七、湖上の虚城
バラドとシュラクは朝日の一光が射すと同時に馬上の人となった。
目指すはバイルフの住処<湖游城>。
シュラクがティーラーの導きを受ける事で、その城の特殊な構造も知れた。
<湖游城>、切り立った山脈に囲われた広大な湖に浮かぶ、巨大な一枚岩に建立された城。
沈力に反したこの巨大岩は、<混沌の魔族>が好む反摂理の具象化だった。
ミラを囲う為に、<混沌の魔族>がバイルフへ与えた城だった。
沈力を無視したこの城は、追手を阻む為に更に重力を逆転させ、遥か湖空へと浮上した。
上空に存在する城にどうやって乗り込むのか、シュラクには想像がつかなかった。
ちらりと前方を駆けるバラドを見遣る。
彼が一睡もしていないのは瞭然だった。
不眠に血走った両眼が、らんらんと一層の凄みに燃えていた。
バラドが頑強な壁で心情をガードしている事に、シュラクは安堵していた。
こんな状況のバラドの心なんかをふいに読んでしまう危険だけは犯したくはなかった。
木々の茂みが疎らになり、道はいつしかごつい岩が目立つ険しい岩道に替わっていった。
草木が殆どなくなり、家程の巨石群の間を縫って乾いた土を駆け上がる。
土埃が視力を奪う。
道はいつしか、太古の干乾びた土石流のうね狂う軌跡となっていた。
そして、巨大な岩々の剝き出しの荒い肌の間から、それは姿を現した。
山の頂に近い空中に現存する、城。
一切の装飾を排除した、幾重にも城壁を張り巡らす実践的な城を、バラド達は斜め上空に仰ぎ見た。
バラドは突如馬を駆り立て、巨岩の間を抜け、傾斜を駆け上がる。
ごろごろとした岩間を上へ、上へ、馬に狂った鞭を唸らす。
(ミラへ!ミラの側へ!もっと近くへ!)
バラドの一念が馬を心臓破裂の勢いで、岩山の頂き目指し急斜面を駆け登る。
シュラクが覚束ない手綱捌きで、バラドの後を追う。
大きな岩丘の頂に登り着くと、急に視界が広がった。
突き出た巨岩の、絶壁ぎりぎり迄馬を走らせる。
遥か下方より吹き上げる風が、急停止に嘶きたつバラドの馬の火照った筋肉を逆撫でる。
バラドの衣類が炎に似て、ぶわりと巻き上がった。
眼下遥かに広がる岩と荒野の起伏の激しい山裾。
目立つ山は、遥か霞の青く棚引く山脈以外にない。
山裾の中央には広大な湖が、重力の摂理を無視して煌めく湖水を上空へ雨のごとく吹上げ、滝の様に飛沫を上げて流れ落ちていく。
吹き上がる湖水の飛沫にけぶる、巨大な一枚岩に建つ城塞。
バラドの遠慮のない歯軋りが、シュラクの鼓膜をギリギリと引っ掻く。
睨み付けるバラドのガードしきれない憤怒の余波が、この大男の体躯から真紅に燃えるオーラとして、めらめらと湧き上がっている。
シュラクは目の当たりにして、余りの熱さに喉が張り付いた。
風が、流れを変えた。
気配に、すっと振り向くシュラクの前に、秀麗な美貌をほころばせたティーラーの幻影が揺らめく。
慌てて馬から飛び降りるシュラクを睨み、バラドはそのまま、踵を返して<神読戦士>の微笑を含んだ怜悧な眼光と対峙した。
『ご覧になりましたか、あれがバイルフの<湖游城>です。
節理に反した存在ですので、理解は困難とは思いますが、あの城へ潜入しない事にはミラを救い出す手立てはないかと思います』
「そうかね!
だから、どうしろって言うんだ!
お前がせっせと設えた筋書きじゃぁどうなってるんだ!
ええぇっ!
お高く止まるな!
さっさと言え!!」
吠えたてるバラドの声に、シュラクの全身の皮膚が泡立った。
振り向き、上目遣いに見上げた馬上のバラドは、まさしく鬼気迫る憤怒の形相だった。
『バラドさん、お察しの通りこのままでは手も足も出ない状況ですが、心強い翼を呼びました。
どうにか間に合ったようですね。
真北の方角です。
御覧なさい』
言われるままに北の方角、昼前の青く広がる空の遥か一角に、暗い一群が暗雲の如く蠢いていた。
不吉な暗い塊。
雲群にも見えたが、余りにも狂いじみた動きで、それが信じられない速度を伴って近づいて来る。
神側の所有物ではない事は、空気が伝える肌の感触で、バラドにも分かった。
気配を読み取る事にも秀でているバラドと、動物の感情を読み取れるシュラクとが、その正体を認識したのは同時だった。
<青洞窟の飛竜>。
不吉な群生を形成するそれは、混沌が好んで使う手頃な傀儡として、神側からは煙たがれている、翼持つ小型竜だった。
シュラクは畏怖に目を見張った。
『シュラクさん、驚く事はないのですよ。
彼らは冬眠期の子ども竜です。
四十頭程呼び寄せました。
このくらいなら、今の私にも何とか此処まで誘導出来ますので』
寝ぼけ気味の小竜団は、急速にバラドの前へ迫って来る。
子竜とは言え、鋭利な鋼の鱗や、力強く大気を泳ぐ強靭な翼。
研ぎ澄まされた乳白色の角。
裂けた口腔内で犇めく夥しい牙が、真昼の陽光に煌めく。
皮膚は全体的に緑がかった青色で、瘡蓋に似たグロテスクな突起に覆われている。
四十頭の虚ろで血走った八十の眼が、異様さを際立たせていた。
飛竜の、弦楽器を限界ぎりぎりの張りで弾きまわす鳴き声が、バラド達の耳に届いた。
『あの飛竜をお使いなさい。
私には細かい誘導までは出来ませんので、それはシュラクさんにお願いします。
一緒に飛竜を駆り、バラドさんの<湖游城>までの移動を助けて下さい』
心に響いている澄んだティーラーの声を不思議と鼓膜に感じながら、シュラクの脳裏に微かな疑惑が生まれる。
目前に浮かぶ<湖游城>の裏から、無数の羽ばたきが一斉に暗雲のごとく、もしくは毒を含んだ深霧のごとく。
恐ろしい勢いで、清空に広がっていく。
無数の、幾千の、それは闇色に艶光る蝙蝠の群生!
『ほぉ。
なんと、可愛らしいこと…』
小さく漏らしたティーラーの言葉に、バラドはギッと睨んだ。
(どういう感性なんだ?こいつは!)
横のシュラクは心に響くティーラーの呟きに気が付かなかったのか、それとも、バラドだけに聞き取れるように漏らしたのか、反応はない。
ただ、目の前に急激に広がりつつある無数の蝙蝠の群影と、真北から迫る飛竜の群に挟まれて、パニックに陥る自分を必死に食い止める事に集中していた。
『あの男は、随分と初級の駒を使うのですね』
ティーラーはさも嬉しそうに話した。
バラドにはどうでもいい事だった。
そして、現状の余地は既に底が尽きていた。
溜まりかねて、バラドとシュラクの馬が恐怖に暴れ出したので、バラドは馬から飛び降りると、鞍を付けたままの馬の尻を鞭打ち、岩山の奥へと逃がした。
シュラクの馬もそれに続く。
飛竜の軍勢は、既に目と鼻の先。
直地する態勢で両足の鍵爪を広げる。
対する蝙蝠の群生も、距離にすればもう幾何もない。
バラドはティーラーを真っ向から睨み付けると、ニヤリとがたがたの歯を剥いた。
「あの飛竜、ありがたく使わせてもらうぜ。
ただし、お前があいつらをコントロールしている呪文だか、魔法だか知らねぇが解いてもらう。
俺はお前とも、お前そっくりなこいつとも、手を組む気はねえ!
さあ!
さっさとやりやがれ!
時間がねぇんだ!!」
「バラド!無茶です!
彼らは冬眠期だと聞いたでしょ!
空腹のはずです!
逆に襲われます!」
「うるせえ!!
おめえはどっかに引っ込んでろ!
ションベン漏らしても知らねえぞ!!」
バラドに胸ぐらを掴まれたシュラクは、わらわらと岩陰へよろめいた。
飛竜の群れはバラドと真っ向から対峙していた。
風を吹き巻く強靭な翼が、バラドの肩に触れる程に。
咄嗟にシュラクはティーラーの姿を探した。
いない?
いた!
秀冷な<神読戦士>の姿はシュラクの傍らで、薄っぺらい笑みを浮かべて、バラドを見つめている。
背筋が…、凍る…?
飛竜達の眼光がみるみる狂気に染まっていく。
ティーラーは呪縛を解いたのだ。
バラドの目前にいた一番大きな飛竜が、天を仰いで奇声を放った!
他の竜も一斉に叫び上げる!
夥しい鋭牙を閃かして。
獲物を狩る合図だ!
「うるせえ!
黙れ!
俺を食う気のある奴は来い!
おめえらみたいな獣が俺を食おうなんざ、お笑いなんだよ!
力相応ってこと、教えてやるぜ!
おら!
来ねえかぁ!!」
バラドは背に二振りの長剣を背負っていたが、手に掛けようともせず、全くの素手だった。
バラドの目前の空中に、四十頭の凶暴な竜首がずらりと並んでいる。
声は立てない。
鋭利な歯を剝き出し、涎を垂らし、バラドをその血走った眼で獰猛に見据えている。
シュラクは立ったまま、腰が抜けていた。
あの、鎌鼬どころではなかった。
バラドの全身から発散される熱気が、大気を歪め、陽炎を作り出している。
何者も征圧する、圧倒的な、気迫。
子竜が仮に一頭だけだとしても、素手の状態で襲われればひとたまりもない。
そんな飛竜の群れがバラドに押されている。
「お前だ!此処へ来い!
俺をあの城まで連れて行け!
おらぁ!
さっさとしねえかぁ!!」
バラドの目前の一番大きな飛竜が、おずおずとバラドの足元の岩場に降り立った。
強靭な翼をたたみ、肩を地に着け、長い首を持ち上げバラドを促した。
恐れと、憧憬を込めて。
バラドは馬二頭分はある飛竜の体躯に乗り跨ると、皮鞭を首に括り付けただけの支えで、あっと言う間に、荒々しく飛び立った。
他の飛竜もそれに続く。
統制の取れた竜使いのそれとは違い、バラドは圧制、もしくは恐怖で飛竜を従えている。
飛竜群はバラドの竜を先頭に、蝙蝠で構成された黒々と広がる群集へ猛進する。
凄まじい展開だった。
今しがた構成されたばかりの飛竜軍は、バラドの狂気に毒されたかのように、やみくもに蝙蝠に襲い掛かる。
しかし蝙蝠の方が数も上、小回りが利く。
小さな隙を狙って一斉に群がり飛竜の目や心臓を一突きする。
もともと夜行性の蝙蝠だ、バイルフが操っていることは明白。
盲目だという特性も、竜と交える恐怖心を起さない利点となっていた。
「うおおおおおおおおっ!!!」
バラドの雄叫びが、激戦の頭上より響き渡る。
慄き震えるシュラクの足元に、ずたずたに引き裂かれた蝙蝠の肉塊が、ぼとりと落ちた。
「ひやぁあっ!」
我ながら情けない声が恥ずかしく、ティーラーを隠し見た。
ティーラーは半透明の、それでも目元に薄っすらと楽し気な皺がはっきりと見える存在で、シュラクの横にいた。
『見事なものですね、シュラクさん。
彼ならばミラを救えるでしょう。
まるで、前世は、竜使いだったのか。
それとも、来世では、竜使いなのかもしれませんね』
シュラクははっとティーラーを見凝らした。
しかし、透明度は更に増して、もう目元の笑みまでは読み取れなかった。
バラドは苦戦していた。
蝙蝠のあまりにも細かい動きに翻弄されていた。
蝙蝠は束になり、バラドの鞭を握る腕を攻撃する。
長剣で裂き払おうとすると、乗っていた飛竜は悲鳴を上げた。
頭に群がった蝙蝠に、両目を滅茶苦茶に潰されていた。
「ちっ!
これまでだな!」
左後方で蝙蝠を翼で蹴散らしていた飛竜を一喝で呼ぶと、長剣を咥える。
右手に握っていた皮鞭を一叩きして、哀れな飛竜の首から解くのと、左手に託していた別の皮鞭を閃かして左の飛竜の首に絡めると同時だった。
ぐぐっと、左腕の筋肉が腫れ上がる。
バラドは屈強の体を、鞭持つ左腕の力で隣の飛竜へと飛び移る。
それは、一度や二度ではなく、バラドにとって蝙蝠相手に悪戦苦闘している哀れな子竜達は、<湖游城>へ乗り込む為の渡石でしかなく、次々に乗り潰し、確実に目的に近づいて行った。
<湖游城>に近づくにつれ、吹き上げる湖水の飛沫が降りかかり視界を遮る。
<湖游城>直下の空間は、巨大な一枚岩と城を持ち上げ、湖水を噴き上げる
<混沌の魔力>によって重力の摂理が狂っていた。
運悪く巻き込まれた蝙蝠達が、狂った重力に絡め取られ、上へ下へと振り回された挙句、体を引き裂かれていた。
「たかがミラの為だけに、こんな物を作りやがって、どうして放っておいてくれねぇんだ」
バラドはギリギリと歯ぎしりをした。
そして、落下していく蝙蝠の残骸の雨を縫って、バラドが<湖游城>の石の城壁へ降り立った事を、シュラクはまるで夢中の出来事の様に見ていた。
城壁から城庭を超えて城。
その城の中央に主塔があった。
城壁にいた数人の守備兵に矢を番える隙を与えず、バラドは長剣で切り込み全員を城壁から蹴り落とす。
違和感があった。
守備兵が少なすぎる。
統制が取れていない。
指揮系統が見えない。
兵の目が虚ろだった。
(ミラか?ミラの再生の精神波のせいか?
何人死んだ?
何人狂った?
ミラが知ったら苦しむじゃねぇか!
いい加減にしてくれ!)
バラドは城壁の階段を大股で降りる、バラバラと守備兵が集まる。
(遅すぎる、お粗末にも程がある)
バラドは片端から切り倒しながら、手ごたえの無さに後ろめたさを感じていた。
主塔の真下から見上げる。
城の窓は上に行くにつれ大きくなるのが普通だ、だがこの塔の最上階の窓は外敵からの防御又は脱走阻止用の細窓だった。
(ミラはここにいる)
バラドは目を細めた。
最上階の真下の部屋、大きめの丸い窓にステンドグラスが煌めく。
(礼拝堂か?
混沌の儀式に使う部屋か?)
左の長剣を肩の鞘に収め、皮鞭の先端に鍵爪を結び叩くと、鞭は三倍に伸びた。
投げる。
空気を切り裂いてステンドグラスを割る。
編み上げた長鞭の伸び縮みのバネを利用して、高さの半分まで飛び上がると、後は長鞭を力づくで引いて壁を駆け上がる。
平地を駆ける程の速さに、集まった守備兵が矢を番えるのと、バラドが割れたステンドグラスに飛び込むのとは、同時だった。
床から窓までの高さは思ったよりは低かった。
数段高い祭壇に降りたバラドは、薄暗い部屋に目が慣れるのを待たずに、出口に突進する。
装飾の派手な扉が開き、数人の衛兵が剣を振りかざし突入してきた。
バラドの二刀流は冴えていた。
盗んできた剣の切れ味は最悪だったが、そこに鎌鼬を起すバラドの気迫が入れば話は別だった。
とにかくミラを助ける!
鮮やかなタイルを敷き詰めた床が鮮血に染まる。
腕が、胴が、首が。
一瞬で削ぎ落され、床に転がる。
呻き声を立てる間さえなく。
<混沌の魔族>の礼拝堂は、砕かれたステンドグラスと鮮血と肉片で汚されていく。
<混沌>が黙っていないだろう、だが、黙るしかない。
ここはバイルフの城だった。
ミラの独占権がバイルフに有る限り、<混沌>は手が出せなかった。
バラドは礼拝堂を出て、狭い螺旋階段を駆け登る。
下から、上から、衛兵が剣を振り上げ、湧いてくる。
バラドは体が動くのに任せた。
無意識に繰り出す暗殺技は、喉を裂き、心臓を突く、無駄のない急所狙いの即死だった。
突如現れた死神に、逃げようとする衛兵。
だが、狭い階段に逃げ場はなく、死体に足を取られ転倒と同時に首を切り落とされる。
バラドは累々と積み重なる死体の階段を登って行く。
顔や衣類は鮮血と肉片で、ドロドロになっていた。
剣を振り上げる衛兵の肩から心臓へと切り裂き、倒れたその先に、螺旋階段の突き当りが見えた。
剣の血糊を、息絶えた兵士の服で拭う。
朱鉄塗の重々しい扉。
バラドは確信していた。
この部屋にミラとその叔父がいる。
そして、それを阻む雑魚はものの数には入らないと。
扉を蹴破る。
ばりりりりと、鍵の留め金ごと扉は蹴り倒された。
薄暗い螺旋階段と同じ薄暗さだったので、目を慣らす必要もなく予想通りに数本の、正確には四本の刃が踊りかかった。
力任せに跳ね飛ばす。
剣と一緒に二人が床に転がり、もう二人は痺れた腕を庇って、驚愕と闘志に目をぎらつかせていた。
「悪いな」
言葉と違い、無表情で左剣で一人の首を切り落とし、右剣でもう一人の振り下ろしを受け弾く。
左の首を切り払った捻りで、振り向きざま右のよろけた男の脇腹から心臓へ食い込む。
そのまま大股で、腰を抜かした二人の衛兵の心臓を同時に一突きした。
顔を上げ、顎を突き出したバラドの両眼は恐ろしい程冷めていた。
部屋を見回す。
豪奢だが思った程広くない部屋で、今ほど切り殺した衛兵にそっくりな奴が五人、刃を構え闘気を漲らす。
それに守られる様に、朱紫の豪華なローブのバイルフ聖神官が、薄ら笑いを浮かべていた。
背後にも、数人の雑魚が群がる気配。
バラドの凍った眼光が、鋭く閃き、動く!
前の五人の内一人の剣を払い喉をかっ裂く。
二人目の顎から脳髄へ刃を突き上げながら、部屋の奥へ視線を巡らす。
寝室、薄いレースの奥、人影。
ミラだ!
豪華な寝台に上半身を起こした人影が、こちらを伺っている。
(再生したてて、感覚が未だ戻ってねえな。
都合がいい。
ミラにはこいつらの断末魔なんざ聞かせられねぇからな)
二人、三人と、疾風のごとく哀れな命を奪った死神は、ガードをなくして睨み付ける城主に目で笑って返した。
体を捻る。
左脇を狙った剣を柄で叩き落すと、つんのめって頭を突き出した衛兵の首を切り落とす。
床に転げる前に、血の噴き出る切りたての生首を、前方から押し寄せる雑魚の群れへ蹴り飛ばす。
「ひやぁぁぁっ!」
どよめき態勢を崩したその中に、間髪入れずバラドが躍り込む。
一人。
三人。
五人。
ことごとく急所狙いの見事な切っ先に、死骸が量産されていく。
衛兵には何の関りもなかった。
家族や兄弟だって居るだろう。
中には「仇」と言いかけて、頭蓋骨を割られた若者もいた。
誰の「仇」なのか。
先に殺した衛兵の中に親友もしくは兄弟でもいたのか。
毛長の絨毯が血にじっとりと湿って滑る。
最後の男は、階段まで後退りをして足を滑らし、あらぬ方向へ首を折って息絶えた。
二刀の血糊を大袈裟に払いながら、バラドはバイルフへ鋭い流し目を射る。
バイルフの手には飾り気の乏しい、それでいて一目で秀作と唸らせる眩い輝きの長剣が握られていた。
(ミラに剣や馬術を教えたのはこの男だったな。
そして、<神読人>だ)
意識の消失。
本能に全てを託す。
バイルフの斜め後ろの飾り棚。
その蝋燭台の隣に<竜眼晶>が有った。
これも、本能に刻み込む。
「うおおおおおおっ!」
バラドが切り込みを仕掛ける。
バイルフがそれを受け、払う。
いや、払いきれずにバラドの巨体と揉みあうはめになった。
バイルフの朱紫のローブがバサバサと揺れる。
「へへっ、あんたがミラの叔父様かい。
随分と手の込んだ事をしてくれるぜ。
ミラは返してもらう。
あいつはあんたの道具じゃねぇんだよ!」
「姫様の騎士気取りかね、大したものだな」
バラドの馬鹿力に対抗しながら、息も荒げず薄ら笑った。
「騎士?はあ?!
俺は何者でもねぇ!
ミラを放せ!くそったれ!」
バラドが力任せに押し離れる。
一瞬の合間。
右剣の切っ先を閃かしバイルフの心臓へ、寸前でバイルフの肘で払われる。
ゆったりとしたローブの下の、腕鎧にはじかれた。
左剣でバイルフの突きを跳ね上げる。
剣を握り直した右剣で奴の心臓へ!
バイルフの切っ先がバラドの顎へ!
思いっきり後ろへの跳躍!
足場を定めて両剣を逆持ちに、腕を交差し柄を突き出す。
防御の構え。
バイルフへ突進する。
バイルフの剣捌きを交わしながら、後ろの飾り棚へ追い込む。
棚手前でバイルフが右へ移動した事で、<竜眼晶>はバラドの左脇に姿を見せた。
追い詰めた左剣で威嚇しざま、右足で素早く蹴りつける。
左剣を口に咥え、よろけたバイルフの目の前で<竜眼晶>をひっ掴み、ミラのいる後ろの寝台へ投げる。
「ミラ!受け取れ!」
「貴様!」
態勢を立て直したバイルフが、憤りも露わにバラドを睨み上げる。
銜えた剣を握り直し、柄を逆握りし、交差した腕のままバイルフと絡み合う。
ありったけの力で押し返す。
瞬時、バイルフの眼光が狂喜に開かれた。
バラドは交差した左手の力を倍にすると同時に、素早く右手を剣から放し、
帯腰の短剣を握ると、バイルフの心臓へ突き立てた。
そのはずだった。
右肩が焼ける!
ガラン!
音を立てて、握っていたはずの短剣が床に落ちる。
足は条件反射で横へ跳躍した。
バランスを崩し、片膝を付いた。
背後で脊髄が凍る程の、圧倒的な存在感。
瞬時、振り向き左剣で受けた剣は、白い絹の寝着に白い肌、赤黒い髪を振り乱し、顎を上げ、おぞましい笑みで見下すミラの剣!
「ミラ!」
ミラの剣を押し上げ、捻り、払い。
ミラと同時に床を蹴り、横へ。
バラドは大きな飾り時計に寄り掛かりながら、右肩をさすった。
激痛は無視。
右肩の半分が、裂かれている。
上腕骨が斬られた。
使い物にならない。
大量の血を吸って、服が体に張り付く。
あれは、ミラじゃない。
態勢を整え、ミラが剣を振りかざし迫る。
もう一人の、ミラ。
ミラの、見たことのない、醜い笑み。
ミラは負けた。
弾き出されたミラの意識は、どこだ!
矢継ぎ早に繰り出される切っ先を交わしながら、部屋の四隅へ、棚の隙間、窓際でご満悦のバイルフの背後へ。
ミラを探して、バラドは気を走らせる。
(いない!
どこだ!)
ミラが突く!
左剣で受けると見せかけ、バラドは無理矢理体を捻じった。
ぶぶぶっ!
バラドの右肩に食い込んだミラの刃は、そのまま床に突き刺さる。
血が吹き上がる。
真っ赤に濡れた太い腕が、ごろりと床に転んだ。
「おっとぉ!
バランスが取れねえや」
血の吹き出す右肩を庇う事なく、バラドは左手の剣を横に構える。
「ミラと違ってな、腕をなくすのは初めてなんだ。
大目に見てくれよな」
そう言いつつ、血走った目元に壮絶な笑みが広がった。
「使えねえ腕はいらねえ!
せいせいしたぜ!
ミラをどこへやった!
ミラをどうした!
ミラと子どもの仇だ!!
ぶった斬ってやる!!!」
目の前のミラはミラではなかった。
肉体に潜んでいた、別意識のミラ。
もしくは、本来のミラ。
バイルフが手に入れたかった、ミラ。
そして、子どもを殺した、ミラ。
バラドはミラに突進した。
神技の突き!
心臓目掛けて!
ガァァン!
バイルフの払いが、それを受けた。
「死に損ないが!
だが、その出血ではいくらも持たないであろう。
目も霞んできたのではないかな。
下種の血でこれ以上床を汚したくないのだがね」
刹那、交わした剣が払われ、間髪入れずにバラドの脳天に振り下ろされる。
バラドは突き飛ばされた。
ミラに。
「ミラルーフ!」
叔父の叫びに振り返ったミラは、嚙み締めた唇から血を流していた。
全身が操り人形の動きで、それでも、剣を持ち構え、叔父を睨み見る。
「ば、ら、ど…、し、け、つ、を」
絞りだす程の。
血を吐く程の、声。
「無駄だね、手遅れだ。
おかえり。
悪いが、けりを付けるぞ」
バラドの口元は、喜びに歪む。
ミラは、体内にいた。
今の、今まで、そいつと戦っていたのだろう。
俺の為にそいつを負かし、俺を救った。
命の残りは数分。
都合良く、考える事にした。
「うおおおおおおっ!!!」
瞬間、生じたバイルフ隙を突く。
バイルフは、バラドの剣を払いきれずに押され、後ずさった。
「ミラルーフ!よく考えるのだ!
この世に生きれば貴女に平穏はない!
私が、私だけが、貴女に平穏を…」
「うるせえ!
先に、平穏でも何でもなっちまえ!」
バイルフを突き飛ばし、壁にぶつかった瞬間を突くはずの切っ先が左にずれる。
右腕がないのと出血で足下が浮いた。
バイルフが見逃すはずはない。
「ばら、ど!」
視界が赤く、生暖かい物で濡れる。
無理矢理瞼をこじ開けると、目前に、目を見開いたバイルフの、大きく開いた口からは、真っ赤な剣先が生えていた。
その背後に、顔半分を血に染めたミラが、立っていた。
大量に血を吐き、バイルフはその場に崩れた。
ガダダダダ…。
床が揺れる。
よろめいたミラを抱き抱えようと、走れる自分にバラドは笑った。
頭が軽い。
右肩の激痛を意識すれば、心臓が持たないと知っていた。
ミラはバラドの左腕の中、色の薄れた唇を綻ばす。
赤子の白い肌、白い腕だった。
本来ならば、指一本動かすにも激痛が走る、再生したての腕だった。
ゆるりと、血みどろバラドの頬をさする。
「…すまねぇ、すまねぇ、ミラ…」
お前のせいじゃないと、言葉に出せず。
言葉にすることで、ミラに自覚させてしまいそうで。
ミラの華奢な腕を引き寄せ、抱きしめた。
全身を走る痛みに呻いた、ミラの唇を塞ぎかけて…。
ドゴゴゴゴゴゴゴ!!!!
突如襲った強烈な振動が、寝台の壁をガラガラと打ち砕く。
壁に、天井に、荒れ狂う龍のごとく太い亀裂が無数に走る!!
咄嗟に寝台の<竜眼晶>をミラに抱えさせ、左腕でミラを抱き締めた。
絨毯張り床が、ビリビリと裂け、剝き出しの石敷の床が崩れ、荒れ狂う波に似て、ボコボコと突き出る。
振動は更に激しく、壁と天井の一部が崩れ、眩い蒼空が視界を焼く!
『我の存在こそが混沌との契約!
我死すれば城も消滅す。
ミラは永遠に生き続け、お前は死ぬ!
道理であろうが!!!』
聞き覚えのある嘲笑が、崩れゆく床の破壊音に紛れて響き渡る。
ガラスの砕ける音。
鏡の破片が足下に散らばる。
無数の破片。
無数のバイルフの顔!
無数の嘲笑!
無数の…?
破片に映し出されたバイルフの歪んだ面影が、全て、ティーラーの冷淡な美貌に重なる!
(何っ!)
動揺に緊迫の箍が外れるのと、足下の床が崩れ落ちると、同時だった!
(しまった!!)
足下の感触が消滅し、ミラを抱えた体重分の重力に引きずり落される。
ガラガラと同様に落下する壁や柱の残骸の間から、バラドは目を凝らした。
(飛竜はいないか!)
ミラをしっかり片腕に抱え込み、意識を八方へ走らす。
急降下の風圧で息が出来ない。
全身の肌がピリピリと風に裂かれる。
バランスを、バランスを保たなくては。
頭から落ちたらお仕舞いだ。
耳を劈く轟音に鼓膜が破れそうだ。
足…下!!
バシャバシャと先に崩れ落ちた、<湖游城>の残骸を飲み込んだ巨大な湖に、鋭く砕けた一枚岩が刃先の様に突き出ている。
バラドは必死に意識を、気配を探す。
飛竜!
飛竜!
飛竜!
腕の中のミラが、くぐもった悲鳴を小さく漏らす。
(無茶をしたもんだ、声帯だって完全じゃないのに)
ミラの声を遠くで聞き、急降下に追い付こうと羽ばたく傷だらけの飛竜を、お前じゃ無理だと、霞んだ思考が舌打ちする。
酸素と血を失ったバラドの脳が、ミラを離すなと最後の指令を抱えた片腕に告げた。