4話
慶応三年十一月十八日。油小路の事件が起こったのは、近江屋事件から僅か三日後のことだった。暗殺された伊東の報を聞いた御陵衛士の仲間を待ち伏せ、新選組は数人のかつての仲間を殺すことになった。冬に差し掛かり、きっと寒かったことだろう。今は春。四月も半ばを過ぎ、桜もとっくに散ってしまい、夏に近付きつつある季節だった。
「藤堂平助って試衛館からの仲間が油小路で死んだんだけどさ。いいやつだったから、きっと罠だとか殺されるとかわかってても伊東さんのところに行ったんだと思うんだよね。魁先生は伊達じゃないっていうか……」
油小路に向かう道を歩きながら沖田が言う。周囲に人がいるので、雫は聞いているだけだ。
「……歳も近い友達だったから、惜しいやつを亡くしたなって思うよ」
桧山に話を聞いてからも、沖田は御陵衛士についてあまり語らなかった。病が進行していて、あまり隊務に関わらないようになっていた頃だから詳しくないのかもしれない。ただ、その友達だった藤堂のことだけ、まるで独り言のように雫に告げた。これから出会って、斬るかもしれない人のことだからかもしれないと、雫は思った。
夕刻近く、雫と沖田は京都駅から程近い場所にある油小路にやってきた。細い道だ。ここで何か事件が起こっただなんて感じさせない、閑静な住宅街。
嫌な予感しかしなかった。ここは、今までの史跡とは違う。明確な、悪意のような何かを感じる。言い換えるなら、怨念、という言葉が合うだろうか。雫は肌でそれを感じた。日が暮れる中、二人は油小路を並んで歩く。途中に伊東がここで死んだのだという石碑を見つけた。
突如、太陽が消えた。闇に呑まれた世界に、赤い色。そして、強烈な血の臭いがした。
「っ……!」
雫は吐き気をなんとか飲み込んだ。足下、民家の壁、辺り一帯が血に塗れていた。大量の血。一体、ここでどんな戦いがあったというのか、雫には予想がつかない。
「――新選組」
背後でそんな声がすると同時、沖田が視界から消えた。大きな金属音がした。
「総司さん!?」
「来ないで!」
声がして、雫はその方向に目を向けた。突然の襲撃を、沖田はなんとか刀を抜いて受けていた。二刀使いの血に塗れた男が、沖田に刃を向けている。
「その二刀。服部さんだったっけ。久しぶりだね」
「沖田、総司……!」
ガチガチと金属が噛み合ってから、両者距離を取る。雫は邪魔にならないように壁際に寄った。それでも、細い道でどこまで邪魔にならずにいられるかわからなかった。沖田は冷静だったが、服部という男の方は相当怒っているようだった。幽霊の強さは気持ちが現れる部分もある。沖田は確かに天才剣士だ。だが、この場合の分があるのは――
「くっ!」
服部が踏み込み、沖田は体勢を崩す。両手の刀を巧みに操り、沖田に猛攻撃を仕掛ける。金属音が狭い路地に響く。何度も何度も、服部は力任せに刀を叩きつける。沖田の体に少しずつ傷が増えていく。だが、沖田は冷静だった。一度服部が間合いをあけたのを好機と見て、すかさず踏み込む。ばさりとその体を袈裟懸けに斬る。体勢を崩した服部はにやりと笑った。
「――沖田ァ!」
「ッ!?」
背後に突如現れた気配に、沖田の反応が遅れた。別の男が沖田の背後から襲い掛かる。男の刃を受け流す。同時に二人は捌けない。体勢を戻した服部が沖田の左腕を斬り落とした。
「総司さん!」
雫の悲鳴が響く。
「数人で囲って一人を叩く……新選組の常套手段でしたよね」
服部が片膝を地面につきながら言う。
「新選組やめたのに、よく覚えてるね」
片腕で刀を構え直しながら沖田は肩で息をしている。
「やめた、だと? 勝手に裏切ったのはそちらだろう!」
男が叫ぶ。桧山の話を思い出す。裏切ったのは伊東だけで、部下たちはそのことについて知らなかった。どうして仲間に殺されなければならなかったのかわからなかった。わからないまま、無惨に殺された。そのまま、今もここに恨みと共に存在し続けている。
「沖田の首を差し出せば、伊東先生もお喜びになる」
服部が再び二刀を構える。
「へえ。僕の首は高いけど、取れそう?」
沖田は挑発する。二人が同時に地面を蹴った。沖田は片腕とは思えぬ速度で二刀を受け流し、まず服部の背後に回ってその首を落とした。倒れる体を踏み台にして、高く跳び上がる。空中で体勢を立て直しつつ、もう一人を着地と同時に一薙ぎで斬り伏せた。地面に倒れる二人を見ながら、沖田は構えを解いた。息が乱れていた。
……おかしい。雫は眉を顰めた。この逢魔時の元凶である霊を倒したのに、世界が戻らない。まだ終わっていない……そう思うと同時、殺気が増えた。
ドン、という衝撃と共に沖田が血を吐いた。
「……寂しいな、総司。僕のこと忘れちゃったのか?」
沖田の胸から刃が突き出た。背後に若い男が立っていた。
「へい、すけ……!」
「僕があんたの背後を取れることがあるなんてな。死んでから強くなったかな、僕」
藤堂平助が沖田の背を蹴飛ばしながら刀を抜く。沖田はよろめいて膝をつく。
「なあ、僕たちはどうして死ななきゃならなかったんだ?」
沖田の首元に刀を突き付け、藤堂は言う。
「どうして、僕たちは仲間に殺されなきゃならなかったんだ? 仲間だと思ってたのは僕たちだけだったのか? 僕は、たとえ新選組から離れても、御陵衛士になっても……」
藤堂が刀を振り上げる。
「――総司と、友達だと思ってたんだけどな」
涙を含んだ声で、藤堂が言った。
振り下ろされた刀は、沖田の首に届く前に止まった。駆け出した雫が、沖田に抱きついていた。
「……お嬢さん、危ないよ。どきなよ」
「嫌です」
「一緒に斬るよ」
「藤堂さんは斬れません」
「どうして? 斬れるよ」
雫は涙を堪えて、藤堂を睨みつけた。
「総司さんが言ってました! 藤堂平助は友達だって!」
「っ……」
藤堂の刀が揺れた。雫は藤堂から目を離さない。沖田は近藤以外の話をほとんどしない。そんな中で、唯一ここに来る途中に話をしたのが友人の藤堂平助の話だった。どんな思いで彼が道すがらその話をしたのかわからない。でも、きっと、沖田も本当は友を斬りたくはなかったのだ。
「……わかってるよ、本当は」
藤堂が刀を下ろす。くしゃりと顔を歪めていた。
「伊東さんが新選組を怒らせることになったのも、それが暗殺に繋がったのも……全部わかってるんだ」
「それじゃあ……」
「でも!」
藤堂は再び刀を勢いよく振り上げた。
「僕は! 仲間を裏切るのだけは嫌なんだ!」
その「仲間」が御陵衛士を指しているとわかった。だから、雫はここで沖田と共に死ぬのだと覚悟をした。沖田をぎゅっと抱きしめる。
「そこまでです」
凛とした声が響いた。藤堂の刀がまた止まる。
足音が近付いてくる。雫が藤堂から目を離し、近付いてくる人物に目を向けた。この血塗れの細い路地を、まるで我が道かのように優雅に歩いて来る男性がいた。
「伊東先生……!」
「服部君、毛内君、よく頑張りましたね。先にあちらに行っていてください」
服部と毛内の姿がふわりと消えていく。静寂が訪れた。
「君たちが私たちに会いに来た理由は知っています」
伊東は真っ直ぐに雫を見て言った。
「でも、私たちも近藤さんの首の在処は知りません」
「……そうですか」
雫は目を伏せた。沖田に怪我をさせてしまったのに、収穫は何もなかった。京で長く霊をやっているならば知っているかと思ったが、そういう問題でもないのかもしれない。振り出しに戻ってしまった。
「もし、どこかで近藤さんに会ったらお伝えください。――また、共に酒を呑み交わしましょう、と」
「伊東さん!」
「その時は君も一緒ですよ、藤堂君」
驚く藤堂に、伊東は笑みを向けた。驚いた藤堂の頬に涙が伝う。俯いて、小さく頷いた。
「お嬢さん、お名前は?」
伊東が雫に問う。
「あ……神代です。神代雫……」
「神の依り代。なるほど。守護霊がいなくなったのはいつ?」
「十歳くらいの頃です。逢魔時に……」
「そう。気の毒に……あなたを守っていたのなら、さぞ名のある……いや、どうかな。案外普通の霊だったかもしれないですね」
伊東が悲し気に目を伏せた。そして藤堂を呼んだ。刀を納め、藤堂は伊東の隣に駆け寄った。
「私たちはここから離れられませんし、まだあちらに行くつもりもありません。何か困りごとがあったらいらっしゃい。助言くらいはできるかもしれません」
「どういう、風の吹き回しですか、伊東さん……」
沖田が睨みつける。伊東が笑う。
「私は神代さんに言ったんですけどね。まあ、君はまずはしばらく休むといいでしょう。その怪我は霊体にも重傷です。神代さん、その落ちている腕は拾ってくっつけてあげてください」
「え? くっつけて……? は、はい!」
脇に落ちている腕を拾い上げ、立ち上がろうとする沖田に肩を貸す。霊だからか、身長差に感じるほど重くはなかった。
「では。行きましょうか、藤堂君」
伊東と藤堂は立ち去って行く。
「あ、そうそう」
伊東が振り返った。
「近藤さんの首の在処はわかりませんけど、持ち去られたのは確かです。見張りが見逃したらしいですからね。おそらく新選組隊士ではない人物でしょう」
「……そうですか。いろいろとありがとうございました」
雫が頭を下げると、伊東は笑みを浮かべた。
「また会いましょう、神代さん」
二人が立ち去り、闇と赤色だった世界がただの夜になった。強烈な血の臭いは鼻にこびりついて離れそうになかったが、暖かい風が路地を流れた。二人の姿はない。
「総司さん、歩けそうですか?」
「大丈夫だよ、そこまで重傷じゃない」
強がる沖田に小さく息を吐いて、どうせ幽霊の血は他の人には見えないからとタクシーを拾った。沖田を乗せたり下ろしたりする間を運転手に不思議がられたが、なんとか家に到着する。沖田の出血は酷かったが、幽霊だからか既に止まっていた。斬られた腕も、切り口にあてることでくっついた。便利だなと、少し思った。
「しばらく寝る。どこか出かけるなら起こして」
「はい、おやすみなさい」
沖田は自分の寝床に転がった。すぐに寝息が聞こえてくる。
「はあああ……」
雫はベッドに飛び込んで深い息を吐いた。……死ぬかと思った。今回は、本当にそう思った。目の前で殺し合いがあったのだ。自分ももしかしたら斬られる可能性があった。そう考えると、今になってから体が震えて来た。俯きになって、枕を抱える。この震えを、沖田に知られたくはなかった。
「そういえばさ」
急に寝たはずの沖田の声が聞こえて、雫は飛び起きた。
「は、はい! なんですか?」
沖田はこちらに背を向けたままだった。
「危ないことに巻き込んでごめん」
落ち込んだ声。今、沖田がどんな顔をしているのか、雫からは見えない。雫は震える腕を押さえて、笑みを浮かべた。
「大丈夫です。気にしないでください」
「気にする」
「ありがとうございます」
沖田は無言で息を吐いて、また寝てしまった。しばらくその背を見ていた。沖田の羽織を真っ赤に染めていた血は消えてなくなった。幽霊は不思議だ。枕をまた抱えて、ベッドに倒れる。そのまま天井を見る。白い天井。目を閉じると、先程まで見ていた闇の中の赤い光景が思い出せる。
――案外普通の霊だったかもしれないですね。伊東の言葉を唐突に思い出して目を開く。自分の背後にいたお姉さんは、一体誰だったのだろう。