二,叛命(はんめい)の神読人
1980年代の「剣と魔法・ダークファンタジー」ブームから時が止まったままの私です。
あの時代のきな臭い夢を、紡いでいきます。
お気に止まりましたら、覗いてみてください。
イラストも更新していきます。
遠い山間から黄金に燃える炎球が、ゆっくりとその姿を浮かせると、世界を覆っていた幽闇は、幾千の光の矢で射抜かれ跡形もなく消滅する。
黄赤色に輝きさざめく広大な湖の辺に、鞍を外された馬が三頭、体を寄せ合い、草を食んでいる。
日が昇る事によって急激に冷え上がった大気は次第に温もりを取り戻す。
清らかな朝日に湖上を滑る初秋の風が、うとうとと巨木の根元でまどろむ青年の頬を撫でる。
やがて束の間の眠りに飛び起きた彼は、目の前の焚火に、新に木がくべられいる事に気が付き、慌てて周囲を見渡した。
二人分の衣類が大木の枝に掛けられ、焚火の熱に揺らめいている。
湖辺の林は、すっかり朝日に包まれていた。
水鳥の羽ばたきと、勢いよく水を跳ねる魚の音。
そして遠くから水を掻き分け近づいて来る、飛沫音と二人分の話し声。
まだ寝惚け眼の青年は、自分の皮長靴の留め紐が緩んでいない事を確認すると、声のする方へと、背の高さほどに生い茂る湖辺の草の中に下って行った。
ちょうど目の高さの鋭い葉先と、ぬるぬると苔むした足場に苦しみながら、なんとか湖上が見渡せる程に進んだ時、あまりの眩さに崩れかける。
草々の間から突如目に飛び込んだそれは、黄金に映える朝日を背にまとい、きらめく波を従えながら、ゆっくりと岸へ向かう。
この世のすべての光源を司る美神であった。
青年が固唾を飲んで見つめている間、それは逆光の中からその姿を現出させる。
それは二人の美神であった。
腰の高さほどまでになった湖水を波立たせながら力強く進む偉丈夫は、雄々しく均整のとれた褐色の裸身に、誇らしげに照り返す波光を受け、そのがっしりとした右肩に、湖の精霊を思わせる細やかな肢体に、晧金色にきらめく長髪を纏う女神が、アラバスターの如き裸身を預けている。
それは、恥じらう細波を従え、立っている事さえ覚束ない青年の前まで来る。
バラドの剛健な肩に腰かけていた輝く女神が、その繊な肢体を風にふわりと浮かせた。
青年は、震える両膝を堪えながら、目の前に舞い降りた麗人をやっとの思いで見つめた。
背後できらめく銀の波さえも色褪せる、晧金色の長髪をオーラのごとく纏うその顔は、精霊のように、聖女のように。
それは昨夜、バラドと共に巨炎竜を打ち負かしたあの黒衣の人であった。
「何をそう呆けた顔で見ている。
まあ、禁欲の<神読人>には女性の裸身は目の毒であろうがな」
麗女の言葉に我に返った青年は、彼女の全裸に釘付けになっている自分に気付くと慌てて目を逸らし、更に素っ裸のにやついている大男と目が合い、顔中から火が噴き出る思いで俯いてしまった。
「バラド、からかうのはそこまでにして、早く焚火の側に来い。
今は何月頃だろう。
すっかり秋めいてしまっている」
その細やかに引き締まった裸身に何のためらいもなく乾きかけのケープを羽織ると、麗女は焚火の前に腰を下ろし晧金色に輝く髪を乾かし始めていた。
「おい、色男。
朝メシ取って来たから一緒に食おうや」
太い手がドンと肩を叩いた拍子に、見上げた視界いっぱいにバラドのガタガタの歯とにやけ顔が飛び込んでくると、すっかり骨抜き状態の若者は、えも言えぬ不愉快さと共にどうにか持ち前の冷徹さを思い出した。
湖水の木々に巣籠っていた鳥たちが、下から吹き上げる焚火の煙にぎゃあぎゃあ騒ぎ立てる。
やがてそれは林の奥へと充満するにつれて、魚を焼く香ばしい香りに変る。
遠くから流れる危険な火の気配に神経を研ぎ澄まされた小動物は、人間の声に警戒を強める。
焚火の上には、バラドが捕って来た、肘から指先程の長さの魚が三匹。
もうじき食べ頃だと言わんばかりに、鉄串で刺された体から油の乗った香を放っていた。
「話しを聞かせて頂きたい」
落ち着きを取り戻した青年が、とりとめのない会話に和む二人に分け入った。
と、同時にバラドが、一番肉付きの良い焼き魚に手を伸ばすと、あっちちと悲鳴を上げる。
青年はバラドの醜態には目もくれず、同じく焼き魚を手にした麗人に向かい話出した。
「見たところ、私よりも現状に通じていらっしゃる様ですが、この町の異変について知っている事が有れば教えて頂きたい。
あっ、失礼、その前に名乗りを。
私の名はシュラク・パラムール。
<神読人>の儀に就く者です。
レベルは恥ずかしながら<三段目>ですが、医師の資格を持っています」
誇らしげに、得意げに、しかしそれを平然と述べようとする未熟さ。
<神読人>とは、それぞれの国を統治する<神>の言を伝え行う者であった。
彼らは、神の声のみならず、人の心を読む能力を持っていた。
レベルが高い程、神の声を聞く機会を与えられ、その言葉にはこの国の王でさえ逆らう事は出来ない。
その彼の言葉を麗人は聞いているのか、いないのか。
<神読人>と名乗る事で皆一様に体を強張らせる。
心を読まれるのではないかと、目を逸らせて黙り込む。
神の承諾がない限り人の心読みは出来ない事は解っていても、畏怖感は拭えない。
その、在り来りの反応がこの二人からは全く帰ってこなかった。
魚の鱗が焦げていく。
その香りと何の反応も見せない二人に苛立つ自分を誤魔化して、若い<神読人>シュラクは話しを続ける。
「私がこの町に来たのは三ヶ月前でした。
招かれたのではなく病人治癒の修法の為に立ち寄ったのです。
ちょうど夏祭りが終わったばかりで、私の他に旅人はなく、宿も簡単に見つかりました。
老町長に目通りたく、まず若町長の元へ紹介を頂く為赴いたところ、急用が入ったので老町長との面会は後日にと、その日は老町長の孫のルパーグ夫妻にお世話になりました。
翌朝、老町長の家へ伺ったところ、鍵がかかっており、誰もおらず、しかし、何か異質な気配が漂っていました。
私は<神読人>としては未熟ですが、老町長の失踪がこの町の異変の始まりに思えてならないのです。
「異変と言うと?
山が燃えて、竜が人を拐うって事か?」
見事に骨だけになった焼き魚の残骸を枝上から狙っていた野鳥の群れに投げ与えながら、バラドが尋ねる。
シュラクはバラドとは別に、優雅に魚を口元へ運ぶ、自分の話を聞いているのかいないのか分からない麗人へ目を移す。
そして、軽く肩を落として、話を続ける。
「竜が現れたのは数日前からです。
私の言う異変とは、老町長が姿を消した日を境に、町を訪れる旅人がぱったりと途絶えてしまった事です。
夏祭りが終わった後だとしても、旅路として通過するだけの旅人も、毎週訪れる卸商人も、誰一人として姿を見せなくなりました。
又、逆の現象も起きています。
誰もこの町から出られないのです。
町外れの林道、そこを抜けると『サウムラス国』の本道へ合流するのですが、どうやっても行けない。
真っすぐに進んだとしても、必ず元の場所へ戻ってしまう。
私も何度も試してみたのですが、途方に暮れるばかりで…」
「神は…」
サラリと吹きそよいだ声に、シュラクとバラドは瞬時顔を上げ、焚火を冷たく見つめる麗人へ視線を移す。
麗人の口づけを独占していた魚は、未だ身を半分纏ったまま、火中へと投げ捨てられていた。
「神は…、何と言っていた?」
ふいに、魚の油がバチンと鳴いた。
「神は何も。
私ごときにお声など。
まだ、そんなレベルではありません」
「レベルなど。
一つの町が封印され竜が蘇るとすれば、何かしら指示が有って然るべきでは?
それに、<神読人>に処理させる為に貴方をこの町に導き入れたとしても、貴方に何が出来る?」
風が止み、焚火のバチリという音が冷えた空気を砕く。
弾みをつけて、山鳥が高枝から飛び立った。
「確かに私は未熟ですが、しかし、毎年聖日の集会には神から直接お導きを頂いて…」
「それが何になる!
現にこの町には貴方しか来ていない!
とすれば、神はこの町を救う気はないという事ではないのか?」
麗人の凛とした声は、氷の鋼となり三人の空間に冷たく張り、そして、緩む。
ゆっくりと視線を上げた麗人は、その何やら揺らめく翠微色の瞳に射貫かれた若い<神読人>に静かに話を続けた。
「事実だ。
貴方の疑問。
貴方の怒り。
もっともだな。
逆の状況も考えられる。
これ自体が神のプランだと。
だが、その可能性ははい。
何故なら、ここは神には見えていない」
優しい風にも似た声が、シュラクの首筋を凍らせた。
「なぜ、そんな事が解るのですか?
あなたは誰ですか?」
シュラクは真っすぐに麗女を見据えた。
女神かとおののいた美しさが、禍々しく思える。
薄く開いた翠微色の瞳も、
晧金色の髪も
整った鼻梁も、
この世ならざる悍ましい存在に見えていた。
「私は…」
「もう、ばらすのかよ。
もちっと、こいつの顔色を楽しみたかったのによ」
キッと睨んだシュラクを尻目に、バラドは渇いたケープで磨いた黄色い果実を麗人へ投げる。
自分も同じ果実を頑強な歯でバリバリがっつき始めた。
麗人はその音に多少表情を緩めると、蒼ざめた若い<神読人>に向き合った。
「私の名は、ミラ。
同じく<神読人>だが、
神の意に反して生まれた<叛命>と呼ばれる者だ」
瞬間、血の気を失い、目を見開き、硬直する若い貴公子。
バラドは、どこから取り出したのか黄色い果実を手に「よいこらしょ」と立ち上がる。
「俺はバラド、ミラが大声で連呼するんで承知だよな。
姓なんてもんはねえ、盗賊上がりの田舎者さ。
こいつに命を拾ってもらったんで付いて回っている。
用心棒になるのかは、微妙なとこだな。
おっと、しっかり持ちな、こいつはデザートだ。
と言っても、お前さんの魚はすっかり焦げちまっているから、これが唯一の朝食だな」
兄貴面よろしく、震えの止まらないシュラクの手に黄色い果実をしっかり握らせると、乾ききった衣類の皺をバタバタと叩く。
ミラも立ち上がり、自分の衣類を取りまとめると、ハラリト身にまとっていたケープを地に落とす。
意識を取り戻しつつあったシュラクの視界いっぱいに、木々の合間から漏れる朝日に輝く美しい裸身が飛び込む。
シュラクの手からコロリと黄色い果実が焚火の中へと身を投じた。
「神は、<叛命の者>を見つけたら速やかに知らせよとは言っていなかったか?」
水浴の間に干しておいた鞍を愛馬の背に置きながら尋ねるミラに、馬は待ちかねたのか前足で二三度軽く土を蹴ると、ぶるると嘶く。
その足元の焚火はバラドによって水をかけられ、残った灰にも丁寧に砂がかけられていた。
空気は驚くほど澄み、乾燥しきっていた。
火を唯一扱える人間は、その恩栄と罪を常に意識していなくてはならない。
「私は神のプラン外の存在だ。
神は私の行動を感知する事は出来ない。
そして私の存在は波紋の様に、神のプランを破壊していく」
「あ、貴女が原因ですか?」
シュラクの声は震えていた。
「違う、私は現世界に残された老町長に頼まれて来た。
今いるこの町は<竜眼晶>と呼ばれる『竜の眼の化石』の中の別次元に組み込まれている。
古代の竜が自身の復活の為に、そのエネルギーとして町民ごとこの町を取り込んだ。
特に、狙いは胎児だ。
老町長の孫娘の胎児を欲しがっている」
「胎児をですか?」
「生まれる直前の胎児のエネルギーは、成人男性千人の生命力に匹敵する。
千人食らうより効率が良い。
そして、無垢な精神は美味いのだろう…」
「そんな事はどうでもいい。
竜を倒せば出られるんだ」
いつの間にかミラの斜め背後に立つバラドは、ミラの肩を抱く程の距離にいた。
「竜は消えたが、出られないと言っていたが…」
シュラクの問いには答えず、ミラは秋風にさざめく馬の鬣をひと撫ですると、天女の身軽さで馬上の人となる。
手綱を軽く引いて一歩二歩馬足を確かめると、困惑したままミラを見上げる貴公子へ優雅に馬頭を巡らす。
闇色のフードを真深に被った彼女の表情は見えなかった。
「先に行っている」
そう言い放つと、バラドの傍らを駆け抜けて行った。
枯緑に深く波打つ木々に、掻き抱かれ消失した美しい幻影に、呆然となったシュラクだったが、バラドの馬の嘶きに我を取り戻した。
「<叛命の者>だったなんて…。
ここが『竜の眼』の中だと言うのか?
何が起こっているんだ?
神はこの町を見捨てたのか?
それとも、気付かないのか?」
わらわらと自馬に鞍を掛け飛び乗ると、少し先の林道で馬の手綱を制しながら、ミラの走り去った方向をぼんやりと眺めているバラドに追いつく。
「まだ話は終わっていないのに、彼女は何処へ行ったんだ?
私はどうしたらいいのだ?
やっと状況の解る人に逢えたと思ったのに、あんな態度はない」
「おいおい、ミラはあれでも精一杯話してたんだ。
お前の事を気遣って。
珍しい事なんだぜ」
今までと違うバラドの声に、シュラクは咄嗟に何かしら、棘に似た痛みが肺に滑り込むのを感じた。
だがそれはすぐに、ごつい石のように固まると、蒸発と同じ感触で消失する。
「おっと、こいつぁ危ない!
あんたもそれなりに心が読めるようだな」
二つ頭分上から見下ろしたバラドの顔には、憂悶の影など一片も浮かんではいない。
「わっ!分かるのですか?心を読まれた事が!」
妙に狼狽する貴公子に
「なに、たいした事じゃない。
もっとも、もう二度と俺の心は読ませないがな。
あいつといたお陰で、思考をガードできるようになったんでね」
「それは、彼女が貴方の心を読むという事ですか?
まさか、<神読人>は神の了承がなければ人の心読みはしてはいけない」
「そんなこたぁ、あいつには関係ない。
要するに、特異体質なんで、ミラは放っといても聞こえてくる。
何もかも、聞きたくない事まで。
それが叛命のなんとかなんだか知らねえが、
だから行っちまったんだよ。
あんたが多分うるさく頭の中で質問したんじゃねえの?
それで耐えられなくて行っちまったんだよ」
シュラクは体中の血が一斉に、地面に流れ落ちる気がした。
木々の葉間から刺し射る朝日は、手を翳すほどの角度から、更に登り続ける。
荒い息を弾ませながら、二組の馬人は林を抜け町へと続く平原の街道を駆ける。
「彼女は何処へ行ったのか分かるのですか?」
「町へ行くのは確かだが、町の何処かは知らん。
お前の方が知っているはずだ、お前が今、会わなくてはいけない人間の所だ」
「私の心を読むなんて…、
ガードする訓練は受けていた。
だから、読まれている事くらい解るはずなのに」
「ミラにかかっちゃみんな同じ事を言うよ。
読むというより、聞こえるんだとよ。
心の声が、考えている事全部。
お前が最初ミラを男だと思った事とか、気味が悪いと思った事とか…」
「なぜそんな事をあなたまで…」
「俺か?俺はあんたの顔色で解るさ。
まず、ミラの裸を見たあんたは…」
シュラクは後ろのバラドへ思いっきり首を振り返ると、上擦った、蒼ざめた声で叫ぶ。
「それは大罪だ!神々に知られたら重い罰が下されるぞ!」
「はっ?何が?俺かぁ?」
「違う!彼女にだ。
<神読人>同士の心読みは禁止されている。
各々の守護神の意図までもが露わになるからだ。
神々の戦の引き金にさえなる」
「お馬鹿か、お前。
ミラには守護神なんざねぇーっての!
考えれば解るだろうに。
それに、ミラの存在自体がとっくに大罪なんだよ!
あーっもう!」
シュラクを追い越したバラドの声は、巻き上げた砂塵と共に軽くシュラクの頬を打つ。
それは何とも言えない小さな疼きとなり、シュラクの胸の奥を刺した。
「まさか、あなたは…」
シュラクの呟きも又、蹄の規則正しいリズムに搔き消され、一吹きの風と共に四散していった。
部屋の奥の小さな暖炉に薪がくべられると、それは炎の牙に噛み砕かれ、バチリと痛々しい悲鳴を上げた。
石煉瓦の壁には、真新しい物から数世代の時間を織り込められた色様々な大判のタペストリーが、飾られている。
それは、命が吹き込まれたばかりの炎がぶるりと身震いする度に不安に蠢く。
日がやや傾きかけた頃、<ル・カウゼム>の若町長の家に、昨夜竜に拉致された夫人の夫と、三ヶ月前から住み込みで医師の仕事をしているシュラクと、竜を打ち負かしたという男女二人が訪れた。
まだ日は高いというのに、その部屋のカーテンは降ろされ、お茶を出す事さえ忘れてしまっている若町長の妻は、昨晩、身籠っている娘が竜に襲われたショックで熱にうなされ、震えの止まらない体に毛布を巻いて暖炉側の長椅子から<神読人>の話を聞いている。
ミラは豪華なタペストリーを背に立っていた。
闇色のフードを肩に落とすと、晧金色の髪が零れ落ちる。
透き通るアラバスターの肌に、伏し目の長い睫毛が影を落とす。
黄昏の大理石の神殿に佇む女神像。
彼女の唇から流れ出る言葉は、その透き通った声色とは裏腹に、暗い洞窟を思わせる重い内容だった。
老町長が夏祭りに招いた旅芸人から<竜眼晶>を譲り受けたのが、事の始まりだった。
竜は己の復活の為に胎児を食らう。
それを知った老町長は、封印しようとして失敗した。
そして竜は自身を実体化する為別次元を作り上げ、胎児を食らおうとしていた。
妻が竜の標的と知らされた夫は、褐色の健康的な顔色を、血の気の引いた青紫に染めている。
太陽の下で体を酷使する仕事をしているのであろう、服の上からもそれと解る程の見事な体躯の持ち主で、決して臆病な男ではないのだが、この町がいつの間にか訳の解らない物に閉じ込められ、新妻とまだ見ぬ我が子が狙われていると知らされれば、誰も咎める事は出来ない。
部屋の戸の壁に大きな背中を寄り掛らせて、大木の様な腕を組んでいるのはバラドだった。
彼の勘は少々外れていた。
ミラは若町長の元へ行く前に、昨晩襲われたルパーグ夫人の家に行き、訳も告げず身重の夫人を強制催眠で眠らせてしまった。
バラドは若町長の家に着いた途端、怒りに震える夫のルパーグ氏に掴み掛られ、いつもの八つ当たりを受ける羽目になった。
ミラの説明は半時で終わった。
彼女は自らを<神読人>と名乗り、神から遣わされたと言った。
若町長の安堵の溜息が漏れる中、シュラクは目を逸らし、バラドは表情を消した。
心読みをしながらの話では、相手の疑問が聞こえるので質問をさせる隙が無い。
若町長は<竜眼晶>に閉じ込められた事以上に、この救い手となるはずの女性の気味悪さに、自らの不運を感じ始めていた。
「そっ、そうすると、あの竜の眼を潰せば元に戻れるのだな?」
何とか話の切り目を見つけた若町長は、若町長としての意地で質問を繰り出した。
「そうです。竜の眼が人を食らうには現存する肉体が不可欠です。
竜が己の体を現存物だと認識している時に唯一の現存物、すなわち眼を潰す事で竜の精神は崩壊します。
その時点で紡ぎ手を無くしたこの町が消滅する事も考えられますが、現世界の老町長と彼の作った魔法円がこの世界に繋がっています。
それを辿れば戻れるでしょう」
ルパーグ氏の息を飲む音がした。
ミラはいつの間にか闇色のケープで顔を覆い、それ以上の質問を拒んだ。
「そこの戸口の大男が、昨夜あの竜の右目を刺した。
だがこの世界は元に戻らなかった。
この町を吸収したのは左眼だったのでしょう。
あの竜にとって現存する眼こそが急所。
しかし、急所でもない眼を刺されただけで実態を保てない程ですから、レベルは左程ではないと思えます。
二、三日で片を付けます」
そして、何か言いたげな、そのくせ押され気味のルパーグ氏には目もくれず、長椅子の初老の夫人の傍らにふわりと腰を下ろした。
「心配はいりません。
お嬢さんは今、現世界の老町長と繋がっています。
老町長の書き損じた魔法円の端を彼女自身に繋ぎました。
万が一の場合、彼女だけでも引き上げる事が出来ます。
お腹の子も一緒に」
そう言うと、手の一振りで老夫人を眠らせた。
竜だの魔法だの、田舎町暮らしには一生無縁だと思っていた事態のせいか、人を食った様な<神読人>の態度のせいか、煮え切らない若町長達を後にして、ミラとバラド、そしてシュラクは失踪した老町長の家に向かった。
若町長の家からは歩いて四半時もかからない距離なので、途中若町長に紹介されていた宿に馬を預け、部屋と夕食を頼んでおく。
遠くの日は傾きかけていた。
昨夜の騒ぎのせいなのであろうか、道々で人に会う事はなかった。
子どもは外出を禁じられているのだろう。
無機質で赤茶けた家並みは、歩き過ぎる余所者三人を沈黙と不安で押し包む。
明日の朝には、この町の由来となった中央広場の巨大な井戸の前で、集会がある。
今宵一晩、この町は不安を抱えてやり過ごす。
ミラとバラドの噂は静かに広がっているのだろう。
若町長は明日の集会でこの事態を町民へ説明する。
それまでは、あらぬ噂で生活を乱したくはない。
いつもと変わらない日常で在ればいい。
そんな町民へ、何を省いてどう誤魔化せばパニックを避けられるのか、それは若町長が考える領分であって、ミラは関与するつもりはなかった。
老町長の家は昨日訪れた時と何も変わらず、しかし、幾分寒々とした空気を湛えるくらいで、昨日から三ヶ月以上経った事は感じられなかった。
人の出入りがなかった為少し錆付いた戸は、昨日よりもさらに悲痛な叫びで三人を招き入れた。
薄深い夕闇が部屋の奥へと流れ込む。
最後に足を踏み入れたバラドが、戸を開けて固定しようとして、ふと鍵穴に手が触れた。
此処では三ヶ月経ったとは言え昨日とは何も変わらない、だが、しかし…。
バラドは指先の記憶に違和感を覚えた。
ミラは部屋の奥隅で未完成な魔法円の上に立っていた。
老町長の趣味程度の知識の急ごしらえの魔法円は、折よく現世界に繋がっていた。
しかしそれは老町長までもを取り込んでいた為、彼もまたそこから出られない。
催眠状態ではあるが、老人の体力を考えれば、明日にでも決着を付けなくてはならなかった。
シュラクは前に何度も調べた為か、ミラの近くまで椅子を引くと逆に座り、背もたれに両腕を掛けて傍観している。
ミラはこの場所にあった現世界との接点が、確実に途中で折り曲げられ、ルパーグ夫人に繋がっている事を確認した。
夕闇は更に濃さを増し、部屋ごと飲み込む前に、バラドの携帯用の松明に押し戻される。
三人が老町長の家を出たのは深紺の空に二番目の星が輝きだした頃だった。
日が短くなっている事に、バラドは面白さを感じて軽口でもたたこうとしたが、何も出てこない。
先に歩くミラの、闇色のフードから零れた髪の一房が、淡夜光に輝く銀涙のようにはらりと散った。
バラドの後ろを歩くシュラクは、この<叛命の者>の存在に息苦しさを感じていた。
自分より遥かに優秀な存在、そして神の摂理に反した存在に頼るしかない現状。
それだけでも、自分には圧が強すぎるのに、彼女の突き放した態度の不自然さ。
初め、男性だと思い込んでしまった堅固な行動力の中に、押し殺した高貴な所作が見えると思うと、昨晩竜を撃退した後にバラドの腕の中で失神した彼女は、ずっと幼く見えた。
そして、更に不可解なのは。
不安定な彼女と行動しているバラドの、不自然な釣り合いだった。
無感情のミラと、柔軟性のあるバラドとは、一見良く見かける旅連れだが、二人の間には、気味の悪い、脆く、張り詰めた何かを感じさせた。
ミラとバラドがその宿の戸を開けると、目に飛び込んだのは、山熊の様な女主人。
「いらっしゃい!」
体系に対して発生可能な音階を2オクターブも越す声に、闇色ケープのミラも一瞬たじろぐ。
乾燥した冷たい外気と違って、宿の中は温かく湿った空気と雑声に満ちていた。
旅人がいない為泊まり客は自分達だけだと知っていたが、居酒屋として此処は繁盛しているようだった。
自給自足で成り立つが、町から出られず、誰も来ない。
その上突然の竜の脅威となれば不安を抱えた男たちが、一人、また一人と集まって来る。
人々の間を女主人に示唆された席まで歩く。
誰一人余所者二人を見ようとしない。
意識的な無視がかえって二人を浮き彫りにしてしまう。
普段、食事を運ぶ女性には一つ二つの軽口でお約束程度に絡むバラドだが、今日はどうも乗りが悪い。
宿に来る途中で入手した白ワインを空のグラスに注ぐミラの、しなやかなアラバスター色の指先を、我知らず眺めてしまう。
不安を孕んだ雑声は、誰一人として話題にしようとしない余所者二人に絡みつく。
皆が知っている。
明朝になれば若町長が全てを納得させてくれる事を。
それまでは知ってはいけない。
知りたくはない。
人々の持つ全く同じ不安が、この事態の鍵を握っていると噂される二人が現れた事で、重く凝固すると二人の元へ流れ込む。
「大丈夫か?ミラ?
食事は部屋へ持って行くか?」
注文した食事が全てテーブルに並んでも、何一つ手を付けずに皿の一辺を見つめているミラに、この体格には似つかわしくない優声で話しかける。
「覚悟していた事だが。
こうも、うるさいとは。
皆の声で頭が破裂しそうだ」
「やはり、部屋へ運ぼう。
酷い顔色だぞ。
<神読人>のおぼっちゃまといい、町長一家といい、
この人数を相手にするのは酷だろ?
それに、なんでまた、『神の使い』だなんて言っちまったんだ?
そりゃあ、叛命のなんとかって言うよりゃずぅっといいけどよ。
皆を安心させるぶん、見ている俺が辛くなる」
ミラの上目睨みに、バラドは母親に叱られる熊の様に肩を窄めた。
そして、小さく両手を上げ、首を振る。
「ああ、わかった、わかった。
だから、な。
上で食おうや」
そう言ってバラドは腰を上げかけたが、ミラの視線が押し留める。
「いや、すぐあの男が来る。
それまでは此処にいる。
彼こそ、この状況は酷だろう。
ともすれば彼も罪人になる」
「なんでぃ、あいつの事は心配するんだ。
フーン、それだけじゃねぇだろ、ミラ」
バラドの脅しめいた声は、女主人の2オクターブ高い声にかき消えた。
ほどなくして、テーブルの脇には<神読人>のシュラクが、頬にケチャップの跳ねをそのままに、息を弾ませて立っていた。
「あの、此処、いいでしょうか?」
一言頭を下げると、隣の空き椅子を引きずって、ミラ達のテーブルに自分の場所を確保する。
「温かいお茶、お願いします!」
と、大声で宣う。
酒場の皆も慣れているのか、一息分の沈黙で後は何事も無かった様な雑騒。
店も心得ていたようで、シュラクのホットティーは待つこともなく運ばれて来た。
バラドは既に食事の殆どを平らげていた。
ミラの顔色は相変わらず蒼い。
「明日からの事、教えて頂きたい。
竜を倒すのは二、三日で出来ると言われましたが、どうするつもりなのですか?」
シュラクの視線は、薄く伏せたミラの銀糸の睫毛を微かに震わせた。
そこに隠されている翠微色の双の宝石を見ることは出来ない。
バラドが空になったスープ皿を、ゴトリと乱暴にテーブルに置いた。
ミラが顔を上げる。
「シュラク殿、貴方は我々と行くつもりだろうが、良く考えて頂きたい。
私の行動は神のプランにはない。
神々に背く事になるのですよ。
貴方以外に正当な<神読人>が来ていないとなると、神は貴方という存在諸共この事態には関与しないつもりです。
理由はとくにないようですね。
神々にとってはこんな小さな竜が、小さな目玉の化石の中で復活しようと、全体のプランに差し障りがない限り、自然消滅まで放って置かれます。
そして、そう判断された時点でこの事柄は既にプランとなります」
シュラクは小さく息を飲むと、碧緑の美しい瞳を見開いた。
「すなわち、私達と行動を共にする事は神への反逆です。
貴方にそれが出来ますか?」
バラドが大きな伸びをしながら油臭いげっぷを漏らすと、シュラクにきっと睨まれた。
「おっと、失礼」
と、言いざま横を向くと、今度は鼻毛を抜き始めた
「バラドさんはどうなんですか?
貴方は唯の人間じゃないですか?
何故わざわざ神に逆らおうとするのですか?
それでは<混沌の魔族>と同じではないですか?」
抜いた鼻毛をフッと飛ばすと、どっかりとシュラクの方に体を向け、ゆっくりと頭を上げる。
シュラクの体が目に見えて強張る。
「言っとくがな。
俺は<混沌の魔族>なんざ知らねぇ。
ミラに助けられた時、俺の命の期限は切れてた。
神様から見れば俺は死んでいるはずの人間だ。
逆らおうがどうしようが、神様に見つかったら殺される。
俺はな、とっくに死んでいる人間だから、いつ死んでもいいんだ」
そう言うと、シュラクに顎を突き出して、犬歯を剥き出しニンマリと笑った。
熊と鼬の睨み合いを尻目に、ミラは白ワインの瓶とグラスを抱え椅子を引いた。
「シュラク殿、ルパーグ夫妻の元で食事をしてきたようだが、よければ私の分も召し上がって下さい。
明朝早くにあの紅く燃えた山へ向かいます。
一緒に行くと言うのであれば、好きにされると良いでしょう」
そしてシュラクの表情を確認するように顔を上げると、不自然に逸らし、するりと雑声の中へ、二階に有る宿部屋へ消えて行った。
ミラの視線に呆然となったシュラクの視界は、黒麦酒の大瓶二本とアルコール抜きの果実酒一瓶に遮られた。
「我慢してたんだけどなぁ、やっぱり今日はもうちっと飲むわ。
お前さんの分もあるから付き合うよな」
シュラクは泡食っている間もなく、コルクは抜かれ、黒く泡立つ液体と蜜紅色の液体が仲良くグラスに波打っている。
いつの間にか注文した、木の実やソテーのつまみを前に、シュラクがハット我にかえる。
「ミッ、ミラさんはお酒を飲んでいたようでしたが、飲酒は<神読人>の力を衰えさせる…」
「おい!ミラに『さん』は付けるな。
ゴロが悪いってミラが怒る。
あーあ、俺もバラドでいいからな。『さん』なんて付けられちゃ、むず痒いのなんのって…」
バラドは言葉途中で、ぐびぐびと黒く艶光る液体を流し込む。
「酒を呑むな、煙草は吸うな、女は抱くな、だっけ。
<神読人>ってのは随分窮屈だなぁ。
まっ、ミラには関係ないけどな。ついでに言うとだ、ミラはああ見えて蟒蛇だ。
一度くらい、きゅうっと酔わせてみたいもんなんだがな」
手元のグラス半分になった黒酒の泡立ちに視線を落とすと、シュラクの顔面に思い切り差し出す。
泡の中でシュラクの顔が歪んでいる。
「ミラは特別なんだ、唯それだけだ」
そう言うと、グラスの半分に圧縮された黒飴色のシュラクを一気に飲み干し、あくびサイズの大口で臭い息を吐き出す。
「特別ついでに、口を滑らすとだな。
ミラは、何と、姫様だ。
西の晦冥海の更に西、今は『千炎砂漠』と呼ばれているそこのシュトラント王国の、国王の、妹の、娘様だ。
ただ、生まれた時は一人だったんだが、生まれてすぐに二人になったんだ」
「え?」
シュラクが間の抜けた声を出す。
「突っ込んで聞くなよ、俺も良くは解らん、が、ミラは自分を『時間からはじき出されたもう一人』と言ってたな」
「どういう事か、理解できない。
…神はどう対処されたのですか?」
「対処もなにも、神に気付かれる前に匿われたよ」
「そんな!謀反だ!大変な事になる!」
「もう、なったさ。
今の王国は見事に崩壊して、城も町も砂漠の砂と見分けがつかないそうだ。
西の果て、突如現れた『千炎砂漠』。
その話は禁忌なんだろ?」
シュラクが息を飲む。
「それが、ミラさんのせいだと…」
「おっと、俺の心は読ませないぜ、さてと余談は此処までだ」
そう言うと、バラドは飛ぶ虫を払うようにブルンと頭を振る。
眉間に深い皺が刻まれる。
「俺の言いたかったのは、お前の事だ」
「私の?」
「そうだ。
お前の面は、ティーラーにそっくりだよ」
お前も<神読人>なら知っているだろう?
<神読戦士>ティーラーだ」
シュラクは喉から指先まで、鋭利な刃で裂かれる戦慄に襲われた。
<神読戦士>ティーラー。
<神読人>も凡人も、彼を知らない者はいない。
三千年に一人と謳われた半神に値する能力を持ち、秀麗な容姿に秀抜な武術を誇る彼は、しばしば神々の所有権争いの種になっていた。
いつ頃の事か、神々のティーラーに対しての独占禁止が成立し、その証として東の神々の住居に最も近い『黒霧海』の島に、三千年に一度咲く『優曇華』の花園が作られたという話しも有る。
そのティーラーの肉体は、今は存在しない。
精神とその優れた能力全ては、西の虚無平野の巨大な沼に住む『魔物』を封印する贄となっていた。
“宇宙創造の副産物”“不のエネルギー体”と呼ばれている、それを封印続けていると。
「バラドさんは、その、ティーラー様にお会いになった事があるのですか?」
「俺じゃねえ、会ったのはミラだ。
で、“さん”付けんな!」
バラドは黒い液体をグラスに注ぐと、ガブリと飲み干した。
そして砂埃まみれの腕で口まわりを拭うと、身を乗り出してきたシュラクへ
「ティーラーも、『魔物』も、ミラに自分の命運を狂わされたんだ。
『魔物』は宇宙が創造された時から封印されていて、その綻びを補正しているティーラーにミラは出会った。
そして、二人の前で『魔物』は蘇った。
ティーラーは自分の姿を『双頭の大蛇』へ変え、『魔物』に絡みついたまま沼の底深く沈んで行った。
今でもあいつは生きた封印として、あの沼にいる。
誰も助けられない。助けたとして、他に封印出来る者はいない」
「まさか、そんなはずはない!
ティーラー様は摂理の元に定命を全うされたと伝えられている」
「神さん達には解らないんだ。
神は『歪んだ命運』の中を見る事は出来ない。
ミラが言っていた。
自分の行く先々で『命運』が歪む、『時間』が歪む。
『魔物』が復活したのもそのせいだと。
ティーラーを頼って会いに行った事が仇になったと。
彼の『命運』を狂わせたのは自分だと」
バラドはまた、飛ぶ虫を払うようにブルブルと頭を振る。
「神さん達にはミラの存在が見えていないが、ミラの辿った後の『歪み』を手探りながら、追い詰めて来ている」
そう言うと、仰ぎ加減でその図体に似つかわしくない小さな溜息を一つ漏らした。
視線は遠い時間を眺めるように潤んでいる。
「バラドさ、は、ティーラー様に会ってはいないのですか?」
今までと様子の違うバラドに、シュラクは恐る恐る聞いてみた。
バラドは今度は激しく、頭を振る。
「違う!違う!違う!
俺が話しているんじゃない!
ティーラーが頭の中に!
俺は生身のティーラーを知らない!
沼に沈むあいつが、幻影で俺に教えたんだ!
ミラの能力が覚醒すれば自分を救えるが、ミラを巡って『神々』と『混沌の魔族』との争奪戦が起きる。
ティーラーはそれを望んでいない。
だが、ミラは迷っている。
責任を感じているのもあるが、あいつは…ティーラーを愛しているんだ!」
硬直しているシュラクを上目に睨むと、グラスに注ぎ足した黒飴色の液体を飲み下す。
「俺は何が言いたいんだか…。
ティーラーそっくりのお前のおきれいな面で、ミラがティーラーを思い出して苦しむんだ。
本来なら腕の一本でもへし折って、追い払うところだが、ティーラーが俺の中に入ってお前に何もかも話させようとしている。
解らない…。
たぶん俺の死期が近いんだろう。
俺の代わりがいるって事で…、
だからって!
どうしてこんな面のそっくりなヤツなんだ!
俺は死んでも死にきれねぇ…」
バラドの酒かティーラーが話させているのか判断のつけ難い独白に、シュラクは引き上げ時を感じた。
バラドの話を信じるつもりはなかった。
だが、この不釣り合いな二人に絡み付く、何か袋小路めいた息苦しい触手に、自分も絡み取られる様で。
鳥肌のざわざわする左腕を右手で押さえる。
その右手が異様に冷たくなっているのを感じながら。
窓から煌々と溢れる蒼い月明かりの中。
女性の見事な肢体が浮かび上がる。
バラドが後ろ手で閉めた扉の音にも、彼女は振り向かない。
この薄暗く狭い宿部屋で、ミラは今までバラドを待っていたのだ。
「遅かったなバラド、明日は早いと言っただろう。
もう寝よう。
明日はあの坊やの子守もしなければいけない」
淡月光を頼りに、木椅子に衣類を掛けるバラドに、ミラはゆっくり振り向いた。
その視線はバラドの後ろに何かを捜していた、が落胆した様に肩を落とす。
「ティーラーが来ていたのだな」
「ああ…。相変わらず、雲を掴む様な奴だ」
「そう…か。
意識だけならば、異次元の移動は可能なのだろう…」
簡素に整えられていた部屋は、しばらく客が途絶えていた為、正気のない空気に満ちていた。
今まで何人もの行商人がその体を預けたのだろう、くたびれた寝台が一つ、壁際の闇に沈んでいる。
バラドが先に冷たい毛布に滑り込む。
そして、彼のお陰で有るかなしかの狭いスペースに、ミラの体が収まる。
どちらも全裸に近い姿だった。
バラドの太い腕が、ミラの細い肢体を抱き包む。
「バラド、
死は自然な事だ。
お前にとっては。
それと、寝る前は口くらいゆすげ、臭うぞ」
そう言うとミラは、バラドの厚みのある胸に頭を埋め、すぐに小さな規則正しい寝息を立てた。
バラドは自分の口元を手で覆って、はぁっと息を吐いてみた。
たぶん酒臭いのだろう。
そして、くしゃっと顔を歪める。
(死期がどうのと考える前に、口臭が気になるなんてなぁ、俺くらいだな)
ミラの寝息が微かに乱れる。
(おっといけねぇ。
余計な事は考えない。考えない。
せっかく安定しているんだ、このまま寝かせてやらねぇと…。
しかし、いつからだったかな…、ミラを抱いて寝るようになったのは)
他人の心声がダダ洩れで聞こえてくるミラは、安眠する事が出来なかった。
寝付く頃に必ず悲鳴を上げて目を覚ます。
一晩に十回を超える事も有った。
目覚めた時のミラは両の瞳を恐怖に震わしながら、空間の一点を見つめていた。
ティーラーを探しているのだろう。
そうだ、俺ではないんだ。
だが、現にミラの発作を押さえる事が出来るのは俺だけだ。
自分の心情を滅却して、更に外界の雑念を遮断する。
そうする事でミラは、無音の空間で眠る事が出来る。
(そうだ、俺はまだ死ぬ訳にはいかない。
まして、あんな小僧に任せられる訳がない)
ミラが軽く頭を振るわすと、晧金色の豊かな髪がバラドの鼻先をくすぐる。
(あんなに輝く夕焼けの色だったのに…、髪の色は戻らなかった。
なんでこんな目にあわなきゃいけねぇんだ…)
バラドの指がミラの髪を撫でようとしてためらい、空を掴んでミラの肩を抱いた。
耳を澄ますと、下階で飲んだくれている町男達の声が響いてくる。
明日は彼らにとっても、ミラやバラド、シュラクにとっても、信じがたい日になる。
時間が、現実を偽って、無情に刻み続ける。