3話
三か所目の屯所は、不動堂というところにあったらしい。スマートフォンで検索をかけていると、幻の屯所という記載されているページを見つける。今はホテルの敷地になっているし、新選組はその後の鳥羽伏見の戦いの準備で伏見奉行所というところに移動したらしく、数か月しかいなかったという。ここに何かあるとは思えないなと思いながら、雫は大学の食堂で食後のコーヒーを飲んでいた。
「君がいつも飲んでるそれ、不思議な匂いがするよね」
沖田が雫の背後に凭れながら言う。
「幽霊って嗅覚あるんですか。知らなかった」
「五感はあるんじゃない? 食べたことないから味覚は知らないけど」
「あの、すみません」
女性の声がして、雫はスマートフォンから視線を上げた。食事の乗ったトレイを持って女子生徒が立っている。
「どこのテーブルもいっぱいで。ここ、空いてますか?」
少し周囲を見渡すと、確かに食堂は混んでいた。雫はテーブルの上を少し片づけてから「どうぞ」と言った。「ありがとうございます」と言って、女子生徒は雫の斜め向かいに座った。彼女の守護霊は凛とした女性だった。無口のようで、雫と沖田をちらりと一瞥しただけで何も言わない。
「私、文学部一年の桧山といいます。あなたは?」
話しかけられると思わず、雫はコーヒーカップを持ち上げながら硬い表情で答えた。
「工学部一年の神代です」
「工学部? 何を勉強してるんですか?」
「情報系です。ITっていうか……」
「ああ! なるほど! システムエンジニアとか、将来はそういう?」
「まあ……そうですね。この業界なら、今後も仕事がなくなることはないと思ったので……」
「すごい! 現実的!」
もごもごと話す雫に対して、桧山は満面の笑みで話をする。システムエンジニアはコミュニケーションが少なくても良さそうと思ったのも理由の一つだ。
「それで……桧山さんはどういうことを勉強してるんですか?」
桧山は半分にしたコロッケを咀嚼してから答えた。
「私、日本史オタクなんです。歴史の勉強したくて」
「歴史の勉強?」
「そう。だから京都に来たんです。江戸も長く政治の中心でしたけど、やっぱりここは京の都かなあっていう感じで……家茂公みたいに、江戸から京に上洛してみたかったんです!」
雫が目を丸くする。
「じゃあ、桧山さんも東京から?」
「はい、八王子です」
「私、調布です」
「わっ、ちかーい!」
桧山が喜ぶ。
それよりも、だ。雫はコーヒーカップを置いて、スマートフォンを手に取った。
「あの、今家茂公の名前を挙げましたけど。もしかして、日本史も幕末がお好きなんですか?」
真剣に問う。今度は桧山が目を丸くした。
「えっ!? まさか、神代さんも!?」
「いえ……私はそこまでではないんですけど……最近少し調べ始めたっていうか」
「でも、慶喜じゃなくて家茂を知ってるって、幕末オタクの一歩目って感じがします! 親近感わくー!」
「じゃあ、やっぱり幕末のことは詳しいんですか?」
「それなりにですね。日本史全般的に好きですけど、やっぱり黒船来航による開国に始まる幕末の動乱時代はロマンですよね」
好きですよ、と言って桧山は笑う。雫はスマートフォンで録音機能をオンにした。
「あの、最近、新選組について気になっていまして」
桧山は頷く。
「新選組人気ですよね。私も一時期はまってました」
「もし、わかったら教えていただきたいんですけど……」
「はい、なんでしょう?」
雫は少し間を置いて、声を落として問いかけた。
「近藤勇の首の場所をご存知ですか?」
沈黙が下りた。桧山が瞬きする。そして、にっこり笑った。
「幕末最大の歴史ロマンと言っても過言ではないですね、近藤勇の首の在処。面白そうなところに目をつけましたね」
「もしかして、知ってるんですか!?」
雫が立ち上がりそうになるのをなんとか抑えた。桧山がスープを飲み干すのを待つ。
「詳しく知ってるわけじゃないんですけど。諸説ありますよね」
そう言って、桧山もスマートフォンを取り出す。
「東本願寺の住職が引き取って葬った説。斎藤一が持ち去って愛知の宝蔵寺に葬られてる説。土方歳三が会津に持ち去って葬った説。米沢の高国寺に葬った説。板橋の供養塔に葬られてる説。などなど。胴体も板橋に埋葬されてる説と龍源寺に埋葬し直した説があります」
それは雫も調べて知っていることだった。少なくとも、斎藤と土方に関しては、時期的に難しいと思っている。
「まあ、でもいずれにせよ歴史的興味が薄いところなので、あまり調査は進んでないと思いますよ」
「え? そうなんですか?」
雫が驚いて問い返す。桧山は肩を竦めた。
「歴史学の観点では関心が薄いんですって」
「そんな……というか、掘り返して遺伝子鑑定なりすれば、どこにあるのが本物かわかるんじゃないんですか?」
桧山は首を振る。
「真実が明らかになることを誰も望んでないんです」
「どうしてですか?」
「さあ……まさに、その辺りをこれから勉強したいところではありますね。でも、歴史学的に興味が薄いって話は確かです。前に専門家の方に聞きました」
食後のオレンジジュースに手を伸ばしながら、桧山は続ける。
「残ってる少ない史料の信憑性の担保とか難しいんじゃないですかね。裏付けるための史料が複数出てくればいいかもしれませんが、幕末って結構最近なので史料は多い方なんですよこれでも。そんな中でこれしか残ってないんです。調べ尽くされたんじゃないですかね」
「そうですか……」
肩を落とす。ちらりと隣を見れば、沖田も俯いていた。
「市内の縁の地は行きましたか?」
そんな雫を見て、桧山が問う。雫は顔を上げた。
「あ、はい……とりあえず八木邸と壬生寺、西本願寺は行きました。不動堂はホテルになってるらしいので、どうしようかなって」
「ああ、屯所巡りしてるんですね、いいですね。ホテルは石碑がありますよ、確か」
オレンジジュースを飲みながら桧山が頷く。
「桧山さん、他にここに行ったらどうかという市内の縁の地ありますか? できれば、なんというか、幽霊が出そうなところというか」
「あはは、幽霊信じてるタイプですか?」
桧山は軽く笑うと、スマートフォンを操作して市内の地図を表示した。雫に見えるように傾ける。
「新選組に関わる有名な事件といえば、まずは元治元年六月の池田屋事件。これは新選組の名が知れ渡ったきっかけの事件ですね。三条駅から三条大橋を渡った先にあって、今は居酒屋になってます」
「い、居酒屋? 歴史的価値のある場所じゃないんですか?」
「元々旅籠だったんですけど、昭和になってから取り壊されたみたいです。あちこちに売却されての今ですね」
へえ……と雫は声を漏らした。
「あとは禁門の変。京都御所の蛤御門にまだ銃弾の跡が残ってます。それから、三条制札事件……この辺の時代はあまり大きな事件ないけど……あ、忘れちゃいけないのは油小路事件」
「油小路事件?」
「知りませんか? 西本願寺と不動堂村があったと言われる場所の間くらいに油小路っていう道があるんですけど、そこで元隊士の伊東甲子太郎の暗殺が行われます」
伊東、と沖田が小さく呟いた。
「……詳しく聞いていいですか?」
沖田が反応したことに気付いて、雫は話を促した。
「まず、伊東甲子太郎という人物が新選組に加入します。藤堂平助という試衛館のメンバーの知り合いだったみたいですね。彼の紹介で入った伊東は参謀の地位につきます。破格の待遇ですよね」
雫が頷く。
「慶応三年、孝明天皇が崩御します。伊東は孝明天皇の墓を守る御陵衛士という役割につくと言って、藤堂平助や斎藤一たち数人を連れて新選組を離脱します」
「え? 新選組って、『隊を脱するのを許さず』っていう決まりありませんでしたっけ?」
局中法度というものだ。新選組について調べれば、とても厳しい規則がいくつかあり、それに背けば切腹を申し付けると言われている。桧山がにこりと笑った。
「昔は、佐幕派の近藤・土方たちと尊王攘夷派の伊東の思想が合わずに、無理矢理離脱したって話でしたけど。近年の研究だと、佐幕派の代名詞となるほど大きくなった新選組が諜報活動などをしにくくなったので、分派という形を取って伊東たち御陵衛士が新選組の間者役になっていたのが明らかになったそうです」
「じゃあ、どうして伊東の暗殺を……?」
「話には順序があります」
「あ、すみません。続けてください」
「ごほん。つまり、分派したと見せかけて裏で密に連携を取っていた新選組と御陵衛士ですが、伊東がついに裏切ります。土佐の陸援隊隊長、中岡慎太郎に新選組の内情を話してしまうんですね。当時の土佐藩は公武合体派つまり佐幕派と、討幕派で揺れていました。そこで起こるのが大政奉還です」
「あ、幕府が政権を朝廷に返すっていう……」
「そうです」
桧山はオレンジジュースで喉を潤そうとしたが、もう中身がなくてがっかりした顔をした。持ち上げたグラスをテーブルに置く。
「この大政奉還の前に、討幕派の陸援隊が武装蜂起しようとしていることを、新選組の間者と御陵衛士の間者の双方が掴んでいます。大政奉還で一時この武装蜂起は見送られますが、この時伊東は『情報の出所が自分だとバレたら殺される』と思います。それで、新選組の間者がいることを中岡に話してしまう。坂本龍馬にも会いに行っているようですね。そして、その後に起こるのが近江屋事件です」
雫は首を傾げた。
「近江屋事件知りませんか? 坂本龍馬と中岡慎太郎が見廻組に暗殺される事件です」
「ああ、あれ見廻組だったんだ」
沖田があまり興味なさそうに言った。
「斎藤一は御陵衛士に入っていた新選組の目付け役でした。伊東派と偽っていた間者ってのが通説ですけどね。まあ、とにかく近江屋事件は新選組の仕業ではないかと思われていたので、新選組の間者が土佐藩に捕縛されました。土佐藩は間者が誰なのか伊東に聞いていたので。そのことで斎藤は伊東が裏切ったことを知り、近藤たちに進言します。はい、暗殺タイミングここです」
「なるほど……ここで初めて『隊を脱するを許さず』に当たるわけですね」
雫は理解したと頷いた。新選組と御陵衛士は手を組んでいた。友好的な分派であった。そんな中で、伊東がついに裏切ってしまう。明確に、新選組の敵になったのである。
「伊東はバレてないと思っていた。ので、近藤といつも通りに話をして、お酒を呑まされてべろんべろんになった帰り路に、新選組に暗殺されるんです。御陵衛士たちも新選組と同志だと思っていたので、どうしてこの事件が起こったのか理解できなかったようです」
お酒呑ませて暗殺って新選組の常套手段ですよね、と桧山は笑った。雫は笑わなかった。
「というのが、油小路事件の話で……あ、そろそろ行かなきゃ」
スマートフォンの時計を見て、桧山が言った。雫もそろそろ授業に行かなければならない。
「ありがとうございます、桧山さん」
「いえいえ、またお話しましょう神代さん!」
トレイと荷物を持って、桧山は立ち去っていく。守護霊の女性が後を追おうとして、少しだけ立ち止まった。
「……油小路に行くなら、十分にお気をつけなさい。あそこは新選組縁の者が行くには危険な場所です」
女性はそれだけ言って、桧山を追って行った。
雫はスマートフォンを手に取って、録音を停止した。
「総司さん」
「うん」
雫もトレイと荷物を持って、立ち上がる。
「今週末、油小路に行きましょう」