八、流転
シュラクは幾分か落ち着いた湖水面を、苔むした足場の悪い岩上から見下ろしていた。
ティーラーに指示された通りに、鞍が付いたままだった馬を二頭呼び寄せ、火を起し、水面に浮かんだ衛兵の死体から使えそうな衣類を剥ぐと、洗って干した。
とても正気では出来ない作業だったが、自分の体が疑問も持たず黙々と遂行する事に驚愕した。
多分ティーラーの意識の介入が有ったのだろう、そう思う事にした。
そうして待った。
待てと言われていた。
そして、それは、近づいて来た。
バシャバシャと力強く飛沫を上げ、しっかりとした泳ぎでこちらへ真っ直ぐに向って来る。
やや傾いた陽光の中、湖水より現れたきらめく二体の美神。
二人に出会った翌日の早朝。
水浴を終えたミラとバラドをその時そう感じた。
平服したくなる神々しさを。
そして、それの再現かと…。
(……!!)
シュラクは目を剥いた。
湖水を掻き進む雄々しい体は、まさしくバラドのもので、片腕の中に引き摺られるようにぐったりとした肢体はミラ。
近づくにつれて、バラドが一進するごとに、水面が紅く、血波がさざめく。
湖水には無数の死骸が浮いており、血臭も酷いものだったが、今湖水を染めている夥しい血は、明らかにバラドとミラから流れ出るものだった。
シュラクは愕然とした。
身体が硬直する。
全身を血と泥で染めたバラドが、血染めのミラを抱えて、紅泥色の湖水より姿を現すのをぼやけた視界に見つめた。
身体は動かないのに、声も出ないのに、後から後から涙が溢れた。
バラドはシュラクを見つけたのか、真っ直ぐに向かって来る。
水面は膝までの深さになっていた。
と、バラドの歩みが止まる。
バラドがゆっくりと膝を見ると、打ち寄せられた大木の一枝が、バラドのばっくりと口を開けた横腹からだらりと零れた血黒い腸を絡めていた。
バラドはゆっくりと顎を上げ、再び重い歩を進める。
「!!!!!」
シュラクの声にならない絶叫!
ブブブブ!と、鈍い腸の千切れる音。
どぶどぶと体液が湖水に広がる。
それでも表情一つ変えることなく、バラドは血と泥で紅黒く染まったミラをしっかりと抱えて岩岸に上がった。
地獄より這い上がった亡者。
皮の剥がれた顔面の潰れかけた両眼は、生気ではなく強靭な意志のみが、らんらんと燃え盛っていた。
シュラクを尻目に、焚火側へミラを横たえると、バラドはそのまま俯せに地面に突っ伏した。
首を巡らせてミラを見る。
唯一の左腕を上げて、ミラの頬に触れる。
その手の指が、二本なくなっているのに苦笑する。
シュラクは駆け寄り、血染めの肉塊に等しい二人の傍らに膝をついた。
バラドの絶命は明らかだった。
バラドは震える片腕を支えに体を起こし、欠けた指でミラの抱える<竜眼晶>を指さした。
そして、ミラへ顔を近づける。
口づけようとして、体を強張らせた。
「は…、はは…」
バラドの肉の剥がれた口が小刻みに笑う。
ミラの口づけを受けるはずの唇。
美しく整った上唇の下の顎は、喉までえぐれていた。
舌もない。
首の骨が、紅黒い汚れの中で、白く浮き出ていた。
バラドの潰れた眼から、血色の滴が零れた。
そして、最後の力だろうか。
ミラに覆いかぶさらないように、ミラの上から自分の顔を、勢いを付けて仰け反ると、そのまま地へ倒れた。
穏やかな死に顔とは世辞にも言えない、目尻にこびり付く血色の涙の跡が、酷く悲しかった。
シュラクは正視に絶えず、目を背けた。
と、ミラへ気を引かれた。
紅黒い肉塊と化した美しいミラの肢体は、下顎だけではなく、左脇腹も、両足の脹脛もざくりと肉が削ぎ落され、右腕はボロボロに砕けて皮一枚で繋がっていた。
肉体自体は絶命していた。
が、また、それは始まった。
再生の絶叫!!!!!!
ミラの死した白い両眼がかっと見開かれ、下顎を伴わない口が開く!
全身がバタバタと痙攣すると、シュラクの目の前で肉体の再生が、信じられないスピードで始まった!
シュラクは全神経を動員して、精神の壁を作った。
狂う!と、思った。
ミラの灼熱を孕んだ波動は、それ程に凄まじく。
声帯を失った為声として現れない絶叫が、血に染まる湖水を激しく波打たせた。
ミラを覆う空間の、色とは見えない幾多の色が混ざり合い、歪む。
ミラの全身の皮が剥がれ、真っ赤な筋肉の塊になる。
骨が溶け出し、内臓と全ての器官が絡み合い、四散する。
空間を粉々に切り裂く、音ではない音。
シュラクは精神波の殻に閉じ籠り、終焉を待った。
自分の力量は知っている。
とても見守る余裕はなかった。
しばらくして…
小一時間経った頃。
鋭い絶叫で我に返った。
はっと顔を上げると、血糊のない美しい下顎を伴った、再生の完了した全裸のミラが、バラドの屍にしがみ付き泣き叫んでいた。
信じられない光景だった。
ミラが無惨な肢体で絶命していたのはつい先頃。
ミラは片腕の再生にすら、丸一日掛かっていた。
だからこそ、今のこの現実が信じられないかった。
ミラは白く震える手で、バラドの血に黒く固まった、伸び放題の前髪を撫でていた。
そして、バラドの額に形の良い唇で触れた。
白いミラの頬は、涙と、バラドの黒い血で汚れた。
そして、
―――――波動!!!!!!
ドン!という腹の底を砕く鈍い波動が、天地を、打つ!!!
突風が!
振動が!
ミラとバラドを核に、空圧が軋む!!
弾く!
空間が蜃気楼のごとく歪み、渦巻く!
幾億の言語、
幾億の時間が、
真昼の空間を色とも見分けのつかない幾多の色彩で駆け上がる!
空間がグシャリと捻じれる!
(何だ!何が起こったんだ!)
シュラクの目の前で、ミラとバラドを包む紫の閃光が、遥か上空へ向けてスパークした!
屈折した光の渦。
重なり、溶け合う、幾多の色の激流に二人の体浮き上がる。
音が!
音が!
音が!
音が!
音が!
渦巻き、猛圧で押し上げられる激流の最中、バラドは意識を認識する!
(……!……)
自分の、死んだ自分の意識を認識する!
浮き上がり、強烈な濁流に吸い込まれる、体の感覚を認識する!
(…何が?…)
触れる程の存在で、自分の急降下する肉体を見つめている。
一つ、一つ、時間を遡って。
絶望に打ちのめされる自分の表情を、逆視していく。
(何だ?これは…)
息苦しさと四肢の自由がきかない。
抗う、膨大な音量の中。
意識の拡張。
そして、捕らえた!
ミラの腕の確かさが!
汚れ一つない美しいミラは、バラドの腕を掴み。
高く!
高く!
空間を打ち払い、突き進む!
そして、振り向き際、鮮やかに微笑む。
「やめろぉぉぉぉ!」
バラドを掠め、次々に落ちていく、ミラを抱えたバラドが一斉にバラドを見る。
睨み付ける。
左腕のないバラドもいた。
顔半分が潰れているバラド。
両足のないバラド。
両腕のないバラドは後ろを向いていた。
その首に両腕を絡めてしがみ付き落ちていくミラは、昇って行くバラドを見て、意味ありげに笑う。
次々に湖水に落ちていく自分は、自分であって自分ではない!
ミラでもないのか!
時間を遡る!
しかし、それだけではない!
思考が追い付かないが、これは、ミラにさせてはいけない事だ!
重圧と息苦しさが、はたりと途絶えた。
足下の感触は、相変わらずない。
<湖游城>の残骸、両断された大理石の柱、砕けた壁。
ミラを腕に抱くバラドの周りで、不気味に静止している。
そこは、確か、急降下を強いられた上空!
足下を見た!
湖水が舌なめずりの波を打つ。
自分達はまだ、降下していない!
「バラド、お前を…」
ミラの声が耳元で木霊する。
腕の中のミラ。
ミラは輝く笑みでバラドを見上げた。
ミラの晧金の髪が、ぶありと吹き上がる。
世界が急激に動き出す!
急降下!
風圧に吞まれながら、ミラの両腕がしっかりとバラドの首に絡む。
バラドは強くミラの肢体を抱きすくめる。
ミラの顔が今までになく、喜々として、美しく、他人に見えた。
二人の体を打ち砕くはずの湖水面は、先に飲み込んだ城の残骸をごぼごぼと渦巻きながら、巨大に盛り上がり、包み込む柔らかさで二人を受け止めた。
ミラの、忌むべき力の、一片…。
バラドが目覚めると、訝しげなシュラクの視線と見事に重なった。
ここは…?
バラドの視線の問いに、シュラクが答えた。
「ここは、ここですよ。
あなたは時間を逆流して生き返った。
…ミラの力で…」
バラドは頷くと、腕の中の傷一つないミラの、消え入るような笑みを見つめた。
ミラを抱いたまま、シュラクの起こした焚火の前で横になっていた自分に、初めて気が付いた。
左手でミラの晧金の濡れた髪を撫でると、ちらりと右肩を見た。
右腕は、有った。
時間の狭間で見た、両腕のない自分が脳裏を横切る。
頭を振って、考える事をやめる。
血も足りているように感じられる。
抱き抱えながら上体を起こす。
ミラの髪を撫で、上空を仰ぎ見る。
大勢の鳥の異様な奇声が、空全体に響き渡る。
日没時間ではないのに、台風一過の夕焼けの様な色とりどりの色彩が、空全体に渦巻いていた。
空気も、嗅いだことのない幾多の匂いが混然と立ち込める。
「バラド、覚えていますか?」
心細げなシュラクの問いに、バラドは頷いた。
そしてミラの美しい顎を指で上げ、その瞳に映る自分を見つめた。
ためらう事なく、深く口づける。
ミラは震えながらも抗わなかった。
長い口付けの後、ミラの頭を自身の胸に抱えながら探した。
<竜眼晶>
それはシュラクが持っていた。
あなたが死ぬ時に頂きましたと、複雑な面持ちで答えた。
<竜眼晶>は唯のひび割れた竜の目玉の化石でしかなかった。
バイルフが死した時点で町の呪縛は解かれたのでしょう、とのシュラクの返答に、ミラは薄い微笑で肯定した。
異変のあった昼下がりの空は更に変色に渦巻く。
臭みを帯びた匂いが四方から吹き乱れる。
「バイルフが設えたガードもなくなりました。
異変に気付いた神々の騎兵が、時空の修正に繰り出してくるでしょう。
バイルフが混沌と交わした『ミラの所有権の独占』も消滅しました。
<混沌の魔族>もこれで、制約なくミラを追える事になります」
シュラクは溜息を落とした。
(ミラの叔父は、本当にミラを守りたかったのだろう)
そう思ったが、思考には出さなかった。
「ミラの力がこれ程とは、正直のところ恐ろしいのです。
時間の関与は神々にも不可の境地。
禁忌の行為です。
更に厳しい追跡が掛かると思います。
ここは直ぐにでも発ったほうがいいと…」
「お前は、どうするんだ?
一緒に逃げるか?」
バラドはシュラクの用意した、死んだ衛兵の衣類をミラに着せると馬に乗せ上げた。
「私は一緒には行きません。
あなた方と違って、神は私を見る事が出来ます。
一緒に行っては神々の追尾標的になります。
だからと言って、見つかるつもりも有りませんが…。
私は知り過ぎた様です」
「なんなら一瞬だぜ。痛くねぇ」
「死ぬ覚悟もないですよ」
シュラクは穏やかに笑って見せた。
バラドは剣に掛けていた指の力を抜いた。
「ミラが時間を逆流している間、ここにはティーラー様がいました。
私の記憶を消そうとして、ためらわれ、彼方で時間を逆飛する光り輝くミラを眩し気に見詰められ去られました。
…時間への干渉は、ミラの根源の力の覚醒にまで至らなかったそうです。
バラド、私はティーラー様の事を調べようと思います。
あの方は混沌だけでなく、神々をも避けている。
あの方にとってのミラの存在を知りたいと思っています」
「お前…。
へっ、まぁ、そりゃぁ助かるわ。俺はそのへんはちぃーとばっかり苦手でね」
バラドは馬上のミラの後ろにひらりと跨り、シュラクへ片目をつぶってみせた。
左腕で手綱を操りながら、右腕でミラを抱く。
ミラは心地よさげに、バラドの腕の中に身を沈め、眠る。
急激な力の消耗で、三日三晩は目覚めないだろう。
そしてバラドの腕は、ミラの束の間の安息地でしかない。
「そんじゃ、まあ、神とか混沌とかに捕まって、拷問にかけられねぇよう、せいぜい頑張りな!」
バラドは馬に鞭打ち、あっさりと岩間に、荒れた林道に向かって走り去った。
大切な人を腕に抱いて。
残されたシュラクは、狂った空を見上げながら、神々の騎兵が到着する前に自分も急いで立ち去らなくてはと思いつつ。
立ち尽くしたままの視線を空へ。
伝え知らされている雲上の神々の国へ馳せていた。
生暖かい風が、吹き駆けていく。
空は狂った色彩で、滲んでいた。
お読み頂きましてありがとうございました。
ミラとバラドの<竜眼晶>にまつわる物語はこれで終わりとなります。
次回は、二人が出会う頃のエピソードを描いていきます。
お気に留まりましたら、またお付き合いくださいませ。
ありがとうございました。