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それは、弓を模した火炎の集合だった。
怪鳥が羽を広げたようなその姿には無駄がなく、射手の少女は静かに矢の尖端を視線の先に向けている。夜の風が熱風に変わり、肌を焼く。じりじりと大気を焦がす紅蓮は、正に鋭利な剣のそれ。
赤い光を放って旋回する魔法陣。輝きが夜を穿つ。
“――――応えよ”
赤い瞳の少女が告げる。
世界はその声に応えるように震えて、そして霞んでいった。
まるで色が抜け落ちるように。
褪せて行くのは自我。消えていくのは意識。
水性絵の具に水を混ぜすぎたみたいに、どんどん薄くなっていく世界の色。やがて、世界は色を失った。なにもかもが消え去ったそこは、音も、光も、痛みも、感情さえも存在しない。飽和とは違う、完全に色の欠如した世界の姿。
そうして消えていく自分を見ていた。
自分で自分の欠け落ちていく、色褪せていく様子をただぼんやりと。
世界は無色。悲しくも無い。既に、悲しいと思う感情も残されていない。
だけどどうして。
頭の中を廻るのは、己が世界に干渉して飲み込んで行った別の世界の意思。同じことを繰り返して、叫んでいた。何度も何度も。何処かにいる誰か、ずっと遠くの果ての声に謝罪を叫んで。
耳を突く断末魔。肌を焼く熱い風。
ここは終わった世界。赤に呑み込まれて崩壊した、火炎に焼かれる果ての夢。聞こえるのはただ、誰かの断末魔。悲鳴も嘆きも絶望も全てが糾弾。そして彼女は繰り返す。ごめんなさい。ごめんなさい、私の所為で、と。
“汝が色を奏でよう。果てを彷徨う光、我が剣となれ”
でも何故だろう。
なんとも思わない。それはきっと、今の自分に感情が残っていないからだろう。そんな風に、他人事のような思考で結論を下した。見えている赤い世界。絶望の夢。ここで少女は孤立する。崩れる瓦礫。燃える空。人肌の焼ける異臭。
何もかもが終わっていた。
生きていたのは一つだけ。
この世界の、少女の強く燈る一つの意思だけだった。
“共界”
魔法を見ている気分でいた。
六方星を変形させたような記号を中心に、アルファベットか象形文字かも判断のつかない文字が円形の外側を囲んでいる。不思議とそれが何なのかは理解できた。それは、世界から零れ出た色。世界の感情が、現象となって流れ出る断片。
魔法使いのような彼女が、炎を使役する為の回路――。
“断罪の焔は加速せよ”
少女が弓を絞る。弦も、弧も、矢も全てが紅蓮の炎。標準は眼差しの先。蟠る有象無象の集団。
“循環する炎熱は我に従え――我は獄炎を統べる者。汝、その色をここに示せ――”
射法八節。
旋回し、加速する魔法陣。散らばる幾つものそれが、少女の足元に集合し、炎は一層大きく燃え上がる。それは風前に晒されて、焼失する寸前の火が最後燃え上がる様に似ている。
ふと考えた。火が燃えるには、必ず媒介が必要だ。それは何か。
嗚呼、そんなこと、考えるまでも無いじゃないか。
今、消えようとしているこの意識こそが、少女の手繰る火炎の発火剤。
抵抗することも無く、自己の消失への恐れも無ければどんな感慨も浮かんでこない。それが悲しいと思えたのは、何故だろう――否、悲しいのはそんなことじゃない。ずっと、頭の中に響いていた少女の声が、悲しかったんだ。
“――ごめんなさい”
長い髪をはためかせ、背中越しに少女が言う。
その声が、泣いていた。
赤い夢に彼女が繰り返す。果てを見て心に決めた誓い。絶望の空に掲げた願い。
何かを、守りたい、と。赤い目をした魔法使いは、泣きながら叫んでいた。
だから、その言葉は、
“あなたを、守れなくて――ごめんなさい”
少女の、自分自身へ向けた糾弾の嘆きだったのだろう。
そうして放たれる矢は、空間の全てを焦がして進む。呑み込まれる――人の形をした影の数々。見覚えのある顔。聞き覚えのある声が上げる断末魔。それにすら、何の感情も浮かばない。薄っすらと理解した。感じたのことのない感覚だ。
そうか。これが、無くなるって、ことなんだ。
消えていく意識。
最後に見たものは、涙を流す赤い魔術師の姿だった。