四、哀憐姫
ミラの発作は宿屋の扉を開けた途端に始まった。
ちょうど朝食を拵えていた寝間着姿の下働き娘が、突然の来訪者とその発作の絶叫に、包丁と切りかけの青菜を床に落としてしまい、危うく足指を切断するところだった。
早朝だった。
大抵の家で一番の早起きが目覚める時間になっていた。
バラド達が宿屋を後にしてから2時間弱経っていた。
白目を剝き、残った腕と両足をばたつかせ、苦痛に我を失っているミラを2階の泊まり部屋の寝台へ横たえると、シーツの端を引き裂く。
嚙み締めた歯を無理矢理開かせ、シーツの束を押し込む。
舌を噛ませる訳にはいかない。
銜えさせられた異物のせいで、隣家数件先まで響き渡っていたミラの絶叫は、音量を落とした。
だが、息苦しさに、のたうちまわるミラの動きはさらに激しくなっていく。
待つしかなかった。
ミラの発作は4,5時間で収まるはずだ。
その後、半日から一日程の昏睡状態。
今までと同じだ、そう、今までと…。
暴れるミラを押さえながら、焼けて血に染まった衣類を脱がせると、毛布を掛け長皮鞭で寝台に縛りつける。
苦しさに白目を剥き、激しく首を振るミラの顔を見るに絶えず、バラドはシーツの切れ端でミラに目隠しをした。
毛布からはみ出したミラの左手を握る。
激しい痙攣が伝わる。
バラドはそのまま床に膝を付き、祈るように自分の額にその汗ばんだ手を押し付けた。
ノックの音と同時に部屋の扉が開く。
荒い息のシュラクが、白い医療箱と真新しいシーツとタオルを抱えて飛び入って来たのだ。
「ミラは!これは?何が起こっているのです!」
荷物を手前のテーブルに置くと、窓際のミラの寝台へ駆け寄る。
バラドがゆっくりと、充血した目で振り向いた。
「何を持って来たんだ、ミラには何も役に立たないぞ。
俺は今まで何度もこの状態のミラを見て来ているんだ。
ミラの事はミラ自身に任すしかないんだ」
シュラクは独り言のようなバラドの言葉を聞き流して、ミラの無惨にも肩から千切れた右腕の切り口を覗き込んだ。
やはり、そうだ。
信じられないが、思った通りだった。
ミラの腕は再生しかかっていた。
肉体の蘇生は神々の所業でも禁忌とされている。
唯一の権利者は宇宙創造に携わっていたとされる、<時の女帝メイヤ>のみと謳われているが、それは蘇生ではなく、肉体の時間の逆再生と伝えられていた。
それが、おそらく、目の前の美しい<神読人>の苦痛にのたうち回る肢体で起こっている。
消失した腕の、切り口の空間が見えない。
虹色の夜空の様にも、どろどろに溶けた肉塊の様にも、そしてその奥から白い骨と幾多の血管が伸びている。
おぞましかった。
この禍々しいモノが、本当にあの美しいミラの腕になるのだろうか?
「肉体の蘇生…?再生…?不死?
ミラが<叛命の神読人>と言われる、これが理由なのですか?
なんて事だ…、こんなに酷い苦痛を伴うなんて…」
シュラクは虚ろなバラドの視線の前を横切ると、テーブルの白い医療箱を開けた。
中から数種類の鎮痛剤や麻酔薬、劇薬とされる精神安定の麻薬等を取り出した。
ああ…、そうだった。
バラドは一年前に有り金すべてをはたいて購入した、数々の似たような薬の前で、計り知れない絶望感に沈んだ自分を思い出した。
外に人々が集まって来ている。
ミラの絶叫を聞き付けて来た人達だ。
シュラクは此処に来る途中に、若町長に事の次第を説明していた。
直ぐに彼も此処に来ると言う。
町人の関心はこの町の異変と、世離れしいているミラに有る事ぐらい、読心術を持たないバラドにでさえ解る。
バラドにしてみればこの町の行く末など、どうでもよかった。
今は…、いや、出来ることなら永遠に世界がミラに無関心でいてくれと…。
バラドの口元が、苦い笑いで歪んでいた。
バラドの頼みでシュラクは今一度、若町長の元へ行った。
ミラは右腕に大怪我をした為面会謝絶。
後日、ミラから若町長へ状況の説明をするが、その後町人の集会を開くか否か、又はその内容についての一切を若町長へ託すという内容を伝える為だった。
無責任と言えば無責任だが、バラドには預かり知らぬ事。
ミラの代わりにシュラクが担ぎ出されて町人の的になろうとも、どうでもいい事だった。
そして、実際にそうなる。
シュラクにはたいした説明は出来ない。
竜は倒したが、この町は<竜眼晶>の呪縛から解かれない。
早朝に空に浮かび上がった巨大な人面の持ち主が事の首謀者で、今は手の打ちようがない。
そして、その人面とミラとの関わりと、神がこの状況に無関心な事を悟られないよう、シュラクは顔色を蒼から朱へ、めまぐるしく変えながら、町人の前にさらけ出される。
ミラがこの部屋に担ぎ込まれてから、一時半程経った頃、冷めた遅い朝食を前に、少し離れた中央広場から人々の騒めきが聞こえてきた事で、バラドはそれを確信した。
汗だくになった衣類を部屋の隅の椅子に投げ掛けると、真新しいカバーの晴天の匂い立つ寝台へ、上半身裸のまま倒れ込む。
ルパーグ家の二階に借りている、将来は子ども部屋にするつもりなのだろう、日当たりの良い小さな部屋に、シュラクは帰って来た。
うつ伏せの状態で腹の虫が鳴くのを聞きながら、頭の中で現状の整理をしてみようと試みた。
この三日間、余りにも突拍子もない事実の連続で、その上矢継ぎ早の展開。
町を救いに来たという特異な二人に振り回されて、抗う事も出来ずに何か根本的に不可思議な状態に巻き込まれて行く自分に腹立たしさをこの若い<神読人>は抱いていた。
思考が朦朧としてきた。
一番煮え切らないのは、町人達のはずだ。
不安に押しつぶされそうな顔、顔、顔。
若町長と共に広場の壇上に立った自分は、余りにも無様だった。
今までは<神読人>と賞されていた自分だったが、神々に見放され<叛命の神読人>に付き添う、何とも落ちぶれた身上に力が抜けていくのを感じていた。
いや。
…違う…。
心臓が針を刺さされた痛さで一打する。
血管が、全身が、強張る。
全身がキリキリと締め付けられ、爪先から、指から、石化していく!
(誰か、…いる!)
金縛り。
それは幼い頃、心読みの才能が不安定だった頃に、邪霊に憑りつかれそうになった時以来だった。
息が出来ない!
そして、小型箪笥と鏡の有る壁側に圧倒的な力を纏った『人』の気配。
体が麻痺するにつれ、鋭くなった聴覚と肌の感触で力の元を探ろうとしてみるが、それは人の息遣いで、存在を部屋全体に広げていく。
視覚も異常に敏感になっている事が解るのだが、うつ伏せのままなのでどうにもならない。
自分に腹立だしさがつのる一方、その存在の核は泳ぐ様にシュラクへ近づいてきた。
鏡だ。
鏡は次元の扉に使われる事が多い。
これは部屋隅の姿見から侵入してきたのだろう。
だが、いったい何が?
今朝の、空いっぱいに広がる巨大顔は候補からとうに外してあった。
力のタイプが全く違う。
だからと言って、ミラの重く計り知れないものでも、バラドのように全身全霊から迸るものでもなかった。
何か、余裕の有る抵抗を許さない圧倒さで、シュラクの全身に覆い被さると、意識が眠りの壁に引きずり込まれていく。
髪を燃やす臭いが鼻先を掠める。
哀しみと恐怖の予感が、思考の中で膿の様にぷちぷちと生まれていった。
記憶にない、懐かしい壮大な都を宇宙から見下ろす。
恐ろしいスピードで落ちているらしい。
地上がどんどん迫って来る。
風圧の無い、これは、夢だ。
ぱっと視界が弾けると、自分は地下と思われる窓一つない豪華な部屋にいた。
盲目の老いた数人の召使が、言葉少なく自分の世話をしている。
自分は、少女だった。
誰かの記憶なのだろうか、霞かかった情景から言葉の切れ切れが落ちていく。
「…様。
もう少しお待ちを…。
すぐにいらっしゃいます。
…ミラルーフ…様」
夕炎色の髪を老女の干乾びた手の櫛ですかれながら、青白い肌の影の薄い少女は自分を鏡に見ていた。
その翠微色の瞳は子供らしくない深みを持っていたが、長く整った睫毛に縁どられた瞳の中に、待ちに待った期待の輝きが見えた。
これは、ミラの記憶なのだ。
だが、これに導いたのはミラではなかった。
何故か確信が持てた。
では、誰が?
やがて目の前に、清楚は紺の長上着の男が現れた。
小さな自分はその男に抱え上げられたのか、浮遊感と共に男の顔が目線にまで降りてきた。
ミラの喜びと恐怖は、一つ頭の中でスパークした。
男は、あの顔。
ミラが叔父上と呼んだ、あの男の浮かべる微笑みは邪気の無い聖神官と称えられるのに相応しいものだった。
少女の私が話す言葉がその男の笑みを惜しみなく溢れさせる。
「叔父上様、ようこそ。
私、一週間がこれ程短く思われたのは初めてですのよ。
私、叔父上様に歌を歌って差し上げられますの」
叔父上と呼ばれた気高い聖神官は、細い両眼を更に柔らかく細めると、それは何かと訊ねた。
瞬時、シュラクの脳裏に異国のそれも古代訛りのある六種類もの言葉が、切ないメロディーと共に流れる。
ミラは叔父が訪れる合間の一週間で覚えた、博士達でも舌を巻く至難な古代語六種で、叔父のお気に入りの聖歌を歌った。
叔父は至極喜んだのだろか、ミラにはそれを成し遂げた充実感の方が深く記憶に残っていた。
はっきりと形の整った記憶はその後しばらく見えず。
薄暗い細廊下の着き当たりの青い薔薇の絵や、唯一の外界を見る事が出来る、円形中庭の高く積み上げた煉瓦壁の天窓から覗く、小さな青空。
叔父から七歳の誕生日に贈られた栗毛の駿馬の尾に、珍しい一房の空色の毛。
そして、叔父に贈られた番の歌鳥を放してしまい、中庭の天窓から逃げられてしまった事。
叔父は叱らなかったが、慰めもなかった。
ミラは姫と呼ばれながらも、家族には会えず、円柱型の小さな館に十七歳まで幽閉されていた。
ミラの母親は三歳の時に亡くなった。
母親は出産を機に、精神を病んでしまっていた。
母親の実兄である国王は、不可解な誕生を成したミラの死を望んだが、バイルフ聖神官はこれを神のプランだと偽り、ミラを匿った。
叔父に対して恐怖心を持ったのは、炎に崩壊していく国を脱出して暫くしてからだった。
ミラにとって叔父は恩人であり、唯一の肉親であり、師であり、父であり、初恋の対象であった。
息苦しく、熱かった。
初めて見る地上の都は、赤く爛れた夜空から降り注ぐ数多の燃石で粉々に焼かれていた。
家も、家畜も、人も。
見事な装飾を施された、公共施設や橋、城までも尽きる事無く降りしきる燃える落流石によって、炎の海に飲み込まれていた。
悲鳴やうめき声、肉の焦げる匂いに巻かれて、叔父に連れられ国を脱出したが、その道筋や要した時間など、一切が記憶から消失している。
唯、耐え難い血臭と叫び、肌を焼く痛みを感覚として覚えていた。
豊かな富と複雑な歴史に彩られたシュトラント王国の滅亡。
そしてそれは、自然災害に於いての全滅という括りで、世界の歴史書に記される事になる。
滅亡の真の原因を知ったのは、叔父と脱出後、自分の<神読人>としての能力を叔父によって引き出されてから、叔父の心読みをして初めて知った。
その景色は、はっきりと記憶してある。
故国を脱出してから一ヶ月が経った頃であった。
夏草が瑞々しい輝きで世界を覆う頃。
異国の町外れの深林の木陰で、二人で休んでいいた時、突如叔父の意識が頭に雪崩れ込んできた。
<神読人>と言う特殊な能力をミラから引き出すのに、叔父はさしたる努力を必要としなかった。
叔父自身、生まれながらの特異な能力のせいで、王族ながら神使えの職に甘んじなくてはいけなかった。
だが、その血統は同族のミラに流れている事を察していた。
流れ込んできた叔父の思惑に、ミラは混乱した。
ミラの母親が産んだのは一人の娘だった。
母親の手縫いのおくるみに包まれ、元気な産声を上げていた娘は、産婆が産湯を片付けるわずかな時間に、二人に増えていた。
一つしかないはずの、同じ手作りのおくるみにくるまって。
そして、後から増えたと思われるもう一人の娘は、泣く事もなく、まだ視力の弱い翠微色の両目をしっかりと見開いていた。
その事実はすぐさまバイルフ聖神官の元へ伝えられ、彼は<神>の内密な画策によるものとして緘口令を敷き、増えた方の娘を密かに引き取った。
だが、それは<神>の計画にはない事を、バイルフ聖神官は悟っていた。
道を外れた幼い命を哀れんだのではなく、<神>のプランに属さない特異な存在を手にする為だった。
ミラを育てながら彼は事ある度に、宇宙創世直後に起こった神々の領地(現世界)と混沌の魔族の領地(魔界)とに分けた戦の話をミラに聞かせた。
そして勝利した神々は自身を秩序=正義と、混沌を魔族=悪と呼び、現世界に君臨することとなったのだ。
叔父はその事に、疑問を持っていた。
勝利者がいつも正義とは限らない。
だが、叔父の考えは禁忌とされており、叔父は心に孤独を抱えていた。
彼はミラという<神>にも<混沌>にも属さない彼女を、唯一の同胞として迎えたかったが、ミラの存在に気付いた『シュトラント王国の守護神』がミラを炙り出す為に王国に火の石を降らせた。
<神>の所業に絶望した叔父は、『混沌の魔族』と手を結び、王国の全民の魂はミラの所有権独占の為の貢ぎ物として『混沌』に捧げられた。
全民の魂を喰らい力を増した『混沌の魔族』は『シュトラント王国の守護神』をも喰らい、王国は滅亡する。
叔父の思考を読み、事実を知ったミラはその日の夜、叔父の脇腹を護身用の短剣で刺して逃げだした。
ミラは叔父が思っていた以上に、籠の中で育った世間知らずの娘だった。
王国全民の殺戮が自分の存在故の事実に耐えられなかった。
初恋だった叔父の存在が『混沌の魔族』と重なり禍々しく思えた。
そしてそれ以上に、自分自身の存在が忌まわしく、不条理で、汚らしかった。
ミラはその後二年近くを<神>と<混沌>の追跡を逃れ彷徨った。
微かな希望を持って。
自分の存在理由を解き明かしてくれる人物がいるはずだと。
そして、神々の寵児<神読戦士>ティーラーに出会う。
ティーラーの記憶は、歪んだ精神が見せる白昼夢に似ていた。
シュラクと呼ばれる、自分がいた。
いや、自分ではなく、自分の肉体に百年後の自分の瞳を移植した自分がいた。
ミラの記憶のティーラーは確かに自分の容姿に似てはいるが、全くの異能者。
姿が似ている分、自分ではない自分と対峙した恐怖をシュラクは感じた。
涼やかに微笑む自分の顔。
荒れ狂う<世界創世の魔神>
それは、岩の体に五つの眼を持つ、牛に似た頭を頂き、破壊意志のみで動く。
世界創世時に排出された反動体、<不>のエネルギー体だった。
月光に淡白く、浮き上がる自分の横顔。
火焔に崩れ落ちる、異国の神殿。
眼球を腐らす異臭。
叫び。
祈り。
叫び。
月風にそよぐティーラーの黒髪は、肩にかかる程の長さをきらめかせ、低温の艶めいた声色でミラに語り掛けた。
爆音。
粉々に飛び散るティーラーの肉体。
<不の魔神>に絡みつく<双頭の巨蛇>。
燃える空を貫く咆哮。
そして、天へ吹き上がる飛沫。
ティーラーの精神を宿したままの<双頭の巨蛇>は<不の魔神>に絡み付いたまま、広大な沼へと沈む。
その後も矢継ぎ早にビジョンが閃き、消滅していった。
夢の終わりを感じる。
朧げに掠れゆく記憶の欠片に、バラドの存在がそこかしこに揺らめく。
そして、下腹部に激しい激痛と、気も狂わんばかりの絶望に目覚めた。
体を捻じる。
天井が、回る。
天井の夜雲を描いたような染みも、勢い良く回る。
固めのマットレスが、ぬめぬめと波打つ感覚。
じっとりと体に張り付くのは、沼底のヘドロではなく、今朝替えたばかりの洗い晒しのシーツだった。
胃から食道へ、泥水が逆流する様な吐き気。
ありもしない下腹部の激痛の記憶と、脳を圧迫する悲しみが天井の染みと一緒に渦巻く。
シュラクは枕の脇のタオルに顔を埋めると、殆ど有るはずのない胃の中の物を吐いた。
朝日かと思った。
瞼の裏が紅く透けている。
全身に鉛の重さを感じながら、ミラは腫れぼったい瞼を開いた。
炎が揺らめく。
その奥の薄闇に、バラドの顔も紅く揺れる。
朝日かと思ったそれは、バラドが翳した一本の蝋燭の火だった。
「目が覚めたか?
どんな感じだ?」
バラドの声は音として正確に耳に届いたが、理解できない。
薄闇の部屋。
締め切ったカーテンの綻びから射す光は、輝紅色に伸びる夕日の最後の一光だった。
蠟燭を脇のテーブルに置いて、息がかかる程身を乗り出したバラドの安堵の笑みが、ミラを無条件に安心させる。
バラドは決して美男子ではないが、不細工にも程遠い顔立ちである。
肩で乱切りされた黒髪。
濃い顔立ちに、筋肉の盛り上がった恰幅の良い体躯。
土と血の匂い。
生粋の山盗賊の血筋を受け継ぐこの男の笑みは、ミラに対してのみ、甘酸っぱい少年の笑顔になる。
「喉は乾かないか?
水ならあるぞ。
痛みはどうだ?
まだひどいのか?
俺がいてやる。
もうすぐ夜になる。
もうなにも起こらないさ。
ぐっすり眠れ」
ミラを気遣ってゆっくり話すバラドの言葉は、朦朧とするミラには理解出来なかったが、声は耳に心地良かった。
心読みも出来ない。
完全な回復は、明日以降だと思った。
喉がひりひりと乾いていた。
「…水を…」
バラドが小さなグラスに、水差しから水を注ぐのが見える。
バラドの手からグラスを受け取ろうと手を、右手を差し伸ばす。
白く、幼い肌の腕。
右手指先から肩にかけて、激痛が走る。
ミラの薄い眉が苦痛に歪む。
バラドはグラスの水を口に含み、ミラの口を塞いだ。
口移しで、ミラの細喉が波打つ。
繊細に、緩やかに、バラドの肉厚の唇から冷たい水がミラの喉を潤してゆく。
いつの事だったか。
ミラは記憶の底にある、荒々しいバラドの唇を思い出していた。
今は、どうなのだろう…。
バラドの唇の感触に、記憶が一つ一つ、重い頭を上げていく。
「なあ、ミラ、…いや。
他人の心が読めないのも、たまにはいいだろう?
もうひと寝入れば元に戻るさ。
何も考えるな。
すべては目覚めてからだ」
そう言うと、布団から覗いたミラの白い右腕を、壊れ物を扱う気遣いでそっと布団の中へ戻した。
「安心しろ。
きれいな腕だぜ…」
バラドの言葉にミラはそっと微笑んだ。
心が読めないミラは、耳が聞こえない事と同じ不安に苛まれる。
だから、目の前のバラドだけが確かな存在になり、硬いガードで隠す事のない無防備な笑みを零してしまう。
バラドにはそれがたまらなく愛おしく、たまらなく哀しかった。
「…爪が、爪が伸びていたな。
後で手入れの道具を持ってきてやる」
「爪…が?」
「ああ、折れないように気を付けろ」
「あの時と同じ…。
再生の時の…」
バラドが掛け直した布団の下で、ミラの細肩が小さく震えていた。
窓の外では、夜の蒼が町を覆っていく。
やがて、夜闇の重苦しさに静寂が軋む眠りの刻が訪れる。
ミラの寝台の傍らで細い皮紐を幾重にも編み込んで、新しい長鞭を作っていたバラドも、長椅子に凭れてゆるく船を漕ぎ始めた。
沈黙と穏やかな静寂。
町全体を押し包む不穏な空気を感じる事なく、ミラはこの町での最後の夜に沈んでいた。
ミラが目覚めた時、バラドの姿はなかった。
体が軽い。
右腕には若干の痺れが残っているだけで、何の支障もない。
腐った色に似た白い指も動く。
爪は綺麗に切り揃えられていた。
そして、脳に直接響いて来るあの雑声。
忌々しいあの能力も回復していた。
下着が湿っていた。
湯浴みの用意を頼む言葉を考えながら寝台から足を下ろすその時、突然扉が開き、離乳食めいた朝食を持ったシュラクが入って来た。
「ノックぐらいして頂きたかったですね。
此処は女性の寝室ですよ」
汗にしっとりとミラの肌に張り付いた白い下着が、形の良い乳房を浮き彫りにしている。
「しっ、失礼しました!
考え事を…、考え事をしていたので…」
朝食を乗せた盆が、ガタガタと弾む。
やり場のない視線をミラの周りのあちらこちらに走らせながら、覚束ない動作でどうにか部屋中央のテーブルに食事を並べ終えると、恐る恐るミラへと視線を上げてみる。
初めて逢った時に着用していた夜闇色のケープを下着の上に直に羽織った彼女が、哀憫の情を湛えた眼差しでシュラクを見つめていた。
「そんなにいっぺんに質問しないで欲しい。
貴方の頭の中には、私に対する『言葉』で一杯だ。
少しはセーブして頂けないか?
それが出来ないのなら出て行って欲しい。
私は完全に復活した訳ではない。
ダメージが強すぎる」
ミラの苦しげな言葉はシュラクを狼狽させた。
(何がどう聞こえたんだ?
腕の再生の事か?
空いっぱいに映し出された男の事か?
それとも…
いや、あれは夢だ。
ただの夢だ)
「いいえ、シュラク。
貴方は過去見をさせられた。
酷い顔色だ。
…彼の…、
ティーラーの仕業ですね」
テーブルの脇で直立不動のシュラクへ、ミラは闇色のフードの裾を緩やかに波打たせて歩み寄って来た。
やや縺れた長い晧金色の髪が、開かれたカーテンから差し込む白い朝日にキラキラと流れる。
闇色の裾から細やかな両の腕が上がり、シュラクの頬に触れようと、だが、触れるまでもいかず、肩を強張らせるシュラクへ微笑み、微かに首を傾げた。
シュラクはミラの濡れた瞳は自分を見ていない事は解っていたが、それでもミラの存在が近くなっている事に心臓が波打つ。
「私の過去見をしたのですね。
貴方に良く似た、しかし、全く異能な彼の仕業です。
意図は解りません。
そして、私の再生能力については、誰にも解りません」
そう言い切ったミラは両腕を下ろすと、シュラクの持って来た朝食に目を止めた。
シュラクが作ったのだろう、湯気の立つすっかり煮込まれた粥の中には、数種類の薬草が見て取れた。
薬類の効果の無い事を知りながら、作らずにはいられなかったのだ。
「ありがとうシュラク。
後程頂きます。
…バラドが帰って来たようだな」
ミラの言葉に扉の方へ意識を集中させる必要のない程の、大雑把な足音が下から響いて来た。
「ミラ!
起きたか?」
ノックの代わりに大声で喚くと、勢いよく開いた戸口から純白の花々が溢れ出る。
数十本の白い花の中から、バラドのやや赤らんだ顔が覗く。
照れ臭さに歪んだ口元がシュラクの存在を認識した瞬間、舌打ちを漏らした。
「あんのばばあ、適当に切ってくれって言ったら、こんなに長く切りやがって!
これじゃ花瓶に入らねえ!」
体に似つかわしい大振りの白い花束をご大層に抱え直して、きょろきょろと部屋を見回した。
「バラド、そもそもこの部屋には花瓶など無いが」
ミラの言葉は、どこか冷たい。
バラドもミラと視線を合わそうとしない。
傍らに立つシュラクには、この名も知らぬ白い花々が、華やかさよりも鋭利な氷の刃となってこの部屋を切り裂いている様に見える。
何故?
何かが…、思い出そうにも掠れている。
白い花に絡み付く、痛みの…、記憶。
「ミラ、湯の支度を頼んである。
呼びに来るはずだ。
それまで…、おっ!旨そうなのがあるじゃねえか。
こいつが持ってきたのか?
食えるなら食っておけ、…そのほうがいい」
「バラド、その花を、どうするつもりだ?」
「そうだな、お前の湯に浮かべるってのはどうだ?
キレイだぜ、きっと。
香りもいいし、名前は知らんが花には変わらねえや。
朝一番によ、今話題の竜退治の男が花買いに来たってので、店のばあさん腰抜かしちまってよ、それで、白い花全部くれって言ったら大騒ぎになって…」
「もういい、バラド」
ミラの声は恐ろしく冷たかったが、シュラクに向けられた瞳には何もなく、空虚であった。
「シュラク、申し訳ないが席を外して頂きたい。
バラドは私に話があるようだ」
「いや、待てよ、出ていく事はないさ。
ここにいろよ」
可憐な白い花束を、筋肉質の太い腕に抱えたバラドは、その太い首を回してシュラクを舐め見た。
「お前も見せられたんだろ?
酷い顔色だぜ。
やはりそうきたか。
俺の、後釜に、選ばれたって訳だ」
「後釜?」
「ああ、俺の替わりだ。
じゃ、まっ、ミラの事よろしくってなわけにいかねーんでよ!
俺は人の過去を勝手に他人に見せる奴は大嫌いだしよ!
そーゆー奴の言いなりになんかならねーんだよ!」
吐き捨てたバラドの口元から、鋭い犬歯がのぞく。
幾多の白い花の匂いが嗅覚を狂わす。
「お前!
お前が見た夢はミラの記憶だ!
俺も見せられたぜ、ひでーもんだろ!
情が移るだろう?
だがな、勝手に暴かれたミラはどーなる?
ティーラー様だろうが何様だろうが、俺は許さねえー!
ちきしょう!
だからだな!
俺が目障りになったんだ!」
バラドは言葉の出ないシュラクと凍り付いた表情のミラの間に割って入ると、花束から小振りな二本を引き抜き、残りを寝台へ放り投げた。
「ミラ。
あの時は小さな白い野花が二つだけだったけな。
花が違っても俺の気持はあの時と変わらねえ。
…ミラ。
この町でもう一度、やってみないか?
お前の叔父の話が本当なら、お前はこの町で、普通に生きていけるんだろ?
お前の叔父がお前の能力を吸収して何をしたいかなんて知らんが、お前には何の責任もない!
お前が背負う事じゃないんだ!
…お前も薄々勘づいているはずだ。
俺の命は、たぶん、ここまでだ。
ティーラーの奴が代理をこそらえやがった。
俺は、俺はな。
ずたずたに切り裂かれても苦痛と再生を繰り返して、その上、頼みもしない能力のお陰で、追い立てられるお前を置いて先に死ぬつもりはない!
俺は、普通に、ありきたりな一生を終えて死んでいくお前を看取って、死ぬんだ」
ミラはバラドの、擦り傷だらけの手に握られた花を見つめていたが、つっと顔を上げ、バラドと視線を合わせた。
「バラド、すまない。
私はティーラーをあの沼から解放しなくてはいけない。
私のせいで、彼の運命が狂ってしまった。
この世界に逃げ込む訳にはいかない」
「あいつをまだ信じているのか?
そこのシュラクを見ろ!
お前は解っていたはずだ、こいつに逢った時から。
ティーラーはこの事態を予測していた。
神々が無視する程度の些細な事件だ。
この期に乗じて自分にそっくりなこいつを引き合わせ、俺を代わりに消去するつもりだろう。
要するに俺はティーラーの思惑以上にお前と関わりすぎたって事だろ!」
シュラクは全身の気力を振り絞って、後ずさった。
バラドの静かに放つ猛烈な憤りの『気』が、びりびりと全身の皮膚に突き刺さる。
そして、自分にいつの間にか絡み付いた<双頭の巨蛇>のイメージに恐怖した。
(ティーラー様は神々の寵児でいらっしゃる。
間違った事はなさらないはずだ)
心の中で、呪文のように繰り返し唱える。
「ティーラーはお前の覚醒を望んでいないと言いながら、お前を手放す気はないんだろ?
俺とお前を巡り合わせたのも、あいつの仕業だとしても、俺はあいつの手の上で遊んでやる気はねえし、ましてや、自分に似たヤツを宛がって束縛しようなんてな、俺は気に食わねえんだ!
この事態にしたって、ヤツがお前を試す為に最初っから仕込んだんじゃねえのか!」
「言うな!バラド!」
ミラの鋭い叱咤に、バラドは言葉を飲んだ。
朝の冷たく澄んだ空気が割れる。
沈黙。
何もかも、解りきっている、沈黙。
そして…、
「…すまねえ…、まったく…、俺が言い過ぎた。
俺は、こんな朝っぱらに花なんか買っちまって、病み上がりの女に求婚しに来たんだ…。
立会人もいるしな…」
バラドは白い花を手に持ったまま、ミラの美しい肢体を引き寄せて抱きすくめる。
ミラは動かない。
バラドの分厚い胸にミラは額を当てた。
「バラド、すまない。
今の私にはティーラーの考えも、叔父上の考えも、自分の考えも解っていない。
酷く、混乱している。
私はティーラーを疑いたくない。
だけど、その反面、唯一確かなお前に全て委ねてしまえば、どれ程幸せかという事も知っている。
バラド、私は叔父上と話を付けなくては。
私の身柄を条件にこの町を元に戻し、よしんばティーラーを沼から開放出来るのなら、私はどうなってもかまわない。
もともと、…あってはならない、存在だ」
「ミラ、やめてくれ、お前はお前だ。
幸せになる事を考えろ。
神々だって好き勝手にやってるじゃねえか、そんな奴らに振り回されてたまるか!
俺がいる。
俺が守ってやる。
俺じゃあ、だめなのか?」
バラドはミラの背に回していた両手をぎこちない動きで解くと、ミラに白い花を握らせて部屋を出て行った。
後には、手にした花を見つめたままのミラと、昨日の夢の続きに更に混乱したシュラクが残された。
若町長の家まで馬で幾らもかからないのだが、シュラクはあえて徒歩を選んだ。
考えたい事が山程有った。
まずは現状について。
この町が<竜眼晶>に閉じ込められたのは、ミラの叔父のバイルフの仕業で、町の行く末は、ミラとの交渉如何によるものと思われる。
その場合、代償となるのはミラ自身だ。
次に、ティーラー様の存在。
あのお方がこの事態、もしくは自分に関わっているとすると、バラドの言う通りこの状況の仕掛けは彼なのか?
いや、まさか。
バラドの言葉は猜疑心、もしくは嫉妬から出た憶測でしかない。
だが、綺麗に噛み合うポイントが多いのも確かだ。
ティーラー様に瓜二つの私をミラに引き合わせ、ミラにバラドかティーラー様かの選択を迫るには、この舞台はあまりにも出来すぎではないか?
事実、私はミラの過去見をしてから、酷く同情心が湧き上がるのを覚えた。
バラドも見せられたと言っていたが、同情が愛情に取って代わるのは不思議な事ではない。
バラドの替わりとは、こういう事なのか?
だから、バラドの死期が近いと言うのだろうか?
彼がミラを強く愛してしまったからなのか?
ティーラー様はミラをコントロールしたがっている様に思える。
何故なのか?
いや、違う。
それではまるで、あのバイルフでさえティーラー様が操っている事になる。
無関係の町民を危険にさらしてまで…、まさか、そんなはずはない…
「よう!色男!」
背後から掛けられた声に、自分でも驚く程飛び上がってしまった。
振り向くとそこに、朝にしては静まり返った煉瓦敷きの店街道に、場違いな盗賊を思わせるバラドが、いつものにやついた口許で立っていた。
「この町の偉いヤツに会いに行くんだろ?
昨日の集会の成果かね、朝だって言うのに人っ子一人出て来ないな。
竜の眼ん玉に閉じ込められているって聞かされりゃ、無理もねえけどな」
「バラド、そんな大声で、増々刺激してしまいますよ。
皆過敏になっているんですから、気を付けて下さい」
「そりゃどーも。
さっきの花屋の連中も、随分びくついていたしな。
だがな、神経過敏なのはシュラク、お前もだろ?」
先程の宿での刺す様な圧気は微塵もなく。
にやついた笑みのままでバラドは大股でシュラクに並んだ。
「ミラはどうした?
湯に入ったのか?
あの花をどうしてた?」
「ミラは花を花瓶に生ける様に宿に頼んで、湯に行かれました。
私はすぐに出て来ましたので、それからは知りません。
じきに来るのではないですか?」
「へっ、さすがに冷たいもんだ。
考え事を邪魔されたのが、そんなに気に入らねえか」
「そんなんじゃないです。
あなた方は何もかも承知の様ですが、私にはさっぱりわからない。
私がティーラー様の身代わりなどと、偶然似ていただけではないですか?」
「そうだよ。
似ていて、自分より劣っている者を選ぶのは世の常だ。
俺の様に、あいつより男前で腕っ節がいいと、ミラをかっ攫われるのがおちだからだ。
へっ、他にご質問は?色男殿」
「では、ミラがあなたと此処に留まれば、ティーラー様の意に反する事になりますね」
「うん、そうだな」
バラドは道沿いに生え並んでいる枯れかかった葉の茎を毟ると、口元へ、歯間の掃除を始めた。
シュラクがむっと膨れたのを、横目で笑う。
「ミラはあなたと此処に留まると思いますか?」
「それはねぇだろう。
あれは俺の悪足掻きだ。
出来るだけミラの記憶に残りたかっただけだ。
まあ、記憶はティーラーに消されちまうかな。
そして俺は死ぬ。
お払い箱さ」
「バラド、あの白い花にはどのような意味が有るのですか?」
バラドは葉茎を咥えたまま空を見ていたかと思うと、はっとシュラクを見据えた。
「お前、それは夢で見せられなかったのか?」
「いえ…。
白い花は確かに有りましたが、何かに遮られているようでした。
それに、下腹部の酷い痛みと、絶望の入り混ざった何かが私を拒んで、私を押し戻そうとしていました」
バラドはシュラクに合わせていた歩調を、いつの間にか緩めていた。
葉茎は口元になかった。
じっと足元の敷煉瓦を見つめている。
「バラド、あの酷い痛みは何なのですか?
私自身一晩中苦しみました。
あれは、いったい…」
「白い花は、一年前、俺が求婚した時に渡したんだ。
ミラはあの時の記憶を、お前にも、ティーラーにも、触れさせたくないんだな。
それだけ解ればいつ死んでもいいような気がしてくるぜ。
腹の痛みってのは、あれだな。
あの酷い事件はいつか話してやる。
俺がいよいよ死ぬって時にでもな」
バラドの歩調はいつの間にか、シュラクのそれよりも快活なものになっていた。
「若町長の家に行くんだろ。昨日は大変だったな。
町の奴らをどんな話で丸め込んだんだ?」
「はぁ…、丸め込んだなんて…、まあ、それに近いと言えますが…。
神々がこの町を捨てたなどと言えませんでした。
だから、ミラが神に遣わされた方だと、神の力を持って<竜眼晶>の呪縛からこの町を開放すると言ってしまいました。
もちろん、バイルフとの関わりは伏せて有ります。
あの男は、竜を操っている悪い魔法使いとしてあります。
但し、若町長にだけは本当の関係を話しておきました。
町の開放の鍵は、ミラに有ると」
「老町長の事は言わなかったのか?
たぶん、もう、死んじまってるぜ」
「そんな、まさか…」
「俺の勘だがな。
ミラに調べてもらえばわかるさ」
そう言うと、不謹慎にも足取りも軽く、バラドはシュラクの前を歩く。
シュラクは声にならない溜息を青い空へ流した。
頬に触れる、微かに冷たい秋風。
薄く掠れた雲の一群が、緩やかに風に絡まりながら遠ざかっていく。
この朝の透き通った空気が、疑い物だとは思いたくなかった。




