三、望郷の導師
早朝と言うには無理がある、薄闇の林道を三人の馬人が早足で駆ける。
寝ぼけぎみの山鳥が、起こされた事にぎゃあぎゃあ鳴く。
冷たく透き通った秋風が肌を刺す。
吐く息が白めく。
そこは、穏やかな傾斜の深い林道。
枝々の間、朝霧の彼方には二晩前には紅く燃え上がった山の峰が、見え隠れする。
竜はいるのだろう。
自分の作った世界なのだから、動き回る異物など、砂場の蟻程に見つけるのは容易いはずだった。
道は次第に険しくなり、斜面は傾きを増し、狭まっていく。
「馬はここまでだな」
ミラがひらりと馬から降りると、バラドも瞬間遅れで下馬する。
そして振り返ると、シュラクは乗馬のまま船を漕ぎ漕ぎ、あらぬ方向へと進んでいた。
「まあ、無理からぬ事だが、意外に図太いのだろうか…。
バラド、すまないがシュラクを起してやってくれないか」
ミラの溜息を知らずに、岩石だらけの細道をシュラクとその馬は無理矢理進んでいく。
「俺としては、このまま『さよなら』が大歓迎なんだけどなぁ」
そう言いつつ、一つ小石を拾うとシュラクの頭上めがけて投げた。
それはシュラクに、ではなく、シュラクの頭の上、たわわに実らせた小粒の木の実に当たってそれを落とした。
シュラクの頭へ。
鳥たちが、きいきい騒ぎ立てる。
バラドとシュラクの罵り合いに目を覚ました鳥達であって、まだ一番鳴きには早すぎる時間であった。
足場は更に悪くなり、道もいつしか獣道へと変わっていた。
ミラとしては、朝に開かれる町人の集会までに片を付けるつもりでいるが、難のない道程に疑惑めいた不安が鬱積していく。
高く茂った枝の間から見える竜の山は、その荒い峰肌を青黒い朝空にどんよりと漂わせている。
何処からか、甘酸っぱい花の香りが流れてきた。
バラドは眉間に皺を寄せて、辺りを見渡す。
「これは、あれだ、えっと名前忘れたけど、あの花の匂いだな。
でもこれはもっと南の、しかも春の花だぞ。
妙な感じだな」
バラドがいぶかしげに周りを見渡すと、なにやら白い粒状のモノがはらはらと落ちてきた。
それはみるみるうちに、大量に、視界いっぱいを埋め尽くす純白のベールとなって三人を覆いつくす。
「ミラ、これは雪なのでは?
冷たくもなんともないけれど、雪だ」
シュラクの問いにミラはやや首を傾げながら、左手の平で雪を受け止めていた。
そして、その手を頭上へ、ひらりと一振りする。
その位置から横四方一面に、透明の輝く板状の空間が現れ、そこから下へは雪は降らなくなった。
「これで私達の行く先での雪の心配はない。
姿なき花の香りと、冷たくはない雪。
これは竜の夢なのでしょう。
夢を見ているという事は、先日受けたダメージが余程効いたようだが、起きてくれない事には一戦交える事も出来ない。
少し暴れて竜を起すとしましょうか」
そう言うとミラは、真白にけぶる木々の彼方の頂きに目を細めた。
確かに、竜の気配は微少だ。
小さすぎるくらいだ。
こんな微力の竜に、はたして<竜眼晶>に町一つを取り込む芸当が出来るだろうか。
ミラの様子に気付いたのか、バラドが曇りがちな面立ちでミラの傍らに寄る。
「俺な、引っかかるんだが。
あの老町長の家の鍵な、最初に俺達が言った時には鍵が掛かってなかっただろ、なのに、<竜眼晶>に吸い込まれちまった後、この町のもんが行った時は中から鍵が掛かっていた。
昨日あの家に行った時、鍵穴はきれいなもんだったけど、その前の日、あのじいさんに頼まれた日な、あの時の鍵穴の周りには何かこじ開けたような、引っ搔き傷があったんだ、これって…」
突然ミラの見開いた真っ直ぐな視線に、バラドは言葉を詰まらせた。
「バラド、私達の前に誰かが訪れていた。
<竜眼晶>に町が吸い込まれてから私達が行くまでの三日間、その間に誰かが鍵を壊してあの家に入って来た事になる。
だけど、老町長の記憶には何もなかった。
何者かがこの事態に関与しているのであれば、私の手に負えないかもしれない。
私にはその存在が感知できなかった。
もしそうなら…」
無表情のまま、バラドを真っすぐに見つめるミラ。
その透き通った翠微色の瞳には、不安が揺れていた。
バラドは両肩を窄めると、大袈裟にその太い眉毛をㇵの字に寄せる。
「まっ、二、三日で片を付ける約束だったから、のんびり行こうや。
解らないモン考えたってしょうがない。
まずは、竜殿にご挨拶してからだ」
そう言うと、後方のシュラクへ、上半身のみ振り返ると、ニッカリとガタガタの歯を見せる。
が、しかし、<神読人>の貴公子には、笑みを返す余裕などなかった。
すでに<神>に見放された現状において、神々の畏怖する<叛命の神読人>の手に負えない事になれば、すなわち、絶望と言うしかない。
ミラの心を閉ざした冷静さに、考えてもみなかった不安が一気に湧き上がってくる。
(自分に出来る事なんか、ないのでは…)
三人の頭上では、先程ミラが放った輝く架空の空間(二次形態なのであろうか)が、振りしきる夢の雪を遮断している。
見上げたそれは、薄いガラスの板が浮かんでいるようだが、手で触れられる程に低く、気の遠くなる程に頭上高く。
そして、何処までも広く、または三人の頭上のみの存在であった。
ミラが穏やかな仕草で、黒絹織りの長めの袖口から、晧白に透き通る細指を高くかざすと、輝く透明な二次空間は、金属の軋む音を発して、高速で旋回し始めた。
「この空間は言わば竜の夢の傷だ。
この傷を広げてみる。
竜が目を覚ましてくれれば良いが」
ミラが力を感じさせない動きで、上げた腕を下ろした途端、旋回する輝く空間は金属音をさらに増し、ブンと唸ると、瞬間移動のスピードで彼方へ、近くへ、不規則に雪空を切り裂いた。
突如、錆び付いた弦を引っ搔いた様な悲鳴が、辺りを駆ける。
同時に、彼方を高速で旋回していた輝く空間が、バチリと銀の破片となって砕け散った。
視界が深紅に歪む。
ぐらりと地面が崩れ、足元に何もない感触。
空中に漂う。
又は、硬質ゼリー状の空気に包まれ、捩じり潰される感触が三人を襲った。
空は、紅く。
大地も、赤かった。
何処までも果てしない、赤い砂漠と、あり得ない近さに、あり得ない強大さを誇る太陽が、血走った巨人の目玉の様に浮かんでいる。
空気は熱で炙られ、歪んでいる。
先程までの雪けぶる山景色とは、どちらが幻なのか。
この赤い世界も、又確固たる存在感で三人の前に広がった。
バラドは、すっと息を吸う。
竜の気、方角、接近戦での速度と間合いを、五感を巡らせ、幾通りものシミュレーションを体に刻む。
そしてー、身を隠す場所等何処にもない。
ここは竜の夢の中。
ここでは竜は創造神となる。
「随分と寂しいとこだな、此処は。
それに、なんだぁこれは、硫黄のにおいだなぁ」
野生並みに匂いに敏感なバラドが鼻をひくひくさせる。
硫黄と言っても、小山一つ、煙一つ見当たらない。
「竜の記憶だろうが、あまりにも太古過ぎる。
匂い自体は、竜盛期前半の活火山だろうが、景色は生命創世記初期だな。
但し、気温は百度を超えるはずだが、温度を感じない。
先程の冷たさを感じない雪と同じく、匂いには敏感だが温度感のない竜の記憶だ」
ミラの話を聞き流しながら、バラドは竜とのファイティンググラウンドになるこの土地の情報を、体に流し込む。
土のクッション度。
不毛の赤砂漠の所々に突き出た鋭利な岩。
そしてその位置。
身を隠す場所がほとんどない為、頼りになるのは太陽の位置。
太陽を背に、目くらましをかける事が出来る。
大抵いつも主な動きをするのは、バラドである。
彼はその体が覚えた情報を元に、直感で動く。
思考という作業のない彼の動きは、心読みをするミラにとって脅威だった。
空気が揺らめく。
「バラド。
この世界と竜自体は、唯の夢だ。
竜の左目だけを潰せ!」
ド!ド!ドン!と大地が揺れる。
突如、三人の目の前に巨炎竜が、燃え上がる巨大な両翼を広げる。
その巨体を、渦巻く雷雲のスケールでのたくらせていた。
ゴオーと大気を揺るがす轟音が、三人の耳を圧迫するが、竜出現に伴う劇的要素が乏しかったのか、竜の紅くチョロチョロと蠢く炎の舌や、グロテスクに血走った巨眼がすぐ目の前に迫っているにも拘わらず、三人の動きに微かなズレが生じた。
ジャッ!と空気を切り裂く鋭い音が、三人のいる場所で炸裂する。
黄金に輝く巨大な刃が、今しがた三人のいた赤土に深く食い込む。
それは竜の尾の先だが、サソリの毒刃にも似た、まっとうな竜にはあり得ない代物だ。
但し、スケールが違う。
尾の末端と言えども、大人五人が両腕を広げて何とか間に合う太さだ。
咄嗟にその場から飛び逃げた三人だったが、身を隠す場所などない。
巨炎竜は赤い大地に突き立てた尾をブルッと揺るがすと、地を裂く勢いで引き抜き、遥か頭上へ振り上げる。
そして、轟く咆哮と共に大気を炸裂させ凄まじい勢いで振り下ろす。
シュラクめがけて!
バラドが、ミラが、弾かれた様に走る!
間一髪でミラがシュラクの腕を掴み、地を蹴る!
見事な跳躍。
大人二人分に掛かる重力を無視した、優美な半径を描いて、屋根一つ分の距離を軽々と飛んで見せた。
ドドン!と突き立てられた巨尾刃は、砕けた赤岩石の破片をばら撒きながら、ブン!とその身を引き抜く。
高く振り上げられた尾と同じく、少し距離を置いていたバラドの体も頭上高く舞い上がる。
手には愛用の、異常に長い鞭を握りしめている。
前と同じ戦法だ。
鞭先の鉤を、巨炎竜の尾の鱗に掛けている。
竜の振り上げる反動を利用して、己を高く舞い上げた。
竜も尾先の異物に気付いたのだろう、一声叫ぶやガッと開いた巨大な燃える口を、バラド目掛けて突き出して来た。
バラドの目前に、無数の鋭利な牙が迫る!
「けっ!歯並びの良いことで!
虫歯がないか、見てやるぜ!」
高く舞い上がったバラドが重力に絡み取られる瞬間、尾に掛けていた命綱とも言える鞭から手を離すと、腰からもう一本の長い鞭を閃かす。
竜の上唇に生えている角に巻き付けると、重力と振り上げる竜の力でやや斜めに降下すると、穏やかに半円を描きつつ上昇、ふわりと竜の耳の裏に着地した。
そこはミラから遥かに高く、一山の頂の高さに相当する。
バラドが身を託しているのは燃え盛る竜の耳、足元は炎を噴き上げる鱗だ。
竜は頭上の異物を振り払おうとヒステリックに奇声を上げ、火の粉を振り巻き首を振り回すが、竜の耳に自身を固定したバラドは動ぜず、子どもじみた笑みを浮かべていた。
暑さも、空気の薄さも、感じない。
ミラが夢だと言ったのだから、バラドにとってここは夢以外何ものでもなかった。
バラドがミラに寄せる信用は、信仰に価する。
万が一、夢ではないとミラを疑えば、視覚が捉える炎の情報に、バラドの体は一瞬で火を噴くのだろうが、それさえもバラドは一欠けらも考える事はなかった。
一方、竜の足元、僅かに離れた所にミラとシュラクがいた。
ミラはバラドの動きを確認するでもなく、そのアラバスター色のしなやかな指先から、青淡に輝く光を一筋放つと、その美しさに見とれていたシュラクの頭上に鮮やかな速さで魔法円を描く。
「何なのですか?これは?」
見上げたシュラクの視界には、手を広げた程の青白く輝く魔法円が、先程の雪を遮断した二次空間と同じ存在感で浮かんでいた。
「元の次元に居る老町長からルパーグ夫人へ繋いだ次元の綻びを、此処へ延長させた。
竜が倒されれば、この世界は暴走するか、消滅してしまう。
この魔法円に繋がる道が、唯一の命綱です。
シュラク殿にはこの世界の繋ぎ手になって頂く。
意識を道に同化させるだけだ。
<神読人>ならば、神の声を聞き分けるより簡単です」
シュラクは両の足が地に張り付いて、微動だにしないことに気付いた。
さあっと、血の気が爪先に落ちていく。
自分では思ってもいない程大きく見開いた両の眼には、息のかかる距離のミラが、苦しげな笑みを浮かべていた。
「そんな事では、どうしょうもない。
貴方は我々より安全だ」
ミラはそう言うと、シュラクの碧緑の瞳を懐かしげに見上げた。
シュラクは咄嗟に昨夜のバラドの話を思い浮かべてしまい、はっと我に返った時には、美しい<神読人>は踵を返して竜へと足早に向かって行った。
竜の頭上では相変わらず余裕のバラドが、豆粒程の二人の様子を見つめていた。
「まっ、仕方がねえや。
やることやらねぇと、ミラにどやされる」
そう、吐き捨てると
「よっと!」
片手で燃える竜の耳を掴むと、自身を固定していた長鞭を一閃させて解き、そのままブン!と、両眼の間の太い角に絡ませる。
竜はバラドの狙いを悟ったのか、地を揺るがす雄叫びを放つと、気が狂わんばかりに空中でのたうち回る。
バラドは最初の一周は長鞭に掴まったまま振り回されてしまったが、すぐに鞭を手繰り寄せると、狙いの左瞼のごつごつとした皮膚に到着した。
バラドは腰の中振りの剣を鞘ごと取り出すと、東国の装飾文字でごてごてに飾られた鞘をくわえ吹き捨てた。
ミラの遥か上空、燃え盛る巨大な竜の眼上で、鞘をなくした中剣が、煌めく。
「こいつぁ、高かったんだぜ!
なんせ、東国のナントカ国の王様の剣だぜ!
お前にくれてやる!
偽モンだけどな!」
そう言いざま右手に絡ませていた長鞭を解くと、落下の重力に身を任せて、半開きのごつい瞼ごと中剣で裂く!
落ちるバラドに合わせて、竜の左眼がばっくりと割れる!
剣から手を放し、遥か上空より落下するバラド。
音というより振動に近い、耳を劈く猛烈な叫びが逆巻く炎と共に、赤い世界を切り刻み、八方へ弾け散る。
爆音烈火。
空間が捩じ切れる。
視界が炎に、紫に。
鼻を塞ぐ焼け焦げた匂い。
暴風にゴウゴウと渦を巻く紅炎の空の合間に、ちらちらと青く澄んだ空が、割れたガラスの破片さながら、キラキラと見え隠れする。
シュラクの頭上、二次元の魔法円が銀色に輝きながらゆっくりと旋回し始めた。
ミラが駆ける。
バラドに左眼を裂かれた竜は、のたうち回りながらその色彩を失いつつあった。
赤色から澄み切った水色に、溶け変わる空に同化させていく竜を背に、バラドが恐ろしいスピードで落下して行く。
ミラが跳んだ。
軽く、重力を無視した跳躍。
優美に舞い上がる天女のごとく、跳躍の頂点から美しくアーチを描いて下降する。
広げた細やかな両腕が、体重の数十倍の重力を背負ったバラドを抱きしめる。
いや、体格的にバラドが抱きすくめた形になった。
「バラド、速度を落とす。
ゆっくり着地する。
いいな」
「お前がそう言うんだ、そうなる」
ミラを抱くバラドの腕に力が籠った。
一瞬、<死>の意識が、ミラの脳裏を掠める。
見下ろすバラドの視線は、刺すように冷たい。
海底に舞い降りる速度で、二人は着地した。
どちらともなく無言で絡めた腕を解放すと、少し先で旋回する魔法円の下で、一心に現世界との道を手繰り寄せるシュラクへ駆け寄る。
荒れ狂う空では、竜の過去夢であった赤い空は殆ど青空の欠片で埋め尽くされ、地も荒廃した赤色の色彩が薄れ、所々色濃い緑の山道の景色が重なって表れてきた。
「赤の景色は、竜の残留思念だ。
それが消えればこの世界は砕ける。
それまでに元に戻らなくては」
ごおおおと空が暗くなってきた。
茶黒い巨大な雲が渦を巻き、青い空を飲み込んでいく。
風も勢いを増してきた。
ミラはシュラクの傍らに、旋回する魔法円の真下に来ると、シュラクの手を取り意識を同化させようとした。
魔法円が輝きを増し、そこから銀色の光柱が、竜巻に似たうねりを見せて天へ駆け昇る。
上へ!上へ!
暗雲を突き抜けると、銀柱に破られた雲の部分が銀の輝きを得て、銀柱の周りで更に渦を巻き始めた。
「ミラ!見つけました!
時空のほつれです!
この世界を引き上げます!」
シュラクが喜びに叫んだ時、天空に伸び上がった銀柱がぶるっと震えた。
吸い込まれた雲の彼方。
遥か天の先から、銀柱を伝って、紅く燃える電が滑り落ちて来る!
咄嗟にミラが手を伸ばす。
バラドは庇おうとして弾き飛ばされる。
どぶぶぶぶっ!
落雷の音。
肉の千切れる音。
血臭。
血煙。
赤い肉片。
ミラの体がシュラクとバラドの前で、人形の無様さで地に転がった。
「ミラァァァ!」
バラドがその巨体でシュラクを突き飛ばし、ミラの元へ駆け寄り、膝を着く。
一面の鮮血。
ミラの右腕は、肩からなくなっていた。
したたかに腰を打ったシュラクからも、その状況は解った。
ミラは自分の腕を避雷針替わりにしたのだ。
二次元の輝く魔法円も、銀柱も、荒れ狂う暗雲も、風も、跡形もなく消え失せていた。
異様に穏やかな早朝の山道が、目の前に広がっている。
鳥の囀りさえ聞こえてくる。
涼やかな風。
何事もなかったように。
横たわる右肩からドクドクと溢れる鮮血に、染まっていくミラ以外。
バラドがミラを抱えようとすると、横からシュラクが物凄い勢いで制した。
「動かしてはいけません!
止血をしなくては!
出血で死んでしまいます!
私に見せてください!」
伸ばしたシュラクの手をバラドは思い切りシュラクごと払い飛ばした。
ミラをその太い腕で抱え上げると、大木に背中を強打してよろめくシュラクをにらみ上げる。
別人のような鬼気迫る形相。
筋肉の盛り上がった体躯に、凄まじい殺気を纏っている。
「お前は医者だろうが、ミラには必要ねぇ!
ミラに触るな!
俺が…、俺が…、ちくしょう!
俺には何にもできねぇ!」
叫んだバラドの腕の中で、ミラが微かに身を動かした。
シュラクの目前に、ミラの右腕の傷が口を開ける。
鮮血の滴る焼け焦げた袖口から、千切れた腕の断面。
血が止まっている。
そして、
シュラクの全身の皮膚が総毛立つ。
ミラの傷口から無数の腕が生えてくる。
いや、赤い竜の鱗。
いや、青い空が見える。
いや、
いや、
「バッ、バラドさん!
これは…!」
シュラクの問いは、空に響く別の声にかき消される。
それは声と言うより、山から吹き降りてきた突風。
又は、地を突き動かす、地脈の鼓動の様に三人の周りに響き渡った。
『ほう。
これは、これは、なんと嬉しい方が網にかかったようで。
ミラルーフの姫様。
シュトラントの凶姫様。
探していましたよ』
頭に直接響いて来る声の主は、三人の頭上、映え渡る青空いっぱいにその顔を現出させる。
空全体を覆う、覗き込む巨大な顔は、やつれた初老の男のものだが、細められた目元と薄く歪んだ唇が禍々しさを湛えていた。
ミラがバラドの腕の中で、声の方へと身じろいだ。
ゆっくりと見開いた、長い睫毛に縁取られた翠微色の瞳に映し出されたのは、かつてのシュトラント国王の弟、ミラの叔父にあたるバイルフ聖神官だった。
ミラが右手を上げようとして、その消失に気付くと、悲しげに微笑んでその名を呼んだ。
「叔父上、バイフルの叔父上。
これは貴方の所業ですね。
私は失敗したのか。
この町をどうするつもりです?」
ミラの瞳には、何故か安堵の色さえ浮かんでいる、それと対照的なのはバラドの、今にも火を噴き出しそうな憤怒の形相であった。
一方シュラクは理解が追い付かず、空全体を覆う巨大な人顔に圧倒されていた。
『凶姫殿、無様な娘。
竜を滅した事は評価しよう。
だが、この<竜眼晶>の所有者に気付かず、自分から捕らわれに来るとは。
もっとも、私自身も、こんな網に貴女が掛かるとは思ってもいなかったのですがね』
ミラが、うっと小さく唸ると、バラドの腕の中で体を強張らせる。
急激に熱くなる。
体中の毛穴から汗が噴き出たのか、ミラの体が急にじっとりと湿り気を帯びてきた。
がくがくと震えだす。
痙攣が始まったのだ。
「シュラク!お前馬を呼べるだろ!
早くしろ!
町へ戻るんだ!」
シュラクは電撃を食らったように両肩を跳ね上げ、頭をぶるぶると回して馬の気を探し出す。
<神読人>は動物の気を手繰って、操る事が出来る。
遠くで複数の馬の嘶きと、足場の険しい岩を砕く蹄音が木霊する。
空を覆い尽くす巨顔。
頬骨の突き出た厳めしい容貌が、薄い唇で皮肉げに微笑む。
自嘲のこもった声が朝の空へ広がっていく。
『<竜眼晶>に閉じ込めたのが、そこの未熟な<神読人>だと知った時には、すぐに破壊するつもりであったが、罠を張ってしばらく時間を与える事も、時として思わぬ幸運を招き入れる事になるようじゃの。
凶姫殿。
私から逃れた貴女であったが、此処で永遠の平安を見出すのも悪くはなかろう?
貴女が忌み嫌っていたおぞましいその能力を、<竜眼晶>を媒体に私がもらい受けれるやもしれん。
楽しい事になってきたことよ』
馬が三頭、息も荒く現れた。
その目は虚ろにかすみ、逆立った体毛が異様な状況に怯えている。
バラドは右腕のないミラを抱え直して乗馬すると、自分の肩に凭れさせてごつい左腕で支える。
右手では抗う気のない馬の手綱をきつく引いた。
「ミラ、まだだ、まだ駄目だ。
町に着くまで持ちこたえてくれ。たのむ…」
一気に馬上の人となったバラドの腕の中で、ミラが微かに瞼を震わし、微笑むように目を細めた。
バラドは思いっきり馬の横腹を蹴る。
悲痛な嘶きと共に、二人を乗せた馬が走り出す。
馬上の人となったシュラクと主のいない馬がその後に続く。
天空いっぱいに、この世界の所持者の嘲笑が響き渡る。
『ミラルーフ!
ミラルーフ!
ミラルーフ!
忘れてはおらぬよな!
私が、貴女を救った。
私が、貴女を育てた。
私からは逃げられぬよ。
廃国の元凶姫よ!
あらぬ望みは持たぬがよいぞ!』
「うるせぇ!だまれ!」
太い左腕にしかりとミラを抱いて、鬼気迫る形相で前方に浮かび上がる巨大な人面へバラドが吠える。
「てめえそっから降りて来い!
ずたずたに引き裂いてやる!
てめえのどアップなんざ見るに耐えねんだよ!
消えろ!!」
すぐ後ろで必死にバラドを追っていたシュラクは、バラドの猛烈な気迫に震えが止まらずにいた。
バラドの気量は尋常ではない。
相棒を傷付けられただけではない、何かもっと、根本的に常軌を逸した凄まじい恨みをこの男は持っている。
そして、恐ろしいのは、その恨みを平時には消失できる事。
<神読人>の自分にでさえ気付かせずに。
シュラクは前方の空いっぱいに、歪んだ笑みを浮かべる人面と同じ程に、前方を疾走する男女に、身の毛もよだつ恐怖を抱いた。