五、異空乖離
「遅れまして、申し訳ございません」
皆の黙した視線が、部屋の扉から流れ入った美しい夜闇色の人身へ吸い寄せられる。
以前よりも影が薄く、儚い陽炎の様だと、若町長は思った。
相変わらずカーテンを閉め切った薄明るい清楚な部屋には、若町長とその息子夫婦、そして娘婿のルパーグ氏とバラド、シュラクの六人の思惑が犇めき合っていた。
部屋の明かりのせいなのか、外が明るい為目が慣れないのか、皆の表情が暗く掠れている。
幾多の『声』がミラの脳神経を掻き回す。
竜のターゲットだったルパーグ夫人とその母親である若町長の夫人は、ミラによって眠らされているので、この場に居合わせてはいない。
「詳細はシュラクから聞いていらっしゃる様なので、私からは今後の斯業についてお話し致します。
この事態の仕掛けは、バイルフという私の親族によるものです。
彼の狙いは、私やシュラクのような特異な能力者を囲い、<竜眼晶>を媒体に力を吸い上げ、己の渇望を成就させる事です。
赤子の生気を欲しがる竜は、取るに足らない、目玉を利用されただけの存在でした。
私がこの目玉に捕らわれていると知った今、彼の関心は私に有ります。
私はこれから彼と話を付けに参ります。
私の身柄を持ってこの町を開放できるよう、尽くします。
今しばらく辛抱していただきたい。
そして、まず先に、若町長夫人とルパーグ夫人の眠りを解きます。
首尾よく話が付いたとしても、私が再び皆様に会えるとも限りませんから」
淡々としたミラの説明は、皆の説明を拒むようにひどく無機質なものだった。
若町長を初めその家族は、それぞれ部屋中央の飾り気の乏しい長椅子に浅く腰掛け、うなだれていた。
理解しがたい状況において、これほど冷静でいられるのは、語り手がミラだからか、それともシュラクの事前の説明が的確だったからなのか、成す術もない事態に気力を失った為か、それを聞き分けられるのはミラだけだった。
シュラクは彼らよりも離れた、窓の傍にいた。
締め切ったカーテンの隙間から徐々に人の足が家外に集まって来ているのが見える。
バラドは心なし俯いて、戸口に門番を思わせる腕組みで立っている。
「一つ、お話ししなくてはいけない事があります」
ミラの美しく形の整った両眉の間に、薄く、苦悩の皺が刻まれるのを、バラドは俯いたまま感じていた。
「私を此処に導いた老町長ですが、彼は既に亡くなっています。
竜を倒し、現世界に通じる事ができたのは僅かな時間でしたが、彼に繋がっていた現世界への糸口も、彼の命自体も、消滅しているのがわかりました。
推測ですが、老町長は私に会う以前に亡くなっておられたかもしれません。
老町長は<竜眼晶>に<神読人>を吸い込む為の影でした。
ただ、老町長の願いは私が受けました。
この町とお孫さん、そしてその体内に生きづく曾孫の命は守ります」
ミラは終始顔を上げずに話した。
どこからか、低いすすり泣きが聞こえる。
窓際のシュラクがカーテンの隙間から外を見やると、小さく息を飲んだ。
町人がぞろぞろと集まり始めている。
皆一様に不安な表情を隠しきれずに、カーテンの閉め切ったこの部屋を見つめている。
「ミラ、…」
「分かっている」
シュラクの押し殺した声に、ミラが答える。
ミラの視線は晧金色の豊かな髪の影で見えないが、部屋の人々のしぐさや息遣い、家外に集まる町人の様子、全てを感じ取っているのがシュラクには分かった。
(なぜ…、だ?)
ミラの記憶に介入させられた為なのか、不可解だったミラの心情が、所々体感する程分かる。
バラドもこうなのか…?
ちらりと戸口の彼に目をやると、バラドの鋭い無表情の視線と重なってしまった。
凍り付く。
(バラドを敵にまわす事は、何としても避けなくては)
シュラクは全力で視線を逸らした。
外のざわめきが、薄暗い部屋の中まで浸透してきた。
「ミラ殿、老父が亡くなったと知れた以上は、私がこの町を束ねなくてはなりません」
齢50になると思われる若町長は、長椅子から腰を上げると、今しがたとは打って変わった、しっかりとした足取りでミラに近づいてきた。
やや、外れに控えていたその息子夫婦も、その場でしっかりと立ち据えていた。
若町長の背丈はミラより若干高い為、ミラは伏せていた視線を上げざるを得なかった。
「町人の中には、早朝に空を覆いつくした巨大な人面の言葉を聞いた者もおります。
その者を核に、ミラ殿に対する不信感が広がりつつあります。
シュラク殿には申し訳ありませんが、昨日の真実を隠した説明では、いずれ大きな不安となってあらぬ噂も飛び交うようになるのでありましょう。
私は、ミラ殿がお力を尽くされる事を信じております。
ですが、それでもこの町が元に戻らなくても、気に病む事は有りません。
我々はどんな世界に居ようとも、この町が存続する以上、この町で生きていきます。
先代の町長が築いてきた営みです。
どんなたぐいの障害であろうと、私が守っていきます。
ミラ殿はご自分の信じるままに、なされるがよいでしょう」
やや見上げる位置にある若町長の、確固たる眼光を見せられた時、ミラは何かを思い出していた。
何か、何かを。
ああ、父の肖像だった。
ついに、一度も会う事の出来なかった父。
窓一つない地下の寝室に飾られた、数百年の歴史を持つ王国の、王族の一人。
厳かなローブを纏い、絢爛な椅子に深くかけて、王位継承上位者の証の聖杖を携えた神々しい肖像画。
その眼差しに似た若町長の心情が、揺るぎない責務に心情を挟む事を許されないジレンマと、突如知らされた訃報に怒りと悲しみをギリギリの線で押し殺す苦痛が…。
どうでもいい事だった。
ミラは考えるのをやめた。
「ありがとうございます。
出来る限りの事は致します」
そう言って、背を向けたミラへ若町長の心声が聞こえる。
(老父の遺体を弔う事は出来ないのでしょうか?)
言葉にできない、切実な問いであった。
「老町長のご遺体に関しては、私にはわかりません。
現世界へ戻らなくては感知できません。
申し訳ございません」
ミラは町長一族の思惑を背中に感じながら、若町長夫人の眠る二階へと続く階段へ向かった。
バラドがガードする如く、足早にミラの後に続いた。
若町長夫人の眠りを解いた後、以前より騒がしくなった表玄関を避けて、裏勝手口から出て行かれてはとの薦めを断り、ミラとバラドとシュラクは、人だかりもこの上ない表玄関に姿を現した。
一斉に騒ぎが沸き起こるどころか、若町長の門前に集まった人群れが、瞬時、氷の呪縛をかけられた彫像へと固まる。
息を飲み、眼球を異様に見開いて。
そこには、艶やかな闇色のケープを優美に肩に下ろしただけの簡素な旅着の女性が、山熊を思わせる偉丈夫と、育ちの良さを漂わせた医師兼<神読人>の青年を従えていただけであったが、町人全てを威圧する程の気焔を漂わせていた。
(ミラはな、王族の姫様だったのさ)
バラドの言葉をシュラクは反芻していた。
(たかがこんな田舎町で威厳を誇示しなくったって…。
いや、此処ではミラは神に遣わされた者になっているんだ。
彼らを安心させる為なのだろうか…)
バラドの演技がかった手伝いで、馬上の人となったミラは更に神々しく煌めく。
闇色のケープが、あたかも紅蓮の裾広外套の様に。
飾りの乏しい男用の旅着は、宝石の贅を尽くした見事な正装に。
晧金色の長い髪の流れは、神々の祝福を受ける如く煌めいていた。
ミラがそのかんばせを優美と言える動作で皆へ向けた時、ため息の波紋が広がった。
(何人の男、いや女も含めて、これから一生、ミラの顔を見たおかげで独身を通しちまうんだろうか。
俺みたいに骨抜きになっちまうんだろうな)
町人と同じく、あんぐり顔でミラの背を見送っていたバラドは、はたと意識を取り戻し、苦笑を噛み殺したシュラクをどかどかと抜いて、ミラの馬の尻を追う。
夢遊病者の足取りでふらふらとミラに道を開ける群衆に飲まれていくミラを眺めながら、シュラクはミラが深く気付いているのが解った。
そして、バラドは既に気付いていたと。
裏口から馬を走らせて、ミラより一足早く身重の妻の眠る我家へ着いたルパーグ氏は、玄関の前で今や遅しとでかい図体で地団駄を踏んでいた。
ルパーグ夫人は、玄関から真っすぐに進んだ廊下の突き当りの部屋で眠っていた。
窓辺の寝台に横たわった夫人は、透かしガラスから零れる柔らかな日差しを頬に受け、穏やかに眠っていた。
明るい部屋に入ると、ミラは現実世界の老町長に繋げてあった糸が完全に消滅している事実を確認して、薄い下唇を噛んだ。
シュラクはミラを気遣ってか、珍しくミラと肩を並べる位置にいた。
ルパーグ氏は窓から射す日を背に受けて、眠り続けている妻の枕のずれを直している。
バラドは相変わらず戸口で太い腕を組み、俯きかげんでミラとシュラクを見ている。
(ああ、シュラクはほんの少しだけ、ミラより背が高いんだな…)と、不安を隠すように無理矢理単純な思考レベルへ、自分を落としていた。
バラドの心配していた通り、それは起こった。
目覚めたばかりで、まだ虚ろな夫人を後にミラは夫人から離れようとしていた、が、子どもの命を救われた母親の感謝心はそれを許さなかった。
竜から救ってくれた礼を伝えるつもりだったか、目覚めたばかりの弱々しい動作で手を伸ばすと、ミラの白く細やなかな手に触れた。
「ひぃぃっ」
ミラが声にならない悲鳴を上げて、体を大きく震わせてのけ反った。
ビシッ!
部屋中に、凄まじいスピードで電流が駆け巡る!
「うわっ!」
「きゃぁっ!」
「やべぇ!」
ガシャァァン!
バラドが叫んでルパーグ氏を突き飛ばし、ミラと身重の夫人の上に覆いかぶさったのと同時に、電撃の直撃を受けた窓ガラスが粉々に砕けて、バラドの上に降り刺さった。
バラドは身震い一つで後頭と背中に積もったガラスの破片を振り払うと、硬直しているミラを両腕に抱え、驚愕して声の出ない夫人に怪我のないのを見て取ると、寝台と壁の間でしたたかに腰を打って動けないルパーグ氏に、
「すまねぇ、ちょっとした拒否反応だ。
弁償代はそこで棒立ちの色男に頼むわ」
と、結局一歩も動けず、感応性が有りすぎる分ミラの心の悲鳴をもろに受けてしまったシュラクを顎で示して、バタバタと部屋を出て行った。
震えるミラの体を抱えてバラドは家の外へ出ると、裏へ回って塀と古い木々に囲まれた、使い古しの家財が散乱する細路地でミラを下ろした。
手頃なボロボロの毛布を見つけると、廃物の上に敷いてミラを座らせた。
バラドは病弱な子ども診る母親の様に、両膝を着いてミラの瞳を覗き込んだ。
その翠微色の瞳は曇って焦点が定まらず、宙を漂っている。
ガチガチと美しい並びの歯が震えている。
全身も、小刻みに震えていた。
「バッ…、バラド、こ、子どもが…」
ミラは、か細い声と共に両の細腕を恐る恐るバラドへ差し出した。
バラドはそれを強く引いて、ミラの美しく絞まった肢体を抱きすくめ、震える頭をでかい手で抱き包んだ。
「分かっている、分かっている。
もういいんだ。もういいんだ」
言い聞かせるバラドの言葉は、この大男にして似つかわしくない弱々しい涙声だった。
ミラの気の余波を追って細路地に踏み込んだシュラクは、二人が崩れるように抱き合っているのを目にすると、両足が地面に張り付いて動けなくなった。
(なっ、なんだ?)
頭が疑問を疑問として認知する間もなく、衝撃が襲ってきた。
「うわぁぁぁ!」
自分の叫びに、バラドが振り向くのが見えた気がした。
しかし、それよりもバラドの腕の中で正気を無くしているミラ、そのミラから途方もなく膨大な感情が、荒れ狂う衝撃波の勢いで自分に迫る!!
ごおぉぉぉぉぉぉぉ!
両腕で庇ったところで、足は動かず、目の前が真っ暗に、激しい気流に足が浮き、闇に飲まれる感覚!
何処かで、微かに、バラドの叫びが意識を掠めた。
爆風と、うねり渦巻く感情の渦の中で、自分が液化していく。
とろとろと、体の内側、胸の奥から、それは徐々に透明な痛みを伴う水へと還元していく。
皮膚が、目玉が、指が、
とろとろと透明な液体…!
いや、これは涙だ!
全身が涙に流れていく。
絶望的な、痛みと悲しみ。
頭蓋骨を押しつぶし、引き回す、それは。
恐怖でも、怒りでもなく。
純粋な痛みと悲しみの絶大な記憶。
(こっ…。これがミラさんの記憶…。
こんな記憶を背負って、人が生きていけるはずがない!)
これが、シュラク自身が放った最後の感情。
その後は、ミラの記憶の洪水に吞まれ、引き裂かれ、打ち砕かれて…。
朦朧と漂う意識の先に、猛々しい肉付きの、裸の足首が二本。
視線が辿る。
張り詰めた筋肉美の脹脛、そして膝。
雄々しい茂みを越えて引き締まった腰に、鉄板を思わせる盛り上がった胸。
分厚い筋肉の二山が頂く…、顔。
バラドの顔。
厚く熱い腕、そして胸。
荒い息。
息苦しさと、下半身を打ち砕く重い痛み。
幾度となく、炎が弾ける!
鋭い頭痛。
バラバラに縺れ合う、心と体の破壊的な調和。
哀れみと、温もり。
微かな希望。
息の出来ない、絶望。
細やかな安堵。
希望。
安堵。
希望。
そして…、
腹を裂く絶叫!!
痛み!
痛み!
痛み!
痛み!
痛み!
血の海、
深紅に染まるーーー…。
でかい手が、頭上の血の海からにょきと突き出て、ぐいっとシュラクの頭を掴んだ!
「おい!こら!目を覚ませ!死ぬぞ!」
ぐらぐらと頭が揺れた。
「えっ!」
目の前にバラドのぎょろりとした目が二つ、並んでいたと、思う。
世界が滲んで、歪んで、両目が涙でボロボロになっている。
今まで立っていたままだった事を、へたへたとその場に座り込んでしまってから気付いた。
「なんだ、正気じゃないか。
ミラの感情をまともに食らっちまって廃人になんねぇなんて、やっぱお前、凄い奴かもしれねぇな」
腰が抜けたまま、いかつい図体のバラドを仰ぎ見て不意に思い出した!
生々しいバラドの裸身!
(あれは、多分、抱かれた記憶であって…、いや、それは自分ではなくて、ミラの…、えっ!と言うことは、それは、その…)
俯いて顔色を赤へ青へ目まぐるしく変化させているシュラクの顎を、バラドは荒く掴むと、グイっと自分に向かせた。
シュラクの全身が硬直し、音を立てて血の気が引いていくのを、バラドは凍った眼差しで見つめていた。
「人様の記憶を勝手に思い出すんじゃねえ。
お前がティーラーに似ていない奴だったら、とっくに首根っこをへし折っていたぜ。
まあ、遅かれ早かれ、いずれは知る事になるんだろうけどな」
そう言うと眼力の鋭い目を細めて、脅しの効果を確認してシュラクの顎から手を離した。
「そこにいろ。
今度はミラを立ち直らせなくっちゃならねぇ」
細路の突き当りで、ミラは両膝を抱えて細肩を震わせて泣いてた。
あの威厳の漂う、男と見紛う麗人の姿はどこにもなかった。
バラドは傍に寄り、片膝を付いて俯いたミラの頭をでかい両手で包み、優しく上げた。
ミラの涙に濡れ輝く瞳は、今度ははっきりとバラドを捕らえた。
「バラド、赤子の意識が、触れられた手から入り込んできた。
落ちてしまった、お前と私の子の感じに似ていた…。
あの、感じに…。
力強く、鼓動する、あの命に…。
あっ…、あの子の…、あの子の…」
ミラの言葉は、バラドの唇に塞がれた。
それは、情熱でも同情でもない、掛け値なしの愛情と悲しみの口づけ。
シュラクはその場で、事実に震えていた。
「ミラ、立つんだ。
しっかり立って、お前の叔父とやらと対決するんだろ?
な、いつまでも、子どもの事…なんか…、いや、その、あの子の事は忘れろ。
あの子は、あれで、あの子は…」
(何、滅茶苦茶なこと言ってんだ、俺は!)
ミラを抱いていた腕に力が籠る事をなんとか抑え込んで、ミラから体を離し、頬の筋肉を無理矢理持ち上げて笑みを作る。
見え透いた虚勢であるが、バラドはそれしかなす術を知らなかった。
どうする事も出来ず、ミラを慰める言葉さえ見つけられず、自分の力のなさに憤慨し、落ち込んでいる事ぐらい、ミラには読まれているのだから…。
二人の事実を目の当たりにしてしまったシュラクは、まだ震える頭が今度は酷い頭痛に思考が朦朧としている事に舌打ちした。
そして混乱の中、突然ガラスの破片を思い出した!
ミラに立つようにと手を差し伸べるバラドの背が、鮮血に滲んでいる。
シュラクは医師としての自覚をバネに、咄嗟に金縛りの呪縛から自力で抜け出して、バラドに駆け寄っていた。
シュラクとバラドが宿から自分の馬を引いて来るまで、ミラは町外れの穏やかな丘の小さな石碑のある分かれ道で待っていた。
一方はサウムラス国の首都バオムへ、もう一方は国境へとその石碑には刻まれていたが、どちらへも辿り着けない事実にミラは目を閉じた。
ミラが乗ってきた馬は、負担をかけないようにと鞍を外され、目の届く範囲を自由に散策している。
呼べば必ず来る事ぐらい承知しているのだから、もっと羽を伸ばしても良いのにと、ミラは思った。
どんなに自分を高い所へ押しやってみても、結局は脆く、弱く、馬にさえ気を使わせてしまう存在なのだろうかと、ミラは思った。
空を仰ぐ。
天上に張り付く真昼の白い太陽が、視界を焼く。
手を翳すと、紅く透ける指の間を清青の海を緩やかに流れる雲の一群が見える。
(偽りであろうが、現実であろうが、現に私は存在すると言う事か)
ミラは手を下ろし、溜息を細く吐いた。
バラドとシュラクは、それぞれ昼食用の干し肉と野菜を挟んだ硬パンとミルクを下げて来た。
日当たりの良い平地を選んで馬を放し、三人で腰を下ろして昼食を広げた。
バラドは、町へ戻れない可能性を考えて、宿代を払っておいたと言った。
そして、ミラへ、相変わらず食が細いと愚痴る。
叔父を呼び出すのなら、なるべく町から遠く、見晴らしの良い所だな、と意見を合わせた。
目を細めて薄く微笑むミラと、口の中の干し肉がそのまま除く大口で笑うバラドがいた。
シュラクは終始視線をどちらにも合わせる事なく、黙っていた。
道すがら、シュラクが幾度かミラを盗み見ている事をバラドは苦い思いで感じていた。
そこは、打って付けと言えるには若干足場の緩い平地だった。
「元、沼地だった所です。
石が丸みを帯びて、少し苔むしているでしょう?」
シュラクは見れば分かる事をぼそりと言った。
彼にしてみれば、精一杯の言葉だった。
何とか平静を取り繕って、会話の一つぐらいこなしたい彼の、絞り出した言葉であって、乗ってくるはずのバラドはちろりと視線を向けただけで、ミラは無言で頷いただけだった。
「もう少し外れの土の固い所にしょう。
此処では魔法円も書きずらいし、叔父の前で足を取られて無様なところを晒しかねない」
ミラの言葉に、バラドはそそくさと足場を探りに行く。
シュラクもそれに続いた。
鞍を外した馬をそれぞれ放すと、ミラから幾らか離れた木の根にバラドは腰を下ろした。
シュラクはその場で立ったまま、ミラが魔法円を地面に描くのを見つめている。
二人とも、ミラに魔法円やその他様々な知識を与えたのは、外ならぬ叔父のバイルフ聖神官だと夢見で知っていた。
足元に落ちていた朽ちかけた細枝は、ミラの霊気を帯びて緑色に発光する。
迷いもなく滑らせる枝の先から、部屋一つ分の大きさの魔法円が姿を現していく。
シュラクは目で追いながら、読まれないように心を閉じていた。
(バラドの役目と私の存在。
ミラの痛みを体感してから、同情に似た息苦しさが胸の中で疼く。
これが情愛になり得るのなら、やはり私はバラドの代わりで、彼の死期が近い、もしくは…、
まさか?これがティーラー様のプランであって…。
しかし、人を生き駒に使うなど、それは神の領域であって…)
離れた大木の下に腰を下ろしていたバラドの、冷たい笑みを含んだ視線が、シュラクを射る。
背筋がぞわっと波打つ。
バラドは自己感情をガード出来る上に、他人の神経を鋭敏に刺激する。
シュラクは<神読人>だからこそ、彼の恐ろしさが解っていた。
一時程で、別時空を捉える魔法円は完成した。
召喚の古代語が、魔法円中央の美しい人身の唇から流れ出る。
風が耳元でそよぐ程の微かな声。
『招く』形に絡めた、しなやかな両指。
ミラの足元に広がる、細枝で引っ掻いただけの数々の古代文字が、緑に、朱色に輝き、蠢き、波打ちだした。
(始まっちまったな…)
他人事の様に呟くと、バラドは目を閉じた。
魔法円の文字が輝き、ぐらりと空気を身震いさせる。
そして、跳ぶ!
更に、伸び駆け上がる!
文字という文字が、己の責務に目覚め、我先へと輝き天へ遥か高く伸び上がる!
清晴れの青い天井を突き抜け、幾重にも、幾重にも、光の文字は青い天空を貫く!
何処かで耳鳴りに似た雷鳴が轟くと、それは急激に迫ってきた!
ゴゴゴッ…、ゴゴゴゴゴゴォー……!!!
晴空に巨大な亀裂が走る!
空が裂かれる痛みに、苦痛にうごめき、叫び、悲鳴が空間を横殴りに切り裂き走る!
それでも空は歯がゆい程に青いままで、爛れた傷口以外は平常な静寂を保ったままで。
バラドは立ち上がらずに、輝く古代文字の柱に飲まれたミラを、薄く開いた視界から探した。
音がする。
いや、声…か?
ガラガラと何かが、廻る…?音…?
微かだが、鼓膜ではなく、皮膚が感じる、音…?
ミラを包んだ光はやがて、黄金から黄緑、紫から紅へ、黒へ。
めくるめく澱みを見せて無色へ、美しいミラを最も引き立てる純粋な透明な空間へ落ち着いた。
ミラは晧金色の長髪を、吹き上げる風に巻かれながら、遥か上空の裂け目を仰ぎ見ていた。
『随分と大層な窓を作られたようじゃの、我が麗しき凶姫殿は。
我と話がしたくば、呼ぶだけでよろしかったものの力尽くとは、兄者の、貴女の父の血が濃いと見える。
それともミラルーフの凶姫殿は、何か思う事が有っての事かね?』
透き通った蒼い空にはあの巨大な顔は浮かんではいなかったが、耳障りな、勝ち誇りに満ちた上擦った声が、広大な空全体から響き渡る。
シュラクは立ち据えたまま、脅迫感に皮膚が波打っていた。
ふと、隣で胡坐をかいていたバラドが死人の様で、心に何一つ浮かべず空虚な存在で、唯一生存本能によって瞬きする両眼にその情景を映しているのに驚いた。
(心情を消去できるのか?
何のために?
ああ、バイルフに存在を読ませない為なのか?
いったい…)
魔法円の中央で、王族の威厳を輝かすミラの美しい長身は、空を仰ぎ、深く息を吸う。
銀の絃を爪弾く、鋭利な声。
「叔父上の、意図をお聞かせ願いたい。
無関係な大勢の人間の犠牲と釣り合う、私の必要性とは?
心読みに秀でる私にでさえ読ませない、叔父上の目論見とは?
叔父上、お聞かせ頂きたい」
『今更聞いて、どうなると御思いになるのか?
我を刺して逃げた、凶姫殿。
自分の価値を盾に、町人の開放を交渉するつもりであろうが、応じるつもりはない。
貴女は此処で平穏な生涯を送るのだ。
その代償に、忌むべき力を失う。
望んでいなかったとは言わせない。
可愛い貴女がこれ以上心労を背負われるのなら、町民全ての記憶を消すことも出来るが、如何かな?』
ミラがぐっと息を飲む。
顔を上げ、意を決した両眼には、心情をガードしても滲み出る暗い光が宿っていた。
2人の圧気によってか、清空が強張る。
「叔父上は、神々の寵児<神読戦士>ティーラーをご存知でいらっしゃいますね。
彼は、叔父上の設えたこの異空間を、意識だけではありますが、我が物のごとく行き来を可能とし、現状を理解した上で傍観の席に甘んじています。
実際、どれ程の影響を及ぼす力を持っているかは計りかねますが、叔父上を出し抜いている事は明白。
彼の存在は、私に定命を狂わされた為、神々は探知する術を持っておりませんが、彼の動き次第では自ら神々の軍勢を率いて、叔父上が契約を交わした<混沌の魔族>への宣戦布告も可能。
ティーラーの頼みとあらば、神々は喜んで力を貸すでしょう。
そして、<混沌の魔族>の手中にあるとは言え、未覚醒の私の力など知れたもの。
隠し刀にはならず、今の<混沌>の全勢を動員したとしても勝算は皆無。
それは、叔父上こそ身をもってご存知の事。
そして、神々は私という『異端者』を抹殺する」
大気がざわりと不穏に揺らめく。
妙に生暖かい風が、シュラクの頬を掠めた。
ミラは微動だにせず、風の中でしっかりと立ち据えていた。
『我に存在を悟られぬ男ティーラーとな、信じられぬが頷ける。
だが、<混沌>に敵対する者なら、この状況をすぐに神々に伝えるのでは?
今の今まで動かないとは、解せぬ話じゃ。
我を欺くつもりならは、もっと別の手を考えられよ、ミラルーフ姫』
「信じられぬでしょう、実際ティーラーの意図は私にも計りかねるのですが。
このまま私が<混沌の魔族>へ落ちる事を傍観しているとは思えません。
何より、現在の状況には、妙計された重なりが見えては来ませぬか?
叔父上の策略は、ティーラーによって諜計されていたと」
ざわりと空気が蠢く。
瞬時であっても、明らかにこの世界の創造主が動揺した証。
ミラは間髪置かずに、次の言葉を繰り出した。
「よもや、叔父上の手練は結局のところ、神々の意中の事であったのでは」
空がぐらりと傾いた。
バイルフ聖神官の精神そのものの空間は、動揺を隠蔽できずにいた。
『世迷い事であろうと、堅実な事実で在ろうと、我にはそなたの収まったこの<竜眼晶>の所有権がある。
これを持つ限り、私は<混沌の魔族>の保護を受けられる。
それが全世界を壊滅へ導く、最終戦争を引き起こすとしても致しなき事。
かえって貴女の隠匿された力を呼び覚ますのでは?
考えようによっては、貴女の言うティーラーの狙いもそこに在るのかもしれぬぞ。
そうであれば、可笑しなものよ。
我とティーラーは手を結ぶ事も有りえると言う事だ』
ミラの拳が微かに震えているのを、遠くからではあったが、シュラクには見てとれた。
『さて、不毛な会話はこれまでだ、ミラルーフ姫。
貴女は町民の開放を望んでおられるようだが、却下させて頂く。
一生此処に住まわれるのだ、賑やかな方が良いと思うのでな、我からの贈り物だ。
心配は不要、彼らの<竜眼晶>に関する記憶は排除致そう。
話しは此処までだ。
お元気でいられよ、貴女の記憶も出来る限りまで消失―――!』
咄嗟だった!
あまりの素早さにバイルフが言葉を飲む間もなく、それは起こった!
まずミラが垂れた両腕を上げ、額の位置で印を結ぶまさにその瞬間。
無の存在と化していたバラドがガバリと起き上がり、横で棒立ちのシュラクをひっ捕まえ肩に担ぎ、瞬きの速さで魔法円の壁をブチ抜いて、ミラの傍らに踊り着いた。
「……!!!」
バラドの太い腕がミラの細腰を引き寄せ、もう片手はシュラクの二の腕を血が止まる程の力で掴んでいる。
鼓膜を圧迫する凄まじい気圧が空間を千切るスピードでうね狂う。
三人を囲う、蒼に朱に毒々しい色合いを絡めたトンネル状の空間が頭上遥か高くに、三人をさえ吸引する勢いで空圧が吹き上がる!
額の上で印を結んだまま、意識を現世界の叔父に絡み付けたミラの薄く艶やかな唇が、声にならない呪文に震えている。
「シュラク!覚悟しろよ!!」
バラドの喜々とした言葉に、更に二の腕に食い込む太い指の痛みが重なって、シュラクは狂気に似た荒れ狂う意識の空間を突き抜けた。
―――――――――――――
細胞が原子の単位で粉々に砕ける。
手が、背骨が、頭蓋骨が、
血肉の粉となり散らばり、己の意識の狂う様を見定めようと渦を巻き、流れ、絡む。
圧倒的な重気圧が意識を磨り潰す。
(だめかも…)
シュラクが思った時、右の二の腕に激痛が走る!
(バ、ラド…?)
その痛みにシュラクは必死にしがみ付いた。
そして、数年にも、一瞬にも思える無謀な移動の道に、なんとか出口が感じられてきた。
バラドは自身の体が構成を取り戻す過程で、異物の侵入を感じた。
いや、物質の構成の中で、無理やり実体化しようとする自分の細胞の悲鳴を聞いた。
(こりゃまずい!
何か個体の中で実体化しちまえば、俺は死んじまうか、物質と合体したみょうちくりんな怪物になっちまう!
くっそおおおおお!
何だか知らねえが、ぶっ壊してやるっ!)
全精神を動員させながらも、ミラの気を捜した。
(ミラ!
やべぇ!
気を失っしまってる!)
それが異空間でのバラドの最後の思考。
シュラクの事など、毛頭気にも掛からなかったが、腕だけはしっかり掴んでいた。
ガギギギギ…!
バキッ!
ガラン!ガダダン!
現世界で最初に耳に飛び込んで来たのは、強引に毟しり取られた馬車の扉が、無惨に砕け、音高らかに後方へ飛び去って行く音。
そして、ガラガラと猛スピードで石道を駆ける車輪の音。
青緑の景色が、横殴りに吹っ飛ぶ!
猛風が頬を打つ!
息が出来ない!
体が浮いている!
足場がない!
とっさに捕まった扉の縁が、急激に噴出した汗で滑る!
此処は、走る馬車の中。
目の前には、顔だけでしか面識のなかったバイルフ聖神官が、贅沢を誇示する豪華な馬車席で、驚きに見開いた瞳に、今しがた扉をぶち抜いて現れたバラドの巨漢を映していた。
「どっ!どうしたことか!」
「ミラは何処だ!
何処へやった!」
バラドの鬼気迫る剣幕に、バイルフの視線はつっと狭い奥の空き席へ流れた。
「なっっーーー!!」」
バラドの声は声にならず、不意打ちのバイルフの蹴りで、走る馬車から叩き落とされてしまった。
自分の体が地にぶつかり転げる。
岩や石にボコボコに打ちのめされ、骨という骨がギシギシと軋む!
だが、しかし、頭にあるのはミラの姿!
ミラは、ミラは、バイルフの隣の席で、頭だけ。
いや、蒼白の頭と片肩と片腕のみ突き出ていて、その下は!
ああっ!
その下の体は、紅いビロード張りの馬車席に同化していてーー!!
猛速で走り去った馬車の車輪の音が、まだ鼓膜に張り付いている。
(走れば追い付く!)
それは意識のみで、大きな岩胸にしたたかに頭を打ち据えたバラドは、ねじれた姿勢のまま微動だに出来なかった。
薄れゆく意識の残片が聞き覚えのあるシュラクの声を捕らえた。
この場になって、ようやくシュラクの存在を思い出した自分を、バラドは、笑った。
そして、意識は闇へ。