
「本当、なんで鏡岬のやつ、こんな高校受けたんだろうな。中学の時からあいつは剣道の実績持ってたし、推薦も貰ってたはずなんだよ」
「……ああ、そういえばお前ら中学同じだったな」
「まあな。でもどうしても今更な感じがするよな。中学の時だってあいつ、正直部の中じゃ浮いてたし、部員も多くなかったんだよ。その時から俺がたまに相手はしてたけど……なんで今になって他のやつらを練習に誘うのか解らないんだよ」
「おまえに解らんことが俺に解るかよ。鏡岬の考えてるとこなんて端から端まで理解できねえ。……つっても、一個だけ俺にも解ることがあるわ」
なにが、と問う俺に嘆息。御道はバカを見る目をして視線で蔑んでくる。さらに普段にも増して倦怠の色を濃くした侮蔑の言葉を口にした。
「甚だ面倒くせえよ、おまえ。鏡岬がなんで推薦蹴ってここの学校に来たのかなんて簡単だろ。……ま、おまえがそんなことも解らねえから、鏡岬はあんなことしてるんだろうけどさ」
要領を得ない御道の言葉。それっきり黙ってしまった風紀委員長は弁当を平らげるなり自席に戻ってはそのまま電源がオフになったみたいに机に突っ伏した。一人残された俺は、とりあえず目の前の弁当を空にして考える。
鏡岬が推薦を蹴った理由。……そんなもの、本当になんの想像もつかないわけがない。もしかしたらと思っても、ただそれを受け入れられないだけだ。だってそうだろう。もしもの想像はできたとしても実際にそれを現実として認めるのとは訳が違う。
ましてや、友達と思っている誰かが自分を好きでいるかもしれないなんて。
考えている自分自身を受け入れたくない。
昼休みにそんなことがあったからだろう。
放課後、鏡岬が俺を練習に誘うことはなかったなんて、本来ならば気にも留めない些細な普段とのズレが気になって校舎を練り歩いてみた。彼女がどこにいるかも本当は予想できていたのに、気付かない振りをしてわざと遠回りするようにゆっくりと。
あるいは俺は、ただ怖かっただけなのかもしれない。
「もう勘弁してくださいよ、先輩」
一年の声が聞こえてくる。
丁度二年のフロアと一年のフロアとの中間地点に当たる階段の踊り場だった。
見たくないと思いつつも片隅で認めていた現実。明るいことが取り柄な、朝から晩まで賑やかな少女は普段の面影を感じさせない悲痛な表情で自分よりも学年が下の人間に懇願していた。何を。そんなことは決まっている。御道の言っていたことを加味するまでもなく、それは毎日のように俺が頼まれていたことをそのまま後輩にしているだけなのだ。
「すいません。正直、先輩とは剣道できません」
違うのは、答える言葉。
感情もなければ、慈悲もない。
少女はただ暗い目をして、それでも平然と努めるために笑顔を作る。鏡岬深紗希にとってのそれは、ある種の自己防衛だったと俺は知っている。なのに。
「先輩一人でやっててくださいよ、ずっと」
その防衛さえ枯れた、悲しい目をして、少女はそこに取り残された。廊下に響く無情の声。一年数人は感情もなく頭を軽く下げて去っていく。その後ろ姿に唇を噛んだ鏡岬がなにを思っていたのかは知れない。拳を震わせて立ち尽くす姿が走り出して食い下がる先が予想されて、咄嗟に呼び止めた。
「鏡岬」
不意打ち気味の呼び掛けに驚いた様子を隠しきれない、隠す気の窺えない鏡岬が振り返る。
「籠野くん……。あっはは、恥ずかしいところ見られちゃったかなー」
「おまえ、毎日あんなことしてるのか」
「うん、まあね。あたしも一応部長だから、他の部員に練習参加を呼び掛けるのは義務みたいなものなんだよ」
繕う笑顔が痛々しい。
だから俺は、頭に血が上って考えなしに言葉を紡いでいた。
「なんで俺には言わないんだよ。普段ならおまえ、真っ先に声掛けてくるだろ。なんだって急に――」
自分で言っていて、答えなんて解っていた。だから鏡岬がそれを遮るように声を上擦らせても何ら驚くことはない。一つだけ、そのときまで解らなかったのは鏡岬がどんな思いで俺の言葉を途切れさせたのかだった。
「籠野くんは、部員じゃないから」
もう見慣れた、歪な強がりの笑顔で少女は言う。
「あたしの我が侭に付き合わせるのは悪いよ」
「……なにを、今更そんなこと」
「今更になるまで、そんなことにも気付けなかったんだ、あたしは」
発言の結びに咲いたその笑顔だけは、恐らく心の底から出た本物の感情。自嘲という名の悲しい心が作り出す少女の微笑み。それがどこか自分を拒絶しているように思えて何も言えない。俺はただ鏡岬が背中を向けるのを黙って見ていて、肩越しに話す後ろ姿をもう一度呼び止めることはできなかった。
その悲しい声が言う。
「ごめんね。あたし、籠野くんに押し付けちゃって。練習、無理矢理付き合わせてて、ごめん」
「……別に、そんなこと。なんだったら今日もこれからいっしょに」
続きが言えなかったのは、首を捻ってこちらに向けた鏡岬の目が見たこともないくらい冷たかったから。
「それは駄目だよ。だって、籠野くんの隣は弓坂さんだから。――あたしがずっといたかった場所はもう、とっくに空いてなかったんだ」
言い残して、鏡岬はとうとう振り向かない。剣道場に向かうならむしろ遠回りになるというのにそれに構わず階段を昇っていく。解ってはいた。わざわざそんなことをする理由は俺を避けてのことなのだと。ならば何故追いかけることなんてできただろう。
俺は漠然と、階段を降りていった。