一、竜眼晶(りゅうがんしょう)
1980年代の「剣と魔法・ダークファンタジー」ブーム。
あの時代のきな臭い夢を、紡いでいきます。
お気に止まりましたら、覗いてみてください。
深夜だった。
月も星もない暗闇に
遠く、そそり立つ山の頂だけが
巨大な松明のごとく紅く燃える。
息も許さぬ冷闇の中で、
燃える山を覆い轟々と巻き付く雲が
劫火であぶられ、猛り狂う大蛇のごとく
山に絡みつき
夜闇をじりじりと焦がしてゆく。
時折、女たちのむせび泣きや、男たちの叫びが
風に絡みつき四散する。
数百の松明が、火に巻かれた大蛇のうねりとなり
燃える山を駆け登る。
ここは『ル・カウゼム』(枯れを知らぬ井戸の町)。
豊かな水の恵みに満ちた、豊穣の町。
そして、<竜眼晶>に収められた囚われの町。
呑みすぎで嘔吐した時の胸糞悪い爽快感と共に、次第に足元から形を留めていく周囲に目を見張りながら、大男は思い切りくしゃみをした。
それを合図に、大男が手綱を握って押さえていた二頭の馬が暴れ出し、相方が制しなければ、男の腕は肩から引き抜かれているところだった。
「バラド、お前はよくこんな時に、あくびやらくしゃみやら出来るな」
周囲の異変を感じ取りながら相方の声は、あきれるよりも楽しげに聞こえる。
「何度も言うが、俺は眠いんだ、腹減ってるんだ、それになんで外に出ちまったんだ!寒いじゃないか!」
遠慮無縁の大あくびを前に、闇色のフードを深く被覆した長身の相方は、小さく首を振った。
「接点を少しずらしておいた。
そのままだと<竜眼晶>の中とは言え、あの老町長の家の中に出るからな。
誰か居たら面倒な事になる。
多分誰も、此処が<竜眼晶>の中だとは気付いていないだろうから、出来れば何も知らせずに元の世界へ戻したい」
相方の言葉に、バラドはブルッと震えながら闇に慣れた目を上げた。
そこは、この町へ入る前に通った町外れの林道。
うっすらと夜道を照らす星の位置は、今来た世界よりも三ヶ月近く経った事を、冷たく教えている。
二人が導かれた町には未完成の魔法陣に絡み取られた老町長の他には誰もいなかった。
町民は全て『竜の眼』と呼ばれる化石の中に閉じ込められており、中にいる身重の孫娘を案じた老町長の拙い魔法の呼びかけに二人は導かれ、<竜眼晶>に潜入する事になった。
「バラド、町へは行かない、あの山へ行くぞ」
黒衣の相方が軽やかに愛馬に跨ると、呼ばれた偉丈夫もそれに従う。
反射的にバラドは町と反対側の山へと馬首を巡らす。
鞍に掛けた二振りのサーベルが、ガシャガシャと不平をもらした。
頑強な肩の紺青に染め上げた厚手のケープが、ぶわりと闇を裂く。
突如、遠くの山の頂が、噴火直前の活火山の様に内側から紅く、大きく膨れ上がり、地響きと共に巻き付いた紅黒い雲がうねうねと旋回し始めた。
「竜が動き出した。今夜はひと暴れしてもらう」
はっ!と威勢よく馬を駆り立てると、漆黒の風神さながら燃える山へと走る。
一瞬遅れてバラドも愛馬に鞭を打つ。
「おい!ちょっと急展開じゃないのかぁ!くっそぉー、何か食い物取って来るんだった。
こんな空きっ腹で何が出来るってんだ!」
猛風の摩擦で、肩に留めたフード付きのケープを千切れるほどはためかし、二つの馬人は飛ぶように馬を駆る。
しかし、頂きを紅に染めた山は遥か彼方の位置を譲らず、その距離は狭まる様子はなかった。
「これでは間に合わない!
バラド、前に回って私の馬を誘導してくれ!
竜を呼び出してみる!」
バラドは投げ出された手綱を受け取ると綱先の革紐を噛み切り、幾重にも束ねられていた手綱を一叩きする。
それは思い切り伸びて馬一頭半程の長さになる。
弛まない程度にそれを右手に搦めながら、スピードを上げて黒衣の馬人の前に回り込む。
星一つない闇夜の入り組んだ林道である。
しかし、バラドはいかにも手慣れた捌きで、スピードを緩めることなく、右手で後方の馬を操りながら左手で自分の馬を駆り立てる。
馬上の相方は手綱から放した両手を頭上斜め前方へ翳すと、ぶるっと鮮青色の閃光を猛炎山の頂に放った。
瞬時、凄まじい咆哮が闇夜を切り裂き、紅炎山を覆っていた燃える雲がゆらりと形を崩したと思いきや猛烈な勢いで渦を巻き始め、次第に狂った動きで旋回する巨炎竜の姿に身を変えた。
それはまさしく全身を猛火で覆い尽くし、気圧を歪ませる熱波を纏い、耳まで裂けた巨口には数千の牙が燃え盛る。
そして血走った巨大な双眼でバラド達が駆け抜ける遥か下方の山裾の林を、飢えた眼光でぎょろぎょろと見回す。
「バラドー!
奴が見つけやすいように開けた場所へー!
右手に湖がある!
そこまで全速力だ!」
相方の声に一括で馬首を右方向へ巡らせたバラドは巧みに後方の馬も操りながら、木々の散聳する林を駆ける。
後方で、轟々と猛風が巻き上がる。
鱗という鱗を紅蓮に燃え上がらせ、轟く咆哮を吐くと、信じられないスピードで巨炎竜がそこまで迫って来ていた。
突如、視界いっぱいに広大な湖が出現した。
バラドは素早く手綱を引いたが、後方の相方の馬までは間に合わず、それはバラドの横を擦り抜け、前方へ踊り出る。
咄嗟に右手に搦めた手綱を払い、腕を伸ばして猛速で掠める黒衣の相方の細腰を抱き引いた。
間一髪、騎手を失った馬は悲痛な嘶きを放ち湖上に高飛沫を上げ、今しがた目覚め突如雲間から姿を現出させた月光にそれはきらきらと舞い散った。
瞬時、耐え難い熱風が吹き上がると、蒼銀色の月光を背に、一山程の巨炎竜が、遥か上空から湖へ急降下して来た。
「さてと、ぼちぼち出番だな」
バラドは黒衣の人を右腕に抱いたまま下馬すると怯えて儘ならない馬の尻を蹴飛ばし林の奥へ逃がした。
湖水を一飲みで干乾びさせる巨大な口から煮えたぎる蒸気を吐き出し、その深紅に燃え盛る巨竜はバラド達の目前で圧倒する巨体を湖上へと、着水ぎりぎりまで急降下してきた。
「バラドよく聞け!奴の炎は炎ではない!だから熱くはない、焼かれない、恐れるな。
奴の眼だけを狙え!
そこだけが実物だ!」
淡々とした相方の言葉が終わるが否や巨炎竜の吐く熱風が二人を襲う。
間一髪で両側へ飛び分かれると、バラドは一瞬も置かずに付けていた通常の数倍長い皮鞭を稲妻の瞬きで投げかけ、その炎柱の角に巻き付ける。
そして巨炎竜が巨大な頭を持ち上げるはずみにまかせて頭上高く舞い上がる。
あたかも燃え上がる山に身を投じる様に、バラドの姿は巨炎竜の頭上の炎に小さく飲み込まれていった。
「馬鹿な事を!あれでは焼け死ぬっ!」
突如、闇色のケープを一糸乱さぬ相方の背後で、若い男が叫んだ。
声の主は、此処まで全速で走らせていたのか荒い息を吐き興奮に震える馬をわたわたと操っていた。
「あなたは何て事をさせるのですか!
あんな炎の中では数秒と持たない!」
巨炎竜の前に二度目の忠告をも平然と無視するこの黒衣の士に、新参の男は畏怖と苛立ちを感じながら素早く下馬すると、馬を林奥へと追い払う。
新参者の背丈はバラドより低く、整った風貌とすらりと均整の取れた体で青翠色の外套を着こなす様はどこぞの貴公子を思わせる。
「あなた達は、どこから来たのですか!
どうやって、この町に入ったのですか!」
炎の竜の金切り声に、彼の声は砕ける。
のたくる竜の姿態を映す紅い湖水が、ざはざはと悲鳴を上げる。
目前の竜は、湖辺の二人の姿を捕らえると、にんまりと燃える牙をむいた。
「来る!!」
掠れた悲鳴を上げ後ずさろうとする新参者に、黒衣の人はフードに隠れていたその白い顔をゆっくりと傾けた。
とその時、巨炎竜の燃える頭上で、人の大きさ程の瘤が、モクモクと膨れていく。
いや、それは炎に巻かれながらも何一つ変わらない、着地した足場を確かめながら大あくびをする、バラドだった。
頭上の異物に気付いたのか、巨炎竜は狂った動きで首を上下左右に振り回すが、バラドは腰の剣を確かめながら、炎の鱗を頼りに、ビクビク震える瞼へと降りていく。
本来ならば闇夜を湿らす湖水は、雲間から現れた冷ややかな月光に青ざめ、紅蓮の炎にのたくる巨炎竜の尾に打たれ、波を荒げて怯える。
月闇を裂く雄叫びを放つと、巨炎竜はその燃える鉤爪で眼上の異物を毟り落そうとした刹那、バラドの跳躍。
長剣を振りかざし、巨炎竜の右目を深々と刺し、そのまま裂き落ちる。
暗闇の天地を絶叫が揺さぶる。
バラドは命綱にも等しい皮鞭から手を放すと、山ほどの高さから荒い飛沫を上げる水面へ飛び込んだ。
瞬時、闇世界が白銀に包まれると、悶え狂う巨炎竜の姿は存在感すら残さず消失し、ざはざはと場違いな波音以外は静寂な蒼夜が支配した。
遠くで猛烈な勢いで水を掻き泳ぐ音が聞こえる。
頑強な二の腕に長皮鞭を巻き付け、口には巨炎竜の眼を刺し裂いた長剣にスカーフを巻いた物を咥えている。
岸近くまで泳ぎ着いたバラドを確認すると、闇色のフードを深く被った人は、傍らであまりにもあっけなく治まってしまった事の次第に呆然としている青年へ、
「竜に連れ去られた婦人は、町人達に助けられた、腹の赤子も無事、
だが、
出られない」
と、何かを読み上げる様な虚ろな声で告げ、ぐらりとバランスを崩した。
咄嗟に駆け寄ったバラドの、ぐっしょりと濡れたままの腕の中に倒れ込み、気を失った。
束の間、バラドは腕の中の人を苦い表情で見下ろすと、体温が逃げないように闇色のケープで包み抱き上げる。
そして、傍らで固まっている青年へ向き直ると、目を細め、太い眉毛の間に深い皺を刻み、歯軋りを漏らした。
「あんた誰だ?まあいい、その身なりからして町のもんじゃねえな。
まあっ、どうでもいいが。
俺達はこの通りずぶ濡れの過重労働でな、悪いがこの辺りに火を起して、俺達の服を乾かして、朝まで番をしてくれ。
なんせ、三日三晩不眠不休で来たもんで、まったくもう…、
あんの爺さんが中途半端な魔方陣を作ったおかげでよ、こいつが同情しちまって…。
竜を倒してやったんだ、そんくらい頼むな」
と、急展開にあんぐりしている見知らぬ男に捲したてながら、黒衣の人を抱えたまま巨木の根に腰を下ろした。
ずぶ濡れのバラドの体には火傷一つ、衣類の焦げ一つ見当たらない。
「怪我は…、怪我はないのですか?」
その場から一歩も動かずに青年は掠れた声をかけた。
「怪我?
ああん?
あの火は火じゃねえって言ってたんだから、焼かれる訳ねえだろ?
訳解らん事言ってねえで、さっさと薪探して来いや」
「わっ、訳の解らないのはどっちですか!
あなた達は誰ですか?
竜はどうなったんですか?
私が、ここで、朝までって…、私は町に帰らなくてはいけないのに…。
竜にさらわれた婦人が助かったって本当ですか?
ちょっと、聞いて下さいよ!
お、お、お願いですから…!」
青年の泣きの入った問いの後半はバラドの豪快な鼾の前で、完全な独り言になってしまった。
夜闇に眼が慣れていたとは言え、朝にはまだ幾時もある。
巨木にもたれ黒衣の人を抱く男からは水が滴り落ち、気を失った相方のケープを濡らしていた。
火を起さなくては。
そう思い林へ目をやるが、灰闇の中、足元さえおぼつかない。
先程まで竜の炎に炙られていた林道は、
瞳孔を開いて無心に枯れ枝を搔き集める青年を、暗い瞳で見据えていた。