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記憶士  作者: 阿波野治
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後編

 星羅との距離を縮めるにあたってネックとなったのが、共通の趣味嗜好の乏しさだ。

 その程度の障害が介在するだけで打ち解け得ないほど、人間という生き物は繊細ではないはずだ。とはいえ、いっしょになって心から楽しめるものがあれば、盛り上がることができて、関係も深まるのは間違いない。

 昼休み時間、すっかりわたしたち専用になった感がある中庭の木陰のベンチで、その考えを星羅に伝えた。

 星羅はわたしの意見に全面的に同意を示した。母親手製だというかぼちゃコロッケの口に押し込んで咀嚼し、嚥下してから、「でも」と続ける。

「いっしょに楽しめるものって言われても、全く思い浮かばないな。秋奈はなにか考えはあるの?」

「実はね、あるの。熟考に熟考を重ねた結果、あっ、これしかないって思った案が、一つだけ」

「なんなの、それは」

「遊園地!」

「……期待持たせておいてそれかよ。ありきたりで、捻りもないし」

 ため息をつき、茶を一口すする。「えー」と、わたしは抗議の声を上げる。

「星羅の反応、ちょっと予想外だなー。だって遊園地だよ? 遊園地!」

「遊園地なのは分かってるよ。何回も言わなくても」

「星羅は食いつき悪いけど、好きか嫌いかの二択だと、好きでしょ? 行きたいか行きたくないかの二択だったら、行きたいでしょ? それとも、なにか嫌な思い出でも?」

「ないよ、そんなものは。悪いイメージはないけど、この歳になってわざわざ行くのはちょっと、とは正直思うかな」

「むしろ今が一番ぴったりなお年頃じゃない? 年齢制限とか身長制限とかに引っかかる心配はないわけだし。だからほら、家族連れとかを除けば、来園者はわたしたちくらいの年齢のカップルが殆どでしょ」

「あたしたちはカップルじゃない」

「そうじゃないとしても、そういう気持ちで行くものなの。二人きりで遊びに行くときっていうのは」

「まあ、その感覚は分からなくもないけど」

「ね! ほらね!」

「あー、もう。そういう暑苦しい感じ、やめろ。手が止まってるから、動かせよ」

 手で払うで促されたので、手にしているメロンパンに大きくかぶりつく。星羅は白米の塊を口に運び、咀嚼したのちに嚥下してから、

「遊園地って言っても、行くのはK遊園地だよな」

 口の中がメロンパンで満杯だったので、首の動きで指摘を肯定する。K遊園地は、わたしたちが住む街に隣接する市の郊外にある。広くもなく狭くもない、アトラクションがそれなりに取り揃えられた遊園地だ。

「ディズニーランドとかならともかく、あのレベルのテーマパークにわざわざ行くっていうのも……」

「えー、そんなことないよ。星羅はK市民なんだから、K遊園地には当然行ったことあるよね」

「うん。小さいころに、二回か三回くらい」

「くり返し行ったってことは、少なくとも、二度と行きたくないほどつまらなくはなかったってことだよね。ていうかむしろ、凄く面白かったんじゃない?」

「まあね。でも、当時は子どもだったから」

「いい思い出が残っている場所は、大きくなってから足を運んでも絶対に楽しいよ。記憶に残っている風景と、どこか違っているとか、ここは変わらないとか、比較したりしたら絶対に盛り上がると思う」

 K遊園地行くのを渋る星羅と、それを説得するわたし、という構図で会話は展開する。星羅は言葉の上では拒絶一辺倒だが、心はそう嫌がっておらず、反論は形式的なものに過ぎないことを、わたしは早々に看破していた。切り口や言い回しを矢継ぎ早に替えての説得の言葉に、鬱陶しがるようなそぶりを見せるどころか、口元が緩みっぱなしなのを見るに、星羅はその自覚があるらしい。二人とも、会話の流れが漠然と推奨する役割に甘んじ、演じることを楽しんでいる節があった。

「分かったよ。秋奈がそこまで言うなら、付き合ってもいいよ」

「えっ、ほんとに? ありがとう! じゃあ行く日だけど、土曜日と日曜日、どっちにする?」

「日曜日。その日ならなにも予定は入っていないから。やっぱり朝から?」

「そうだね。行くからにはいっぱい楽しみたいし。それから――」

 わたしたちは打ち合わせに入った。

 言わないでおこう、と思う。茉麻から、日曜日に四人で遊びに行かないかと誘われたが、星羅との付き合いを優先させたいから断るつもりだ、ということは。星羅への思いの強さをアピールするために、その事実を利用するつもりでいたが、下手な小細工はしない方がいい。星羅に不要な心配をかけることになるし、星羅が懸念している事態を三人が引き起こすおそれは、まず間違いなくないのだから。

 駆け引きを弄するのは得意ではないし、性分でもない。今はただ、よいと思うことを、一つずつ着実にこなしていこう。

 目標は遥かかもしれないが、想定している最遠よりも遠くはないはずだ。


 旅行は出かける前が一番楽しいという。

 では、具体的になにが楽しいのかというと、要するに計画を立てるのが楽しいのだ。

 バラバラになった無数のピースを目にした瞬間はうんざりするかもしれないが、一つ一つはめ込んでいくうちに夢中になる。空想においてならば、ままならない現実とは違い、多少の現実性を無視して、自らの心を喜ばせるものだけをピックアップして飾りつけていける。

 その日、わたしと星羅は、遊園地行きに関する話し合いに多くの時間を費やした。話し合いというと少し大げさだが、親しく付き合って間もない者同士が出かけるとなると、事前の準備はどうしても入念になるものだ。

 遊園地に行くのは日曜日、というのは早々に決定した。土曜日は星羅に用事があるらしい。家族といっしょに出かけるのかと問うと、「まあそんなところ」という返事だった。

 日にちが確定したならば、どうしても事前に決めておくべきことがある。

 夏也が夕食をとる時間になったのを見計らい、自室を出る。「最近付き合い悪い」のメッセージなどなかったかのように、茉麻たちと昨晩放送されたテレビドラマの話で盛り上がっていたところだっただけに、予想される展開に対する苦痛と不安は二倍にも三倍にもなった。

 それでも、話をする必要がある。わたしたちが優先させるべきは、どんなときでもお母さんなのだから。

 戸口からダイニングを覗き込むと、案の定、夏也は食事をしている最中だった。テーブルに肘をついてスマホを見ながら、今晩のメインのトンカツを頬張っている。

 また揚げ物だ、と思う。夏也の好物だから買ってきたのだろうが、お母さんの健康や飽きることも考えて、もう少し味や食材や調理方法の違う料理を出すように心がけてほしいのに。

 テーブルの上に副菜は出ていない。自分は食べないから冷蔵庫に仕舞ってあるのか。それとも、買ってきていないのか。後者だとすれば、わたしが一から作らなければならない。わたしとしては、出来合いのものよりも手作りの方が好ましいと思っているが、わたしの料理の腕前とレパートリーはたかが知れている。野菜を使った総菜を買ってきた方が、栄養バランスと味のクオリティが両立した献立を提供できる場合もあるのに。

 無性にいらいらしてしまったせいで、「お兄ちゃん」と呼びかけた声は、想定していたよりも尖ったものになった。

「うおっ、びっくりした。……なんだよ」

 呼び声の鋭利さに対抗するかのように、険のある声を返してくる。そっちがそのつもりなら、という気分になりかけたが、この場面で争っても不毛なだけだ。ゆっくりと息を吐き、ささくれ立った心をなだめる。

「ちょっと話、いい? 話っていうか、頼みごとなんだけど」

「さっさと言えよ。勿体ぶられると気持ちわりぃから」

「日曜日、友だちと遊びに行くことにしたんだけどね」

「勝手に行けばいいだろ。なにわざわざ報告しに来てんだよ。小学生か」

 話が終わっていない段階で自分勝手な解釈をして、わざと癪に障るようなことを言う。怒りがぶり返してきたが、ここで感情を解き放っては台無しだ。

「頼みごとがあるって言ったでしょ。せっかくの休日だし、やっぱりほら、丸一日遊びたいでしょ。だからお母さんのお昼ごはん、悪いけど、日曜日だけお兄ちゃんに頼めるかな」

「は? ふざけんな。絶っっっ対に嫌だね」

「……なんで?」

「何度も言ってるけどよ、俺はな、ババアの世話は嫌々やってんだよ。お前が学校があって世話は無理だって言うから、平日の昼間だけ仕方なく。それなのに、せっかくの日曜日まで俺の担当だって? ふざけたこと言ってんじゃねぇぞ。遊ぶのは午前中か午後からかにして、いつもどおりやれ。お前が昼間帰ってこなかったとしても、俺はお前の代わりなんてしねぇからな」

 夏也は苦虫を噛みつぶしたように思いきり顔をしかめて、箸でわたしをくり返し指しながら、苛立たしそうにというよりも忌々しそうに、以上のセリフを吐き捨てた。

 到底、許容できる言い分ではない。荒々しく足音を立てながらテーブルに歩み寄る。トンカツを掴もうとしていた箸が虚空に停止し、皿に落ちていた視線がわたしへと転じられた。

「なんでよ! そのくらい、いいでしょ。一回だよ? たった一回、わたしの担当がお兄ちゃんの担当になるだけなんだよ? それすらも駄目だって言うの?」

「ああ、そうだよ。駄目に決まってんだろ。何回も説明させるんじゃねぇ。飯を食うのに邪魔だから、さっさと向こうへ行け。消えろ」

 心底鬱陶しそうな顔を見せながらの、手で払う仕草。それはわたしの神経を逆撫でにする効果しかもたらさない。

「話が終わってないのに、無理に決まってるでしょ。ねえ、なんで駄目なの? お母さんの介護、お兄ちゃんが嫌がっているのは知っているけど、たった一回だよ? たった一回、余分に仕事をするのも嫌なわけ?」

「ああ、嫌だね。あのババアのために働くどころか、顔を見るのも嫌だ。そもそも、毎日昼飯をババアの部屋に持っていくこと自体、俺としてはむちゃくちゃ譲歩してるつもりだ。それなのに、これ以上妥協するなんてまっぴらごめんだね。死んでも引き受けるつもりはねぇ」

「……なんでよ。お母さん、助けてあげないといけない人でしょ。家族であるわたしたちが助けるのは、当たり前でしょ。お兄ちゃん一人でやっているんじゃなくて、兄妹でちゃんと分担しているのに。 なにが不満なの?」

「言いたいことは分かるぜ。お前が言いたいことは分かる。でもな、俺はあのババアから酷い目に遭わされたんだ。困っていようと、生みの親だろうと、助けてやりたいと思わなくなるような、くそったれな仕打ちを」

 視線はわたしの顔に定められているが、意識はお母さんへと注がれている。そう思わせる瞬間がたしかにあった。現在の弱りきった蜂須賀冬子ではなく、記憶士として輝かしい実績を重ねていた時代の蜂須賀冬子へと。

「そんなにババアの世話がしたくないなら、お前もしなければいい。ババアのことなんて放っておいて、遊びに行けよ。一食くらい抜いても死なないだろ。もともとそんなに食べてないんだから」

「そんなこと、できるわけないでしょ」

「じゃあ、遊びに行くのはやめろ。ババアを見捨てて遊ぶか、遊ぶのをやめてババアの面倒を見るか。その二択だよ。どっちにしろ、俺は土日はババアの顔は一瞬たりとも見たくないし、見るつもりもないからな。はい、話終わりー」

 夏也は再び箸を動かし始めた。

 わたしは両の掌を天板に思いきり叩きつけた。乾いた大きな音が立ち、皿の上の料理の一部が一瞬、重力から解放された。

「子どもみたいなこと言うなっ! いつもわたしがやってるんだから、一回くらい協力しろよ! たまにはわたしにも息抜きさせてよ! ふざけんな!」

「なんだと……!」

 椅子を跳ね飛ばすようにして夏也は立ち上がる。

「遊びたいなら遊べって言ってんだろが。誰も禁止してねぇよ。遊びに行きたいなら、どこへでも自由に遊びに行けよ」

「だから、お母さんを放っておけるわけがないでしょ」

「だったら、お前が世話したらいいじゃねぇか。言っただろ、遊ぶか世話するかの二択だって。何度も言わせんな」

「……どうして。お兄ちゃんはどうして、そんなことばかり言うの?」

 あまりの怒りに、声が震えた。無意識に握りしめた拳が、自分のものではないかのように痙攣する。それを目敏くも発見したらしく、夏也は不敵に口角を吊り上げる。

「俺を殴るつもりか? やれるもんならやってみろよ。殴り合いなら絶対に俺の方が強いぜ。日頃からストレス溜まってるから、暴力を振るいたくて仕方なかったんだよ。泣いて謝っても、大好きなママは助けてくれないぜ。それでもやる気か?」

 脅しの言葉がはったりではないのは、わたしが一番よく理解している。

 これまで、本格的な兄妹喧嘩が起きないように腐心してきたが、それでも軽い揉み合いに発展したことが何度かあった。たとえば、胸倉を掴もうとしたわたしの手を振り払った夏也の手は、腕力ではこの人に敵わない、と瞬時に悟らせるだけの力強さがあった。許されざる暴力を行使し得る余地が内に秘められてもいた。

 夏也自身は、男と女だから、強者と弱者だから、という意識を持っているだろう。それゆえに、本来ならば手を上げていた場面だったが自制した、ということが何度もあったはずだ。しかし、理性のタガがひとたび外れたら――。

 怒りの亢進に歯止めがかかった。選択はわたしの判断に委ねられた。あくまでも争うか、それとも退くか。

「――馬鹿……!」

 家の隅々まで響き渡る大音声のつもりで発した罵倒は、どこか迫力に欠けるものになった。夏也に背を向け、ダイニングから出て行く。拍子抜けしたらしく、数秒の空白を挟んで、呆れ混じりの嘲笑の声が後方から聞こえた。

 帰室してドアを閉ざした途端、鎮圧に成功したはずの怒りがぶり返してきた。俯せにベッドに倒れ込み、握り拳で枕を連打する。冷静なもう一人の自分からの要請に譲歩する形で、五・六回で行為を打ち切ったときには、早くも息が乱れている。不当な罰を受けさせられたようで、それが悔しい。

 どうして、休みの日に遊びに行くのが許されないの? 毎日頑張っているんだから、息抜きをするくらいいいじゃない!

 呼吸が落ち着くのに比例して、夏也の横暴に対する憤りは静まっていく。

 心が一定の落ち着きを回復すると、今度は自責の念が込み上げてきた。お母さんが日頃から望んでいないと公言している、兄妹喧嘩をしてしまったこと。そして、実母の介護は当然の義務であるかのように普段は振る舞っているくせに、その実、負担に感じていた自分。その二つを責める気持ちだ。

 一人の人間の食事入浴その他の面倒を見るのだから、精神的体力的な疲労は感じて当然。介護の対象が愛する肉親であれば、一切の苦痛なく支えていけるという認識は、甘すぎる。間違っている。

 そう重々承知していたはずなのに、「蜂須賀冬子の介護が重荷だ」という意識を自分が持っていた事実に、ショックを受けているわたしがいる。

 介護は大変だから、苦痛を覚え、負担に感じるのは当然だ。たまの休日くらい休みたいと思うのは、当たり前。それなのに、丸一日遊びたいという願いを聞き入れようとしない夏也の対応は、間違っている。

 親の介護は子どもにとって当然の義務なのだから、大変でも苦痛でも負担でも、それを理由に羽目を外すことがあってはならない。半日間、羽を伸ばす機会が与えられたのだから、それで満足するべきだ。丸一日遊べないことに文句を垂れるのは、わがまま以外のなにものでもない。

 相反する思いがせめぎ合い、最後の審判の日が訪れても決着がつきそうにない。

 これまで、お母さんとは適切な距離を保って接してきたつもりだ。しかし、葛藤しているうちに自信が薄らいできた。

 葛藤の根本の原因が、夏也の身勝手な主張にあることを失念したわけではない。しかし、先ほどのいさかいで消耗してしまい、兄ともう一度戦うだけの気力は湧かない。それどころか、なにかをする気力でさえも。

 だからといって、ベッドの上でいつまでも横になっているわけにはいかない。他人の助けを必要としている人が、夕食の到着を待っている。

 十分程度の遅延こそあったが、夏也はすでに食事を終えているだろう。その食器の後片付けをするのは、わたしだ。

 人間、得手不得手がある。可能不可能がある。その役目を自分がこなすこと自体は、なんとも思わない。

 ただ、夏也は食器洗いの仕事に対して、謝意を伝えてくれたことはあっただろうか。「ありがとう」という言葉ではなくても、眼差しで、首の動きで、形あるプレゼントをお返しに贈るという形で。

 そう思うと、気力はますます減じていく。ああ駄目だ、と思う。

 もうしばらく、ベッドから動けそうにない。


 買い物に出かけようと自宅を出たわたしは、庭の金木犀の傍らで夏也が大の字に倒れているのを見て、思わず息を呑んだ。

 急病に見舞われて気を失っているのかと思ったが、違った。夏也が着ているのは、いつも稽古のときに着用している、黒を基調にしたトレーニングウェア。稽古を終えたばかりで疲労困憊しているのだ。

 お母さんが具体的にどのような稽古を夏也に課しているのかを、当時のわたしは一ミリも把握していなかった。ただ、疲れてぼんやりとしている姿はよく目撃していたので、厳しいものなのだな、という見当はついていた。

 ちょうどコンビニに行くところだし、飲み物を買ってきてあげようかな。お兄ちゃんは選り好みが激しいから、希望を訊いておいた方がいいかも。

 わたしは夏也へと歩み寄った。声をかけようとすると、顔を覆っていた純白のタオルがひとりでに滑り落ちた。

 露わになった顔を見て、再び息を呑んだ。

 汗まみれのその顔は、見飽きるほどに見慣れたその顔は、激しい憎悪と憤怒に染め上げられていて、まるで別人のそれだったのだ。

「なにが稽古だよ。なにが記憶士だよ。あのババア、絶対にぶっ殺してやる……」

 言葉を返すどころか、身じろぎ一つできない。夏也がお母さんのことを「ババア」と呼ぶのを聞いたのは、それが初めてだった。

 以後、夏也は折に触れて、母親に対する不満や稽古に対する愚痴を、わたしに向かって口にするようになった。

 しかし、具体的にお母さんのどこが嫌なのか、稽古のなにが苦痛なのかは、決して明言しようとはしなかった。その傾向は、お母さんが倒れてからも変化はなかった。


「というわけで、午前中か、正午から夕方までか、そのどちらかということになるね」

 朝、高校へ向かう道中で、わたしは星羅に事情を説明した。

 夏也との一件に関しては、少し感情的なやりとりがあった、という抑制した表現に留め、詳細は語らなかった。不要な心配をかけたくなかったし、感情が溢れ出してしまいそうだったから。

「丸一日遊ぶのは難しいって、昨日の段階で伝えておくべきだったね。星羅といっしょに遊びに行けることが決まって、浮かれていたんだと思う。期待させてしまって、ごめんね」

「いや、別にいいよ。残念な気持ちは正直あるけど、お母さんを優先させるのは当然のことだから」

 星羅は発言内容に見合った表情を見せた。それを見て、心が少し、ほんの少しではあるが楽になった。

「わたしも残念。でも、いつものことだし、いっしょに遊ぶ機会を作れただけでもよかったって思うことにする」

「他の友だちと遊ぶときも、半日とかしか遊べないんだ」

「チャンスが全くのゼロ、というわけでもないんだけどね。ただ、昨日みたいにお兄ちゃんの虫の居所が悪いときは、譲歩を引き出すのは絶対に無理」

 全くのゼロではないのは嘘ではない。ただ、その大半はお母さんが倒れて間もないころに集中していて、僅か数回に過ぎない。夏也といえども、母親が倒れたのは自分のせいかもしれないという認識、そしてそれに伴う罪悪感が、お母さんが倒れた当初にはあったのだろう。

「じゃあさ、今日改めてお兄さんを説得する、というのは無理なわけ?」

「んー、難しいと思う。あんまりしつこく言って、報復として、普段のお母さんの介護を疎かにされるのも困るし。お兄ちゃん、一度不機嫌になるとずっと続くし、機嫌とか気分とかに関係なく強情な人だから」

「そっか。じゃあ、今回のところは諦めるしかなさそうだね」

「そうなるね。わたしとしても残念だけど、それが一番いいと思う」

 星羅は黙り込んでしまった。決定自体に異議を唱えるつもりはないが、なにか思うところがある、といった横顔だ。その「思うところ」の内容が全く見えないので、安易に慰撫の言葉をかけるのは憚られる。以降は無言の歩みとなった。

 意思にそぐわない言動を見せれば、暴力や暴言を浴びせられるのではないか。そんな恐怖感を伴った懸念を、星羅に対して感じることはもはや完全になくなった。公園での出来事が強烈だったために勘違いをしていたが、多木星羅という人は本来争いを好まない人だ。ここ数日の親密な付き合いを経て、それがよく分かった。

 そんな星羅との仲をより深めるための時間が、自己中心的な兄のわがままで縮小を余儀なくされたのだと思うと、腹立たしいし、悔しい。

 しかし、決定を覆し得る良案は思い浮かばない。当日である明後日までに思いつく可能性も、どうやら低そうだ。

 腹立たしいし、悔しいが、ままならないこともあるのだと思って諦めるしかない。

 お母さんが倒れて以来、心の切り替えは随分と上達した気がする。


 付き合いが悪いと言われてしまったが、登下校時と放課後と昼休み時間は星羅と過ごす代わりに、それ以外の休み時間はしっかりと三人との時間を確保している。

 日曜日に四人で遊びにいかないか、という誘いに対する最終的な返事をしていなかったので、一時間目が終わったあとの休み時間にした。星羅と遊びに行くから、残念ながら今週の日曜日は無理だ。そうストレートに伝えた。

「そっかぁ。予定があるならしょうがないね」

 日曜日に遊ぶことを提案した張本人である茉麻は、声音に表情に落胆を露わにした。

「最近すっかり仲よしだよね、秋奈と多木さん。秋奈は交友関係を積極的に広げるタイプじゃないのに、珍しいよね」

 結乃はそう言って、星羅の机を一瞥した。釣られて同じ方向を向くと、星羅はつまらなさそうにスマホを弄っている。マンガアプリをいくつかスマホに入れていて、暇つぶしに巡回している、という話をいつかしてくれたことがあった。

 気怠そうにディスプレイを見つめながら、気怠そうに指を動かす姿からは、「趣味」ではなく「暇つぶし」と称した理由が理解できるようだ。わたしと星羅の趣味嗜好は噛み合わないが、星羅がこれという趣味を持たないのも要因の一つだった。

「日曜日、わたし以外は大丈夫なんだよね。だったら三人で遊んできてよ」

 わたしの発言に、三人の視線が一斉にわたしへと注がれる。わたしはにこやかに語を継ぐ。

「わたしの都合でみんなが犠牲になる必要、絶対にないし。仲間外れにされたなんて思わないから、楽しんできてよ。わたしも多木さんと楽しんでくるから」

 場の空気がぎくしゃくしないように、という意図からの発言だったが、犠牲だとか仲間外れだとかいう単語の選び方は少し大げさで、みんなを困惑させてしまったかもしれない。星羅の耳にこの発言が届いたのだとすれば、気持ちに負担を感じたかもしれない、とも考えた。前者の懸念に関しては、あながち的外れではなかったらしく、誰も言葉を返してこない。

「多木さんとはK遊園地に行くつもりだから、お土産を買ってくるね。お返しに土産話でもちょうだい。もちろん、形のあるものだったらもっと嬉しいけど」

「あっ、K遊園地に行くんだ。懐かしいなぁ」

 幸いにも茉麻が食いついたことで、会話は自然な形で別の話題へと移行し、居心地が悪い雰囲気は長引かずに済んだ。茉麻のこういうところがわたしは好きだ。友だちがたくさんいる最大の要因でもあるのだろう。

 四人全員が訪れた経験を持ち、楽しい思い出がいくつも残っているという共通点があったため、一定の盛り上がりを維持して会話は続く。お喋りを楽しみながらも、話が逸れてくれたことにわたしは安堵した。

 現時点では過度に気を配る必要はなさそうとはいえ、どちらも疎かにしてはならないというのは、心が疲れないといえば嘘になる。

 でも、今はただ、自分ができることをやっていくしかない。


 その日の夜は、珍しく食事の介助を行った。

 さらに珍しいことに、お母さんは自力で食べる気力がないにもかかわらず、わたしの言葉をちゃんと聞き取り、理解し、感情や感想を表明するために言葉を返してきた。

「秋奈が作った料理は今日も美味しいね。食べさせてくれるから、もっともっと美味しいわ」

 率直な思いをにこやかに口にするお母さんを見ていると、頭の一隅に固着した懸念は炎天下のアイスクリームのように溶けていき、次第に気にならなくなっていく。

「お母さん。日曜日、友だちと二人でK遊園地に行くんだけどね」

 切り出したのが唐突だったからか、お母さんはきょとんとした顔でわたしを見返した。そんな何気ない表情を、かわいいとわたしは思う。

「お母さんの分のお土産、買ってくるね。朝からお昼までの予定だから、急ぎ足になっちゃうけど、忘れずに買ってくるから」

 昼食の世話の代行についての交渉を、日が改まった時点では、実はまだ諦めていなかった。しかし我が家に帰宅し、昨夜の夏也との一悶着を思い返すと、二日連続で言い争うのは嫌だな、という思いが胸に広がった。そしてたった今、お母さんに遊園地行きの話を切り出した瞬間、それはもういいや、という気持ちが支配的になった。

 言い争いをすれば、その気分を引きずったままお母さんと接し、結果的に心配をかけてしまうかもしれない。穏やかではない声がお母さんの部屋まで届き、不安がらせないとも限らない。それならば、喜んで意思を撤回しよう。そう割り切った。

 たしかに息抜きは大事だけど、どんなときでも優先するべきはお母さん。二つがぶつかり合って両立できないなら、わたしが譲歩するべき。このルール、遵守するのはちょっとしんどいときもあるけど――。

 でも、今回はこれでいい。この方がいい。

「お土産、お母さんはなにがいい? ていうかそもそも、遊園地のお土産ってどんなのがあるんだろうね。最後に行ったのって随分昔の話だから、もう忘れちゃった。外れが少なさそうなのだと、食べ物かな。お菓子とか」

 お母さんは穏やかで微笑みを満面に湛えて、相槌を打ちながら話を聞いてくれる。唐突な話の切り替えに頭がついていけず、話の内容は殆ど呑み込めていないが、話し手が快い気持ちで楽しい話をしているのは分かるので、こちらも楽しい。そんなところだろう。

「あ、K遊園地の公式サイトとか見たら、お土産のラインナップが載っているのかな。でも、予備知識を入れないで行った方が楽しめるかも」

 お母さんが喜んでくれるなら、それで構わない。

 それが絶対的な真理なのだから。


 外の世界で鳥がさえずっている。いつも鳴いているのと同じ声だ。種類まで気にかけたことはないが、十中八九雀だろう。

 その愛くるしい鳥の鳴き声は、寝不足の朝でも、窓のすぐ外でやかましく鳴き立てられても、不愉快に感じないから不思議だ。体調や機嫌がいい日はむしろ、ささやかだがたしかな活力となって気持ちを高めさせてくれる。

 カーテンの隙間に指を挿し込み、そっと広げる。露わになった空は、晴れ渡っている。それだけで、今日という一日が素晴らしいものになる気がした。

 パジャマ姿のまま洗面台の前に立ち、鏡に相対する。見返してくる自分の顔は、ほんの少し眠たそうだ。

 ガーゼに指をかけ、一息に剥がす。

 歯を食いしばって一瞬の痛みに耐え、鏡を見返す。問題の部分は、日光が当たらなかった影響で白くなっていて、腫れは完全に引いている。

 鏡の中の少女の顔は綻びた。


 待ち合わせ場所は駅前。K遊園地まで直通のバスが出ているので、それに乗ることになっている。

 朝の清澄で冷たい空気の中、無人のベンチに腰を下ろしていると、誰かが誰かを呼ぶ声がした。振り向くと、星羅がこちらへと走ってくるのが見えた。

「秋奈、おはよう。早いじゃん」

 二度目にお目にかかる星羅の私服姿だ。上は長袖のシャツ一枚。下は体にぴったりと貼りつくパンツで、脚の長さがありありと分かる。スカートを穿いていない。ただそれだけで、ボーイッシュな雰囲気が強く感じられる。

 まじまじと見つめてしまって気がつくのが遅れたが、星羅もわたしを食い入るように見つめている。

「星羅、そんなにじろじろ見たら恥ずかしいよ。もしかしてコーディネート、ミスっちゃってる?」

「いや、そんなことはないけど」

 凝視していた自覚はなかったらしく、一瞬目が泳いだ。

「秋奈の私服姿を見るのは初めてだから、なんとなく見入っちゃって。結構女の子っぽい恰好するんだね」

「お出かけのときはだいたいこんな感じかな。星羅は制服以外でスカートは穿かない?」

「そうだね。下着が見えそうなのは、落ち着かなくて気持ち悪いから」

「またまたー。制服のスカートは短いじゃん」

「あれは、周りに合わせてるの。平均値から大きく逸脱しないように」

「あたしは誰とも群れないぜ、的なオーラを出してるけど、そこは合わせるんだね」

「破る必要のなさそうなルールには従うことにしてる。だって、決められてるのものになんでも反発するのって、逆にガキっぽいでしょ」

 立ち話をしているうちにバスが到着したので、乗り込む。乗客は数人。わたしたちは最後部の座席に腰を下ろした。

「バス、思ったよりも人が少なくない?」

「そうだね。遊園地に近づくにつれて増えそうな気もするけど。それにしても、今日は晴れてよかったよね」

「そうだね。雨の日の遊園地って、想像するだけでテンション下がるから」

「アトラクション、たくさん回ろうね。移動のときは常に全力疾走で」

「絶対転ぶと思うよ。秋奈の場合、そういうことすると絶対に裏目に出る」

「そう? わたし、そんなドジキャラじゃないよー」

 みだりに大声を出して他の乗客に眉をひそめられるでも、空元気というふうでもなく、談笑に耽る。約半時間の道のりはあっという間だった。

 K遊園地は開園して間もなかったが、来園者の数は多い。目立つのは、家族連れやカップルらしき男女の姿。日曜日ならではの華やかな熱気に、テンションは自ずと上昇する。窓口でチケットを購入し、ゲートを潜って園内へ。

「星羅、なにから乗る? 定番ってことで、ジェットコースターはどうかな」

「自分から提案するってことは、絶叫系は平気なんだ」

「うん。怖いのは怖いけど、平気だよ。星羅、もしかして……」

「いや、あたしも大丈夫。ほら、行こう」

 星羅に手を引かれ、目的のアトラクションへと向かう。順番待ちの人数はさほど多くなく、十分も待たずに乗れた。

「いやー、楽しかったね!」

 乗り場から遠ざかりながら、わたしは隣を歩く星羅に話しかける。鏡を覗き込んだならば、実年齢よりも幼く見える笑みを浮かべているに違いない。

 楽しい。そんな飾り気のないシンプルな感想が、偽らざる、ありのままのわたしの本音だ。

 遊園地のアトラクションで遊んだのは、中学二年生の修学旅行のとき以来になる。ジェットコースターが特別好きというわけではないが、楽しかった。ゆっくりと、しかし着実に頂上へ向かう緊張感。急降下する最中の風圧と重力。曲がりくねったレールの上を疾走する爽快感。余計なことは一瞬たりとも考えることなく、非日常に浸っていられた。

 ただ、星羅の感じ方は違っていたらしく、どこかぐったりしている。

「星羅、結構大きな声出してたよね。風の音とか、走行音とかでうるさかったけど、はっきり聞こえるくらい」

「は? あたしじゃないし。他の客の絶叫とか歓声とかだから」

「えー、そう? 隣なのに、聞き間違えるはずないんだけど」

「……久しぶりに乗るってこと、忘れてたな」

「じゃあ、次はなににする? あっ、もう一つジェットコースターがあるんだね。そっちにも乗ろうよ!」

 今度はわたしが星羅の手をとり、移動を開始する。

 はしゃいでいるな、という自覚はある。このテンション、付き合わされる方はちょっとうざいだろうな、とも思う。

 でも星羅は、文句一つ言わずにわたしについてきてくれた。


 年端もいかない子どものようにはしゃぎ回るうちに、飛ぶように時間が過ぎていく。

 柱に取りつけられたアナログ時計を何気なく見上げて、わたしは思わず声を漏らしてしまった。それに反応して星羅がこちらを向いたので、わたしは文字盤を指差し、

「もうこんな時間。そろそろ帰らないと、ちょっとまずいかも」

 乗る予定のバスの発車時刻までは残り十五分ほどしかない。バスは半時間おきに発着する。帰宅後に待っている仕事のことを思えば、一便たりとも逃したくない。

「あと一回くらい乗れるかな? うーん、やめておいた方がいいかも。お母さんと約束したから、お土産を買っておきたいんだよね。というわけで星羅、残念だけどもう――」

「秋奈。提案なんだけど」

 いきなり切り出されたことよりも、切り出したその顔が息を呑むほど真剣だったことに、わたしは驚いた。

「お昼に帰ったあとで、もう一回遊園地に遊びに来ない?」

「もう一回?」

「そう。秋奈は、お昼にはお母さんのところに戻らないといけないでしょ。その用事が済んだら、すぐにまたバスに乗って遊園地に引き返すの。バス代は二倍になるし、移動時間が一時間プラスされるのはちょっとだるいけど、再入園するのにお金はかからないし」

 星羅の口調は淡々としている。たった今ではなく、もっと前からその案が頭にあって、機会が巡ってきたから提示したような、そんな雰囲気だ。

「それとも、なにか予定が入っていたりする?」

「ううん、大丈夫。……でも」

 わたしも星羅が言ったような選択を考えなかったわけではないが、却下していた。もちろん、理由はちゃんとある。

「また行ったとしても、夕食の時間までには帰らなきゃいけないから、遊べる時間はかなり短くなっちゃうよ」

「分かってる。それを承知で提案したに決まってるだろ」

 きっぱりと言って、白い歯を見せて微笑む。

 目頭の温度に、僅かながらも変化が生じたのを自覚する。返す言葉はすでに用意できていたが、実際に口にするまでには少し間が空いてしまった。

「星羅、わたしが遊園地を提案したとき、あんまり乗り気じゃなさそうだったよね。この歳になって遊園地はちょっと、みたいなことを言って。なのに、どうして午後も遊びたいって思ったの?」

「あれは、秋奈とやりとりするのが楽しかったから、わざと反対意見を言ったんだよ。ボケとツッコミじゃないけど、漫才みたいなかけ合いが面白くて。ていうか、本当に乗り気じゃないなら、半時間バスに揺られてまで遊びに行かないよ」

 語られた理由は、予想していたものとおおむね同じだった。嬉しい、よりももっと複雑で深い感情が込み上げてくる。声が震えそうな気がして、気持ちを落ち着かせるための間をとってから、

「でも、往復一時間の移動をもう一回は、やっぱり長いよ。星羅は本当にそれでいいの?」

「来たとき、車内で話が弾んだよね。ああいう感じだったら、別に苦痛じゃないよ。秋奈は退屈だった?」

 わたしは激しく頭を振った。

「全然平気! じゃあ、ちょっと早いけど、もう出ようか」

 そうしたいなら、最初からそう返事をすればいいのに。素直じゃないな。星羅の顔はそう言っているように見えて、照れくさくなる。今まで、その手の言葉を口にするのはわたしばかりだっただけに、なおさら。

「あっ、そういえば」

 歩き出して早々、わたしはあることに気づいて足を止める。

「わたしが家に帰っている間、星羅はどうする? 自分の家に帰ってももちろんいいし、遊園地に残るっていう手もあるよ。一人で過ごすことになるけど」

 星羅はわたしから顔を背け、考え込む。その顔は怖いくらいに真剣だ。わたしは不可解に思いながらも、黙って返事を待つ。

 わたしに目を合わせることなく述べられた回答は、全く予想していなかったものだった。

「迷惑じゃないなら、秋奈のお母さんのところにあたしも行きたい」


 重苦しいとか気まずいといった雰囲気ではなかったが、帰りの車中での言葉のやりとりは、行きと比べるとずっと控えめだった。

『迷惑じゃないなら、秋奈のお母さんのところにあたしも行きたい』

 お母さんが五年前に倒れ、一日の殆どをベッドの上で過ごしている事実を把握している人間ならば、何人もいる。わたしの友人三人もそうだ。誰かから母親について尋ねられたときは、惜しげもなくその事実を告白してきた。恥ずべきことでも隠すことでもない、という認識だったから。

 しかし、事実を知った上で「会いたい」と言ってきたのは、星羅が初めてだ。

 星羅の腹の中は分からない。ただ、そう告げたさいの真剣な表情を見れば、軽はずみな好奇心が要因ではないのは明らかだ。彼女なりになにか考えがあるのだ。

 最大の懸念材料は、お母さんの反応だろう。

 倒れて以来、お母さんは家族以外の人間と接触する機会が殆どない。倒れた当初は頻繁に見舞いに来た親戚や、定期的に診察に訪れる医者を除けば、皆無といっても過言ではない。

 知らない人間の登場に、パニックを起こすかもしれない。友だちだと紹介すれば、にこやかに受け入れてくれるかもしれない。反応が全く予想がつかず、迷うところではあったが――。

『いいよ。ぜひ、お母さんに会ってあげて』


 星羅に蜂須賀家まで来てもらうのは、お母さんが昼食を済ませたあとで。

 昼間なら一人でも出歩けるので、星羅が一人で蜂須賀家まで来る。

 以上の二つについては、バスで移動中に決定した。乗車したのと同じ停留所で降り、星羅は昼食をとるために自宅へ、わたしは食料品を買うためにスーパーマーケットへ。

 買い物を終えて帰宅すると、すぐさま昼食の準備にとりかかる。お母さんの分だけではなく、わたしと夏也の分も。体がほんの少しだるく、力が隅々まで行き渡らないような感覚がある。遊園地で遊び回った疲れというよりも、星羅をお母さんと引き合わせることに緊張しているのかもしれない。

 部屋のドアを開けると、お母さんはベッドの上で窓外を眺めていた。カーテンは全開にされている。朝は閉じていたはずだから、ベッドから自力で下りて自力で開けたのだろうか。

 お母さんはわたしが入室したことに、ベッドに歩み寄る道半ばで気がついた。存在を認識した瞬間に灯った微笑みからは、機嫌のよさが窺えた。これならば星羅とも、という希望の気泡が胸に生まれた。

「お母さん、お昼ごはん持ってきたよ。外を見てたの?」

「ええ。今日は天気がいいから」

「自分でカーテン開けたの? ベッドからちゃんと下りれた? 転んで頭を打ったりとか、してないよね?」

「ああ、カーテン。誰かに開けてもらったと思っていたけど、そういえば自分で開けたような気がするわ。どこも痛くないから、怪我はしてないんじゃないかな」

 お母さんの表情は、会話を始めてから一貫して柔らかい。わたしの表情も似たような様相を呈しているはずだ。

「そうだね。いい天気だよね。だから、今日は朝からお出かけしてきたの。友だちと二人で」

「あら、そう。それはいいわね。楽しかった?」

「うん、楽しかった。時間はちょっと短かったけど、でも満足」

「どこへ行ったの?」

「K遊園地。ちょっと遠いから、バスに乗って」

「ああ、そうなの。いい天気だから、歩くと気持ちいいんだけど、行きたい場所が遠くにあるのなら、公共交通機関も利用しないとね」

 客観的に見れば、どこか噛み合っていないような。それでいて、お母さんのおっとりした喋り方が、いい意味で些事を看過させてくれるような。そんな会話を経て、娘の手を借りることなく食事を開始する。

 お母さんは今日出かけたときの話をするよう、わたしに要請した。喜んで求めに応じたが、求めた張本人は、腰を入れて聞いてはいないらしい。マイペースに食事を口に運び、たまに窓外に目を向ける。そうかと思うと、今日は気持ちよく晴れてるわね、などと天気の話を蒸し返す。

 掴みどころのない、突飛な反応には慣れている。同じ話題が反復されていることは指摘せずに、適切と思われる言葉を律義に返していく。

 こんなお母さんを見て、星羅はどう思うだろう? やはり、戸惑うに違いない。気まずい雰囲気が漂うかもしれないと思うと、不安だ。

 やがて食事が終わる。星羅が来ることを事前に伝えておくか否か。迷うところではあったが、なにも告げずに部屋を出る。

「昼間だから大丈夫」と本人が断言したとはいえ、星羅を長い時間一人きりにしたくない。食事を駆け足で済ませ、三人分の食器を洗い桶に残したまま家の外へ。

 星羅はすでに門の前で待っていた。敷地の中を覗き込んでいたので、わたしが出てきたことにすぐに気がついた。手招きをしたが、その場から動こうとしない。星羅のもとへと走る。

「星羅、ごめん。待たせちゃった?」

「ううん、一分くらい前に来たばかり。……それにしても」

 星羅の視線は蜂須賀家に注がれる。

「大きな家だね。目に入った瞬間、本当にびっくりした。凄く立派で、雰囲気があって。なんていうか、名家って感じ」

「サイズだけは立派なんだよね、うちは。じゃあ、家の中に行こうか」

 頷いた顔は緊張気味だ。

「多分、寝たきりとか、それに近い生活になったら誰でもそうなると思うんだけど……。うちのお母さん、老けちゃってね。髪の毛だって真っ白になっちゃったし。いろいろとびっくりすると思うけど、悪意があって変に振る舞うわけじゃないから。それは保証する」

 庭を突っ切り、廊下を移動する時間を利用して、星羅に説明する。返事は一度もなかった。

 目的の部屋の前に辿り着き、わたしたちは顔を見合わせる。相変わらず少し緊張した顔で、星羅は頷いた。わたしはドアをノックする。

「お母さん、入るよ」

 ドアを開くと、お母さんはベッドから下りようとしていた。トイレに近い側ではなく、窓に近い側の床へと両足を下ろそうとしている。ベッドガードにつかまる両手は微かに震えている。

「お母さん!」

 わたしは慌ててお母さんに駆け寄る。

「危ないよ、無理して下りたら」

「大丈夫よ。お昼を食べる前はちゃんと一人でできたもの。ゆっくり、慎重にやれば、絶対に大丈夫」

「でも、今はベッドの上にいよう。危ないから駄目ということじゃなくて――ほら」

 入ってきたばかりのドアを指差す。その動作に釣り込まれて、お母さんはそちらへと視線を投げかける。蜂須賀冬子と多木星羅、初対面の二人の目が合った。

 一拍を置いて、星羅はどこかたどたどしくお辞儀をした。お母さんは半分口を開いた表情のままフリーズしている。視線を逸らすことも、言葉を発することもない。

「お母さん、とりあえず横になろうか。トイレ、大丈夫だよね」

「ええ」

 お母さんは頬を緩めて頷いた。わたしは手招きで星羅を呼び寄せ、お母さんがベッドに戻るのをサポートする。

 ベッドに角度をつけてお母さんを楽な姿勢にする。星羅に手振りでパイプ椅子に座るよう促すと、黙って指示に従った。二人が試合に臨む格闘技選手なのだとすれば、試合開始のゴングが鳴る直前のレフェリーの位置にわたしは立つ。

「お母さん、この子、わたしの友だち。多木星羅っていう名前なんだけど」

 お母さんは微かに頷いたように見えた。

「家まで遊びに来てくれたから、お母さんのことを紹介しようと思って。だから、部屋まで来てもらったんだ」

 どう話を繋げればいいかに迷い、口を噤む。無理もない。お母さんと会いたいと言い出したのは、わたしではなく星羅なのだから。

 お母さんは仄かに笑った表情で星羅を見ている。顔を凝然と見つめるのではなく、全身を漠然と眺めている。機嫌は悪くないのだろうと察しはつくが、心の中までもを読み取り、読み解くのは難しい。

 星羅の緊張状態は続いているようだ。視線を注がれたことでその感覚は高まったらしく、膝の上の両手に力がこもっている。

「えーっと、秋奈のお友だちだったよね。お名前は?」

 星羅が質問者ではなく、わたしを見た。友人の口から紹介してもらったばかりにもかかわらず、名前を尋ねられた戸惑いがあったのだろう。ただ、表情の変化を見た限り、星羅は感情の乱れを一瞬で鎮めた。

「星羅です。多木星羅」

「ああ、星羅ちゃんね。それにしても、今日は天気がいいわねぇ。……ああ、だから遊びに来てくれたのかしら」

「はい。突然お伺いして、すみません」

「あら、そんなこと気にしなくていいのに。ごていねいに、どうもありがとう」

 お母さんは笑みを広げて頭を下げる。星羅はややぎこちないながらも、同じ動作で応じた。

「人間は似た者同士でしか仲よくできないからね。星羅ちゃんが礼儀正しいということは、秋奈はきちんとしているということかしら。おばさん、このとおりだから、外での様子は分からなくて、不安になることもある。でも、やっぱり、高校生って大人なのね。とてもちゃんとしてるわ。うん、とてもちゃんとしてる」

 星羅はなにか口にしかけて、やめた。なにか言葉を返そうとしたが、しっくりくる文言が咄嗟には浮かばなかったらしい。

「気が合う者同士、仲よくやってくれたら、私からはなにも言うことはないわ。挨拶に来てくれたのは嬉しいけど、こんな寝てばかりの人といっしょにいても、退屈でしょう。――秋奈」

 どこか窮屈そうに首から上を回し、視線を星羅からわたしへと移し替える。

「お友だちにお茶はお出ししたの。替えのティーバッグが置いてあるところ、分かる?」

「うん、分かるよ。いつもわたしが淹れてるから」

「ああ、そうだったね。お茶請けは――秋奈は毎日食べているから、言われなくても大丈夫ね」

 白い歯をこぼし、顔の向きを真上に戻す。唇と瞼を閉ざし、それからは微動だにしない。

 これ以上の会話は無理だろう。星羅に声をかけようとすると、静かに、それでいて機敏に起立した。

「失礼します」

 お母さんに向かって一礼。わたしには目もくれずに部屋の出口へ。

「お母さん、また晩ごはんのときに来るね。おやすみ」

 慌ただしく言葉をかけ、掛け布団の位置を軽く直してから後を追う。

 廊下を出てすぐのところで追いついた。星羅はわたしを一瞥したが、足は止めない。玄関に向かって黙々と進む。星羅の顔を覗き込んで、息が詰まりそうになった。

 今にも溢れんばかりに、目に涙が溜まっているのだ。

 どちらからともなく、わたしたちは立ち止まる。星羅は視線を自らの足元に落としている。

「秋奈と親しく付き合うようになって以来、ずっとずっと、機会を窺っていた気がする」

 涙の成分が多分に含まれた声。表情も曇り空に覆われていて、雫を落とすのも時間の問題に見える。

 星羅の泣き顔なら公園の個室でも見た。怒りながら涙を流す、鬼気迫る顔だったが、あのときに感じた迫力は微塵もない。溢れ出しそうなものを懸命にこらえている、弱々しい表情を浮かべた一人の少女がそこにいた。

「今日、秋奈のお母さんに会って、凄く心を動かされた。お母さんもそうだけど、サポートする秋奈もそう。お互い大変なはずなのに、凄く頑張ってるなって。凄く前向きだなって。お母さん、前は元気だったわけだよね。それがああいう状態になって、混乱とか、葛藤とか、絶対にあったと思うんだけど」

 言葉が途切れ、洟をすする音が聞こえ出す。星羅は下唇をきゅっと噛みしめ、それから続きを口にした。

「迷ったり悩んだりする時期は、もう終わっているんじゃないかって思った。一歩を踏み出すときなんじゃないかって。秋奈は誠意があって、信頼できる人だっていうこと、もっと前から分かっていたんだけど、お母さんに寄り添ってあげている姿とか、お母さんが秋奈のことを信頼している姿を見て、踏ん切りがついた。ちょっと変な言い方かもしれないけど、秋奈に委ねないと損だなって。――だから」

 洟をすする音がやむ。目頭を指で拭う動作が二回続き、顔が持ち上がる。視線が重なった瞬間、涙が頬を伝い、二条の軌跡を描いた。

「あの日、あたしの身になにが起きたのか、秋奈に聞いてほしい。あたしの家まで来て」


 心の準備をする暇が充分に確保できないと嘆くべきか。星羅の意思が揺らぎ、決意が覆る心配がないのを喜ぶべきか。

 わたしは星羅と肩を並べて道を歩きながら、互いの自宅が徒歩五分の距離にあるという事実を、どう意味づければいいか分からずにいる。

 とうとう告白を聞かなければならない時が来た。

 率直に言って、怖い。

 わたしはこれまでの人生で、あるいは故意ではないかもしれないと思うような、軽微な性的被害を数回受けたことがある。回数は少ないし、程度は軽微ではあったが、尾を引く経験だった。それだけに、それよりももっと凄惨な被害を受けた星羅は、どんなに苦痛で、どんなに耐えがたかっただろうと、否応にも想像してしまう。

 体験を聞くのも恐ろしいが、話す方はもっと恐ろしいだろう。

 廊下での告白によれば、自らの体験を打ち明けるのを決意するまでにかかった時間は、わたしが考えていたよりも長かったようだ。星羅にとっては、想像を絶するほどもどかしく、苦しい期間だったと想像に難くない。

 星羅が話してくれるまで、促したり焦らせたりせずに、待とう。

 そう方針を立てていたが、少しでも早く楽にしてあげるべきだったのでは、と後悔の念が込み上げてくる。

 過ぎ去った時間を巻き戻すことはできない。時間はかかったし、苦しみも想像以上だったが、とにもかくにも星羅は決意したのだ。誠意をもって話を最後まで聞くことで、償いの代わりとするしかない。

 やがて多木家が行く手に見えた。両親は出かけていて不在だ、と星羅は言った。玄関先の車を停めるためのスペースは物理的に空虚で、発言を裏づけている。

「秋奈の家は静かな場所にあるけど、やっぱりほら、少しでもリラックスできる環境の方がいいから」

 そう付言した星羅は、酷く中途半端に微笑んでいる。無理しているのが一目で分かり、痛ましくも感じられる。決意こそしたものの、躊躇いを完全に払拭できていないのだろう。

 乗り越えるしかないのだ。星羅も。そして、わたしも。

 見慣れない眺め、嗅ぎ慣れない匂いに緊張しながらも、多木家の中に入る。

 星羅の自室は二階にあった。よく片づけられていて、想像していたよりも女の子らしい小物などが目立つ。ただ、控えているイベントがイベントだけに、余計な話をする気にはなれない。この日が来る前に、一度くらいどちらかの家に遊びに行く機会があってもよかった。そんな今さらなことを思う。

 やがて戻ってきた星羅は、褐色の液体が入ったグラスを両手に持っている。

「ごめん、お茶しかない。麦茶。どうぞ」

 二個のグラスが置かれる。ありがとう、と言ったわたしの声は遠慮がちで、わたしらしくない。星羅は対面に腰を下ろし、視線を合わせてくる。

「お茶、秋奈のお母さんが出しなさいって言っていたけど、こんな形になっちゃったね」

 互いの口元がほんの少し緩んだ。二人同時にグラスを手にする。双方共に一口だけ飲み、元の場所に戻す。時間が流れるに従って重みを増していくような、息苦しさが募っていくような、そんな沈黙。

「話しづらいけど話さなきゃ、だね」

 野放しにする方針をとっていれば、どれだけ続いていたか分からない無音の時間を、星羅の声が終わらせた。発音自体は明瞭だが、か細くて、微かに震えている、そんな声だ。

 思わず顔を歪めてしまいそうになるくらい、強烈な心細さをわたしは覚えた。反射的に奥歯を噛みしめ、表向きは動じることなくその感情を、その感覚をやり過ごす。直後、前進する意志、といったものが確固として宿っているのを、彼女の瞳の中に発見した。

 恐らくは星羅も、わたしの瞳の奥に、なんらかの肯定的な要素を見出したのだろう。自問に対する自答の最終確認を完了したかのように、小さく頷いた。

「最初に言っておきたいことがある。一つ、秋奈に嘘をついていた」

「嘘?」

「帰りが遅くなったから、近道をするために人気のない道を通って、その結果襲われたって話しただろ。あれ、嘘だ」

「え……」

「思い出してみてよ。秋奈たち四人が話し込んだといっても、時間はたかが知れている。三十分にも満たなかったんじゃないか。あたしが学校を出たときには、まだ外は明るかった。たとえ人気のない道を通ったとしても、危なくないんだよ」

「それって、どういう……」

「あたしが男たちに襲われたのは、あたしが自分の意思で人気のない場所まで行って、あたりが暗くなる時間帯までそこに滞在していたからだ。――もう分かったんじゃないの? あの公園だよ。あたしが被害に遭ったのは、人気のない場所に建つ廃屋なんかじゃなくて、秋奈を呼び出して殴った、公衆トイレがあるあの公園」

 どくり、と心臓が鳴った。

「あの公園のベンチに座って、あたしは待っていたんだ。特定の誰々さんを、じゃなくて、寂しさを紛らわせてくれる誰かを。お節介だけど優しいおばさんでも、悟りを開いた仙人みたいなおじいさんでも、純真無垢な小学生の男の子でも、本当に誰でもよかった。こんな時間にどうしたのって、心配して声をかけてくれて、少しの間話ができたら、それで満足だった。……でも、群衆の中だったら気がついてもらえないだろうと考えて、わざわざ誰も寄りつかないような場所を選んだのは、最悪の判断ミスだった。そのせいで、そういう場所を好む、そういう環境だと平気でルールを犯す、最低のクズどもと遭遇してしまった」

 寂しかったから。

 それが本当なのだとしたら、星羅にそのような行動をとらせた直接の要因は、あの日の放課後、わたしたちと会話したことなのでは?

 ふとしたきっかけから言葉を交わし、表面上は和気あいあいとしたやりとりができた。しかし、すでに友だち同士である四人との会話には入りきれず、部外者が特例的に輪の中に入れてもらった、という実感しか抱けなかった。それが引き金となり、日ごろから抱えている孤独感を浮き彫りにさせて、際立たせて、夜になっても公園のベンチに一人で座り続ける、という行動を星羅にとらせたのかもしれない。毎日のように公園に足を運び、暗い時間になるまで過ごすのが習慣になっている、という言い方はしていなかったから、恐らくは。

 わたしは自らの左胸を狂おしく掴む。

 叫びたかった。泣きたかった。泣き叫びながら許しを乞いたかった。

 しかし、今は星羅が打ち明ける時間だ。わたしは聞かなければならない。星羅の話を、口を挟むことなく、ピリオドに至るまで。

 服を握りしめていた手を離す。それが再び話し出す合図になった。

「相手は全員男で、五人組だった。大学生くらいかな。よく分からないけど。最初は、あたしを取り囲んで質問攻めって感じで、スタートの時点から嫌な感じはしていたけど、大人数だからそう感じるだけだと思っていたんだよ。でも、そう思い込もうとしていただけだったんだと思う。ああなった以上、もう逃げられないから。奇跡が起きない限り助かる道はないから」

 星羅は語り口は一貫して淡々としている。

 経験からわたしは知っている。底知れない悲しみを抱えている人間は、その悲しみに関する意見を述べるさいに、往々にしてこういう喋り方をする。主観的には底知れない悲しみでも、客観的にはそうではないかもしれないという不安があるから、そうではなかった場合に軽んじられるのが怖いから、わざとなんでもないように話すのだ。

「男たちの中の一人が、いきなりあたしの体を触ってきて、それを合図に一気に、という感じだった。声を出そうにも口は塞がれるし、抵抗しようにも多勢に無勢だし、恐怖から思うように体が動かないし。そのままトイレに連れ込まれて――」

 語られた内容ば生々しく、詳細で、それゆえに残酷で、救いようがなかった。何度も耳を塞ぎたくなった。それでいて、一語も漏らさずに聞き取りたい誘惑には抗えない。静かな迫力といったものが、星羅の語りからは感じられた。

 言葉を詰まらせたり、洟をすすったり、目元を拭ったり、声を震わせたり、表現に迷ったり、沈黙したりしながらも、星羅は話を一歩一歩前へと進めていく。


 語り尽くしたとき、窓外は夜の帳が下りていた。

 わたしたちは互いに、長く、長く、唇を閉ざしていた。

 先に口を開いたのは、星羅。

「八つ当たりをして、ごめんね」

 わたしの顔を直視しながらではなく、すっかりぬるくなっているだろう、グラスの中の液体に目を落としながらの発言だ。長時間話し続けた疲労感。悲劇を体験した過去は歴とした現実であり、覆しようのないものである事実を噛みしめたことによる虚無感。伝えるべきことを伝えられた安堵。星羅の顔からは、それら三種類の感情が窺えた。

「公園のトイレでの話だよ。秋奈は悪くないのに、暴力を振るって。頬の傷、跡は残っていないみたいだから安心したけど、一歩間違えたら取り返しのつかないことになっていた。自分が傷ついたからって、他人に傷を負わせるなんて、そんなのは人間として――」

「やめて!」

 声を大にして声を遮る。大声を出すつもりはなかったのだが、出てしまった。感情に囚われていると自覚したのを境に、ブレーキがきかなくなった。

 それでも、ハンドル操作に細心の注意を払いながら、言葉を一つ一つ重ねていく。こちらに向けられた、驚きに包まれた顔を見返しながら。

「星羅がわたしを殴ったのは、被害に遭ったことが原因なんだから、星羅は悪くないよ。絶対に悪くない。だから、星羅は謝らないで」

 目頭が熱い。視界は潤いにぼやけ始めた。ハンドルはじきにコントロールがきかなくなるだろう。話を聞く側がしっかりしなくてどうするの、という思いはあったが、構うものか、と開き直る。これだけは、このことだけは、星羅に伝えないと。

「悪いのは星羅じゃなくて、星羅にそんなことをした馬鹿な男たちだよ。星羅はなにも悪くない。なに一つ悪くないよ。だから、もう、自分を責めるのはやめて」

 わたしの双眸から涙が溢れ出す。滲む視界の中央で、星羅の顔が見る見る歪んでいき、あっという間に堰が決壊した。

 繋ぎ止めなければ。

 抱きしめようと体を寄せると、逆に抱きしめられた。そのせいで星羅の胸に顔を押しつける形になったのか、自分から顔を埋めたのかは、感情に呑み込まれたわたしには判断がつかない。服が濡れてしまう、と思ったが、自分から束縛を振りほどこうとは思わない。

 わたしたちは泣いた。泣いて、泣いて、泣き続けた。

 やがて涙は涸れ、悲しみは小康状態になる。

 泣きやむまでの時間を費やして達した結論を、わたしは星羅の耳にささやく。

「記憶、絶対に取り出してあげるからね」


 ふと窓外に視線を移すと、世界はいつの間にか暗夜に支配されている。

 自宅に帰らなければならない時間が来たのだ。

 その旨を告げると、予想どおり、星羅は留意してきた。

「家は近いけど、これだけ暗いとなにがあるか分からないから、お母さんが帰って来るまで待って、送ってもらった方がいいよ。あと一時間半くらいかかっちゃうけど、絶対にその方がいい。退屈かもしれないけど、絶対にそうするべきだよ」

 眉尻を下げて、すがりつくようにわたしの目を見つめながらの説得。まるで遊園地から帰りたくなくて、あれこれ言い訳を並べ立てている幼子のようだ。

「心配してくれてありがとう。星羅の心づかい、凄く嬉しい。……でも、ごめん。お母さんの食事を作らなきゃいけないから、帰らきゃいけないの」

 心苦しかったが、そう伝える。わたしにとって最優先事項は、どんなときでもお母さん。定刻に遅れるわけにはいかない。

「所要時間、たったの五分だよ。街灯も割とあるし、星羅が心配しているようなことは起きないよ。星羅のご両親に心配をかけるのも悪いし」

「でも、絶対に起きない保証はないわけだろ。家族の迷惑とか、どうでもいいから、もう少し待っていなって」

「星羅の気持ちは分かるよ。だけど――」

 言い回しや単語を替えただけの、代り映えのしないやりとりが延々と続く。互いに、相手の事情や気持ちは痛いくらい理解できるだけに、喋れば喋るだけ精神的に疲弊していくようだ。

 ただ、わたしのお母さんが他人の助けを必要とする人だということを、星羅は自分の目で見ている。会話を交わして確かめている。

「――分かったよ」

 だから、渋面を作りながらも折れてくれた。

「ただし、帰り道には細心の注意を払ってくれ。少しでも怪しい奴が近づいてきたら、恥や外聞なんてどうでもいいから、大声で助けを呼べ。明かりがついた民家でも、隠れられそうな茂みでも、どこでもいいから全力で逃げ込め。自分が助かることだけを考えろ。家に帰ったら『無事だよ』って連絡をくれ。約束してくれる?」

「もちろんだよ。絶対に約束する」


 実際に夜道を歩いてみて分かったのは、街灯は間隔こそ適切に思えても、光が届かない領域は思いのほか広い、ということだ。

 天然の闇に包まれていようが、人工の光に照らされていようが、不審者が出るときは出るし、出ないときは出ない。そう心では割り切っているつもりでも、暗がりを歩いている最中はやはり、心は平静からは遠い場所にある。

 脇道に差しかかるたびに、無意識に歩を緩めるか足を止めるかして、道の先に広がる闇を見据える。やがて我に返り、背筋を流れる汗の冷たさを感じながら、足早にその場から遠ざかる。車の走行音が聞こえると、不可抗力的に全身が強張る。通り過ぎるさいの減速に、最悪の未来が脳裏を過ぎる。何事もなく走り去ったあとも、しばらくは身じろぎすらできない。

 叫びたくなるような恐怖の連続、というわけではない。しかし、プレッシャーは想像を遥かに凌駕していた。星羅が過剰に心配したせいで、本来よりも強く恐怖を感じているのだ。そうロジックを解せる程度には冷静ではあったが、その認識をエネルギーにして、不安感や恐怖感を払拭できるほど冷静ではなかった。たとえば誰か頼れる人間がひょっこりと現れて、自宅まで付き添うと申し出てくれたならば、目を潤ませて好意に感謝しただろう。

 怖くない。大丈夫。もうすぐに家に着く。怖いことはなにも起きない。

 くり返し自らに言い聞かせても、心身を委縮させるものは去ってはくれず、恐怖という感情の厄介さを身をもって知った。

 なんらかの救いを欲する心は、必然のように星羅に向かった。

 包み隠さずに打ち明けるまでの間、被害に遭ったことも含めて、星羅は現在わたしが感じている以上の恐怖を、数えきれないほど体験してきたのだ。そう思うと、際限なく広がっていきそうな絶望感に気が遠くなる。

 詳細を把握したことで、星羅が抱いた思いも、事件がもたらした影響も、痛いくらいに理解できた。しかし、完全に、ではない。被害に遭ったのはわたしではない。だから、どうしても隔たりがある。星羅の心に近づくことはできても、到達はできない。いっときよりも距離が縮まったのはたしかだが、まだまだ不充分なのでは、という気もする。

 星羅はわたしを信頼してくれたこそ、事件の詳細を話してくれたのだろう。しかし、本当の意味で、わたしたちの心の距離は縮まったといえるのだろうか?

 本来は無関係なはずの、近い未来に対する不安と、現在味わっている恐怖とが結びつき、足が急く。婦女子に蛮行を働く変質者ではなく、記憶士としての職責を果たせない未来が恐ろしくて足早に歩いているのだ、という気がしてくる。

 星羅はどんな気持ちで夜道を歩いたのだろう。被害に遭い、なんとか歩けるだけの気力を取り戻したあと、なにを思い、なにを感じ、なにを考えながら、自宅までの道のりを歩いたのだろう。

 星羅が被害に遭ったことを、彼女の母親は知らない。一度顔を合わせたさいの態度からはその事実が窺えたし、星羅も「あたしからは話していないし、感づかれてもいないと思う」と言っていた。被害後に連絡をとって、母親に現場まで迎えに来てもらったならば、娘の身になにかあったな、とさすがに気づくはず。つまり、星羅が一人で帰ったのは間違いない。

 あんな目に遭ったばかりだというのに、さらなる苦行を強いられたのだ。あの公園から多木家までだと、たとえ走ったとしても、多木家から蜂須賀家までのように五分では辿り着けない。正真正銘の苦行、というわけだ。

 道中、星羅の頭の中は恐怖一色で、なにかを思案する余裕などなかったのかもしれない。

 その推察が正しいならば、恐怖の対象は、体験したばかりの悲劇? それとも、暗いという環境に乗じて、また何者かから危害を加えられないか? あるいは、もっと遠い未来について?

 対象はともかく、恐怖に心を苛まれていたのは間違いない。

 しかし、ただ恐怖するだけではなかったはずだ。時と場合によっては、死さえも運んでくるその感情に苛まれながらも、苛まれるばかりの状態から逃れたいと願っていたはずだ。

 一刻も早く安全な場所に辿り着きたい、と。

 星羅の念頭にあった「安全な場所」は、もちろん、家族が待つ我が家だっただろう。それと同時に、抽象的で言語化しづらいユートピアでもあったはずだ。

 とにかく、出て行ってほしい。己を悩ませるありとあらゆるものは、残滓すら残さずに、なるべく早く自分の中から。同じ環境に留まり続けている限り、願いが成就するなど夢のまた夢だろう。よって、ここではないどこかへと赴く。その地に到達したとしても、欲求が満たされる保証はない。しかし、少なくとも現状のままでは可能性は絶望的だから、一か八かの思いで移動する。

 星羅が求めた、安全な場所。

 それは、わたしに記憶を取り出してもらうことだったはずだ。夜道を歩き、早く自宅に帰り着きたいと願う傍ら、その未来に到達することも願っていたはずだ。

 半ば無意識に、星羅の心情にシンクロを試みていた。

 取り返しのつかない過去から、呼吸することさえもままならない現在から、不安しか咲いていない暗い未来から、逃れたい。ステッキを一振りすれば不都合なものを跡形もなく消し去れる魔法なんて、この世界のどこにもない。常識はそう警告している。それでも、願わずにはいられない。

 出て行け。

 わたしには、幸せになる権利がある。


 予期していなかった感覚に襲われ、思わず足が止まる。

 予感に胸が高鳴っている。

 その胸に右掌を宛がって、感覚を反芻する。

 間違いない、という確信に、鼓動は加速する。

 進路に広がる闇を毅然と見据え、駆け出した。

 わたしを突き動かしているのは、恐怖でも不安でもなかった。


「お兄ちゃん!」

 夜道を走り抜けた勢いはそのままに、夏也の自室のドアを開け放つ。案の定、ドアに鍵はかかっていなかった。お母さんは自力で二階に上がる体力はない。妹と会話を交わす機会は必要最小限で、コンタクトをとる時間や場所はほぼ固定されている。油断をして施錠していないと踏んでいたが、見事に的中した格好だ。

 椅子にふんぞり返ってスマホをいじっていた夏也は、驚きのあまりひっくり返りそうになった。危ういところで机の縁に掴まり、体勢を立て直す。椅子を回して向き直り、不快感を隠そうとしない顔でなにか叫ぼうとした。

 それよりも一歩早く、想定される怒声に負けないボリュームで用件を告げる。

「明日の夜だけど、用事があるから、悪いけどお母さんの食事のお世話をお願い。間に合うかもしれないけど、もし遅れたら困るから、お兄ちゃんに任せようと思って」

「はあ? なんなんだよ、いきなり」

 分かりきっていたことだが、夏也は第一声から喧嘩腰だ。    

「お前さ、なんなんだよ。なにサボろうとしてんだよ。前も言ったけどよ、俺はババアの世話なんて――」

「黙れっ!」

 わたしはドアを思いきり殴りつけた。夏也は顔に驚きを露わにしてフリーズした。発生した物音の大きさや、声の迫力にというよりも、妹が予想だにしない行動をとったことに驚いた、という顔だ。拳に痛みを感じるのと引き換えにしてでも、束の間黙らせようという目論みは、まんまと成功したわけだ。

「この前みたいに、遊びじゃないから。息抜きも大事だとわたし自身は思っているけど、今回はね、それよりも遥かに重要な用事なの。単刀直入に言うと、仕事。明日、依頼者の記憶を取り出すことになったの」

「仕事って、また友だちとママゴトか?」

「守秘義務があるのに、言えるわけないってば。でも、本当に大切な仕事だから。誇張でもなんでもなくて、その子の人生がかかっているんだから。それにもかかわらず、やりたくないっていう馬鹿げた理由で引き受けてくれないんだったら、わたしとしても断固とした対応をとらなくちゃいけない」

 返事はない。しかし、わたしが少しでも生意気な言動を見せれば、決まって即座になにか言い返す夏也が沈黙を返した時点で、答えは火を見るよりも明らかだ。

「これを成功させたら、わたし自身も変われる気がするの。そう意味でも、凄く、凄く大事な仕事なの。だからお兄ちゃん、明日の夜は頼んだよ」


 自室に戻るとすぐさま、テキスト形式のメッセージを星羅に送った。帰宅してすぐ、ではなくなってしまったが、無事であることの報告。そして、明日の放課後にも記憶を取り出したい旨と、施術にあたっての注意事項も。

 返信はすぐには送られてこなかった。予想していたというか、覚悟していた展開ではあったが、やはり不安になる。

 超常的な力に頼るのが怖くなったのだろうか? そんな非現実的な力など存在するはずがないと、認識に変化が生じたのだろうか?

 ネガティブな想念が頭の中を飛び交う。急かすような真似はしたくないから、星羅を問い質せないのがつらいところだった。

 レスポンスがあったのは、今日中にはもう来ないかもしれないと思い始めた、午前零時前のこと。

「明日は学校を休む。」という書き出しだった。今日嫌な思い出を洗いざらい打ち明けた精神的疲労感、そして明日に備えること、両方の意味から、極力誰とも顔を合わせずに過ごしたいのだという。

 記憶を取り出してもらう意思に変わりはないと、文末に明記されていた。

 了解のメッセージを送り、長く濃密な一日が終わった。


 取得情報が多い一日を泳いだ興奮が作用したらしく、昨夜は寝つくのが普段よりも遅かった。その過去が嘘のように、寝覚めはよく、起床時間もいつもと比べて半時間早かった。体調に問題はなく、心は静かに昂っている。コンディションは良好というわけだ。

 起床後に確認したメッセージの中に、差出人が星羅のものは一件もなかった。心配にならないといえば嘘になるが、事前に伝えておくべき情報は昨夜の時点で伝え尽くしている。疑問や異論はないようだったから、なんの問題もないはずだ。

 今朝のお母さんは眠たそうだったが、体調はよいらしくよく食べた。今日、久しぶりに記憶士として仕事に臨むことは、伝えなかった。娘が隠しているものに感づき、追及してくることはない。不要なプレッシャーを背負い込まずに済んだという意味で、些細かもしれないがありがたかった。

 起床してから登校するまでの間に、夏也との接触はなかった。前例を考えれば、文句を言いに部屋に怒鳴り込んできても不思議ではないが、朝食を済ませたあとは自室にこもり、音沙汰がない。

 唯一の心配は、夕食の介助を押しつけられた報復として、昼間のお母さんの介護を放棄することだが、さすがにそんな真似はしないと信じたい。わたしがわがままを押し通そうとしたならばまだしも、今回は記憶士の仕事という正当な理由があるのだから。

 星羅が不在の教室で、いつもの三人とお喋りをして過ごす。その星羅といっしょに遊園地で過ごした時間について、三人揃って聞きたがったので、リクエストに応える。ただし、昼前に帰ってお母さんと面会したという情報は、全てカットした。

 会話の中で、三人は星羅に対するネガティブな発言は一切しなかった。当人が不在の状況につけ込んで、婉曲な表現を用いて非難することも。日曜日に四人でいっしょに遊べなかった元凶である彼女に、三人とも雀の涙ほども悪感情を抱いていないらしい。

 星羅の頭から悪しき記憶を取り除いた暁には、きっと五人で。

 待ち受けているものの手ごわさを思うと、実現の可能性は高くないかもしれない。それでも、そんな想像を頭の片隅で、スペースが許す限り広げずにはいられなかった。

 放課後を迎えるまではあっという間だった。

 いつものように、代表者の机を囲んで無駄話をする態勢に入った三人に、わたしは別れの挨拶をする。

「また多木さんと約束があるの?」

 茉麻から投げかけられた言葉は、予想していたものと寸分違わなかった。だから、タイムラグなく返答できた。

「うん、仕事だから。明日になるか明後日になるかは分からないけど、近いうちにみんなで遊ぼうね。絶対だよ」

 三人は互いに顔を見合わせる。誰もなにも喋らないので間が生じたが、不穏でも不愉快でもない。

 再びわたしの方を向いた茉麻の顔には、邪念のない微笑みが灯っていた。彼女の顔だけではない。結乃も、詩織も、わたしの行動と意思を尊重してくれている。

「分かった。いってらっしゃい。頑張れっ」

 代表して茉麻が言う。曇りのない笑顔だ。茉麻も、結乃も、詩織も。

 頬が緩んだのを自覚する。三人に向かって頷き、教室を出る。

 頑張らないと。

 星羅のために。もちろんそれが第一だが、それだけではない。三人のため、家族のため、自分のため――わたしになんらかの関係がある、全ての人間のために。


 記憶士に制服はない。体を動かすから動きやすい恰好で、といった制約すらもない。高校の制服から、飾り気のない私服へと交換する。黒を中心に据えつつ、喪服に近づかないように華やかさ、少女らしさを多少意識して。星羅は遊園地に遊びに行ったときに、わたしが女の子らしい服を着てきたのが意外だ、という感想を口にしていた。その発言を全く意識しなかったと言い張れば、わたしは偽証罪に問われるだろう。

 星羅の自宅まで移動する最中は、殆どなにも考えなかった。緊張はしていないが、気持ちは問題なく引き締まっている。

 多木家のインターフォンを鳴らすと、星羅が速やかに応対に出た。

「星羅、こんにちは。もうそろそろこんばんは、かな。体調、大丈夫?」

「大丈夫。学校には顔を出したくない気分だったから休んだだけで、体の方は全然問題ないから。えっと、服装に特に指定はないんだったよな」

「うん、なんでもいいよ。心と体の調子がよければ、それで最低条件はクリアだから。……どう? 今の率直な気持ち」

「んー、緊張してる。大手術に臨む患者の心境っていうか。まあ、手術なんて一度も受けたことないんだけど」

 そう答えて、こめかみをかく。顔つきは平常心を保っているように見えるが、心なしか挙動はぎこちない。

「がちがちに緊張してるわけじゃないなら、大丈夫だよ。それじゃあ、移動してもオッケー?」

「ああ。秋奈の家でやるんだったよな」

「そうだよ。正確には蔵の方で、だけどね」

「蔵? そんなもの、あったけ。……まあ、行けば分かるか」

 ドアの施錠が完了し、わたしたちは歩き出した。

 蔵が蜂須賀家の敷地内の分かりやすい場所に建っていたこと。古色蒼然とした佇まい。その両方に星羅は驚いていた。わたしの母親に会うということで緊張してしまい、視野が狭くなっていたのかもしれない。そんなことを話しながら蔵まで行き、南京錠を開けて戸を開く。

 視界に飛び込んできた濃密な闇と、鼻孔になだれ込んできた独特の古めかしい匂いに、星羅の口から微かな声が漏れた。

 スイッチを押して明かりを灯す。人工の光の下に明らかになった光景を、星羅は呆気にとられたように見回している。蔵の中に初めて来る人間の中には、怯えの色を見せる者も多いが、星羅の横顔からその感情は読み取れない。

「少しだけ待って。準備をするから」

 中央に茣蓙を敷き、棚から鍵を取り出す。木箱を開けると、中には無数の小さな金属製の箱が入っている。一辺は十センチ強で、全面が鈍色。上部にある蓋を押さえつけるように真紅色の紐が結ばれている。

「茣蓙に座って。履物は履いたままでも脱いでも、どっちでもいいよ」

 背伸びをして木箱を覗き込んでいる星羅を肩越しに振り返って告げ、小箱を一つとって蓋を閉める。星羅は靴を脱ぎ、茣蓙の上に正座する。道具を目の当たりにして、いよいよその時が近づいてきた実感を抱いたのだろう、表情に硬さが露骨に表れてきた。

 星羅に合わせて靴を脱ぎ、向かい合う形で座る。慣れた手つきで紐をほどく両手の動きを、星羅はじっと見つめている。ほどいても、紐は箱と一体化しているので分離しない。

 わたしと星羅の間の床に、小箱と蓋を水平に並べて置く。それぞれの内側には、白い札が一枚ずつ貼りつけられていて、常人には解読不能な梵字が綴られている。箱、蓋の順番に手にとり、内部を星羅に見せながら、

「この箱の中に、取り出した記憶を封じ込めるの。中に文字が書かれているでしょ。わたしも詳しくは知らないんだけどね、『安らかに眠れ。宇宙に溶けて一体となれ』みたいなことが書いてあるんだって。蓋を閉じて紐で縛ってしばらく保管しておくと、このお札の効果でいずれ消滅するの。どのみち取り出した記憶は戻せないから、放っておくか保管するかの違いなんだけどね」

「消滅……」

「最終確認をさせて。本当に取り出してもいいのね?」

 星羅は深く頷いた。わたしの目を見ながらの首肯だ。あなたの意思はよく分かりました、というふうに、ゆっくりと頷き返す。

「確認事項、もう一つだけ。取り出している最中は、難しいかもしれないけど、できるだけリラックスして。もし可能なら、取り出してほしい記憶のことを思い浮かべて。心に余裕があるなら、その記憶に向かって、出て行けって全身全霊で願って。お願いできるかな?」

「ああ。やってみるよ」

「ありがとう」

 立ち上がり、箱の位置を少し前に移動させる。その分だけ星羅に前にずれてもらい、背後に回る。肩越しに視線を投げかけてきた星羅に向かって、

「ごめん。これ、昨日の時点で言っておいた方がよかったかもしれない。取り出すとき、星羅の体に触れるんだけど、後ろから腕を回して抱きしめるの。男の人が恋人にするみたいな感じで」

「本当にその方法で?」

「うん。わたしはそれがベストかな、と思ってる」

 わたしはこれまで、患者と対座し、頭に両手をかざすという方式を採用してきた。お母さんのやり方を踏襲したのだ。しかし、夜道を孤独に歩いていたさいの閃きに従うならば、こちらの体勢の方がより効果的なはずだ。

 この方法での施術は初めてだから、不安は当然ある。しかし、その不安を無視して実行に踏みきることを選ぶくらいに、新しいやり方が功を奏すると信じていた。

「ただ、体が触れていさえすれば大丈夫だから、密着されるのはちょっとって言うなら違う方法も――」

「いや、それでいこう」

 わたしの目を見ながら星羅は言う。

「秋奈がベストだって言うなら、そうするべきだよ。あたしも、絶対にあの記憶と決別したいと思っているからね。だから、より成功率が高い方で」

「分かった。じゃあ、今度こそ」

 背後に静かに膝をつく。星羅の全身が引き締まって硬くなったのが、触れる前から分かった。

 膝行して星羅に肉薄する。掌で口を覆って息を吐き、その手をシャツの裾になすりつける。

 緊張すると呼吸が荒くなるものだが、星羅が息を吸ったり吐いたりする音は聞こえてこない。わたしは少し緊張している自覚があるが、呼吸は平常だ。

 始まりの合図を星羅に送るべく、わざと座り直して衣擦れの音を立てる。

 胸を背中に密着させる。両腕を前に回し、抱きしめる。他の部位とは一線を画する柔らかさを、たしかに腕に感じた。

 首筋に顔を埋め、抱きしめられている星羅も分からないだろうほどに僅かに、両腕の力を強める。それを合図に、星羅へのシンクロを開始する。

 あの夜、公園で星羅の身になにが起きたのか。星羅はなにを感じたのか。なにを思ったのか。

 男子トイレの個室内を思い描く。星羅に連れ込まれ、殴られたのは女子トイレにあるそれの中だったが、大差はないはずだ。

 個室内は暗く、狭く、悪臭が仄かに漂っている。そこに男たちがすし詰めになっている。とてもではないが、五人全員は入りきらない。順番を待ちながら、凶行の模様を見物している。男たちの顔には、世にもおぞましい、下卑た笑みが浮かんでいる。造作は一人一人違うはずなのに、どの顔も似通っている。そのせいで、眺めているうちに外見まで同じに見えてきた。

 男たちは、少しの弾みで嘲笑の声を上げたに違いない。

 ――その音声は、十年以上に及ぶ学校生活で見聞きしてきた、いじめやいじりの場面から想像できる。

 行為に励む男たちの体からは、少女の体から発散されるものとは異なる、動物じみた汗の臭いが立ち昇っているだろう。

 ――その臭いは、体育の授業のあとの男子たちの体臭から想像できる。

 抵抗すれば、男たちは容赦なく体を殴りつけただろう。

 ――その痛みは、公衆トイレの個室内で星羅から暴行を受けた経験から想像できる。

 男たちは服を剥ぎ取り、肉体の外に内に、己の肉体の一部を使って刺激を加えただろう。

 ――その不快感は、回数は少なく、程度は軽かったが、これまでに何度か体験した、不届き者の手による痴漢行為から想像できる。

 行為は延々と続く。いつ終焉を迎えるかは分からない。一人一人が費やす時間が長いし、欲望を吐き出し終わったはずの男が再び順番待ちの列に並ぶ。

 ――その際限のない苦痛は、絶望は、恐怖と不安に駆られながら一人で夜道を歩いた経験から想像できる。

 わたしは星羅と同じ体験はしていない。しかし、百パーセントの再現度を目指し、想像することならば可能だ。

 異なる時間、異なる場所、異なる人物によって演出された出来事。それらの輪郭線をぼやけさせ、一体化させていく。一つと一つが溶け合いそうになったかと思うと、淡く溶け合っていたはずの一つと一つが、反比例するかのように境界線を明瞭にし始める。あるいは、何度くり返しても一つは一つのままで、断固として混じり合おうとはしない。重なり合っているはずの一つと一つを、もしや思い触診してみると、いとも簡単に分離する。

 まさに一進一退、根気強さと粘り強さが要求される、気力を著しく消耗する作業となった。途方に暮れそうになるほど、成就までの道のりは険しかった。しかし、根気強く、粘り強く、埋めるべきピースを埋めていけば、いずれ行きつくべき場所に行きつける、という確信があった。星羅の体の温もりが、体から緩やかに抜け落ちていく強張りが、一定した息づかいが、無言の声援を送ってくれているようで、ささやかかだがたしかなエネルギーとなった。

 ディティールが不完全ながらも全体の調和がとれてくると、蔵の中ではないどこかにいるかのような感覚を覚え始めた。それに伴い、不快感が強く身に迫ってきた。想像に起因するものではなく、現在進行形で体感しているかのような、不可解なまでの生々しさを帯びた不快感。

 近づいてきている、という手応えがあった。

 光景、感触、音声、匂い。それら全てが汚らわしく、煩わしく、不愉快で、耐え難く、吐き気を催す。それらの感覚は、こちらの意思では一時停止も強制終了も不可能。すなわち、相手が満足するまでは解放されない。不快感の根源である彼らに慈悲を乞う屈辱に甘んじたとしても、彼らは決して願いを聞き入れないだろう。

 自らの命運を悟った瞬間、絶望よりも深い感情が込み上げ、瞬く間に胸中がそれ一色に染め上げられた。絶叫したい衝動が腹の底から突き上げる。

 しかし、なにかが実行を阻んだ。毅然として、無慈悲に、完全無欠に、その可能性を否定した。

 かくなる上は、願いは一つしか残されていない。

 嫌だ。

 出て行け。

 わたしの中から、出て行け。

 一心に、ただそれだけを願う。願えば願うほど、心の深部で、形があるともないともつかない極めて漠然としたものが、渦を描きながら一点に吸い寄せられていく。

 やがてそれが一つの塊と化しても、不快感は居座り続けている。塊が諸悪の根源なのだ、と遅まきながら悟る。

 嫌だ。出て行け。わたしの中から出て行け。

 現在地ではないどこかを目指し、塊がにわかに移動を開始した。塊自体は微動だにしないにもかかわらず、「塊が動いている」という実感を覚えるため、自分の方が動いているかのように錯覚される。移動速度に次第に加速度がつく。遅々とした速度ながらも、意識が遠のき始めた。怖いような、不安なような、心細いような。しかし、代償として、かけがえのないなにかを得られるのではないかという、根拠の不確かな期待感があった。怖さを、不安を、心細さを、全身全霊で封印し、恥も外聞もなく希望にすがりつく。

 一瞬、意識が世界から断絶した。

 わたしは我に返った。

 意識が世界から断絶した、という感覚は明瞭に胸に残っている。しかしそれは、特定の具体的な感情を誘発しない。そこはかとなく全身がだるい。自覚したのに一拍遅れて、星羅を抱きしめている事実を思い出した。意識を失っているらしく、わたしに体重を預けている。

 顔を覗き込もうとした矢先、虚空に浮かぶものの存在を視覚が捉えた。野球ボールよりも若干小さいサイズの球体。白く眩く光っていて、輪郭は緑がかった青色を帯びている。

 記憶だ。

 軽く狼狽してしまう。記憶を取り出したときはいつも、出てきた瞬間に両手で掴んでいた。お母さんだってそれは同じだった。しかし、目の前に浮かんでいる記憶は、完全なる自由の身。

 人間の体から解放された記憶は、どのような動きをするのだろう? この目で見たことはないし、お母さんから教わったこともない。取り出した記憶は二度と人体には戻らない。致命的な損害が発生するとは思えないが――。

 記憶は虚空の一点に留まり続けている。なんとはなしに、黙しておやつを欲するペットや幼児を思わせる。

 ……ああ、そうか。

 記憶は、早く封じてもらいたいのだ。札の力によって浄化され、安らかにこの世界から旅立ちたいのだ。

 自然と頬が緩んでいた。

 星羅を茣蓙の上にそっと仰向けに寝かせる。その表情は、安眠している人の寝顔を彷彿とさせる。

 小さく胸を撫で下ろし、視線を記憶へと移す。両手を伸ばし、両サイドから包み込むようにして捕まえる。冷たくも温かくもなく、手触りは上質の陶器のように滑らかだ。小箱の中に収めて蓋を閉ざし、紐を結ぶ。箱を胸に抱えて立ち上がる。記憶自体に重量はないはずなのに、少し重くなったように感じる。

 蔵の戸口から見て左奥、その下から二番目の棚に置かれたプラスチックケースを取り出す。暗緑色の布をめくり、その中に箱を忍ばせる。

 ケースを棚の奥まで押し込めると、自ずとため息がこぼれた。疲労感は隠せないが、達成感とそれに伴う爽快感も多分に含まれた、ため息とは別の単語を用意したくなるようなため息。

「星羅、星羅」

 傍らに片膝をつき、弱い力で肩を揺さぶると、瞼が開いた。少し眠そうに目をしばたたかせる星羅に、にこやかに微笑みかける。

「おはよう、星羅。今は夕方の六時くらいだと思うけど、目を覚ました人にはおはようの方が、わたし的にはしっくりくるから」

「目を覚ました……」

「星羅の記憶、取り出すのに無事成功したよ。星羅はそのさいに気を失ったの。今、どんな気分?」

「気分は――悪くない、かな」

 放心したような顔ながらも、口調はしっかりとしている。

「どんな記憶を取り出してもらったのか……。取り出したんだから、分からなくて当たり前なんだろうけど、悪い気分じゃないんだから、秋奈はあたしにとっていいことをしてくれたんだと思う」

 漸く、星羅の口元が緩んだ。肩の荷が下りて安堵した、というような微笑みだ。

「ありがとう、秋奈」

 どういたしまして。わたしが悪戦苦闘している間、記憶を外に追い出そうとする努力をしてくれて、お疲れさま。こちらこそ、ありがとう。

 心の中で感謝の言葉を述べ、星羅を抱擁する。いきなりの行動に戸惑ったような数秒の間を挟んで、抱きしめ返してくれた。弱い力だったが、その弱々しさはいとおしく、尊ぶべきものに思えた。


 星羅は体調的には問題なさそうだが、頭がぼーっとしているらしく、受け答えが覚束ない。

 わたしの友人たちの場合も同じような症状が見られたが、反応としては、投げかけられた言葉にうわの空になる程度。十分も経てばほぼ調子を取り戻していた。しかし星羅の場合は、うわの空を通り越して呆然自失といった様子だし、十分が経過しても回復の兆しが一向に見られない。取り出した記憶がそれだけ、星羅の人生や人格にとって重要なものだった、ということなのだろう。

 星羅を誘導して壁際まで移動し、もたれさせる。なにか飲みたくないかと尋ねると、首を横に振った。わたしは少し喉が渇いていたが、我慢することにする。今はとにかく星羅の傍にいたかった。

 友人の横に座り、復調を大人しく待つ。手持無沙汰ではあったが、待つ時間は嫌ではない。厚かましい真似が許されるならば、肩に寄りかかりたいくらいだった。

 施術を経て、言語化しづらいなにかがわたしたちの間で高まったのを、わたしは実感していた。そのなにかは、わたしと星羅、どちらにとっても望ましいことなのは間違いない。

 こんなこと、他の患者の施術のときはなかった。強いていうならば、茉麻や結乃や詩織の記憶を取り出したさいに、今回のそれに近い感慨を覚えた記憶がおぼろげに残っているくらいで。

 星羅はやがて周囲をしきりに見回し始めた。無表情ながらも、なにかを探しているらしい様子が窺える。声をかけると、施術に関する質問を次々に投げかけられたので、一つずつ答えていく。

 話の流れを尊重しつつも、記憶を取り出したことで、隣接する記憶にどのような影響があったのかを、性急にならないように探っていく。結果、寂しいという理由から、自らの意思で公園まで足を運んだ記憶は、頭の中に残っていることが判明した。ただし、性的暴行の一部始終は完全に忘却していて、公園からの帰り道に関しては、とにかく酷く惨めな気持ちだった、とだけ記憶されているらしい。

「人気のない公園で一人で長時間過ごすうちに、あたし、こんなところでなにやってるんだろう、みたいな虚しい気持ちになって、その気分を引きずって帰宅したんじゃないかな」

 空洞になった過去と、直後の記憶に関して、星羅自身はそのように推理していた。

「でも、もう秋奈っていう友だちができたから。もう二度とあんな思いをすることはないよ」

 はにかむように微笑んで付言する。ストレートな物言いに、少しどぎまぎしてしまった。記憶を取り出してからの星羅は、言葉づかいが全体的に丸みを帯び、素直に感情や思いを口にするようになったようだ。

「あ、星羅、一つ訊きたいんだけどね。その出来事があった三日後、わたしたち喧嘩をしなかった?」

「喧嘩? ああ、そういえばあったね、結構激しめの口論が」

「口論……」

「ん? 覚えてないの?」

「ううん、そんなことないよ。ちゃんと覚えてる」

「だよね。だってあれがきっかけで、あたしたちは急速に仲よくなったんだから。秋奈にはかなりきついこと言った覚えがあるから、こう言うのも図々しいかもしれないけど、今が幸せならそれでいいんじゃない?」

 わたしは表情を和らげて頷いた。

 そうだね、星羅。わたしも、心からそう思うよ。


 星羅が自分のスマホを確認すると、母親からのメッセージを何件も受信していた。

 今日は体調不良を理由に学校を休んで家にいるということで、ちょっとした用事を頼むつもりで連絡を入れたが、返信がない。寝ているだけだとは思ったが、念のために早めに帰宅した。結果、星羅が外出していることが判明したので、どこへ行ったのか心配しているという。

 状況が不明で心配しているから、すぐに連絡をしてほしい。外出先で体調が悪化するなどして身動きがとれないのであれば、場所を教えてくれたらすぐに迎えに行く。最後のメッセージには以上の旨が綴られていたそうだ。

「知らないうちに、なんか大事になっちゃってるな」

 星羅は苦笑しながら頭をかく。

「体調不良っていっても、そもそも仮病なのに。うーん、返信めんどくさいなぁ」

「面倒くさくてもすぐに送った方がいいよ。お母さんの好意に甘えた方がいい」

「いや、必要なくない? ゆっくり歩いても十分で帰れる距離なのに」

「車で来てもらった方が、早く元気な顔を見てもらえるでしょ」

「顔が見たいなら写真を撮って――って、ごたごた言ってるなら返信した方がいいか」

 星羅はメッセージを送った。内容は見ていないが、文章は短いようだった。

 返信の返信はすぐに届いた。心配無用とのことだが、手が空いているのでそちらに向かう、とのこと。蜂須賀家は界隈では目立つ建物なので、教えられるまでもなく把握しているという。

「やっぱり優しいね、星羅のお母さん。わたしのお母さん、歩くことさえままならないから、迎えに来てくれるのは羨ましいな」

「ああ、だから甘えろって言ったんだ」

「まあね」

 門の前で待っていると、間もなく星羅の母親の車が到着した。

 体調が悪いにもかかわらず出歩いたことを叱られるようだったら、ちゃんと説明して星羅のことを守ろう。そう意気込んでいたのだが、娘に対しても娘の友人に対しても、星羅の母親は柔らかな表情と穏やかな言葉づかいで接した。少し優しすぎるくらいでさえある。前回話をしたときも思ったが、やはりいい人だ。

「秋奈ちゃん、だったよね。星羅、不器用なところもあるけど、心根は優しい子だから、これからも仲よくしてあげてね」

「はい。また今度、遊びに行きます」

「うん、いつでもおいで。お茶とお菓子を用意して待ってるから」

「お母さん、もう行こう。秋奈、家の用事をしなきゃいけないから、話し込んだら迷惑になる」

「ああ、そうね。じゃあ秋奈ちゃん、またね」

 手を振って車に乗り込み、多木親子は帰っていった。


 一人になると、どっと疲れが出た。

 夏也がちゃんと今晩の義務を果たしたと知ると、安堵感から疲労感は倍加した。疲れているときのわたしは、通例、エネルギーを補うべく食事量が多くなるのだが、あまり食べられなかった。

 夕食後に義行さんに電話をかけた。

 久しぶりの連絡だったせいか、驚いていた。予想していたとおり、お母さんの体調を尋ねられたので、最近はいい日が多いです、と答える。

「そうですか。それは安心しました」

 義行さんの言葉は相変わらず、最小限で、事務的で、そっけない。

 本題である、記憶の受け渡しと供養の件については、淡々と話が進んだ。義行さんのことを、多少なりとも異性として意識しているわたしとしては、物足りない気持ちもある。ただ、心身を蝕む疲労感のせいで、他愛もない世間話に誘導するだけの気力が湧かない。

「それでは、一週間後に伺います。お母さまによろしくお伝えください」

 通話を締め括る義行さんの一言がきっかけで、お母さんとは今朝以来顔を見ていないことに気がついた。

 本来であれば、眠っていることの方が多い時間帯だ。どうかな、と思いながらドアをノックすると、か細い声が「どうぞ」と応えた。

 部屋は真っ暗だ。電気を点けてもいいかと問うと、了解を得られた。ベッドの上の寝間着姿のお母さんは、眩しそうというよりも眠たそうだ。

「どうしたの、秋奈。こんな時間に。困ったことでもあるの?」

「ううん、なにもないよ。今日の晩ごはんはお兄ちゃんが持って行ったから、お母さんのところにに来たのは朝の一回だけだったでしょ。だから、寝る前に顔が見たいな、と思って。用件はそれだけだから」

 返事はない。想定していた反応だったので、特に気に留めずに「おやすみ」と告げる。

 お母さんがじっとこちらを見ていることに気がついたのは、ドアを閉ざす寸前のこと。

「どうしたの?」

 やはり返事はない。心配になってベッドまで歩み寄ると、呆然としているとも真剣なともつかない顔で、わたしの顔を真っ直ぐに見据えてくる。

「秋奈。もしかして、いいことあった?」

 指摘された瞬間は驚いたが、すぐに笑顔になっていた。お母さんは我が子のちょっとした変化を鋭く察する人だ。昔からそうだったし、倒れてからはむしろその長所に磨きがかかった感がある。

「うん、あった。ちょっと大変だったけど、とってもいいことが」

「そう。じゃあ、いい気分で眠れて、いい気分で明日を迎えられそうね」

 秋奈に嬉しいことがあったから、お母さんも嬉しい。目尻に皺を作って微笑むその顔は、弾む一歩手前のようなその声は、明言するよりも雄弁にそう語っていた。

 星羅から記憶を取り出すことができて、本当によかった。

 心からそう思えた瞬間だった。


「お兄ちゃん!」

 お母さんの朝食の介助を終えたその足で夏也の部屋へと向かい、勢いに任せてドアを開け放つ。前回の反省を踏まえて施錠していた、というわけではなかったらしく、室内が丸見えになった。

 夏也は椅子に座って雑誌を読んでいたが、驚いた拍子に取り落とした。表紙では水着姿の若い女性が蠱惑的に微笑んでいる。

「あーっ、エッチな本読んでる! ばれないように、そういうのは電子書籍で読んでいるのかと思ったら、まさかの……」

「違う! これはマンガ雑誌で、巻頭にグラビアが載ってるだけだ。わざわざ買って読むかよ、そんなもん!」

 怒鳴るように疑惑を否定し、机の引き出しに素早く仕舞う。絶対に怪しい、と思ったが、秘密を探るために兄の部屋を訪問したのではない。

「てか、勝手に開けんじゃねぇよ。なにしに来たんだ、こんな朝っぱらから」

「用事があるからに決まってるでしょ。エロ本を読んでいる罪を告発しに来たわけじゃないから」

「エロ本じゃねぇっつってんだろ! 出て行けよ、クソが」

「出て行かない! 本当は昨日の夜に言っておきたかったんだけど、疲れててそんな余裕なかったから。お兄ちゃんと話をすると、少なからず口論みたいになるから、気力の消耗が凄まじいんだよね」

 昨日の夜、という言葉が出た瞬間、用件の方向性を察したらしい顔つきを夏也は見せた。だから、わたしが室内に完全に体を入れてドアを閉め、少し散らかった部屋の中央に膝を揃えて座っても、感情の赴くままに怒鳴りつけたりはしない。それどころか、椅子を回して向き直り、言いたいことがあるならさっさと言え、という目つきで睨んできた。

「昨日依頼をこなしたんだけど、なんとか成功させたよ。その子とは今朝も連絡をとったんだけどね、後遺症もなくて、体調も気分もいいみたい。施術に先立って話を聞いた限りでは、取り出すのに相当苦戦するだろうなって、覚悟していたんだけど」

「ああ、そう。よかったじゃねぇか、久々に収入を得られて」

「その子には借りがあったから、お金は一円も受け取らなかったよ。記憶を取り出すことで貸し借りはゼロ、っていう約束だから」

「……どれだけ愚かなんだ、お前は。脳に障害でも負ってんのかよ」

 汚物を見るような目で吐き捨てる。許容範囲を超えた暴言ではあったが、毒を吐かれる覚悟はしていたので、どうにか我慢できた。本題は別のとことにあるという意識も、もちろん一因だろう。

「で、なにがしたいんだ、お前は。褒めてほしいならババアのところへ行けよ。わざわざ俺のところに来るんじゃねぇ。クソ面倒くさい」

「そんなこと、期待してないよ。昨日の件で気がついたことがあるから、伝えに来たの。お兄ちゃんにわざわざ伝えなきゃって思うくらいに大事なこと」

「……なんだよ、勿体ぶって。出来損ないの俺に伝えて、意味あんのか」

「あるよ。凄くある。だって、お母さんにも関係があることだから」

 夏也の顔つきが少し変わった。

「わたし、記憶を取り出すコツって、記憶に呼びかけて、頑なな心を解きほぐして、外に出てきてもらうことだって考えていたんだけど――」

「俺はコツとか、そういう段階に行く前に挫折したから、分からねぇよ」

「いいから、最後まで聞いて。でもね、それは実は間違っていたんじゃないかって思ったんだ。本当は、患者の心情にシンクロして、患者になりきって、悪い記憶に出て行ってほしいって願うべきなんじゃないかって」

「つまり、お前はこう言いたいわけか。わたしが今までどうでもいいようなちっぽけな記憶しか取り出せなかったのは、間違った方法で記憶を取り出していたからでしたよ、わたしに才能がないわけじゃありませんよ、と」

「だいたいそんな感じかな。厳密にいえば、正しいか間違っているかじゃなくて、効率的か非効率的かの問題だと思うんだけど。わたし、これまで記憶を取り出すのに成功したのは、友だちとかご近所さんとかで、初対面の人に対してはことごとく失敗だったでしょ。それは多分、日頃から親しくしている人に対しては、無意識にその人の心情に寄り添って、自分自身の問題を解決するつもりで施術に臨んでいたからだと思う。だから、成功した」

「なるほどね。お前の言い分は分かった。だけどよ、そのこととババアになんの関係があるんだ? ババアに教わらずともコツを会得したわたしって天才、とでも自慢したいのか?」

「違うよ。お母さん、自分で自分の記憶を取り出したでしょ? 記憶士にまつわる全ての記憶を」

「……なんだよ、今さら」

「お母さんがそんなことをした動機、今までは分かるようで分からなかったんだけど、今回の件で完璧に分かった」

 強いて間を演出し、語を継ぐ。

「疲れちゃったんだよ。ただの記憶ならともかく、記憶士なんていう、一般人からすれば眉唾物の存在に依頼してまで取り出してほしいと願うくらい、その人からすれば重たい記憶なわけでしょ。そんなものを取り出すために、来る日も来る日も依頼者にシンクロして、出て行けって念じていたら、身も心もぼろぼろになるに決まってる」

 夏也は半分口を開けた表情で固まっている。唇は、言葉を発信しようとする素振りさえ見せない。

「シンクロして追い出す方法のきつさ、実践してみて初めて分かった。どのくらいしんどいかっていうとね、さっき言ったけど、報告、本当は昨日のうちに済ませておこうと思っていたんだけど、しんどすぎて今日に先送りにしたくらい。夕食もあまり喉を通らなかったし、今も正直、ちょっと横になりたいくらいだしね。でもこの事実、できるだけ早めにお兄ちゃんに伝えておくべきだと思ったから、こうして朝から部屋に来たわけ」

 夏也の頭の中を、どのような想念が駆け巡っているのかは知る由もない。ただ、なんらかの考えるべきことがあり、それに意識を奪われているのはたしからしい。

「コツを掴んだことだし、これからはもっと修行を頑張って、有償での記憶士の仕事も引き受けていこうかなって思ってる。一朝一夕ではお母さんみたいにはなれるはずもないけど、少しずつでも近づけるように――」

「はあ? なんだよ、それ」

 出し抜けの声がわたしの発言を遮った。濃縮した怒りが多分に込められ、興奮によって上擦った声だ。仇敵を面前にしたかのような険しい表情を見せていることに、遅まきながら気がついて息を呑む。

「あのババアは、きつくて苦しくてつらい仕事を俺に肩代わりさせるために、俺をしごいてきたってことかよ。我が子が跡を継いでくれれば、自分はさっさと引退して、きつくて苦しくてつらい仕事から解放されて、今までに稼いだ金で悠々自適な暮らしを送れるから。……なんだよ、そういうことだったのかよ。なんだよ、なんだよ、なんだよ――ふざけんなっ!」

 机の天板に殴りつける。目の覚めるような音を響かせたあとも、確固としてその場に存在し続ける拳は、憤怒に打ち震えている。

「夏也のためを思ってとかなんとか、もっともらしいことを散々言われた記憶があるけど、なにが俺のためだよ。自分のためじゃねぇか。息子に重荷背負わせて、自分が楽したいだけじゃねぇか。人の痛みを知らない人間だとは思っていたけど、自分がかわいいから他人はどうでもいいってことかよ。親としてじゃなくて、人間として最低最悪じゃねぇか。……なんだよ。なんだよなんだよなんだよ。俺は今まで、あんなゴミみたいなクソ親のために――」

「違うっ!」

 今度はわたしが大声を出す番だった。言うべきセリフを中断させられた怒りを、夏也は反射的にぶつけようとした。しかし、わたしの顔を一目見た瞬間、出かかった言葉を口内に押し留めた。

「違うよ、お兄ちゃん。早合点しちゃ駄目。そうじゃないから。お兄ちゃんを思ってっていうお母さんの言葉、絶対に嘘じゃない。自分のためだとか、自分さえよければそれでいいとか、お母さんはそんな人じゃないよ。言葉どおり、厳しく指導するのが一番お兄ちゃんのためになると思ったから、そうしたんだよ。ちゃんとした説明はなかったかもしれないけど、自己中心的な理由から厳しくしたわけじゃない。絶対にそうじゃないよ」

「ああ、そうかもな。ババアからしてみれば、崇高でご立派な、理念なり名目なり理由なりがあったのかもしれない」

 夏也の表情は依然として険しい。声からは、精神状態が一定の落ち着きを回復したことが窺えるが、顔はむしろ歪みを増している。

「でもな、秋奈。その崇高でご立派な理由のせいで、俺は馬鹿みたいにきつい稽古を毎日毎日させられて、自殺したくなるくらい嫌な思いをしてきたんだぜ? その俺の気持ちはどう処理すればいいんだよ。俺が報われねぇじゃねぇか。不当な理由からじゃなくて、崇高でご立派な理由から厳しくしごかれていたんだから、つらい思いをした過去はきれいさっぱり忘れて、これからは明るく前向きに真っ当に生きましょう? それは違うんじゃねぇの? 俺の言っていること、間違ってるか? どうなんだよ。答えろよ、秋奈」

「――お兄ちゃんの記憶、取り出してあげようか?」

 夏也は食べ物が喉につかえたような顔つきになった。

「今までは半人前だったかもしれないけど、もうコツは掴んだ。だから、お兄ちゃんが忘れ去りたいと思っている記憶を取り出してあげられる」

「……できるのかよ。一生もののトラウマレベルの記憶だぜ? いくらコツを掴んだといっても、初心者クラスを卒業したばかりのお前には、少しばかり手に余るんじゃねぇの?」

「大丈夫だと思う。コツを掴むきっかけをくれた子も、一生消えないような記憶の持ち主だったから。単純な比較はできない、っていうか絶対に無理だけど、その子の記憶を取り出せたんだから、お兄ちゃんもきっと大丈夫。取り出すコツ、依頼者の心情にシンクロすることだって言ったけど、わたし、お母さんに厳しくされてつらかったお兄ちゃんの気持ち、お兄ちゃんの次に分かっているつもりだから」

 夏也は唇を閉ざして沈黙している。わたしは意識的に表情を和らげる。

「記憶を取り出すのに成功したあとの進路は、もちろんお兄ちゃんの自由だよ。記憶士として生計を立てていきたいなら、そのためのノウハウ、わたしが教えてあげる。わたしはお母さんみたいに鬼にはならないっていうか、なろうとしてもなれないと思うから、安心して。妹に教わるくらいなら死んだ方がましだっていうなら、無理にそうする必要はないよ。お母さんに関するネガティブな記憶がなくなったことで、今よりももう少し優しくお母さんに接してくれるなら、わたしとしてはそれで充分。……正直、もう少しお兄ちゃんに協力してほしい気持ちはあるんだけど、それについては施術が終わったあとで話し合う、ということで」

 伝えるべきことは全て伝えた。黙って返答を待つ。

 夏也はわたしの顔を見据えたまま、沈黙している。考え込んでいるのだと、表情を見れば一目瞭然だ。視線の方向こそわたしだが、いくら目を合わせようとしても重なり合わない。

 黙考は長く、長く続いたが、雑念に囚われることなく、泰然自若として待っていられた。

 夏也はおもむろに、顔をわたしから背けた。

「――考えさせてくれ」

 シリアスで、重々しい口振りだった。

 わたしは無言で頷き、部屋を後にした。


 大急ぎで朝食を済ませた時点で、朝のショートホームルームはすでに始まっていた。全力疾走で高校へ向かったとしても、一時間目には間に合わないかもしれない。そう思うと、前夜から続く気怠さも手伝って、今日は学校は休もうか、という気分になる。

 しかし、その主張は無視して、黙々と制服に着替える。星羅の顔が見たかったからだ。学校を今日も休む旨のメッセージが届いていないということは、律義な彼女のことだから、必ず登校しているはず。星羅だって、わたしに会いたいと思っているかもしれないのだから、期待に応えないと。

 二時間目に間に合うように時間調整をして、家を出る。一時間足らず出発が遅いだけで、道から見える景色はどこか新鮮で、体にこびりついた疲労感を緩やかに癒してくれるようだ。

 目論見どおり、一時間目と二時間目の間の休み時間に高校に着いた。いくばくかの不安を抱きつつも、開け放たれた戸から教室の中を覗くと、

 いつもの三人と星羅が、机を囲んで談笑していた。ただの会話ではなく、談笑。星羅も含めて、全員の顔ににこやかな表情が浮かんでいる。

 開いた口が塞がらなかった。

 最初、星羅に三人が絡んでいるのかと疑った。絡むという表現はいささか強すぎるかもしれないが、要するに、三人の方から星羅に話しかけて、星羅の意思を蔑ろにして会話をしているのではないか、と。

 しかし、彼女たちがいるのは星羅の席ではなく、詩織の席だ。しかも、わたしと遊園地で遊んでいる最中によく見せていた、無防備であどけない微笑みを星羅は浮かべている。

 教室に足を踏み入れる。自分の机ではなく、四人がいる方へと歩を進める。すぐに詩織が気がつき、手招きをしてきた。

「秋奈、遅い! どうしたの、珍しいね」

 口火を切ったのは、茉麻だ。

「多木さんの記憶を取り出した影響なんでしょ」

「そうだとしても、珍しいよね。秋奈は元気が取柄なのに」

 次いで詩織が、三番手で結乃が言う。わたしは三人の顔を順番に見返し、星羅の顔を見つめる。

「え……。星羅、もしかして記憶の件、みんなに喋った?」

「うん、喋った」

 即答だった。表情が柔らかく、屈託がないので、一陣の薫風が吹き抜けたようだった。

「ああ、でも、事細かに話したわけじゃないよ。秋奈に依頼して記憶を取り出してもらった事実と、取り出してもらう前の緊張とか、取り出してもらったあとの不思議な気持ちとか。そんなところだけど、駄目だった?」

「ううん、全然駄目じゃないよ。ていうか、四人は今まで話をしていたの? 仲睦まじく?」

「そうだよ。ショートホームルームの前と、後と、それからこの休み時間に」

 代表して茉麻が答え、他の三人は首の動きで同意を示す。わたしは星羅と目を合わせる。

「……えっと。どうして、いきなりこんなに仲よくなってるの?」

「ん? それは、秋奈が記憶を取り出してくれたおかげじゃないの。話を聞いたんだけど、三人とも軽い躁状態っていうか、気分爽快になったみたいじゃん」

 星羅の言うとおりだ。三人を含む患者には、施術後しばらくすると、多少なりとも気分が高揚する、という症状が共通して見られた。抱え込んでいたものが消えたことが心に好影響をもたらした、ということなのだろう。

「ていうか、なんだよ秋奈、その顔は。わたしが他の女子と仲よく話をしたら、駄目なのかよ」

「ううん、そんなことないよ。でも、変化が急だし、落差が大きいし。いつかの結乃のセリフじゃないけど、孤高の人って感じだったのに、いきなり人当たりがよくなったから、ちょっとびっくりして」

「いいだろ、別に。そういう気分なんだから」

 やりとりを続けるうちにチャイムが鳴った。自分の席に戻ろうとしたが、星羅に腕を掴まれ、無理矢理彼女の方へと向かされる。

 星羅はわたしに顔をめいっぱい近づけると、どこか妖艶に微笑んだ。

「お昼、いっしょに食べよう。本当は秋奈と二人きりがいいんだけど、今日のところは五人で」


 なんとなく、夏也は迷いに迷い、葛藤に葛藤を重ねたせいで、遅れてやって来るような気がしていた。

 しかし、約束の午後十時きっかりに庭を出たわたしが見たのは、蔵の外壁にもたれた兄の姿。

「おう、おせぇぞ。人を呼び出してるんだから、遅刻するなよ」

「今ちょうど十時くらいだと思うけど。ていうか、先に来たのになんで鍵は持ってないわけ」

「うるせぇな。細かいことは気にすんな。ほら、開けろ」

 持参した鍵を使って開錠する。兄、妹の順番で中へ。

 茣蓙を敷く作業はわたしが行う。一方の夏也は、空間の隅で腕組みをして突っ立ち、久しぶりに足を踏み入れたらしい内部の様子を、どこか懐かしそうに眺め回しているだけ。本来であれば小言の一つでも口にしている場面なのだが、あとのことを考えて自制する。

 茣蓙を敷き終わり、小箱の用意も完了して、兄妹は対座する。わたしは正座をして。夏也は胡坐をかいて。

「お兄ちゃん、記憶はどうするの? ここに来たっていうことは――」

「ああ、取り出してくれ。置いておいても邪魔なだけだから、取り出してしまおう。絶対にその方がいい」

 わたしとは目を合わさずに、どこかさばさばとそう述べた。

「本当にいいの? 一度取り出しちゃうと、もう戻せないんだよ? 悪い思い出も思い出のうちだし、時間が経てばいい思い出に変わるかもしれないんだよ? それでも取り出すの?」

「何度確認を求められても、俺の意思は変わらねぇよ。さっさとやってくれ」

 感情を排して淡々と振る舞う夏也が、なぜかとても大人に感じられて、胸を打たれた。少し悔しい気もした。

「おい、どうしたんだよ、秋奈。なにびびってんだ? 急に自信がなくなった? 疲れが酷くて成功させられる気がしない? どっちにしろ、情けねぇな。たまにはかっこいいところ、見せてみろよ」

「分かった。それじゃあ、取り出したいと思っている記憶の詳細、わたしに教えて」

「しごかれた俺の気持ち、俺の次に理解してるんじゃねぇのかよ」

「理解してるけど、どんな体験をして、どんな気持ちになったのか、具体的なことをもっと頭に入れておきたいっていうか、入れておかなきゃ取り出せるものも取り出せないから。いくら血が繋がった家族といっても、そこを特別扱いするわけにはいかないよ。言いづらいのは分かるけど、成功率を高めるためだと思って協力して」

「……しゃーねーな。分かったよ。言えばいいんだろ、言えば」

 状況が違っていれば不快感を覚えたかもしれない、陰鬱なため息。顔を背け、腕組みをして、黙考。

 しばらくして、おもむろに髪の毛をかきむしったかと思うと、顔の向きをわたしへと戻した。そして話し始めた。

「秋奈は覚えてるかどうか分からないけど……。俺は割と小さいころから、母さんが仕事をするときは傍にいるように命じられて、その模様を見学させられていたんだよ。依頼人には、この子は助手です、とかなんとか言って。実際にやったことはといえば、さっきお前がやったような、茣蓙を敷くとか、小箱を取り出すとか、そういう簡単なことばかり。別に俺がやらなくてもいいし、そもそも現場にいる必要がない。取り出したい記憶について語る場に、取り出す張本人でもないガキがいるんだから、人によっては物凄く嫌がっていた。それでもいさせたってことは、自分の目で見て覚えろ、ってことだったんだろうな」

 わたしも助手という名目で、お母さんの仕事の見学を命じられたことが何度かある。だから、兄も同じ道を辿ったはずだ、という予測は立てていた。ただ、夏也は母親の厳しい指導を憎悪していたので、稽古開始当初から記憶士としてのお母さんに拒絶反応を示していたに違いない、という先入観があった。しかし、過去を語る兄の表情や口調から判断した限り、その段階ではスパルタ的な指導はまだなかったらしい。

 ということは、仮にお母さんが倒れなかったとすれば、わたしは夏也のように厳しく指導されていたのだろうか?

 見て学ぶだけの段階から、習うより慣れろの段階に移行したばかりのころ、お母さんは自らの意思で自らの記憶を取り出し、現在も続く生活のスタートを切った。

 患者にシンクロすることで覚える疲労の激しさを知って、お母さんがその道を選択した動機は、記憶士として活動を続けることに疲れてしまったからだ、とわたしは考えるようになった。しかし、そればかりが理由ではなかったのではないか、という疑いがここに来て浮上した。

 わたしの教育方針に関して、迷いや葛藤があったのでは?

 夏也には一貫して厳しい態度で臨んできたが、そのやり方は間違っていたかもしれない。わたしには優しく指導するべきか。それとも、夏也と同じ対応をとるべきか。そんな迷いであり、葛藤があったが、

 お母さんは納得のいく結論を出せなかった。このまま悩み続けていても、満足がいく答えは永遠に導き出せないと、やがて悟った。そして、自らの手で自らの記憶を――。

「そういうことを何回かこなしたあとで、本格的な稽古に入ったわけだけど、母さんは厳しかったね。とにかく厳しかった。ぶっちゃけた話、母さんは教えるのが下手だった思う。優秀で有能であるがゆえに、才能のないやつがなぜ失敗するのか、深い部分までは分かっていなかったような、そんな感じだったね。あと、説明が不充分だった。この作業やあの作業をこなすことが、今後記憶士としてやっていくにあたって、どういうふうに役立つのか。毎日毎日難しい課題をこなしてまで、記憶士としてやっていかなきゃいけない理由はなんなのか。俺のその疑問に、子供心にも納得がいくような答えをくれたことは一度もなかったよ」

 言葉が途切れる。眉根を思い切り寄せるという、なにかに思い悩んでいるような顔を見せていたが、語が継がれるまでには五秒も要さなかった。

「たしかに、俺は嬉々として母さんの助手をやっていたよ。明日にも寿命を迎えてこの世からいなくなります、みたいな面をした依頼者を、ちょっとした儀式を執り行うだけで笑顔に変えるのを見て、母さんは凄い人なんだって感動した。かっこいいって素直に思った。もちろん、尊敬だってしていたし。でも、母さんみたいになりたいかっていうと、それは違うんだよ。最初はそう願っていたかもしれないけど、少しばかり指導を受けて、自分に記憶士の才能がないって分かった瞬間、その願いは消えていた。目標とする存在が大きすぎるから。遠すぎるから。俺なんかじゃ足元にも及ばない、これは無理だ、さっさと諦めた方が賢明だ。そう思ったね。――それなのに」

 顔が一層歪む。それを境に、声量はある程度抑制しながらも、語調が荒々しくなった。

「それなのに、母さんは俺をしごきにしごきまくった。赤い血が流れる人間相手にあれだけ冷酷になれる人間、俺は人生で初めて遭遇したよ。非難されても仕方がない極悪人ならまだしも、俺は実の息子だっていうのに。抗議? 当然したさ。俺は才能もないのに、後継者なら秋奈だっているのに、なんで俺だけが努力しなきゃいけないんだ? 苦しまなきゃいけないんだ? そう訴えたんだけど、納得がいく答えは返ってこなかった」

 わたしは相槌を打つことすらできない。爆発してしまわないようにと、感情を懸命に殺しながらの語りは、母親に対する憎悪が嘘偽りではないことを如実に示していたから。

「……おっと。具体的な体験や思いを話せっていう指示だったな。山ほどあるぜ。胸糞悪かった言動ランキングを一位から順に――いや、順位なんてつけられないから、思い出した順でいこうか」

 夏也は語り始めた。

 話を聞く中で分かったのは、自身と夏也との間に起こった悶着を、お母さんは百分の一もわたしに伝えていなかった、ということ。

 中でも、二人が殴り合いの喧嘩を何度もしていたのには驚かされた。話を聞いた限り、指導の厳しさに耐えかねた夏也が憤懣を爆発させ、それをなだめようとしたお母さんとの間で揉み合いが勃発し、鎮圧するために止む無く武力行使に踏み切った、という経緯が大半を占めるらしい。ただ、お母さんがつい熱くなり、必要以上の打撃を夏也に加えた事例も少なからずあったようだ。

 お母さんの言動に厳しさを感じることはあっても、暴力的な印象は全くなかったから、受けたショックは決して小さくなかった。

 話を聞けば聞くほど、わたしの中の蜂須賀冬子像が、瓦解し、融解し、崩落していく。

 わたしが夏也を嫌う最大の理由は、母親への敬意が感じられない言動をたびたび見せるからだ。しかし、お母さんを神格化していたからこそ、夏也の発言が許せない部分もあったのだと、兄の話を傾聴する中で思い知った。認めたくない事実ではあったが、認めざるを得なかった。

 蜂須賀冬子は、母親としても、記憶士としても、人間としても尊敬に値する、素晴らしい人物だ。

 しかし、聖人君子では断じてない。記憶士としては文句なしに素晴らしい。母親としても、人間としても右に同じだが、文句なしに、という評価は誤っている。よいところもあれば、悪いところもある、普通の母親であり、普通の人間だった。

 それなのに、わたしはどうして、蜂須賀冬子を完全無欠な人間にしてしまったのだろう? そして、それはいつから?

 物心がついたときから、ではなかったはずだ。神格化などというプロセスを経るまでもなく、幼い子どもにとって母親は神のようなもの。神の概念を充分に理解していないという意味では、神そのものといっても過言ではない。

 しかし、年齢を重ね、知識を蓄え、世の中を知り、物事を客観的に分析する能力を会得することで、よくも悪くも平凡な人間に過ぎないと了解していく。それが普通だ。

 お母さんが倒れる直前、仕事の模様を何度か見学させられ、簡単な稽古をつけてもらうようになったころには、わたしは半ば気がついていた。母親のルーズな性格にも、夏也への指導が厳しすぎることにも。

 しかし、完全に了解するよりも先に、お母さんは倒れた。その結果、わたしはお母さんの面倒を見なければならなくなった。

 当時、わたしはまだ中学生。我が家の大黒柱が予期せぬ形で倒れたことに対する、動揺と混乱は激しかった。夏也が協力的ではない、という逆風もあった。倒れたばかりのころ、お母さんは一人では歩けず、排泄も介助が必要で、自分から食事をとろうとしなかった。とてもではないが、中学生の手に負える被介護者ではなかった。

 だけど、わたしはお母さんのことが大好きで。放っておけるわけがなくて。

 それなのに、頼れる誰一人としていなくて。自分一人の力でどうにかするしかなくて。

 だからこその、神格化。

 こんなにも凄い人なのだから、悲しませてはいけない。蔑ろにしてはいけない。

 だからこそ、頑張らないと。しんどいかもしれないけど、それだけの思いをして救う価値がある人なのだから、身を削ってでも頑張らないと。

 実際はもっと錯綜していたし、行きつ戻りつもあったのだろうが、要約したならばそういうことだったのだろう。

 しかし、長い時間をかけて築き上げてきた神話は、今や崩壊した。自力でも他力でも、復元するのが困難なほどに砕け散った。

 振り返ってみると、星羅の身に起きた悲劇を知り、精神的な負担が増して以降、再三動揺に見舞われていたことに気がつく。

 それでも持ちこたえてきたのは、神話の完成度がそれだけ高かった、ということなのだろう。さらには、自分自身の精神と家庭、両方の破滅を防ぐためには、なんとしてでも神話を維持しなければならない、という思いが強かったのも一因のはずだ。

 しかし、最後は家族にとどめを刺された。よからぬ感情を抱いていた家族の手によって、木っ端微塵になった。

 それなのに、なぜなのだろう。

 喪失感ではなく、浅からぬ安堵の念を覚えているのは。

 自分自身に向かっていたわたしの意識は、不意に異音を聞き取ったことにより、夏也へと引き戻される。

 いつの間にか、兄はすすり泣きながら話していた。

「これはおかしいんじゃないかって、異議を唱えたくなったことは一度や二度じゃない。真意を問い質そうって、何度も思った。でも、できなかった。……いや、抗議自体はしたよ。何十回も何百回もした。でもそれは、あくまでも修行の最中の話。下された命令が不服だったから、不当だと思ったから、文句を言っただけ。母さんと一対一で対話する機会を作って、記憶士になる意味や、厳しい修行に励む意味を問い質したことは一度もなかった。知りたいことを本気で知ろうとしなかった。なぜかと言うと、怖かったから。俺が記憶士にならなければならない意味を知ったことで、俺と母さんを隔てる亀裂が広がって、修復不可能になるかもしれないと思うと、凄く怖かったんだ。醜くて不格好だけど、亀裂をそのままにしておけば、勇気を出して跳べば跳び越えられるだけの距離のままにしておけば、いつか母さんの方から俺のもとに来てくれるんじゃないかって」

 夏也は口を動かし続ける。他人に、特に妹には弱みを見せることをよしとしない男が、頬を流れ落ちる涙を拭おうともせずに。

 エピソードの詳細を語るという当初の目的は、もはや置き去りにされていた。夏也は母親に対する想いを、母親の仕打ちに対する想いを、ただひたすらぶちまけた。

 やがてそれも収まり、夏也が洟をすする音だけが空間を満たす。

「母さんが自分で自分の記憶を取り出して、あんな状態になったあとも――」

 何分間かの時を経て、無声状態を打ち破った声は、若干の震えを帯びていた。

「くり返し、くり返し、日課みたいに考えたよ。あの時間は、俺にとってなんの意味があったのかって。考えて、考えて、考えたけど、分からなかった。当たり前だよな。百パーセント正しい答えは、母さんの中にあるんだから」

 向き合う兄妹の視線が、実に久しぶりに重なる。

「参考までに聞かせてくれよ。秋奈、お前にとって記憶士って、なんなんだよ。友だちの記憶を取り出したり、毎日ここにこもってなにかやったり、随分と熱心みたいだけど。俺と違って強制されたわけでもないのに」

 わたしにとって、記憶士とはなんなのか。

 投げかけられた瞬間は、取り留めがなくて、掴みどころがない問いのように感じられた。しかし、答えらしきものは、思いのほかすぐに頭に浮かんだ。

「わたしがお母さんの跡を継ごうと思っているのはね、誰かの役に立ちたいっていう気持ちももちろんあるよ。将来的にはそれで生計を立てられたらいいなっていう、下心があるのもたしか。でも、一番の理由はなにかって言ったら、やっぱりお母さんみたいになりたいからだと思う」

 言葉は淀みなく口から流れ出す。完全なるアドリブにもかかわらず、本日の対話に備えてあらかじめ用意していたどんなセリフよりも、スムーズに。

「お母さんが嫌いなお兄ちゃんでさえ認めていたように、お母さんはかっこいいからね。記憶士としてもそうだけど、一人の大人としても、一人の女性としても。もちろん、母親としてもね。お母さんはわたしたちがまだ小学生のころに離婚したから、父親代わりを務めなきゃっていう意識が強かったんだと思うんだけど、自分が引っ張っていくぞっていう姿勢? あれがかっこいいな、凄いな、頼もしいなって。男の子が、戦隊もののヒーローに憧れる感じに近いのかな。だから、仕事の様子を見にきなよって初めて言われたとき、嬉しかった。それまではお母さん、お兄ちゃんといっしょにいる時間が長かったから、お兄ちゃんの手から取り戻せた喜びもあって」

 夏也はいつものように、母親について語る妹をけなしたりしない。だから、とても話しやすい。

「でも、今日お兄ちゃんの話を聞いて、お母さんにも駄目なところ、結構あるなって思った。わたしね、お母さんの介護をするようになってから、そういうマイナスなところは意識的に見ないようにしていたの。その人の欠点を直視すると、そんな人間のために時間を削りたくないって思ってしまって、仕事がなおざりになるでしょ? それが嫌だったから、お母さんのことを神格化していた。実際よりも凄い人だと思い込んで、こんなに凄い人なんだから、助けてあげなければいけない、頑張って、頑張って、頑張り抜く義務がわたしにはあるんだって、自己暗示をかけていた。……でも、もう無理だね。今日のお兄ちゃんの話を聞いたあとで、お母さんを完璧超人だと見なすなんて、百億円を渡されたって無理だよ。見ないふりをしてきた欠点だけじゃなくて、知らなかった欠点まで突きつけられると、さすがに」

「蜂須賀冬子という人間を、実際よりも凄い人間に見せようとしていたのは、母さんだけじゃなかったわけか」

「そうなるね。人間なんだから、当たり前だけど得意不得意があるし、どんなに頑張ってもできないこともある。お母さんはできることの方が多い人だったかもしれないけど、それでも無理なものは無理だからね。だけどお母さんは、その無理なことでさえもどうにかしようとして――」

「頑張りが追いつかなくなって、精神的に追い詰められて、自分で自分の記憶を取り出した」

「そういうこと。今でこそお母さんの苦労を想像して、理解してあげられるけど、当時はまだ子どもだったから、気づいてあげられなかった。苦しんでいるお母さんの力になってあげられなかった」

 お母さんが倒れた日のことを思い返す。

 あのとき、蔵の戸は開いていた。だからこそ光が外に漏れ、だからこそわたしは倒れているお母さんを発見できた。

 今になって思えば、わざと戸を開け放していたのかもしれない。自分が苦しんでいることに気がついてほしかったから。助けてほしかったから。

 戸の隙間から漏れる光に、わたしがもう少し早く気がついていれば、お母さんは今のようにはなっていなかったかもしれない。

 底知れない悲しみと、果てしない自責の念が押し寄せる。さらには、後悔、悲観、絶望。胸が締めつけられて、なにも言えなくなる。

 名状しがたい苦しみの中、それらの感情は、お母さんが倒れたときにも抱いた、と不意に気がつく。

 わたしは、それらの感情に押しつぶされて自暴自棄になることなく、前向きに、献身的に、誠意をもってお母さんの介護に日々励んでいる。

 家族を助けるのは、家族の一員としての義務だから。それもある。

 うじうじと過去を悔やみ続けても仕方ないから。それもある。

 倒れた原因は自分にもあるから、その罪を償うために。それもある。

 しかし、それらは所詮副因。回答欄にそれらを全て書き込んでも、百点満点は獲得できない。

 わたしが蜂須賀冬子に尽くす最大の理由、それは――。

「イメージの修正は余儀なくされたけど」

 沈黙を破ったのは、わたしの声。喋り出せたことで、心身の強張りが一気に融解した。顔にはきっと笑みが浮かんでいるに違いない。

「お母さんはやっぱり、最高のお母さんだよ。神様ではなくなったけど、憧れの人のままだよ」

 人は、自身が嫌悪する人間を神格化するものだろうか? 答えは否だ。実質よりもよいものに見ようとするのは、好きだからこそ。愛しているからこそ。そうに決まっている。

 しかしその小細工は、その人の人格を踏みにじっている。

 だから、やめよう。その人のことが好きなのだから、不細工な小細工はやめにして、ありのままを愛そう。

「人間はね、一度好きになった人を、そう簡単に嫌いになったりしない。欠点も含めて愛おしいっていうか。だから、わたしがやることは、これまでとなに一つ変わらないよ。介護も、修行もね」

 一片の恥じらいも、微かな声の揺らぎすらもなく言ってのけられたことを、我ながら誇りに思う。

「お母さんは頑張りすぎてパンクしちゃったから、頑張りすぎないようにやっていこうって思ってる。お母さんは一人でわたしたちを扶養していたけど、わたしにはお兄ちゃんがいて、助けてあげることも、助けてもらうこともできるわけだから、きっと大丈夫。ちゃんとした答えになってなくてごめんだけど、わたしにとって記憶士っていうのは、そんな感じかな」

「じゃあ、決意してから最初の仕事ってことで、俺の記憶は取り出してくれるんだな? 話が脱線しまくってるけど」

「あ、忘れてた。でも、脱線させたのお兄ちゃんだよね。わたしの意見を聞きたいって言って」

「……ああ、そうだったな」

 目と目を合わせ、全くの同時に笑みをこぼす。気がつけば場の雰囲気は、蔵に足を踏み入れた当初からは様変わりしていた。

「お兄ちゃんの記憶を取り出す件だけどね、お兄ちゃんのお母さんに対する感情、あれは憎悪じゃなくて、愛憎だよ。憎しみオンリーじゃなくて、愛する気持ちもセットになって、愛憎。だってお兄ちゃん、お母さんに対する恨みつらみを語っているときの口調、最低限冷静だった。憎悪一色なんだったら、もっともっと感情的になっていたと思う。悪い思い出ばかりじゃないのになかったことにしたら、お兄ちゃん、絶対に後悔するよ。取り出すんだから後悔もなにもないじゃんとか、そういうことじゃなくて。分かるでしょ?」

「時間が経てばよい思い出になるかもしれないっていう、あれか」

「そうそう。多分だけど、わたしがどんなに頑張って取り出そうとしても、絶対に失敗に終わるよ。だってお兄ちゃん、本心ではお母さんの記憶を手放したくないって思っているから。患者が協力してくれないのに、施術を成功させるなんて絶対に無理」

「取り出す記憶のでかさにびびって、予防線張ってるだけじゃねぇの」

「そんなわけないでしょ。ていうか、そもそもわたし、なにを言われてもお兄ちゃんの記憶を取り出すつもりはないから。一応、現時点では、ということにしておくけど。もし、なにがなんでも取り出したいって言うなら――」

 人差し指を兄の鼻先に突きつける。

「お兄ちゃんも蜂須賀家の人間なんだから、修行して、上達して、コツを掴んで、自力で取り出せばいい」

 夏也は口角の一方を不敵に吊り上げた。そして、両手で床を押して立ち上がり、真っ直ぐに戸口へ。

「あっ、ちょっと! いきなりどうしたの?」

「決まってるだろ。疲れたから、風呂入って寝るんだよ」

「今日から頑張って修行するぞ! とはならないのがお兄ちゃんらしいよね。もう夜遅いとはいえ」

「アホ。今日のところは風呂に入って寝るとは言ったけど、明日なにもやらないとは言ってないぜ」

「えっ? それって――」

 思わず半身を乗り出した。夏也は上半身を捩じって振り返り、中指を突き立てる。

「誰がやるか、ばーか」

 そして、戸を潜って外へ出て行った。

 戸がやや乱暴に閉まる音を聞いて、やれやれ、とため息をつく。

 しかし、悪い気分ではない。夏也は抱え込んでいたものを吐き出したし、わたしもお母さんに対する窮屈な認識を改められた。少し歪んでいた家族関係が、ぐんと正常に近づいた。

「――決めた」

 今日は瞑想には浸らない。でも、この中から出ては行かない。そんな日がたまにはあってもいい。

 わたしは茣蓙の上に正座をしたまま、長きにわたって無音を聞き続けた。なにかを求めている最中よりも、安らかな時間が過ぎていった。


 夏也がスーパーマーケットで買ってきたコロッケが今日の夕食のメインだ。四等分にカットすると、ミックスベジタブルの三色が露わになり、トレイの上が華やいだ。

 今晩は時間と心に余裕があったので、サラダを作る。トマト、レタス、きゅうり。ドレッシングにはレモン味を選ぶ。洗った野菜を食べやすいサイズに切って、市販のドレッシングをかけるという、いつもの形になってしまったが、彩りに気を配って補ったつもりだ。いつか手の込んだサラダも作れるようになればいい、と思う。

 インスタントの中華スープを作り、小口切りにした青ネギをプラスする。炊きたてのごはんを茶碗に装い、奈良漬けを小皿に少量入れる。

 ピッチャーからグラスに冷たい緑茶を注ぎ、お母さんのもとに向かおうとしたところで、ダイニングに入ってきた人物がいる。

「――お兄ちゃん」

 兄の夏也だ。

「いきなり入ってきたから、びっくりした、どうしたの、急に」

 相変わらずぼさぼさの髪の毛、ラフな私服姿の夏也は、返事をする代わりに頬をかく。

「もしかして、おなか空いたの? さっき食べたばかりなのに」

「違うよ、馬鹿。……俺も行こうかなって」

「え?」

「母さんの部屋まで。用事は別にないんだけど、秋奈といっしょのときはどんな感じなのかな、と思って。悪いかよ」

「ううん、別に」

「それじゃあ、行くか」

 夏也が先に廊下に出たので、それに続く。

『秋奈といっしょのときはどんな感じなのかな、って』

 わたしも全く同じ気持ちだ。お母さんの話を聞いた限り、夏也がお母さんを嫌っていることを、本人は把握しているようだ。ただ、二人が大きなトラブルを起こしたことは、お母さんがベッドの上が中心の暮らしを送るようになってからは一度もない。サプライズで夏也が部屋に入ってきたら、どんなリアクションを見せるのだろう?

「ていうか、トレイは持ってくれないんだね」

「お前の方が器用そうだからな」

「トレイを持つくらい、器用も不器用もないでしょ。すぐにそういう態度をとるから、彼女の一人もできないんだって」

「恋人いない歴と年齢が同じなのは、お互いさまだろ。偉そうに言うんじゃねぇ」

「でも、友だちは多いから。残念ながら同性ばかりだけどね」

「この前助けた子とは、仲よくやってんのか」

「うん、とても。わたしとだけじゃなくて、わたしの友だちとも仲よくやってる。記憶を取り出した影響で、性格が明るくなって、社交的になって。今日だって、五人でいっしょに下校したし」

 星羅はもう、孤独感に耐えきれなくなり、寂しい公園で誰かを待つことはないだろう。その名前が表すとおり、光り輝く未来が待っている。わたしはそう信じている。

「お昼ごはんも五人で食べたんだけどね、その子、わたしにだけあーんしてくれるんだよ。同性だとしてもちょっと恥ずかしいよね、あれは。あと、いきなりぎゅーって抱きしめられたりとか」

「……そっちの気があるんじゃないの、そいつ」

「そんなことないって。そうやってすぐに人に失礼なレッテルを貼るから、女の子にもてないんだよ」

「関係ねぇだろ」

「あるよ」

 言い合っているうちに部屋に着いた。ドアをノックしたのち、開く。

「あら、秋奈」

 ドアが開いたのにワンテンポ遅れてお母さんは上体を起こし、しとやかに微笑んだ。健康な人間と比べると緩慢だが、普段と比べると動作が機敏だ。瞳に宿っている光も充分に明るい。体調はとてもよさそうだ。

「おなかが空いていたから、待ち遠しかったわ。今日はなにを作って――」

 ドアの陰から現れた人物を見て、言葉が止まる。一拍を置いて、表情がもう一段階明るくなる。

「夏也! あらあら、どうしたの、二人揃って。珍しいのね」

「珍しいもなにも、初めてじゃないか? よく覚えてないけど」

「最初のころはあったよ。でも、久しぶりなのは間違いないと思う」

「二人とも、こっちに来なさいよ。私が思うように動けないからって、からかっちゃ駄目。ほら、早く」

 手招きをしたので、わたしたちは肩を並べてベッドへと歩を進める。わたしはテーブルを出してその上にトレイを置き、夏也はパイプ椅子に腰を下ろす。やっぱり手伝わないんだ、と思ったが、怒りは微塵も湧かない。お母さんの視線はわたしを素通りし、夏也ばかり見ている。

「夏也、どうしたの。秋奈についてくるなんて、珍しいじゃない。相談ごとがあるんだけど、打ち明けるのが恥ずかしいからついてきてもらった、みたいな?」

「妹を頼るとか、そっちの方が恥ずかしいだろ。別に、特に意味はないから。ていうか、身を乗り出すなよ。危ないから」

 あまり使わない予備のパイプ椅子を引っ張り出しながら、わたしはお母さんの饒舌を意識する。話しかけているのは夏也ばかり。やはり、甲乙をつけるならば夏也の方が好き、なのだろうか。

「お母さん、ごはん食べてよ。コロッケ、あったかい方が美味しいよ」

「そうね。いただこうかしら」

 お母さんはコロッケを箸で一口サイズにカットする。それを口に運び、よく噛んでから嚥下し、顔を子どものように綻ばせる。

「うん、美味しい。さすが秋奈、よくできてる」

「それ、俺がスーパーで買ってきたやつだけど」

「あら、そうなの。でも、温かいわね」

「わたしが温めたの。大げさに言えば共同作業だね」

「あらあら。それはいいわね」

 スローペースで食事を進めながら、お母さんは盛んに兄妹に話を振った。それが漸く一段落し、食べるのに専念したところで、夏也がわたしの袖を引いて耳打ちをしてきた。

「なあ。今日の母さん、いつもより口数多くね?」

「多分、ていうか絶対、二人で来たからでしょ。それしか考えられないよ」

「やっぱりそうか。来てよかった、ってことなのな」

「そうだね。でも、わたし的にはちょっと複雑かも」

「は? なんでだよ」

「だって、お兄ちゃんと話をしている時間の方が長いでしょ。お母さんと二人で話すときもそう。一度お兄ちゃんの話題が出ると、凄く楽しそうな顔をして、いつまでもお兄ちゃんのことばかり喋るんだよ。お兄ちゃんがわたしにこんな酷いことをしたよって報告しても、必ずお兄ちゃんの肩を持つし」

「えっ、マジ? 同じだ」

「へっ?」

「俺と二人きりのとき、よく秋奈の話をするもん。ずっとお前のことばかり褒めるんだよ。だから俺、やっぱり嫌われてるんだなって思っていたんだけど……」

 見つめ合った二人の時間の流れが止まる。先にわたしが噴き出し、夏也がそれに続く。笑い声を、笑顔を、抑え込むことができない。

 長年のもやもやが、こんなにも呆気なく、拍子抜けするくらい呆気なく解消されるなんて!

「どうしたの、二人とも」

 箸を止めて、きょとんとした顔で兄妹の顔を見比べる。わたしはやっとのことで笑いを収め、再び顔を見合わせる。代表してわたしが言う。

「ううん、なんでもないの。なんていうか、わたしたち、幸せだなって」

 やや間があって、お母さんは花のように微笑んだ。

 この一輪を、末永く守っていこう。いつの日か、記憶を保てなくなるその時まで。

 二人で力を合わせれば、それも夢物語ではないはずだ。

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