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9/赤い夢Ⅰ

 /9




 夢を見た。

 酷く乾いた夢を。

 焼け付くような炎天に曝され、何もかもが赤く染まった世界を見ていた。痛みを伴う熱い風。気付けばそこは火の海。まるで深海のような静謐さと、肌を焼き切るみたいな灼熱の重い寒気。世界は激しい赤の光に包まれて悲鳴を上げる。天を衝くそれは断末魔に似た叫びの声。

 そうして悟った。ここは、この世界は燃えている。

 太陽の煌めきに照らせれているのだと思っていた空は、海に空の青を写すのとは逆に、燃え上がる地上の赤に侵されていた。否、その空だと思っていた場所さえも空でなく、それは厚く黒い雲。炎が街を焼いて作り出した排煙が空であった平面を征服している。

 地表は煉獄。

 絶えずどこかで上げられる断末魔。建物が軋み崩壊していく轟音。今、火に包まれた誰かが蒸発した。救いを求める声は水分を奪われて干からびた喉を切り裂き、より致命的な痛みとして跳ね返る。爆発に巻き込まれ、けれど奇跡的に四肢を吹き飛ばすに被害を留めて存命した誰かがいた。その誰かも、十秒間のたうった後で瓦礫に潰された。

 赤い世界に、永遠に続く地獄。その中心にいたのは、一人の少女だった。感情のない虚ろな瞳はまるで黒い孔のようで、涙の渇れたその後の瞳に映るのは繰り返される理不尽な死の瞬間。彼女はただ、感情の失せた目で世界を見る。

 そして小さく呟いた。

 ――――ごめんなさい。

 涙も出ない、地獄の中でただ一人。

 ――――ごめんなさい、わたしのせいで。

 表情はないのに。

 その感情はどうしようもないくらいに泣き叫んでいた。




 …




 目が覚めるとそこはどこか知らない赤く染められた異郷なんかでは当然なくて、見慣れたいつもの天井だった。初めから夢を見ているのだと解る夢も珍しい。だからこそ、目が覚めたばかりでも思考がはっきりとしているのだろう。

「あれ、起きたんだ。珍しいね」

「来旋……きてたのか」

「きてたのか、じゃなくておはようでしょ。もう、人が早起きして朝御飯作って上げたってのに、なに、その無愛想な態度は」

 熱した餅みたいに膨れ上がる白い頬。白のカッターシャツに映える自前の黒いエプロン。モノクロのコントラストを数十の色のグラデーションのような鮮やかさに演出する白い少女。残念なことはその手に包丁を持ったままだという点。これだと寝込みを襲われる寸前に目を覚ましたみたいだ。

 あんな、夢を見たことも影響して。

 不思議な夢だった。それは夢というよりも誰かの記憶を見ているように鮮明で、肌に焦げ付く灼熱も喉に絡んで噎せ返る黒煙も、死を強制する無慈悲な絶望も一身に降り掛かる雨のように苛烈だった。目を閉じている間に、まるで別の世界に連れ去られたみたいに。目の前の凄惨な炎熱地獄が幻とは到底思えないくらいにそれは恐ろしく現実的だった。

 それ故に、聞こえてくる叫び声はどれも胸に突き刺さって痛い。その痛みはもしかしたら、あの夢の中にいた少女が感じていたものなのかもしれない。確証はないけれど。

 ――――ごめんなさい。

 彼女は誰に謝っていたのだろう。彼女は、どうして泣い(あやまっ)ていたのだろう。

「ちょっと、聞いてるの、お兄ちゃん」

「……あ、ああ悪い、まだ寝惚けてるみたいでさ」

「しっかりしてよね、ほら、いっしょに戴きますするよ」

 ぱたん、と掌を合わせながら怒り気味の童顔が持ち掛ける。これを拒否するなら来旋の機嫌はこの後でどのような状態になるのかなど考えたくもないので、お姫様のご機嫌が湾曲してしまう前に従っておく。妹に倣って合掌。定型句を二人で口にして朝食に取り掛かる。

 穏やかな、そんな朝の風景。

 見慣れた……もう何度も体験してきた……日々の、繰り返し。――そのはず、なのに。どういうことかそれを認めている心とは別にどこかで違和感を感じずにはいられない。

 コンナ日常ハ偽物ダ。

 誰かの声が頭の中に語り掛けているような、奇妙な感覚。何故だろう。目の前にあるのは、いつも通りの朝のはずなのに――。

 頭の片隅が痛む。熱を帯びた痛覚が必死に何かを叫んでいる。けれどその叫びは亡者の呻きのようで上手く聞き取れず、連結して回想する光景はピンぼけして色褪せた写真みたいに不鮮明。思い出せるのは赤色の光。暗闇の光に誘われるように、何の抵抗も疑問もなく語りかける声に応えた。――その瞬間を確かに覚えている。誰かが心に語り掛けてきたあの瞬間を。

 だというのに、肝心なことは何一つ定まらない。それがいつのことなのかなど些末。籠野静月にはそれが夢か現なのかも解らないのだから。

「お兄ちゃん? どうしたの怖い顔して」

「なんでもない。ちょっと考え事してただけだよ」

「考え事? なにかなー、気になるなー」

 身を乗り出す来旋。双色の瞳が好奇の色を湛えてこちらを覗き込んでくる。俺がどんな考え事をしているのかなんて、そんなこと、俺自身が一番気になるっていうのに。

 本当に、どうかしている。一週間前から籠野静月の日常には、無視できない綻びが確かに生じていた。

「お兄ちゃんさ、わたしに何か隠し事してるでしょ」

 唐突に切り出されて、不意を衝かれたことにより咄嗟の反応ができなかった。それが来旋には尻尾に思えたらしく、一度掴んだ限りは絶対に離さないとばかり確信的な声音でさらに追求を続ける。

「やっぱり、なにか隠してるよね絶対。止めてよ、わたしに隠し事なんて。兄妹なんだから、話せないことなんてないはずだよね?」

「いや、別に隠し事なんて……」

「嘘だ。目を見れば解るもん。なんで隠すの? ……さては危ないことやってるんでしょ。約束したのにさ、そういうことには首を突っ込まないって」

「危ないことって、例えば何なんだよ」

 ずずず、と味噌汁を啜る。

 来旋は細く開いた異色の目を見せて、

「例えば、郊外のマンションであった失踪事件に関わってるとか」

「それは……ない」

 郊外の失踪事件。とあるマンションの住人が一斉に姿を消した事件が、今この街を騒がせていた。……そういえばあの事件が起きたのは五日前。俺が弓坂に協力する切欠になった夜の前日だ。

 もしかしたらそれにも、法典と呼ばれる存在が――魔術師同士の戦争が関係しているのではないか。だとしたらマンションの住人、数にして五十数人もの人間が一度に姿を消したとしても納得がいく。けれどもしも本当にそうなら、いなくなった人達は魔術師の殺し合いに巻き込まれて犠牲になったということになる。ただそこで生活していただけなのに。法典なんてモノの為に殺されたことになる。

 だったら、法典なんて存在は――あってはならない、戦争の火種でしかないじゃないか。

「それは、ねえ。だったら何をしてるのかな?」

 しまった、罠だった……!

「あのね、わたしはお兄ちゃんが心配だから言ってるんだよ。お兄ちゃん、目を離したら遠くに行っちゃいそうだから。この街、今は安全じゃないんだよ」

 来旋の言うことは、確かに正しい。勿論それはこちらの認識している『危険』とは相違する意味でなのだが、この街が平穏でないことに関しては寸分の狂いもなく間違いない。いつどの瞬間も、この街は戦場に変わり得る。魔術師や協会と呼ばれる超越者による戦争は――その火種、法典が存在する限りいつでも簡単に引き起こされるのだから。そうなってしまえば、こんな小さな街は一日も経たずに瓦礫と死体に埋もれるだろう。

 それこそ、夢に見た世界のように。

 赤い地獄はいとも簡単に顕現する。

「大丈夫だよ、来旋。心配ない」

 ……そうだ、心配はいらない。あの地獄が生まれないように、俺は弓坂に協力しているんだ。

 誰も悲しまないように。

 誰も血を流さないように。

 今ここにある平穏な幸福がずっと続くように、例えそれが自らの身に危険を及ぼすと解っていても無視することなどできない。ましてその為に傷つく少女がいると知ってしまっているから尚更。

 放っておけばいなくなってしまいそうだから、隣にいたいと思った。……ああ、なるほど。そうなるとやっぱり、俺はこの街がどうとかじゃなくて、弓坂絵空だから協力しているんだ。勝手に遠くへ行ってしまいそうなのは、あいつの方だから。

「……無責任。自分で言ったんだから守ってよね。お兄ちゃんにもしものことがあったら、わたし絶対許さないから。死んだって許さない、そうなったらわたしがもう一回殺してやるんだから」

 ……本気で言ってるみたいな剣幕だった。これはおちおち死んでいられない。正直弓坂と協力関係にある限り命の保証はないから、来旋の言うことが大袈裟だと笑い飛ばすことも俺にはできない。なにせ前科があるくらいだ。

 そういえば――その際の怪我は一週間も経たずに綺麗に回復したのだっけ。

「……まったく、世間よりおまえのが物騒だよ、来旋」

 来旋が空になったお椀をテーブルに置いた音が、話の読点を打った。

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