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【短編】明治戸籍なし娘は帯刀青年を恋ふ

作者: 和泉

 どうしよう。


 千代は井戸の近くの木の下で目を閉じている見知らぬ男性の姿に固まった。

 ボサボサの黒髪、汚れた着物。

 腕からは血が出ており、刀も持っている。

 廃刀令が出されたので、軍人や官史以外は帯刀が許されないはずなのに。


 どうか目が覚めませんように。

 千代は恐る恐る近づき、井戸で水を汲んだ。


「……み……ず」

 かすかに聞こえた低い声に千代は驚く。


「……あ、えっと、大丈夫……ですか?」

 逃げるわけにもいかず、千代は男性の横にしゃがんだ。


「……み」

「お水ですか?」

 千代は汲んだばかりの水を両手で掬い、男性の口元に差し出す。

 男性は千代の手から夢中で水を飲むと、生き返ったとばかりに大きく息を吐いた。


「……もう少し、」

「は、はい」

 千代は再び両手で水を掬い、差し出す。

 5回ほど繰り返すと、ようやく男性は濡れた口元を腕で拭った。


「助かった」

「い、いえ」

 早朝の薄暗い中でも見えてしまった傷をチラッと千代が確認する。


「あぁ、嫌なものを見せて悪いな」

 髪をかき上げながら申し訳なさそうに笑った男性は、千代より少しだけ年上の男性に見えた。


 千代は懐から手拭いを取り出し、水で濡らす。

 軽く絞ったあと何も言わずに男性の腕を手拭いで押さえた。


「っ! おい、血で汚れるからやめろ」

「このあと洗濯するので大丈夫です」

 薬はないけれど、せめて血だけでも落とした方がいいだろう。


「ぐっ、」

「あっ、痛いですよね? ごめんなさい」

 千代は丁寧に手拭いで傷口の血を拭き取ると、乾いた手拭いを出し、男性の腕に巻きつけた。


「……悪いな」

 男性は慣れない手つきで手拭いを巻く千代をジッと見つめる。

 キュッと手拭いを縛り終えた千代が顔を上げると、思ったよりも近くにあった男性の顔に千代は驚いた。

 一気に体が火照り、顔も真っ赤になる。


「茹でタコみたいだ」

 ははっと笑う男性に千代は頬を膨らませた。


「千代〜? 水、手伝うよ、今どこ~?」

 洗濯場の方から下女仲間、春子の声がする。


「早く逃げてください」

 ここは北大路邸の敷地内。

 見つかったら不審者として捕まってしまうだろう。

 まだ薄暗いからこっそり逃げられるはず。

 千代は男性に向こうが裏口だと教えると、手拭いを洗った桶の水を捨て、急いで井戸から水を汲みなおした。


「春子さーん、水を汲んだので戻っています。すぐ行きます」

 千代は春子の声がする洗濯場へ。


 春子と合流した千代はふと振り返った。

 井戸にも、その向こうにも、もう男性の姿はない。

 良かった、見つからなくて。

 ほっとしながら千代は重たい桶の水を樽へ入れた。


    ◇

 

「何よ、この食事は!」

 北大路家の令嬢、静子は昼食のスープを千代に投げつけた。


「っ!」

 まだ熱いスープが着物に染み込んでいく。

 だが「熱い」と言えば叩かれることを知っている千代は、何も言わずに急いでお椀を拾い、掃除道具を取りに部屋を出た。


「千代、大丈夫?」

 早く着替えておいでと掃除を代わってくれる春子にお礼を言い、千代は女中の宿泊部屋に駆け込む。


「……っく」

 すぐに着替えて戻らなくてはいけないのに、涙が溢れて止まらなかった。


「なんで私ばっかり」

 北大路家の一人娘、静子はいつも千代に嫌がらせをする。

 千代の方が年下だからなのか、ただ単純に嫌われているだけなのかはわからない。

 静子と千代は従姉妹。

 静子の父が北大路家の当主、そして当主の弟が千代の父だ。

 千代の両親は半年前に事故で他界。

 身寄りのない千代を引き取ってくれたのが静子の父だった。


 千代は着替えるとスープで汚れた着物を洗濯場へ。

 とりあえず桶に水を汲み、汚れた着物を浸ける。

 夜に洗いに来ようと、千代は洗濯場の端っこに桶を置いた。


「千代、部屋の掃除は終わったから、持ち場の掃除に行って」

「はい、春子さん。ありがとうございます」

 千代の担当は1階の奥、厨房に1番近い場所が担当だ。

 窓を拭き、床の掃き掃除をしたあと雑巾掛けをする。


「よし! 終わり!」

 雑巾を持って立ち上がった千代はこんなところにいるはずがない静子の姿に驚いた。


「あら、いやだ」

 わざとバケツを蹴り、廊下を水浸しにする静子。


「私の足に汚い水がかかったわ」

 バチンと盛大な音を立てて千代の頬を叩くと、静子は千代に土下座するように命じた。


「……申し訳ございません」

 濡れた廊下に土下座をさせられる千代。

 水をこぼしたのは静子なのに、どうして謝らなくてはならないのか。

 濡れた廊下の水は冷たい。

 足袋も着物もびしょ濡れだ。

 それでも逆らうことは許されない。

 千代は唇をギュッと噛み、頭を下げる。


「罰として食事抜きよ」

「……はい」

 高笑いしながら戻って行く静子の声が聞こえなくなると春子と厨房の料理人たちが千代に駆け寄った。

 

「本当に頭にくるわ!」

「ひでぇな」

 この屋敷の使用人たちはみんな千代が静子に虐められていることを知っている。

 だからわざと千代を使用人しか来ない廊下の担当にしたのに。


「厨房の前が水浸しでごめんなさい。すぐ掃除します」

「……なんで千代ばっかり。ひどすぎるわ」

 涙を堪えながら雑巾掛けをする千代を見ながら、春子は絶対おかしいと呟いた。


 仕事が終わった夜10時。

 千代は暗い洗濯場で着物を洗った。

 明かりは小さな蝋燭1本。

 スープの汚れが取れたかよくわからない。


 今日は食事なし。

 あまりにもお腹が空いたので水をたくさん飲んだが空腹感はどうにもならなかった。


「だ、誰?」

 ガサッという音に驚いた千代は身体を揺らす。


「あぁ、悪い。驚かせたな」

 朝、井戸の前に倒れていた男性はゆっくり千代に近づくと、洗濯をしている千代の隣に座った。


「こんな時間にどうした?」

「えっと、スープをこぼしてしまって」

 千代の歯切れの悪い答えに男は溜息をつく。


「……口を開けろ」

 よくわからないまま千代が口を開けると、男は千代の口に菓子を突っ込んだ。


 甘いチョコレート。

 千代は初めて食べたチョコレートの味と、溶けてしまう食感に驚き、目を見開いた。


「美味いか?」

 うんうんと頷く千代を男がクスッと笑う。


「ほら、もう一個」

 再び入れられるチョコレート。

 千代は幸せそうに微笑んだ。


「朝、助けてくれた礼だ」

 腕の出血が酷く、身体が思うように動かなかった。

 乾いた喉を潤してくれただけでなく、本人に自覚があったかはわからないが、手拭いで止血をしてくれたのだ。

 

「今、ここに居て大丈夫なんですか?」

「また逃げるさ」

 立ち上がった男は千代の頭をそっと撫でる。


「あんまり無理するなよ」

「え……?」

「子供は寝る時間だ」

 手をひらひらさせ、暗闇に消えて行く男性。


 ……不思議な人。

 千代は美味しかったチョコレートの味を思い出しながら洗濯を終わらせた。


 その日から千代は頻繁にその男性に会うようになった。

 三度目に会った時、ようやく男性に名前を尋ね、名前は太蔵だと教えてもらった。

 太蔵が現れるのは毎日ではなく、なぜか千代が落ち込んだ日が多かったが、夜中に洗濯をする千代の元に現れ、飴を千代の口に入れて「うまいか?」と笑ってくれるのだ。


「千代はどうしてここで奉公しているんだ?」

「あ、ここは伯父さんの家で、両親が亡くなったから引き取られて……」

 身内なのに働かされているのか? と聞かれた千代は何も答えることができなかった。

 

「太蔵様はどうして来てくれるの?」

「千代が可愛いから」

「んもう! 冗談ばっかり!」

 真っ赤な顔で抗議する千代を笑う太蔵。

 約束しているわけではない。太蔵のことは名前以外何も知らない。

 それも千代はその短い逢瀬の時間が嬉しかった。


「ふぅん、男と逢引き……」

 千代のくせに。

 北大路家の令嬢、静子は2階の窓から洗濯場を見下ろしながら腕を組んだ。


「相手は誰?」

「大通りの口入屋(職業斡旋業者)に出入りしている太蔵という男です」

「ふぅん」

「未だに刀を持ち、少し変わった男だと」

 廃刀令が出てから数年。

 未だに刀を持ち歩くなんて「武士の魂」を捨てきれない変わり者なのだろう。

 

「時代錯誤な男ね」

 千代にはお似合いかもしれないが、千代に男がいることが気に入らない。

 千代の両親が亡くなった時、娘として引き取ると言う話があったが、絶対に嫌だと猛反対した。

 娘にしておけば保険金も入ると父は言っていたが、男の庇護欲をくすぐりそうな千代が妹になるだなんて耐えられなかった。


「その口入屋に明日連れてって」

「お嬢様を?」

「えぇ、千代の男に挨拶しなくっちゃ」

 洗濯中の千代を見下ろしながら静子はにやりと笑った。


    ◇

 

「太蔵様。あーんしてくださいませ」

「ははっ。静子お嬢様、そんなお戯れを」

 応接室のソファーで密着しながら楽しそうに話す静子と太蔵の姿に、千代は固まった。

 女中長に応接室へお茶を運ぶように指示されたので持ってきたのに。


「あら、千代。どうしたの?」

 すでに準備されているお茶とビスケット。

 ニヤニヤ笑う静子。


「い、いえ。お茶がまだだと思い……失礼しました」

「相変わらず、そそっかしいのね。ごめんなさいね、太蔵様。騒がしくて」

 太蔵の膝の上に手を乗せ、下から覗き込むように密着する静子。

 美人で色気のある静子にそんなことをされて落ちない男はいないだろう。

 千代はペコリとお辞儀をすると、逃げるように応接室から出た。


 別に特別な間柄なわけじゃない。

 時々、夜に会って、話して、お菓子をくれる人。

 名前しか知らないし、いつ来るのかも知らない。

 約束しているわけでもない。


 なのに、どうして涙が出るのだろう?

 どうして静子と一緒に居るのを見たくないのだろう?


 千代は厨房にお茶を返すと、裏口から外に出た。

 いつも夜中に過ごす洗濯場でうずくまり、涙を堪える。


 目を閉じれば、二人の密着した姿を思い出してしまう。

 静子は美人で、スタイルも良くて、お嬢様で。

 太蔵様は優しくて。

 どうして二人が一緒に居るのかわからない。


 もしかしたら太蔵様は静子に会うために、ここに通っていたのかもしれない。


 あぁ、私、馬鹿だ。

 太蔵様のことを何も知らないのに、また私に会いに来てくれるのではないかと期待していた。

 夜になったら洗濯場にきて、話し相手になってくれるのだと。

 毎日ではないけれど、また会えるのだと。

 勝手にそう思っていた。


 千代は溢れ出る涙を止めることができないまま、洗濯場でしばらく過ごした。


    ◇

 

「おまえは何ということを!」

 静子が太蔵を家に招き入れた日の夕方、北大路家当主の大きな声が屋敷に響き渡った。

 

「お父さま……? なぜそんなにお怒りなんですの?」

 男性を屋敷に招いたのは初めてではない。


「酔っ払いに絡まれた私を太蔵様は助けてくださったんですよ?」

 すべて金を払って演技させたものだが。

 家でもてなすのは当然だと主張する静子に当主は眉間にシワを寄せた。


「あの男が何者なのかわかっているのか!」

「……え? 何者とは?」

「知らずに入れたのか!」

「……千代と話していた男ですわ」

「今すぐここに千代を呼べ!」

 今までよりも大きな声に静子は驚き、目を見開いた。


 千代の男を奪ってやろうと思っただけだ。

 別に太蔵には興味もない。


 金を払って人を雇い、酔っ払いのフリをしてもらった。

 絡まれている可哀想な令嬢を演じて太蔵に助けを求め、お礼にこの屋敷に招待しただけ。

 千代に見せつけ、泣かせようと思っただけだ。

 それなのになぜお父様はこんなに怒っているの?


「静子、今すぐ馬車に乗りなさい」

「……え? どちらへ?」

「別邸に行く」

「え? 今から?」

 わけがわからないまま馬車へ連れていかれる静子。

 入れ替わるように部屋にやってきた千代は、北大路家当主の険しい顔に驚いた。


「このあばずれが!」

 バチンと頬を叩かれた千代は、なにがなんだかわからないまま床に倒れた。

 だんだん痛くなってくる頬を手で押さえ、ようやく叩かれたのだと気づく。


「……旦那様?」

「あの男と密通していたそうだな」

「……どなたのことでしょうか?」

 心当たりがない千代は頬を押さえながら首を振った。


「西城太蔵だ!」

「……西城……?」

 姓なんて知らないけれど、太蔵様?


「今日、ここに来たと聞いた」

「はい、静子お嬢様と一緒に、」

「静子のせいにするな! おまえが連れてきたのだろう!」

「……え?」

 噛み合わない話に千代は戸惑う。

 旦那様は一体何を怒っているのか。

 太蔵様がどうしたというのか。


「おい、千代を柱に縛り付けろ」

 当主に命令された家令が下人に縄を準備させ千代を縛る。

 

 バタバタと騒がしくなる屋敷内。

 荷物を運び出していく下男たち。

 宇治までは遠いなと言う声が聞こえてくる。

 

 一体何が起きているの?

 宇治って、別邸だよね?

 こんな時間から宇治に出発するってこと?


「身寄りのないおまえを弟の代わりに育ててやったのに、恩を仇で返しおって」

 家令がカバンに荷物を詰め、当主はいつものように帽子を被る。

 まるで今から出かけるかのような姿だ。

 

「弟の罪はすべておまえが負うべきだ」

 弟の娘なのだから当然だろうと笑う当主の顔に、千代はゾクッとした。


「旦那様、荷物の積み込みが完了しました」

「そうか。ではあとは任せた」

 家令の肩をポンと叩き、部屋から去って行く当主。


 千代は何が起きているのかわからないまま、柱から離れる事もできないまま立ち尽くした。


「あとは頼みましたよ、千代」

「……え?」

 頼みましたよ?

 何を?

 にっこり微笑みながら1冊の黒い手帳を千代の前に放り投げると家令も部屋から出ていく。


 この手帳は何?

 それよりもどうして縛られたままなの?

 いつまでこの部屋に縛られているの?


 窓の外はオレンジ色の空。

 早くここを出て、厨房へ行かなくてはならないのに。

 また静子に夕食が遅いと怒られてしまうのに。


「……なんだか、変な臭いがする」

 焦げたというより燻されたような変な臭いに千代は咳をした。


「……煙?」

 扉の隙間から入ってくる灰色の煙。

 千代の背中に冷や汗が垂れた。


 手と足を動かしたが紐が食い込むだけ。

 だが、早く逃げないといけない気がする。

 千代は必死で手を動かした。


「誰か! 誰かいませんか!」

 ゴホゴホと咳き込みながら声を出したが誰からも返事がない。

 柱に紐を擦り付けても解けない。

 千代はグッと唇を噛んだ。


 このまま死ぬのかな?

 どうして?

 おとうさんの罪って何?

 

 当主の弟は千代の父。

 半年前に父も母も事故で亡くなり、千代は当主に引き取られた。

 姪として可愛がられるわけではなく、ただの女中として。


 たぶん感謝しないといけないけれど、ここでの生活はツラかった。

 ここで死ぬのかな。

 なんだ、結局死ぬならおとうさんたちと一緒がよかったな。

 そうすれば、寂しくなかったのに――。


「早く逃げろ! なにしている!」

 ガンガンと叩かれる窓の音に驚いた千代は顔を上げた。


「……太、蔵様?」

 どうしてここに?

 千代は逃げられないと首を横に振る。

 

 窓から覗き込みハッとした表情の太蔵が誰かに何かを指示している様子を、千代は他人事のように眺めた。

 ガンガンと石のようなものを打ち付け、窓を割る太蔵。

 だんだん煙に覆われる部屋で千代は咳込んだ。


「おい、がんばれ。すぐ行くから待ってろ!」

「……逃げてください!」

 パチパチと廊下から聞こえる音。

 そしてこの煙。

 太蔵様に何かあっては大変だ。

 静子の想い人なのだから。

 千代はグッと唇を噛む。


 ガシャンと割れる窓。

 冷たい空気が一気に部屋に入り込むと同時に廊下の扉がバンッと爆ぜた。


「その水をくれ!」

 太蔵は桶の冷たい水を頭から被り、犬のようにブルブルと顔を振る。

 

「おい、肩を貸せ!」

 太蔵は仲間の肩に乗り、窓枠に足をかけ、部屋に飛び込んだ。

 千代に駆け寄り、刀で紐を斬る。

 

「急げ!」

「あっ、」

 よくわからないが、なぜか拾わなくてはならないと感じた千代は、慌てて黒い手帳を拾い胸元にしまう。

 太蔵の手を借り、外の男性たちにも頼りながらなんとか窓から脱出した。


 千代の無事を確認した太蔵は燃え広がる炎から間一髪で飛び出す。

 火の粉を連れて飛び降りた太蔵はそのまま土の上で1回転した。


「大丈夫か、太蔵」

「無事か?」

「あぁ、大丈夫だ」

 少し燃えにくい着物を着ていたおかげで助かったと、太蔵は汗を腕で拭った。

 急いで建物から離れ、先に避難した千代の元へ行く。


「千代! 大丈夫か? 怪我は?」

 泣きそうな顔の千代の頭をそっと撫でると、太蔵は困った顔をしたまま千代を見つめた。


「何があった?」

「よくわからないんです」

 煤が付いた千代の顔を手で拭い、髪を耳に掛ける。


「おまえを柱に縛り付けたのは?」

「紐を縛ったのは下男ですが、旦那様が家令に命じて……」

 今更震える千代を太蔵はグッと引き寄せた。

 

 温かい腕の中。

 太蔵様がいなかったら今頃あの燃え盛る屋敷の中で死んでいた。

 どうして?


「千代、もう大丈夫だ。……怖かったな」

 優しい太蔵の声とたくましい腕に安心した千代の涙は止まらない。

 だが、千代の泣き声は屋敷が燃える音にかき消された。


「北大路を裏門で足止めしたぞ!」

「だが、証拠がない」

 遠くから合図を送る仲間の報告に、せっかく昼間に間取りがわかったのに、全部燃えてしまったと男性が悔しがる。

 

「千代、北大路を告発してくれないか?」

 そうすれば逮捕できると言う太蔵に千代は首を傾げた。


「あの、太蔵様は一体……?」

「特高だ」

「特高……? とは何ですか?」

「特別高等警察……なら、わかるか?」

 国家の存在を否認する者や、過激な国家主義者を査察・内偵し、取り締まる人たちだ。

 

 周りを見ると、みんな腰に刀をつけている。

 もちろん太蔵も。

 廃刀令に従わなくてもいい職業の人たち!

 驚いた千代の顔を見た太蔵は「ははっ」と声を出して笑った。


「どうして……」

「北大路を捕まえるために見張っていたが、なかなか証拠が掴めなくてな」

 まさか証拠を消すために屋敷ごと燃やすとは思っていなかったと太蔵は苦笑した。


「証拠を消す?」

「あぁ、北大路が不正に関わった証拠を、彼の亡き弟がまとめた書類があるはずなんだが」

 全部燃えてしまったと太蔵はメラメラと燃え上がる屋敷を悔しそうに見つめた。


 旦那様の弟?

 お父さん?


『弟の罪はすべておまえが負うべきだ』

 放り投げられた手帳。

 火をつけられた屋敷。

 もしかして……。


 千代は胸元から黒い手帳を取り出した。

 パラパラとめくると、そこには懐かしい父の筆跡。


「……千代?」

 黒い手帳を差し出された太蔵は、その内容に目を見開いた。


「……晴彦さんの手帳!」

「どうして太蔵様が父の名前を……?」

「父? え? 晴彦さんの娘?」

 お互いに困惑しながら顔を見合わせる。


「千代、それを持って一緒に来てくれ」

「は、はい」

 北大路邸の裏門に向かった千代は聞こえてきた当主の大きな怒鳴り声にビクッと肩を揺らした。


「ワシを誰だと思っているんだ! こんなことをしてタダですむと思うなよ」

 ジロッと周りの特高メンバーを睨む北大路家の当主。


「貴様! コレは何の真似だ!」

 太蔵の姿を見つけた北大路家の当主は、早く縄を解けと声を荒げる。


「太蔵様! 私は関係ありませんわ。早く助けてくださいませ」

 精一杯の色気を出しながら静子が太蔵を見つめると、太蔵は濡れた髪をかき上げながら冷たい目で静子を見下ろした。


「千代、手帳を」

「は、はい」

 太蔵の後ろから現れた小さな千代に当主だけでなく家令も驚く。


「……なぜ生きて」

 家令の小さな声は千代に届くことはなかった。

 太蔵は手帳を捲ると、不正の証拠が記載されたページを読み上げる。

 最後にパタンと手帳を閉じると、大きく息を吐き、北大路家当主を睨んだ。


「山北屋からの賄賂の受け取り、銅山を無許可での私有化、実の弟の殺害、そして千代の殺人未遂でお前を逮捕する」

 観念しろと言われた北大路家の当主、家令や下男たちは青白い顔で震えながら特高メンバーに連行されていく。

 静子も千代への暴行容疑で逮捕。

 彼らと一緒に連行されていく姿を千代は他人事のようにぼんやりと眺めた。


「……実の弟の殺害……?」

 北大路家の当主の弟は千代の父。

 お父さんとお母さんはあの人に殺されたの?

 事故じゃなくて?


「なんで……」

 なんで殺されなきゃいけなかったの?

 うわぁぁと大声で泣き叫ぶ千代を太蔵は何も言わずにただ抱きしめた。

 

 手帳は北大路の当主の不正の証拠品として特別高等警察に預かられることになった。

 住むところも仕事も失った千代は太蔵たち特高が隠れ家として使用している口入屋で働かせてもらうことになった。


 ここで千代は父が北大路の当主を告発しようとしていたこと、両親が事故に見せかけて殺されたことを聞いた。

 口入屋の店主は父から相談を受けていたのに、命を守れなくてすまなかったと千代に謝罪。

 妻と娘は戸籍には登録がなく、千代の存在を知らなかったと店主は申し訳なさそうに言った。


「……私、戸籍がないんですか?」

「あぁ。身分が低い女性との結婚が認められないことはよくあるんだ」

 特に北大路のような華族は。と店主は目を伏せる。

 

「北大路家は取りつぶしが決まっているから、誰かの嫁になるか、うちの娘になるか。どっちにする?」

 ここには独身がたくさんいると言われた千代は急に太蔵を思い出し、真っ赤な顔になった。


「……おや、嫁の方か」

「いっ、いえ、そういうのはお相手の都合もあるので、娘で」

 顔の前でブンブンと両手を振る千代を口入屋の店主は笑う。


「じゃ、一旦、俺の娘にするから、嫁に行きたくなったら言ってくれ……って、おい、おまえたち!」

 ガラッと開く襖に驚いた千代が振り返る。


「俺、宗一郎! 俺の嫁はどう?」

 屋敷の窓から逃げる時、手を貸したのを覚えているかと宗一郎は千代の手を握った。


「いやいや、俺の方が優しいって」

「おまえのどこが優しいんだよ」

 ゲラゲラと笑う特高たち。


「可愛いお嬢さん、俺とあんみつ食べに行かない?」

 千代のもう片方の手を握る少し年上の特高メンバー。

 みんなにいっきに話しかけられた千代は、焦りながら周りを見渡した。


「千代、行くぞ」

 目が合った太蔵は照れながら手を差し伸べる。

 どこかに行く用事も約束も何もないのに。


「はい、太蔵様」

 千代は太蔵に手を伸ばしながら微笑んだ。


 北大路の当主をはじめ、家令や数人の下男は刑罰を受けた。

 娘の静子は地方に奉公に出され、女中たちは解雇。

 北大路邸の跡地は国のものになり、広場に生まれ変わった。


 そして。

 桜が満開の澄み渡った青空の日。

 口入屋に入り浸る青年と、ここで働く看板娘の祝言が行われた。

 看板娘はなぜか黒い手帳を白無垢の襟に挿していたが、幸せそうな二人は多くの街民に祝福された。


「今日から俺がおまえの家族だ」

「はい、太蔵様」

 桜が舞う神社で婚姻届に署名をした千代は嬉しそうに太蔵に微笑んだ。


 END

多くの作品の中から見つけてくださってありがとうございます。

明治を舞台にした王道ラブストーリー(チートやあやかし無し)に挑戦しましたが、あまりうまく時代感が表現できずすみません。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] ヘイト部分は細かく描写されてるのに肝心のざまぁ部分が割愛され過ぎてモヤモヤが全く解消されてない
[一言] よかったです! ひとつひとつの光景が目に浮かんで、最後いっきにその光景が連なって、二人の幸せな光景で結ばれて……とても新鮮で爽やかな印象でした。 白無垢の花嫁よいですね! 千代さんが幸せなラ…
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