【第3章】市場の喧騒、幻の香辛料。
異世界での生活にも少しずつ慣れてきたレン。
今回は、アルナハルの市場で起きた小さな“事件”が、物語を思わぬ方向へと導きます。
初めて見えてくるこの街の“裏側”。
幻の香辛料、協会の監査官、そして新たな出会い。
レンの一歩が次の運命を引き寄せます。
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アルナハルの朝は、喧噪とともに始まる。
東の空に太陽が昇るよりも先に、商人たちの怒号が市場に響き渡る。
砂埃を巻き上げながら荷車を押す男たち、柘榴の山に群がる女たち、香辛料の山から値切り交渉を吹っかける老人。
何もかもが目まぐるしい。
俺は、キリカの後ろにくっついて市場の通りを歩いていた。
「今日は“胡椒通り”に行くよ。運が良ければ、青い胡椒に出会えるかも。」
キリカはそう言いながら、腰に手を当ててふふんと笑う。
ここ数日でようやく異世界の空気に馴染んできたつもりだったが、市場の匂いは相変わらずきつい。
香辛料と果物と、獣の糞と、汗の混ざった言葉にできない濃密な空気。
「青い胡椒ってそんなに貴重なのか?」
「貴重どころじゃないよ。年に一度しか入荷しないし、協会の認可がなきゃ販売すらできない。」
「協会?」
「香料協会。アルナハルの経済を牛耳ってる組織って言えば分かる?」
俺は眉をひそめた。
香辛料の流通を監視する協会。そんなものがあるなんて、まるでギルドみたいなもんじゃないか。
──でも、そこでしか“青い胡椒”は手に入らないらしい。
「まあ、普通は庶民の口に入ることなんてないよ。だから幻って呼ばれてる。」
歩きながらキリカが指さした先に、香辛料だけを扱う専門の市場があった。
袋に入った赤や黄色、黒や灰色の粉末が並び、香りが風に乗って鼻腔を刺す。
その一角で、何やら人だかりができていた。
「……なんだ?」
俺がそう呟くと、キリカが不穏そうに目を細めた。
「揉めてるね……あ、あれ……!」
彼女が駆け出した。
その先にいたのは、商隊の若い使いっ走りニルだった。
「おい、どうした!」
「キリカ姉さん! た、助けて……!」
ニルの足元には、破れた麻袋と散らばった香辛料。
その前に立ちはだかるのは、刺青の入った屈強な男たち。明らかにただの商人ではない。
「こいつが“青い胡椒”をパクったんだよ!」
「違います!これはうちの積荷で……!協会の検査の途中で……!」
「黙れ!」
バチン、と乾いた音がして、ニルの頬に手の跡が刻まれた。
俺の中で何かが弾けた。
「おい。子どもに手を出して楽しいか?」
その声は、俺自身にも意外なほど冷えていた。
「なんだテメェ。旅のガキがしゃしゃり出てくんじゃねえよ。」
「そいつは仲間なんだ。……それに、協会の許可を待ってたって言ってたろ。なら盗みじゃないじゃないか。」
「証拠はあるのか?」
「証拠がいるのはそっちじゃないのか。罪を決めつけて殴ったってことは、“証明”できるんだよな?」
沈黙が場を支配した。
男たちの後ろから、一人の中年男が現れる。濃紺の長衣に銀の刺繍、胸元に“砂の印章”と呼ばれる徽章がきらめいていた。
「……もういい。“監査官”がお出ましだ。」
キリカが俺にだけ聞こえるように呟いた。
その男、スールと名乗る監査官は、場を見回して口を開いた。
「この場は私が引き取ろう。協会の記録に基づき、香辛料の来歴を確認する。問題があれば法に則って処理する。」
男たちは不満そうな顔をしながらも、スールの徽章を見て何も言わずに立ち去った。
残されたニルは震えながら、俺の袖を握った。
「ありがとう、兄ちゃん……。」
言葉が喉に詰まった。
何か、してやれたことがあったのだろうか。俺はまだこの街の言葉も、制度も、仕組みすら完全に理解していない。
ただ──見過ごせなかった。それだけだった。
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その晩、キリカと共に再び市場を歩いていると、スールが俺たちに声をかけてきた。
「少し話がある。」
彼は、人目を避けるように細い路地に俺たちを導いた。
「君、名前は?」
「レンだ。」
「……君、面白いね。まるで、どこかの“英雄譚”の始まりに出てくるような顔をしてる。」
「やれやれ……。皮肉のセンスもあるのか、監査官ってのは。」
スールは薄く笑った。
「君のような“部外者”が、この街で正しいことを主張する。それはとても危険な行為だ。……だが、嫌いじゃない。」
懐から小さな麻袋を取り出す。中には、青く光る胡椒の実が数粒。
「これは?」
「“青い胡椒”だ。正式な取引が始まる前の“見本”。香料協会の一部しか持っていない貴重品だよ。」
「なぜ、俺に?」
「今後香料協会を訪ねることがあるなら、これを見せるといい。扉を開けてくれるかもしれない。」
「協会ってそんなに堅苦しいのかよ。」
「君が思っている以上に、だ。……王都の腐敗は、香り高い香辛料の陰に隠れて進行するものだよ。」
スールはそれだけ言って、路地の闇に消えた。
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キリカと並んで歩く帰り道。
「……協会、行くんだろうね?」
「行かないとダメか?」
「“面倒ごとに巻き込まれるのはゴメンだ”って顔してるけどさ、もう巻き込まれてるよ?」
「……はあ。やれやれ……。」
俺は麻袋の中の青い胡椒を見つめた。
異世界じゃモテ期どころか、のんびりする時間すらないらしい。
でも、ほんの少しだけ。
この世界に踏み込んでいく覚悟が、芽生えてきた気がした。
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最後まで読んでいただきありがとうございます!
今回は市場でのトラブルから、レンが“裏社会”に少しずつ巻き込まれていくきっかけを描きました。
新キャラ・ニルや監査官スールなど、今後の展開に大きく関わる人物も登場しています。
“青い胡椒”が鍵となり、物語は次の章でさらに動き出します。
次回、第4章「スラムの噂、幻獣の影」もお楽しみに!