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記憶士  作者: 阿波野治
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前編

 肩幅ほどに開いた戸から、青みがかった人工の光が漏れている。使われているのは昔ながらの白熱電球なのに、LEDライトよりも眩い。どこか神秘的で、妖艶で、仄かな緊迫感を孕んでいる。たとえるならば、非人道的な実験が極秘裏に行われているかのような。

 窓から体を離し、忍び足で自室から出る。

 シンデレラの魔法が解ける時刻は目と鼻の先だ。中学一年生のわたしにとって、そろそろ就寝しなければならない時間帯だったが、親が定めたルールを順守するよりも大切なこともある。足音を立てないように注意を払いながら廊下を進み、階段を下りる。

 こんな遅い時間に、お母さんはなにをしているのだろう。脳裏に去来するのはその思いばかりだ。一刻も早く、この目で真実を確かめたい。とても嫌な予感がする。

 外に世界に一歩踏み出したわたしを、金木犀の香りを孕んだぬるい夜気が歓待した。刹那、忽然と浮かんだ可能性に、闇の中で硬直してしまう。

 蔵の中にいるのは、お母さん以外の人間なのでは?

 晩秋の虫が草陰でか細く鳴いている。暗夜の中で枝を伸ばす庭木は、化け物じみて見える。拭いきれない不安を胸に、前だけを見て黙々と歩を進める。

 戸の陰に佇んで気配を探る。人気を感じる。物音は聞こえてこない。口腔の唾を無音で飲み下し、恐る恐る中を覗き込んだ。

 瞬間、迸り出た悲鳴が夜陰を裂いた。

 わたしの口から溢れ出した悲鳴だ。

 明かりが灯ってもなお仄暗い空間の中央、茣蓙が敷かれたその上に、お母さんが横たわっていた。全身を弛緩させ、四肢を投げ出したその姿は、突然の発作に襲われて意識を失ったかのようだ。

「お母さん! お母さん!」

 コンクリートの床を蹴って飛ぶように駆け寄る。茣蓙に膝をついて肩を揺さぶると、連動して体全体が揺れた。体温が感じられる。脈もある。目を瞑った顔は、安らかとはいえないが、苦悶の表情が浮かんでいるわけではない。

 本来であれば、胸を撫で下ろすべき場面なのかもしれない。しかし、わたしの鼓動は速いままだ。肩に両手を置いたまま、瞬きの回数を意識的に抑制し、お母さんの顔をじっと見つめる。

 一瞬、瞼が痙攣した。

 わたしは息を呑んだ。殆ど間を置かずに、今度は唇に同じ現象が生じた。その唇が薄く開き、目覚めたばかりの人が無意識に発するような、緊張感に欠けるうめき声が漏れた。

 声をかけようとすると、瞼がゆっくりと持ち上がり、漆黒の瞳がわたしを直視した。

 視線の先にあるお母さんの表情は、そして雰囲気は、普段の彼女のそれではなかった。言語化不可能ななにかが根本的に違っていた。

 弱々しくでも力強くでもなく、お母さんの唇が動く。

「秋奈、どうしたの? そんな怖い顔をして」

 わたしは返事ができなかった。

 幼い少女が、頭に浮かんだ想念をそのまま口にしたような、そんな声だったから。


 わたしの名前に使われた季節になると、毎日のように思い出す記憶だ。

 それ以外の季節にも、ふとした拍子に思い出す記憶でもある。

 その出来事が起きて以来、わたしを取り巻く環境は劇的に変わった。わたしも変わらざるを得ないほどの大きな変化だった。だから、忘れたくても忘れられないし、ちょっとした弾みですぐに思い出す。


「さすがにおかしいって思って、恐る恐る視線を落としたら、どうなっていたと思う?」

 茉麻は言葉を切り、わたしたち三人の顔をぐるっと見回した。全員が話に集中しているかを目で確認したのだ。

 ちょっと芝居がかっているな、と思う。こういうのが嫌いな子もいるだろうな、という間の置き方だ。

 でも、わたしは慣れたから全く気にならない。というよりも、この輪を形成している人間は全員そうだろう。

「スカートがめくれてパンツ丸見えだったの! むちゃくちゃ恥ずかしかったぁ!」

 声を強めたので、それが話のオチだと分かった。

 下に穿く下着が見えることなんて、わたしたちの年代の女性は星の数ほど経験している。内容そのものよりも、茉麻の無邪気さに感情を動かされて、わたしは微笑みをこぼした。

 詩織は、当時の茉麻に己を重ね、いかに羞恥するべき状況かを痛感したらしく、小柄な体を微かに悶えさせた。結乃は、純然たる滑稽話だと捉えたらしく、陽性の笑い声を漏らす。奇しくも三者三様のリアクションになったわけだ。

「ちょっとー。結乃ってば、笑わないでよー。ほんとに恥ずかしかったんだから」

 茉麻は頬を膨らませて結乃を見据える。

「みんなの前でパンツ丸出しだよ? 冷静に考えたらやばすぎるでしょ。知り合いとかが周りにいなかったのが不幸中の幸いだったけど、あれはマジで最悪だった。できれば時を巻き戻すか、記憶を消し去るかしてほしいくらい」

 表情からも声音からも、結乃のことを本気で怒っていないのは明らかだ。結乃ももちろんそれは分かっているから、リラックスした、呆れ混じりの微笑みで親友の言葉を受け止めている。

「ほんと、マジで最悪な記憶だから――」

 茉麻はおもむろに、真正面で頬杖をついているわたしを見つめた。上目づかいに、意味ありげな目つきで。

「秋奈に記憶、取り出してもらおうかな」

「うん、いいよ」

 わたしは頬杖をつくのをやめ、茉麻の顔を見返しながら答える。

「でも、成功するか分からないし、二回目からはお金をもらうことになるから、割に合わないかもね。その程度の記憶なら、胸に仕舞っておいた方がいいんじゃない?」

「なあ」

 茉麻がわたしに言葉を返すのを阻むように、険のある声が割り込んできた。

「あんたたち四人の会話を盗み聞きしてると、『記憶を取り出す』っていう言葉を頻繁に聞くけど、それってなんのことなの? 比喩表現? それとも、心理テクニックみたいなもの?」

 発信源は、廊下側の前から二番目の机。シンプルな白亜のスマホを片手に、女子生徒がわたしたちを見ている。切れ長の目に湛えられているのは、少し離れた場所からでも見て取れるくらいはっきりとした、冷ややかな色。

 クラスメイトの多木星羅だ。

 彼女が焦点を当てているのは、わたしたち四人ではなく、わたし一人らしい。

「多木さん、まだ教室に残っていたんだ」

 わたしは四人を代表して言葉を返す。親しくないクラスメイト用の、いくらか抑制した微笑みを顔に灯して。

「盗み聞きをしていたってことは、まさか、仲間に入れてほしい? 話がしたいなら、こっちにおいでよ。そうすれば大きな声を出さなくて済むよ」

「アホ。誰があんたらなんかとつるむかよ」

 呆れと苛立ちがないまぜになった声で、きっぱりと否定。スマホとは逆の手に持っているものを顔の高さまで掲げ、軽く揺らして音を奏でてみせる。レモン色のキーホルダーがついた鍵。

「あたし、今日の日直なの。あんたたちが出て行ってくれないから、教室の戸締りがしたいけどできないわけ。迷惑こうむってんの、こっちは」

「だったら、一声かけてくれればよかったのに。教室を閉めるから出て行ってって」

「言ったよ。そんなもん、とっくの昔に言ったに決まってるだろ」

 声に含まれる苛立ちの成分が強まった。

「そうしたらあんたたちは、『ちょっとだけ待って』って言ったんだよ。どうしても教室で話しておきたいことがあるから、五分だけ待ってって。そこまで言うならと思って言うとおりにしたけど、五分どころか十五分経ってもまだ話し続けているから、我慢の限界が来たんだよ。パンツがどうこうとか、そういうクソどうでもいい話は帰りながらしろよ」

「えー、ちょっと酷くない? 一大事じゃん。乙女のパンツが見えたんだよ? 清らかな処女の!」

 抗議の声を上げたのは、その話題を話し始めた張本人である茉麻だ。

「ていうか多木さん、私たちにそんなこと言ったっけ? 記憶にないんだけど」

「言ったよ。五分待ってって言ったの、他ならぬ西野なんだけど」

「あ……」

 遅まきながらその事実を思い出したらしく、茉麻はばつが悪そうな顔をした。

 多木さんは机上から足を下ろし、椅子に座ったままわたしたちに向き直る。視線の方向は茉麻ではなく、わたしだ。

「話戻すけど、蜂須賀が記憶を取り出すって、どういうことなの?」

「あっ、気になる?」

「だから訊いてるんだろ」

「そっか。じゃあ、言っちゃうとね」

 言ってしまってもいいの? 詩織が眼差しでメッセージを送ってきたが、わたし自身は心理的な抵抗は覚えていない。軽はずみな動機で不特定多数の人間に言いふらすような人ではないと、多木星羅という人物を評価しているからだ。彼女とは親しくないが、クラスメイトとして二か月以上学校生活を共にしてきたから、そのくらいの判断はつく。

「実はわたし、そういう超能力を持っているの。蜂須賀家の人間は代々その能力が発現するから、それを生業にしていて。力には個人差があって、たとえばお兄ちゃんは全然駄目なんだけど、お母さんは超優秀な売れっ子記憶士だった、とかね。わたしは、お兄ちゃん寄りの二人の中間ってところかな」

「記憶士?」

「わたしやわたしのお母さんのような、人の脳味噌から記憶を取り出せる力を持った人間のことを、そう呼ぶの」

 多木さんは疑わしそうな、胡散くさそうな顔つきをしている。

「疑うのも無理はないけど、わたしが言っていること、正真正銘の真実だから。だって三人とも――」

「記憶、秋奈に取り出してもらったことあるからね。一人一回ずつ」

 星羅に宛てて発せられた茉麻の声は、どこか誇らしげだ。

「私の場合はね、子どものころにプールで溺れた記憶。すぐに助けられたし、後遺症とかも全然ないんだけど、その一件がトラウマになって水に入れなくなったの。お風呂だけは例外だったけどね。プールの授業があっても休まなきゃいけないし、家族や友だちと海水浴にも行けなくて、それが嫌だったから取り出してもらったんだ。それ以来、海とかプールとかで普通に遊べるようになったから、秋奈に頼ってよかったって心から思ってる」

「トラウマが消えても、泳げるようになったわけじゃないけどね。茉麻、運動神経が絶望的だから」

 結乃がからかうように補足してから、二番手として己の体験談を語る。

「私は、友だちが中一のときに転校することになったんだけど、直前に大喧嘩をしちゃって。その原因がいろんな意味でつまらないことで、嫌な形でのお別れになっちゃったから、ずっと引きずっていたの。だから、その子と喧嘩をした記憶を取り出してもらったんだ。相手の記憶はそのままなんだって思うと、複雑な気分ではあるんだけどね」

「私が取り出してもらったのは、飼っていた愛犬が病気になって、苦しみながら死んだ記憶。取り出すのは、苦しんで死んだ記憶か、死んだっていう記憶か、犬を飼っていた記憶か。迷ったけど、秋奈が広範囲の記憶を取り出す自信がなかったし、私も全てを忘れるのは嫌だったから、最小限取り出してもらったんだ」

 締め括りに詩織が打ち明けて、三人分のエピソードは語り終わった。一つの束となって注がれる四人分の視線に、多木さんは眉根を寄せる。

「取り出してもらったはずの記憶を、なんで覚えてるんだよ。……もしかして、取り出したあとで蜂須賀に教えてもらった?」

「大正解。取り出した記憶の詳細を教えるか教えないかとか、そういう細かい希望は事前に聞いた上で施術しているから。お母さんと比べると下手かもしれないけど、その分こまやかな配慮を――」

「そういえば秋奈、今日はお母さんのお世話はしなくてもいい日だっけ」

 詩織の言葉が発言を遮った。わたしは首を縦に振る。

「今日はお兄ちゃんがずっと家にいる約束だから、わたしは自由。外が真っ暗になるまで教室にいても大丈夫だよ」

「駄目に決まってるだろうが。早く出て行けよ、ほんとにお前らは……」

 多木さんは小さく舌打ちをした。それに対して茉麻が、

「話してって言ったの、多木さんじゃん。記憶士に関すること、もっと詳しく知りたいんじゃないの?」

「充分聞いたから、もういいよ。いい加減帰りたいから、お前らも帰れ。ほら、早く」

 鍵を机の天板にこつこつとぶつける。窓を確認すると、空はいつの間にかオレンジ色の気配を帯びている。

「みんな、もうそろそろ帰ろう」

 わたしは率先して席を立つ。多木さんの怒りが爆発するのを恐れていたらしく、詩織がすぐさま続いた。他の二人も腰を上げる。

「多木さん、もしなにかあったらわたしに言ってね。まだ半人前だから、大きすぎる記憶は取り出せないけど、話を聞くだけならできるし」

 多木さんの机の前を通るさい、わたしはそう声をかけた。もしかすると、という思いからの行動だったが、

「お構いなく。あたし、トラウマを抱え込むような人生は送ってないから」

 余計なお世話だと言わんばかりの、極めて素っ気ない返答だった。


 山がそびえる方角を目指してひたすら歩くと、比較的新しい民家が建ち並ぶ住宅地の外れに、古風な日本家屋が見えてくる。蜂須賀の三文字が刻まれた表札が掲げられた門を、県立高校の制服を着たわたしが潜る。

 敷地内は緑の匂いに淡く満たされている。現在濃い緑の葉を茂らせている植物は、庭に何種類あるのだろう。金木犀は知っている。松の木も分かる。あとはなにがあるだろう? わたしが生まれる前から同じ場所に植わっていて、わたしに名前を知られることなく生きてきた木が殆どだ。

 敷地の右奥に建つ、外壁の塗装がところどころ剥離した蔵は一顧だにせずに、ひたすら直進。玄関ドアを開錠し、中に入る。

 ただいまの挨拶は、心の中で唱えるだけにする。わたしはずっとその対応をとってきたし、今後変わることもないだろう。返事をしてくれる人はいないのだから、無駄なことはしたくない。

 自室で私服に着替え、キッチンのシンクで炊飯釜を洗う。米をとぎ、夕食の時間までに炊き上がるようにセットする。それが済んだら、食器を洗う。お母さんと夏也が昼食に使用し、洗い桶の中に浸かったままの食器を。

 ふとした瞬間に、面倒くさいな、と思うこともある。ただ、栓が壊れて水が噴出するように、手に負えないほどの疲労感や虚無感が溢れ出すことはない。習慣化しているからだ。

 それがわたしにとって望ましいことなのか、唾棄するべきことなのかは、考えてみたことすらない。切迫感や必要性に苛まれていない限り、問題に正面から向き合うのは難しい。言い訳をしているようだが、それが人間の性なのだろう。

 仕事を片付けて自室に戻り、スマホを手にする。別れてからまだ一時間も経っていないのに、三人から複数のメッセージが届いている。わたしの感覚からすれば大量だが、交友関係が広い茉麻ならば普通と言ってのけるかもしれない。

 内容は総じてくだらない。必要に応じてレスポンスしていくうちに、返信の返信が届いたり、新規メッセージが送られてきたりする。いつものことながら際限がない。大切なものと不要なものを峻別するのはともかく、後者をばっさりと切り捨ててるのは、少し苦手だ。

 ただ、送られてくる内容自体に苦痛を感じることは少ない。茉麻の、いちいち返事を欲してくる憎めない面倒くささとか。結乃の、表現はきついがユーモアのある指摘とか。詩織の、几帳面に気を回してくれるところとか。三人の個性に微笑むことができたのだから、今日のわたしの心は整っているのだろう。

 やりとりが一段落すると、お母さんのことが気になった。

 夕食までは、帰宅した時点で約一時間半。顔を見せるのはそのついでで構わないと考えていたが、気が変わった。

 お母さんの自室は南向きの八畳間にある。日当たりがいい上、カーテンを開くと庭が見渡せるその一室は、蜂須賀家において最上といっても過言ではない。彼女の私室はもともと二階にあったが、自分のことを全て自分でできなくなって以来、なにかと便利なのでそちらに変更していた。

 スマホを置いて部屋を出て、階段を下りる。一階の廊下を歩いていると、突き当りの部屋のドアがいきなり開いた。

 まさかお母さんが、と当惑したが、現れた人物のシルエットがその可能性を否定した。

 夏也だ。わたしの三歳上の兄の、夏也。

 わたしを地球に押しつける重力が明確に増した。一過性のものだと分かっているし、恐怖感を伴うものでもないが、体が動かなくなる。空気中の不純物が増した気がして、唇は閉ざしているはずなのに口腔がざらつく。一言で心境を表すならば、不愉快。

 ドアを閉めた直後、夏也は一瞬動きを止めたが、すぐにわたしへと向かってきた。床を踏む足音が心なしか荒っぽいようで、嫌な予感がする。

「なんだよ。帰ってたのかよ」

 案の定、吐き捨てるような物言いだ。予想どおりすぎて腹も立たない。

 耳が隠れるほどの長さのぼさぼさの髪の毛。シャツにジャケットにジーンズ。ここ数年、夏也はいつも同じような髪型、そして服装をしている。あまりも伸びすぎると、丸刈りに近い短さにする。夏場になると上はシャツ一枚だけになるのが、冬場になると何枚か重ねるのが、それぞれスタンダードになる。その程度の変更が生じるだけで。

 変化に乏しいライフスタイル。変化に乏しい自己。自堕落な人間が現状維持でいいはずがないのに、夏也は、兄は、この男は。

「帰ったら真っ先に部屋まで来いよ。そうしたらさっさと交代できたのに」

「もしかして、長時間お母さんのところにいた? なにかあったの?」

「一人で外に出ようとしたんだよ」

 右手で側頭部をかきながらの返答だ。

「どこかに行きたいなら、秋奈が帰ってきたら頼めって言っても、無視して部屋から出ていこうとするんだよ。話通じないって、最悪だぜ。だからって行かせるわけにはいかないから、全力で止めて。力はないけど、ベッドから落ちたら大変だから、必死で押さえつけて。あのババア、手間かけさせやがって」

「ちょっと! 言い方!」

 厳しい声で苦言を呈すると、舌打ちが響いた。睨みつけてきたので、負けじと強い眼差しを送り返す。しかし、そんなことに怯む夏也ではない。

「手間がかかるのはお前もだよ、秋奈。帰ったんだったら、真っ先にババアの様子を見に来いよ。こっちはクソ面倒くさい仕事からさっさと解放されたいってのに。お前が遅いせいで、とんだ目に遭ったぜ」

「今日は夕食の時間までお兄ちゃんの担当なんだから、文句を言われる筋合いはないんだけど。ていうか――」

「なんだよ」

「お母さんに乱暴、してないでしょうね。押さえつけたって言ってたけど」

「知らねぇよ」

 鼻を鳴らして顔を背け、すれ違って去ろうとする。わたしは反射的に腕を掴んだ。すぐさま振り払い、再びねめつけてくる。

「ちょっと! 質問に答えてよ」

「騒ぐなよ、うっせぇな。暴力なんか振るってねぇよ。お前が考えているほどクズじゃねぇから」

「ああ、そう。じゃあ、もう一つ」

「んだよ。まだあんのかよ」

「言葉づかい。お母さんに対する口のきき方、もう少し気をつけてよね。お母さんは繊細だから、お兄ちゃんがなんともないと思っているような一言でも、心が傷つくかもしれない」

「勝手に口から出るんだから、仕方ないだろ。あのババアには恨みがあるんだよ。個人的な恨みがたっぷりとな。世話してやってるだけありがたいと思え」

「だから、そういう――」

「うっせぇな。この場にババアはいないんだから、なにを言ってもいいだろうが」

「違う! 普段からそういう口のきき方をしてると、本人の前でもそういう言い方をしちゃうかもしれないでしょ。癖になって。だから常日頃から――」

「ああ、うぜぇ、うぜぇ」

 しつこくまとわりついてくる蠅を払うような手振り、そして顔つきだ。

「ババアを悪く言われるのがそんなに気に食わないなら、俺の頭ん中のババアにまつわる悪しき記憶、お前の力で取り出してみろよ」

 反射的に口しかけた言葉は、喉に引っかかって止まった。

 頭が熱い。真っ白になったのではなく、陽炎のように揺らめいている。ある種ののどかさが感じられる揺れ動き方には、熱量との間に根源的な乖離があり、その落差に起因する苛立ちが炎に薪をくべる。

 頭を懸命に働かせて探したが、適当な言葉が見つからない。誤魔化しようのない自己嫌悪の念が、体の内側を埋める熱を急速に冷ましていく。夏也は勝ち誇ったように鼻で笑った。

「できるか? できないだろ、お前の力じゃ。ちっぽけなトラウマ取り出して有頂天になってる未熟者の分際で、偉そうな口をきくな。このマヌケが」

 夏也はわたしに追い打ちをかけるのではなく、背を向けた。足音が廊下を遠ざかり、階段を上っていく。部屋のドアが開き、閉まる音。それから先は、死にも似た静寂が横たわるばかり。

「……なによ。自分は全然できないくせに」

 声量を抑制して、強いて思いを口にしてみる。

 その声のもととなった感情には、絶叫や暴力に発展し得る荒々しさは微塵もない。腕前の未熟さは自覚しているし、お母さんが夏也に課したものの過酷さは痛いくらいに理解している。

 兄のあの言葉に反論を述べるのは、兄にとっても、自分にとってもよくない。そう咄嗟に判断したから、わたしはなにも言わなかった。あるいは、なにも言えなかった。

 こんな悔しい思いをしなくても済むようにするには、記憶士としての技術を磨くしかないわけだが、それも一筋縄ではいかない。

 それでも、地道に積み重ねていくしかない。

 お母さんの自室まで歩を進め、ドアに耳を宛がう。声も物音も聞こえてこない。外に出たい気持ちは夏也が完全になだめて、一騒動を起こした疲れから眠りに就いた、といったところか。

 多義的な息を静かに吐き、踵を返す。

 会う必要がない場合は無理に会う必要はない。心が疲れてしまうだけなのであれば、むしろ会わない方がいい。

 どうせ、逃れられないのだから。


「お母さん」

 ドアをノックしてから呼びかける。返事はない。

「ごはん持ってきた。入るよー」

 ドアには鍵をかけられない仕様になっている。ノブを回してドアを開く。

 中央やや窓寄りに据えられたリクライニングベッドの上で、蜂須賀冬子は上体を立てて虚空を見つめている。

 見事なまでの白髪だが、顔に目立つほどの皺はない。着ているのは、年端のいかない子どもが愛用しているようなピンク色のパジャマ。襟から覗く首や袖口から突き出た腕は病的に細く、陳腐な比喩になるが、まさに枯れ枝だ。一目見た瞬間、万人をたじろがせ、困惑させ、後ずさりを強いるような、異様なオーラが発せられている。

 中でも印象的なのは、虚ろな瞳だろう。

 光を宿さなくなったわけでは断じてない。ただ、その状態にあるときのお母さんの瞳を直視するのは、それを何度も見てきたわたしでさえも抵抗感を覚える。

 文字どおり、空っぽなのだ。

 積み上げてきたものが見当たらない。隠れているのではなくて、どこにも存在しない。だから光が戻ってからでないと、向き合うのは難しい。

「お母さん、起きてたんだね」

 改めて声をかけたが、やはり全くの無反応。いつものことだから、ネガティブな感情は湧かない。微笑みかけながらベッドに歩み寄る。

「ごはん持ってきたよ。おなか空いたでしょ」

 箪笥、本棚、キャビネット。置かれている家具は最低限なので、八畳の室内は実質以上に広く感じられる。

 本棚に整然と並べられているのは、現役の記憶士として活躍していた時代にお母さんがよく読んでいた、心理学や脳科学関連の書籍。現在の生活が始まって以来、読まれた形跡はない。ただ、心の回復のために邪魔になるものではないので、ずっとそのままにしてある。わたしもたまに読むが、だいたいが暇つぶしの飛ばし読みだ。

 お母さんが発作的な自傷行為をくり返したため、被害防止の観点から、ベッド以外の家具を部屋から取り払った時期もあった。そのベッドも、もとは窓際に置いていたが、窓を開けて外に出て行こうとする事件があったために、窓から少し離れた場所に移動させたという経緯がある。

 自傷も窓からの逃走も、今では心配なくなった。それでもお母さんは、予兆もなく、悪意もなく、夕方に夏也が報告したような突飛な行動をとって、わたしたち兄妹を慌てさせることが時折ある。「外の空気を吸いたい」や「どこかに出かけたい」といった希望は、最近めっきり口にしなくなっていただけに、対応にあたった夏也は困惑しただろう。まごついてしまった自分への苛立ちも、さっきわたしに強く当たった一因だったのかもしれない。

 介護にストレスはつきものだが、被介護者や第三者にいらいらをぶつけても、不毛なだけだ。わたしは抑えているのだから、夏也も同じ対応をとってほしい。人生の先輩だからとか、兄だからとかではなくて、人として。

 総合的かつ客観的に判断した限り、症状は底を脱してはいるのだろう。しかし、改善に向かう気配は今のところ全く感じられない。

 この先、命が尽きるまで、お母さんはこのままなのかもしれない。

 そんな危機感に、絶望感に、わたしは折に触れて襲われている。

 トレイをいったんパイプ椅子の上に置き、ベッド用テーブルをセットする。その上にトレイを置くと、お母さんは双眸をしばたたかせながら料理を見下ろした。瞳の面積が少し大きくなった。気がついたら料理が目の前にあったので驚きを禁じ得ない、といった様子だ。現在の暮らしが当たり前になってからのお母さんは、感情表現が幼子のように分かりやすい。小動物のように小鼻をうごめかせるのがかわいくて、つい笑みをこぼしてしまう。

「お母さん、お母さん」

 二の腕を弱くつつくと、首がゆっくりと回ってこちらを向いた。まずは、半開きだった唇が微かに蠢く。次いで、口の面積が少し広がる。最後に、見開かれた双眸が徐々に色を取り戻していき、人間らしいものになる。

「……秋奈」

「顔を見せるのが遅くなって、ごめんね」

 返事はない。わたしの顔をただじっと見つめている。子どものようだと、似たようなシチュエーションになるたびに思っている気がする。なんという純真さだろう。瞳の透明度も、眼差しの真っ直ぐさも。光が宿るだけで、こんなにも印象が変わるのだ。

「わたし、一時間半くらい前に学校から帰ってきたの。今日はお兄ちゃんが家にいてくれる日だったから、友だちと遊んでいたんだ。本当はすぐにお母さんにただいまの挨拶をしなきゃいけなかったんだけど、晩ごはんの時間も近かったし、そのときでいいかなと思って。ほら、わたし、面倒くさがりだから」

 お母さんは途中で二度ばかり、かろうじて分かる浅さで頷いただけ。全体的に反応は希薄だ。その様子は、なにかに注意を奪われて会話にうわの空の人間を連想させる。恐らく、理解している内容はゼロに近いだろう。

「でも、やっぱりお母さんのことが気になったから、晩ごはんをちょっと早めに持ってきたんだ。ほら、お母さんの目の前」

 トレイを指差す。視線はわたしから外れない。わたしは小さく頭を振り、そっちそっち、と再びトレイを指で指し示す。お母さんは漸く緩慢に首を回し、指されているものを視界に映した。

「……ごはん」

「そう、晩ごはん。一人で食べられる?」

 お母さんは返事をせずに箸をとる。でも、ちゃんと器を正視しているから大丈夫だ。

 大丈夫ではないのは、窓外や虚空などに視線を向けながら食べるとき。その場合、箸は持ったものの全く動かさないか、口に達する前に箸に挟んだおかずをこぼしてしまうか。そのどちらかの運命が決定づけられている。

 どこか覚束ない箸づかいで、お母さんは食べ始めた。

 今晩のメインは鶏のからあげ。副菜には、ポテトサラダ、菜の花のおひたし、味噌汁。それにプラスして、白いごはんと少量の漬物、という献立だ。

 ごはんは炊けたばかりのもの。味噌汁はインスタントで、あとは買ってきたものを皿に移しただけ。わたしはごく簡単な料理しか作れないし、夏也は論外だ。必然に、出来合いの惣菜が中心になる。

 お母さんの健康と家計、両方を助ける意味から、レパートリーを増やしたいと常々思っている。しかし、上達の曲線は極めて緩慢で、腕前は低い水準で頭打ちとなっている。炒め物に火を通しすぎたり、煮物の味つけが濃くなったり、酢の物が酸っぱすぎたり。初歩的な失敗を性懲りもなくくり返している。

 お母さんは、苦手な食材が使われたり美味しくなかったりする料理には、一切箸をつけないか、つけたとしても一口で食べるのをやめてしまう。責任は料理を作った側にあるとはいえ、残されるのはやはりショックだ。そんな体験が重なることで、献立にあと一品を加えれば栄養バランスがよくなると分かっていても、作るのはやめておこう、という結論に流される場合が多くなる。結果、失敗から学ぶ機会が失われ、技術は未成熟なまま捨て置かれ、据え置かれる。

 わたしはパイプ椅子に腰を下ろす。少し前屈みになり、黙々と食べているお母さんを近い距離から見守る。

 咀嚼力に衰えはない。小さく切るとか、柔らかく煮るとか、そういった手間をかけなくて済むのは、介護をする側からすれば助かる。体を殆ど動かさなくなったから、当然のことながら食事量は落ちた。好き嫌いはなかったはずだが、気まぐれのように料理に手をつけないこともある。昨日まで積極的に食べていた食材を急に毛嫌いし出して、困惑することも少なくない。

 今回は、菜の花のおひたしがそれに該当した。数日前に菜の花とベーコンのパスタを出したときは、完食していた。従って、その食材が嫌いだから食べられない、食べたくない、ということではないはずだ。

 味つけが悪かった? 調理方法に問題がある? 手作りじゃないから嫌? それ以外にも原因があるとすれば――。

 ついつい考えを巡らせてしまう。受け答えはまともに成立しないから、自分で考えるしかない。

 しかし、食事の様子を眺めているうちに、些細な疑問などどうでもよくなってくる。

 四日前は体調が悪く、わたしの手を借りなければ一口も食べられなかった。しかし今日は、自分一人で食事をしている。動きは全体的に緩慢だが、こぼすこともなく。全く手をつけないのは菜の花のおひたしだけで、他の野菜や肉や白米はしっかりと胃の腑に収めている。

 一時期は廃人同然だった蜂須賀冬子が、手や口を動かしている。食事をしている。生きている。

 幸福がささやかなものであるならば、手中に収めるのはいとも容易い。 


 蔵の戸に取りつけられた南京錠を開錠する。建てつけの悪さを示す音を立てながら戸が開かれ、外と内の世界が接続する。

 中は真っ暗だ。現在は夜の八時を回り、太陽はすでに地平線に没しているが、外よりも暗い。闇は禍々しい艶やかさを帯びていて、人工の明かりが存在しなかった時代の夜のようだ。

 空気はそこはかとなく黴臭い。その情報は、小鼻を蠢かせれば蠢かせるほど遠のいていき、やがて雲散霧消する。全く感じられなくなったのを境に、わたしの語彙では「古めかしい匂い」としか形容のしようがない、快くはないが不快だと断罪もしかねる、どこか威厳を感じさせる匂いを嗅覚が感知する。ほぼ毎日、この空間に足を踏み入れているわたしの鼻とて、その順序に関しては例外はない。

 六月という季節を考えれば異常に冷たい空気の中、壁をまさぐるようにして右手を伸ばし、スイッチをオンにする。天井中央に明るさが灯り、瞬時に周囲へと広がって行き渡り、現在わたしが身を置く空間内における明度が確定する。

 床面積は二十畳ほどあるらしいが、天井に達する高さの木製棚が内壁を取り巻いているため、実際よりも狭く感じられる。その天井は、本来ならば二階のそれに迫る高さに展開しているせいで、コンクリート製の床付近は仄暗い。筒状に丸められて立てかけられた茣蓙と、人間が入れそうなサイズの扁平な木箱が、空間の一隅に隣り合って置かれている。

 戸を閉ざし、茣蓙まで歩み寄って麻縄のいましめをほどく。空間の中央に敷き、靴を脱ぎ、戸に背を向けてその上に胡坐をかく。掌を上に向ける形で両手を組み、軽く載せるように膝の上へ。深呼吸を一つして、瞼を閉ざす。

 そして瞑想の時間が始まる。辞書に記載されている瞑想ではなく、わたしにとっての瞑想が。

 空間内があまりにも静かすぎるせいで、戸や壁の分厚さなど幻であるかのように、外界由来の音声が強く主張してくるときがある。体調や気分によっては、嗅ぎ慣れているはずの空気の匂いが無性に鼻につくこともある。

 しかし、じきに気にならなくなる。例外なくそうなる。心頭を滅却して無心になれたから、ではない。思案に対する集中力が確保されたために、種々の情報の存在感が相対的に減退するのだ。

 思うことや考えることは、日によって違う。今日という一日を顧みることもあるし、将来に思いを馳せることもあるし、現在の懸案に頭を捻ることもある。テーマをあらかじめ決めることはない。結果的に単一の事柄について思索した場合でも、混沌の中を手探りした結果だ。意識の流れのまにまになにかについて考えて、行き着く先はわたしにだって分からない。

 時には、なにも考えない状態をただひたすら目指すこともある。そもそもこの夜の瞑想の時間は、無心になることを目的に始めた。

 そう多くない自らの成功事例を顧みた限り、記憶を取り出すためのコツは、依頼者の脳髄に固着した悪しき記憶に、外に出てくるようにと真摯に呼びかけることだ。悪しき記憶を一個の人格と見なし、頑なな心を解きほぐし、折れさせ、断念させることで殻の中から出てこさせるために、説得の言葉を重ねることだ。といっても、悪しき記憶は人間ではないから、具体的な説得の言葉を唱えるのではない。意味を成すように言葉を繋げていく作業に気をとられ、本分を見失うおそれがあるから、それだけは絶対にしてはいけない。

 ただ想いを、出てきてほしいという想いを、病原に照射する。目的を達成するその瞬間まで、愚直に照射し続ける。

 そのために最も必要だとわたしが考えているのが、集中力。それを高めるのにうってつけの修行方法が瞑想、というわけだ。

 集中力が究極的に高まった状態、それこそが無心状態だとわたし自身は定義しているが、その高みに達したことは未だかつてない。肉薄できた、という実感を抱いたことすらも。そもそも、到達したとして、「今、わたしは無心である」と自覚できるものなのか。

 疑念を拭えなかったのと、挫折が重なって嫌気が差したのと。二つの理由から、いつからか、集中して思考するだけでよしとするようになった。

 今宵、瞑想開始早々に心に浮上したのは、早く一人前の記憶士になりたい、という一念。

 誰かから記憶を取り出すよう依頼され、不首尾に終わったさいに決まって念頭に浮かぶ考えだ。しかし今日は、小さなプラスとマイナスを考慮に入れても、何事もない平凡な一日だった。

 脈絡のなさに戸惑っていると、ここ一・二か月の間に経験した、お母さんの食事がスムーズにいかなかったときの記憶が脳裏に去来し始めた。一つや二つではなく、十も二十もの記憶が次から次へと。時系列はばらばら、内容も前後で関連性を見出せず、完全なるランダム再生らしい。

 お母さんは今日の夕食を自力で食べた。全くこぼさなかったし、菜の花のおひたし以外のおかずはちゃんと食べてくれた。介護者と被介護者、互いにほぼストレスなく食事を終えられた。それなのになぜ、水を差すような思い出を思い出したのだろう?

 意味不明だったし、不快感も抱いた。しかし、邪念に支配されてしまえば、トレーニングの意味がなくなってしまう。灰色の疑問も、黒い感情も頭の中から追放し、意識の流れに我慢強く身を任せる。

 そうするうちに、想念は唐突に過去に回帰した。すなわち、今日の夕方、母親のもとへ向かっていたさいに夏也に出くわし、いさかいめいたやりとりを交わした過去へと。

 そして、たちどころに気がつく。

『うっせぇな。文句あるなら、俺の頭ん中のババアにまつわる悪しき記憶、お前の力で取り出してみろよ』

「一人前の記憶士になりたい」という思いが胸に浮かんだのは、夏也からかけられたその言葉が原因だったのだと。

 力不足は重々承知している。夏也がお母さんに抱いている憎悪がいかほどかも、夏也の次に理解しているつもりだ。

 だからこそ、なにも言い返せなかった。

 お兄ちゃんがお母さんを恨む気持ちは、どうしようもないのかもしれない。だけど、修行を積み重ねれば、わたしだっていつかは――。

 ままならない現実から目を背けるように、思案に全神経を注いだ。


 定期的にお母さんの夢を見る。お母さんに関する夢はたいてい、改変は殆どなく、記憶が忠実に再現されるという形で放映される。

 宿題が一段落したころには、すっかり喉が渇いていた。部屋のエアコンは作動していた。設定温度が二十七度だったことも覚えている。しかし八月の峻厳な暑さは、たとえ人工の冷気の力を借りたとしても、完全に打ち負かすのは難しい。とうとう耐えかねて、ジュースを飲もうと一階まで下りた。

 キッチンで人の気配がする。戸口からそっと様子を窺うと、

「あっ」

 お母さんがアイスを食べていた。スティックタイプの焦げ茶色のアイスだ。

「あーっ! お母さん、ずるい!」

 わたしは足音を鳴らして駆け寄った。お母さんは半分ほどに減らしたアイスをどうするべきか、対応に窮したような身振りを見せていたが、ほどなく残りを食べ始めた。少しばつが悪そうな、それでいて開き直ってもいるような、どこか幼く見える苦笑が顔に浮かんでいる。

 下着に見えなくもないキャミソールに、ショートパンツという姿。汗はひいていて、石鹸の匂いが淡く漂ってくるので、稽古が終わってシャワーを浴びたあとだと分かる。

 当時のお母さんの体には贅肉というものがなく、健康的に引き締まっていた。対照的に豊かな胸は、細作りの肉体の中央で燦然と輝いていた。目鼻立ちは女性的ながらも凛々しい。ひとたび表情を綻ばせると、見ている人間もつられて笑顔になるような、明るい魅力が弾けた。

 若く、美しいお母さんが、わたしは大好きだった。

「食べすぎておなか壊すから、アイス禁止って言ってたのに、自分だけこっそり食べてる! ずるーい!」

「違うのよ、秋奈。最近夏也が頑張っているから、ご褒美にアイスを買ってきたの。もうそろそろ禁止令を解除してもいいかな、と思って」

「そうだったんだ! ねえねえ、秋奈の分は?」

「もちろん買ったよ。家族全員の分をね」

「やった! アイス食べるー!」

「手を洗ってからね」

 言われたとおりにしてから、冷凍庫の引き出しを開ける。個包装されたものを人数分だけ買ってきたものと思っていたが、八本入りの箱だった。中を確認すると、

「あれっ、六本しかない。お兄ちゃん、もう食べたんだ」

「ううん。私、これが二本目」

 お母さんは食べかけのアイスを顔の高さにかざし、にんまりと笑った。

 ずるいだとか、食いしん坊だとか、非難する言葉がいくつか頭に浮かんだ。しかしわたしが選んだのは、母親を真似るように笑う、というリアクション。そして、自分も箱から一本取り出して個包装を破いた。

 冷蔵庫とダイニングテーブルの間の空間に立って、わたしたちは笑顔でアイスを頬張った。若いころから記憶士として、大人を相手に仕事をしていた影響なのだろう、お母さんはどちらかというとマナーには厳しい。本来であれば「椅子に座って食べなさい」と注意をする場面だったが、自分が違反したルールやマナーに関しては、他者に関しても全面的に許容することが多かった。

 そんな、度量が広くて柔軟なところが、わたしは好きだった。

 ジュースの空き缶を道端にポイ捨てしたこと。夜中までテレビゲームで遊んだこと。依頼者との約束をすっぽかして駅前に出かけたこと。どれもこれも、幼心にも褒められたものではないと分かる行為だが、お母さんといっしょに規則を破る快感は得も言われぬものがあった。

 家族三人で行動するときの夏也も、わたしほど感情を表には出さなかったが、やはり嬉しそうにしていた。

 しかし、そのころにはもう。

「秋奈。食べ終わったら、お兄ちゃんの部屋までアイスを届けてあげて。汗をかいたあとだから、きっと喜ぶよ」

「うん、分かった」

 わたしはアイスの箱の中身を探って、あることに気がついた。

「チョコ味がない! 一本も!」

 八本入りのアイスの内訳は、バニラ、いちご、チョコ、ソーダ、以上四種類の味が二本ずつ。夏也はチョコ味が好きなので、それを持っていこうと思ったのだが、一本も入っていない。わたしが食べたのはいちご味だから、必然に。

「お母さん、チョコを二本も食べないで、他の味を食べればよかったのに。お兄ちゃんが好きな味なのに」

「ああ、そうなの? 夏也、チョコ味が好きなんだ。ふーん」

 勢いよく水を出して手を洗いながらの、とぼけたような声での返答だ。きゅっと音を立てて蛇口を閉め、

「お兄ちゃんのことをよく知っているんだね、秋奈は。お母さんが持っていってあげるよりも喜ぶと思うな、きっと」

「二階に上がるのが面倒くさいだけでしょ。稽古が終わったあとのお母さん、すっごく怠け者になるもん」

「そうかもね」

 お母さんはすでにわたしに背を向けていたので、どんな表情をしていたのかは分からない。ソーダ味を選んで引き出しを閉め、二階へと駆ける。

 そのころにはすでに、お母さんと夏也の関係は悪化しつつあった。お母さんも夏也も、相手に対する不平不満をそう簡単には口にしないから、二人の間に具体的になにが起きているのかを、まだ幼かったわたしは察知できなかった。お母さんから、あるいは夏也からそれとなく頼まれて、母と息子の橋渡し役を務めることが増え始めていたことにも、全く気がついていなかった。

 母親と二人でアイスを食べて、兄の分のアイスを兄の自室まで届ける。

 そんな些細な出来事が、悲劇の始まりを暗示していたなどとは、当時のわたしは思ってもみなかった。


 一番乗りは、自宅が学校に近い詩織。次点は、お母さんの介護があって朝が早いわたし。少し間が空いて、三番手で結乃が姿を見せる。いつも別のクラスの友人と登校する茉麻は、決まって最後、朝のショートホームルームが始まる直前に教室に滑り込む。

 その日もその順番どおりに、わたしたち四人は教室に集合した。

 三人だと比較的に静かに話すが、茉麻が加わった途端に賑やかになること。クラスのお調子者・宮間くんのジョークをきっかけに、授業が脱線してしまうこと。古文の老教師・熊谷の、万人を眠りの世界へと誘うスローな喋り方。

 全てがいつもどおりだった。代わり映えがしなくて、時に退屈だったり物憂かったりもするが、基本的には気楽かつ楽しく過ごせる、平凡で平穏な日常。

「そういえば、多木さん今日は来てないね」

 脈絡なく、詩織がぽつりと呟いた。三時間目の休み時間、いつもの四人で茉麻の席を囲み、談笑している最中のことだ。

 詩織の視線を辿ると、無人の多木星羅の席があった。金曜日の放課後、五人で話をしていたときの記憶が甦った。その映像に空虚感を覚えたのは、映像自体に空虚さを感じたからというよりも、再生された記憶がわたしにとって快いものだったからだろう。

 多木さんとまともに言葉を交わしたのはあれが初めてだったが、話をしていてなかなか楽しい人だった。物言いがぶっきらぼうでストレート。それでいて、会話を成立させようというサービス精神をしっかりと持っている。喋ってみた印象は決して悪くなかった。

 思えば、依頼者以外の人間に記憶士の存在を明かしたのは久しぶりだ。ごく簡単にではあったが、それでも滅多にあることではない。あの会話がきっかけで、多木さんとただのクラスメイトよりも一歩親しい関係になっていたのも、空虚感を抱いた一因に違いない。

「ほんとだ。いないね」

「トイレに行ってるとかじゃないの」

「だって、鞄ないし」

「ああ、そっか」

「詩織、いつ気づいたの」

「今さっき。何気なくそっちを向いたら、あっ、多木さんいないな、鞄がないから登校していないんだな、って思って」

 詩織は大人しくて控えめだが、感覚の鋭さと頭の回転の速さを持ち合わせている。他の三人が思いも寄らなかった事実を指摘して、一同を感心させることがよくある。今回もその資質が発揮されたといえば、少し大げさだろうか。

「どうしたんだろうね、多木さん。今まで学校休んだこと、たしかなかったよね」

 二・三秒ほど漂った沈黙を、結乃が破った。それに対して茉麻が、

「なんで休んだんだろう。季節外れの風邪?」

「さあ、どうだろう。金曜日の放課後に話したときは、体調が悪いって感じじゃなかったけど」

「ちょっと気になるから、誰かに訊いてみようかな。多木さん、誰と仲がいいんだっけ」

「クラスに親しい子、いなくない? 孤高の人って感じだもん、多木さん」

「孤高って、なにそれ」

「だって、いつも一人でスマホいじってるから。でも、孤独っていう感じでもないんだよね。孤立しているわけでもないし。友だちはいませんが、それがなにか? みたいな、平然としている感じ」

 結乃の多木さん評に、わたしは表向きは浅く頷き、内心では何度も頷いた。わたしが抱いている多木星羅像と、かなり近いものがあったからだ。結乃の物事を正確に言い表す能力は、四人の中で随一といってもいい。

「たしかに、結乃の言うとおりかもね。なんだかんだで、私たちと喋る機会が一番多い気がする」

「でも、親しいわけではないしね」

「茉麻は知らないの、多木さんの連絡先」

 交友関係の広さを期待しての詩織の質問だったが、

「知らないなー。クラスメイトの女子の連絡先、だいたい入ってるんだけど、多木さんはないや」

「じゃあ、真相を知る術はなし、か」

「まあ、過度に気にする必要はないんじゃない? 些細な理由から休んだだけかもしれないし」

 場に漂う緊張感を緩和させる目的で、わたしはそう言った。図らずも話をまとめるような言い方になったせいか、それを機に話題は多木さんから離れた。


 昼休み時間、わたしたちは全く思いがけない形で、多木星羅の存在を突きつけられた。

「蜂須賀秋奈、いる?」

 教室の戸口から聞こえてきた声に、教室内の話し声が止まる。

 わたしはいつものメンバーと結乃の机を囲み、タマゴサンドを食べているところだった。口の中のものを嚥下した直後だったので、喉を詰まらせそうになって慌てるという、古典的な悲喜劇は回避できた。

 振り向いた視界に映ったのは、金髪の女子生徒。同じ一年生だと、スカーフの色で一目瞭然だ。メイクが少しけばくて、偏見を承知で形容するならば、遊んでいる感じの女子。見覚えのない顔だ。

「ちょっと、いないの? 蜂須賀秋奈に用があるんだけど」

「あっ、はい。わたしだけど」

 わたしは起立して挙手する。金髪の女子生徒だけではなく、教室にいる生徒全員の視線がわたしへと注がれる。一を聞いて一しか行動をしないとか、馬鹿なの? 金髪の女子生徒はそう言いたそうな顔で、苛立たしそうに手招きをする。駆け足で彼女のもとへ。

「あんたが蜂須賀?」

 不機嫌そうに確認をとってきたので、首の動きで肯定する。

「用っていっても、私があんたに用があるんじゃなくて、多木の伝言を伝えに来たんだけど」

「それって、うちのクラスの多木星羅さんのこと?」

「そうだよ。それ以外に誰がいるんだよ」

「えっと、あなたは、多木さんのお友だちってことでいいのかな」

「昔ちょっと親しくしていた程度だけどね。頼める人間がお前くらいしかいないから、だってさ。そんな面倒くさい真似、本当は嫌だったんだけど、怖いくらいシリアスな声で頼まれたから、断ったらやばいかもしれないっていう恐怖感があって」

「……そうだったんだ」

「伝言、言うね。K郵便局の角を東に曲がって、ずっと進んだところにある公園まで来い、だって。期限は夕方の五時。遅れたらぶっ殺すって言ってたよ」

「公園? そんなところ、知らないよ。K郵便局なら分かるけど」

「あたしだって知らないってば。郵便局の場所が分かるなら、とりあえずそこまで行って、それから先は指示どおりに進めばいいんじゃない?」

「あ……。それもそうだね」

 感じの悪いため息を残し、金髪の女子生徒は教室を去った。

 小首を傾げ、踵を返す。クラスメイトたちの視線が次から次へと離れていく。例外は、茉麻、結乃、詩織の三人だ。

「秋奈。多木さんから呼び出しを食らったって、どういうことなの?」

 椅子に腰を下ろすや否や、茉麻が野次馬根性丸出しで質問してきた。金髪の女子生徒の話し声が大きかったせいで、会話が筒抜けだったらしい。結乃と詩織も興味津々といった様子だ。

「分からない」

 わたしはそう答える。むしろ、こちらが知りたいくらいだ。

「直接わたしに頼まずに、他人を通じて頼むって、どういうことなんだろうね」

「休んでいるっていうことは、緊急事態でも起きたのかな?」

「うーん、それはどうなんだろう」

 茉麻の言葉に、わたしは再び首を傾ける。

「伝えに来た人――多木さんの友だち? あの子はなんか、切迫感がある感じじゃなかったから、そうでもないのかなって思うけどね。そもそも緊急事態なんだったら、わたしじゃなくてあの子に頼めばいい話だし」

「秋奈じゃないと頼めないんじゃない? 秋奈は記憶士だから。ほら、金曜日の放課後、多木さんと五人で話をしたでしょ」

 指摘したのは結乃だ。同じく気がついていたらしい詩織は、わたしの目を見ながら頷く。気がついていなかったらしい茉麻は、「ああ、なるほど」というふうに、何回か小さく首を縦に振った。

「だって他に心当たりある? ないでしょ。金曜日に話を聞いて、多木さん、秋奈に依頼しようと思ったんだよ。取り出してほしい記憶があるんだよ」

「そうだよね。そうとしか考えられない」

 わたしは結乃の意見に賛成する。もちろん、その可能性は頭にあった。ただ、本当に正解なのか、みんなの意見も聞きながら考えていたのだが――やはりその説が最有力らしい。

「それじゃあ、多木さんが取り出したい記憶ってなんなの、っていう話になるよね」

「ヒントが少なすぎて、さすがに分からないよ」

「私たちの前で言うのを躊躇うような内容なのかな?」

「取り出したいって願うくらいだから、その可能性は高いかもね」

「ていうか、私たちがいる前で秋奈に『相談に乗ってほしい』って言っても、別に差し支えなくない? 依頼内容の詳細まで、その場で言う必要はないんだから」

「ああ、たしかにそうだね」

「風邪とかで学校に来れない、だから秋奈に頼めない、だから友だちに伝言を頼んだ、ということなのかもしれない。頼みづらいとか、気持ちの問題じゃなくて」

 わたしたちは食事をしながら、多木さんにまつわる謎について活発に意見を出し合った。しかし、真実らしい回答は導き出せなかった。


 今日も居残ってお喋りすることを選んだ友人たちに、別れを告げて教室を出る。いつものわたしであれば、「今日は日直の子にあまり迷惑をかけないようにね」と三人に言葉を残しただろうが、心にも時間にもそんな余裕はなかった。

 午後五時までに待ち合わせ場所に来いという指定は、放課後を迎える時刻と、高校からK郵便局までの所要時間を考えれば、ゆとりがある時間設定では決してない。公園の場所を知らない事実を踏まえると、短すぎるくらいだ。

 多木さんはわたしに一刻も早く来てほしいからこそ、待ち合わせ時間を早めに指定したのだ。彼女は切迫した状況に置かれているのだ。性急に移動するわたしの中で、焦燥感と不安が次第に高まっていく。

 多木さんはわたしに記憶の取り出しを依頼したい。取り出してもらうのは、一秒でも早い方が望ましいと考えている。どちらも所詮、推測に過ぎない。それらを材料に推理を進めても、多木さんが置かれている現状は見えてこない。カロリーを浪費するだけだ。彼女の話を聞くしか真実を知る術はないのだから、余計なことは考えずに足を動かせ。

 そう自らに言い聞かせながらも、多木さんについて考えることからは逃れられない。とても嫌な予感がして、焦りと不安が着実に募っていく。早足になって移動しているだけなのに、長距離を走り続けているかのように汗をかくし、息は弾む。

 漸くK郵便局の前まで来た。伝言内容に従い、角を折れた先の道を進む。賑わいから一転、空き家や更地などの割合が増え、人通りは激減した。進めば進むほど、景色はますます寂しくなっていく。その変化が燃料となり、ネガティブな感情が醜悪に肥えていく。

 灰褐色の感情がピークに達しようかというころ、右手に公園が見えた。疲労から緩んでいた足を少し速め、入り口まで行く。

 敷地面積の割には多くの遊具が押し込まれた、ごちゃついた印象の公園だ。右手の最奥に公衆トイレがあり、少し離れた位置に粗末な木製ベンチが置かれている。そこに座っている人物がいる。

「――多木さん!」

 私服姿だったが、一目で彼女だと分かった。項垂れるように俯いていて、暗澹たるオーラを発散している。

 決して弱くない抵抗感を覚えたが、己を奮い立たせて彼女のもとへ向かう。事情を打ち明けるのにまだ躊躇いがあり、気分が憂鬱なだけだ。そう自分に言い聞かせた。思い込もうとした。

 しかし、彼女が顔を上げた瞬間、甘ったれた楽観は木っ端微塵に砕け散った。

 多木さんの顔は憎悪に燃えていたのだ。

 その感情の矛先は、明らかにわたしだ。

 警告を発するように、投降を促すように、心臓がひときわ大きく拍動した。それを合図に、早鐘を打ち始める。

 制服の左胸を鷲掴みする。地面にへばりつく靴底を一歩ごとに剥がしながら、ベンチへ向かう。

 おもむろに多木さんが立ち上がり、わたしの足は止まる。並んで立ったことがなかったので初めて気がついたが、彼女は背が高い。怒気を露わにした顔で見下ろされると威圧感があり、押し潰されそうだ。わたしに依頼しがっているという仮定のもと、彼女にかける言葉を用意していたのだが、全て飛んでしまった。

 多木さんの唇が微かに動いた。唇を閉じたまま歯ぎしりをしたので唇まで動いた、と説明できる動きに見えた。こちらが口火を切らないから、苛立っているのかもしれない。無理矢理にでも声を発しようと、上唇と下唇の間に隙間を作った瞬間、

 視界の真正面でなにか素早く動いた。頬に強い衝撃を感じ、体が後方に吹き飛ぶ。

 長いような短いような空白を挟んで、背中からなにかにぶつかった。視界に映る景色は、出し抜けの不可解な現象が起きる前とは打って変わって、青空の面積が極端に広い。痛み始めた頬に掌を宛がう。

 緩慢に上体を垂直にする。多木さんの右手は強く握りしめられていて、殴られたのだ、と悟る。

 吹き飛ばされた分だけ開いた距離が、多木さんが歩み寄ったことで詰められる。なにかの間違いだという思い。また殴られるのではないかという恐怖。板挟みにあって対応を決定できず、全身を強張らせたまま身じろぎ一つできない。

 いきなり、腰のあたりに衝撃が走った。蹴られたのだ、という理解は遅効性だった。恐怖は即効性だった。

「やめて」

 声は不可抗力的に上擦った。その事実を認識したのを境に、感情が下り坂を転がり落ちる。

「多木さん、やめて。お願い。どうして――」

 同じ場所を蹴られて発言が封じられる。多木さんはわたしを殴り始めた。顔、首、胸。それらの部位にまたがる領域を狙って、拳が矢継ぎ早に振り下ろされる。一撃一撃に力がこもっている。

 誰かから殴られた経験が殆どないわたしでも分かる。多木さんは、わたしの体を傷つけ、苦痛を与えるために暴力を振るっている。怒りを表現するため、ではなくて。

 折り曲げられた指の第二関節の硬さに、なにかの間違いだ、という認識が間違っていたことを、身をもって理解した。同時に、怒りに支配された人間に理由を問い質すのは、火に油を注ぐだけなのだと学習した。狙われている領域を両腕でガードし、胎児のように体を縮め、死に物狂いで耐え忍ぶ。わたしに配られたカードはそれだけだった。ないよりはましレベルのクズカードだ。

 痛い。ごめんなさい。その二つしか考えられなくなる。痛い、ごめんなさい、痛い、ごめんなさい――。

 思っていたよりも早く、嵐は収まった。

 地面が踏みにじられる音がして、気配の濃度が僅かながらも薄まった。わたしから距離をとったのだ。恐る恐る上体を起こすと、

「蜂須賀、立て」

 変わらぬ怒りを顔に貼りつけた多木さんが、指の動きと言葉で促す。わたしは言われたとおりにする。思っていたよりも滑らかに動く自分の体が、自分のものではないみたいだ。したたか殴られて悲鳴を上げている部位だけが、紛れもなく蜂須賀秋奈の肉体だという気がした。

 多木さんは再び距離を詰め、わたしの制服の襟首を掴んだ。喉が圧迫される感覚に、体の芯から震え上がるような暴力性を感じた。

 服をしっかりと掴んだまま、多木さんは公衆トイレへと向かう。

 何日も前からそうすると決めていたような迷いのない足取りで、女子トイレ内の個室に入った。ドアに鍵がかけられ、突き飛ばされるように便座に座らされる。顔を上げた瞬間、拳が顎にヒットし、反射的に両手でその部位を押さえた。殴打の嵐が再び吹き荒び始めた。

 いつまでこんな目に遭わなければならないの? 目頭がにわかに熱くなる。

 しかし、泣けなかった。怖いし、痛いし、苦しいのに、落涙現象は追随しない。あたかも、終わりの見えない暴力を耐え抜くためには、無駄な行為にエネルギーを費やしている余裕などないと、肉体に苦言を呈されたかのようだ。

 二度目の嵐がやんだのは、多木さんの体力が限界に達したからだった。拳が撃ち込まれるペースが次第に鈍化し、一発一発の威力も下降線を辿っていたので、それが原因だと察しがついた。

 荒い呼吸音だけが個室内に聞こえている。恐る恐る見上げた顔は、相も変わらず怒りに染まっている。しかし、どういうわけか、怖いとは思わなかった。

 いきなり髪の毛を鷲掴みにされた。六十度の角度に顔を上向かせて固定し、自らの顔を近づける。漂った汗の香りの出所は、わたしと多木さん、どちらの体なのだろう。

 多木さんはわたしになにか言おうとしているらしい。しかし、唇が僅かに動くのみで、声が伴わない。人を傷つけるというのは、それほどまでに体力を消費するものなのだろうか?

 その考えが間違っていると思い知るには、多木さんの発言を待たなければならなかった。

「蜂須賀、よく聞け。あたしは強姦された」

 瞬時には言葉の意味が飲み込めなかった。

 ごうかん? ゴウカン?

 ……強姦?

「金曜日の夕方だよ。学校から帰っている途中で、複数の男に。空き家っていうか、廃屋っていうか、とにかく人気のない建物の中に連れ込まれて、そこでやられた。帰るのが遅くなったから、早く帰りたくて、いつもは通らない道を通ったんだよ。近道っていっても、せいぜい一・二分縮まるだけだし、そもそも帰ったとしても、別にこれといってしたいことも、するべきこともない。それでも家路を急ぐことって、あるよな。分かるだろう? なんとなくそういう気分になるときが」

 感情の高ぶりに邪魔をされたかのように、言葉が途切れる。髪の毛を握りしめる力がぐっと強まり、語が継がれる。

「分かってるんだろう、蜂須賀。お前が、お前ら四人が、クソくだらない馬鹿話をいつまで経ってもやめないから、日直だったあたしはなかなか帰れなかった。そのせいで、あたしはあんな目に遭ったんだ」

 思わず息を呑んだ。脳内のスクリーンに、金曜日の放課後の一場面が映し出された。

 わたしといつもの三人が談笑に耽っている。そこから少し離れた席に座っているのは、眉をひそめた顔ながらも、満更でもなさそうな笑みを口元に滲ませた多木さん。

 あのときは楽しかった。誰一人として傷ついていなかった。わたしも、多木さんも、他の三人だって。

 しかし、もはやあの時間は帰ってこない。

 なぜならば、多木さんは――。

「お前のせいで……!」

 映像に蜘蛛の巣状の亀裂が生じ、ガラスが砕ける効果音と共に粉々に砕け散った。多木さんのパンチが腹部を直撃したのだ。髪の毛から手が離れた。尻が便座から滑り落ち、湿っぽいタイルの床に座り込む。

「お前のせいで、こんな、くだらない、あたしは、お前らの――」

 うわごとめいた、文章の体を成さない呪詛の言葉を吐きながら、多木さんはわたしを蹴る。ひたすら蹴る。

 わたしは耐えた。懸命に耐え続けた。なんとなく、泣きたい気持ちでもあった。多木さんが告白する前にも同じ感情を抱いたが、名称が同じなだけで性質は大きく異なっている。決して泣けないし、泣いてはいけないが、泣けるものならば泣きたい。一方的に暴行を受け続けるわたしの胸を占有しているのは、そんな悲しみだ。

 攻撃側が披露するに伴って威力が落ちたのか。それとも、防御側が攻撃に慣れた、あるいは半ば麻痺した状態になっているのか。痛みも、恐怖も、殆ど感じない。少し特殊な悲しみに加えて、多木さんの気が済むまで殴られなければ、という義務感をわたしは覚えていた。

 やがて多木さんは蹴るのをやめた。胸倉を掴んでわたしを立ち上がらせ、背中から壁に押しつける。

 多木さんの頬には涙が伝っていた。顔に怒りがくっきりと表れているのに、泣いていた。

「蜂須賀、お前は記憶士なんだろう? 記憶を取り出せるんだろう?」

 震える声での詰問に、わたしは首を縦に振る。多木さんは語気を強めた。

「だったら、あたしの記憶を取り出せ。昨日味わった最低最悪の記憶を、一ミリ残らずきれいに。失敗したら、お前をぶっ殺す!」


 一方的に告げて多木さんが去ったあとも、しばらくの間床に座り込んでいた。

 床から便座へと座る位置を変更したのは、尻が冷たくなってきたからだ。

 しばらく座っているうちに、不意に思い出したのは、お母さんのこと。

「……食事の世話を」

 しなければ。家に帰らないと。夏也は急用ができたと頼んでも、絶対に担当を代わってくれない。わたししか、本当の意味で、あの人を助けてあげられる人間はいないのだから。

 いったんトイレから出たが、すぐに引き返し、洗面所の鏡に己の胸から上を映す。案に相違して無傷だったので、驚いてしまった。薄暗さのせいで真実が歪んでいるのかと疑ったが、いくら見つめても結果は変わらない。痛み自体も、猛攻を防ぐために動員した両腕を除けば、最初に殴られた右頬が多少疼く程度だ。

「……多木さん、手加減してくれたの?」

 鏡に映る顔はなにも答えてくれない。


 平日の夕食の買い出しは夏也の担当だ。買うものはわたしが指定することもあるが、基本的には夏也に一任している。売っていなかった商品があっても二軒目の店に寄るのを拒んだり、買い忘れているものがあっても再度の買い出しを拒否したりと、仕事ぶりは真面目とはいえない。へそを曲げて仕事を全くしなくなるのは困るので、文句を言うのは最小限に留めているが。

 慌ただしい朝は、市販のパンをメインに、残り物と作り置きのおかず、という献立。昼と夜にはごはんを炊くので、それに合うような惣菜を買ってくる、あるいは夏也に買ってきてもらうことが多い。今晩のおかずは、照り焼きハンバーグだ。

 夏也にはありがちなことだが、献立に占める野菜の割合が少ない。肉がメインで使われている副菜の代わりに、野菜を使った総菜を選んでいれば栄養バランスがよくなったのに。そう思ったが、夏也に意見しても虚しいだけだ。

 必要なものがないならば、わたしが作ればいい。

 ……と言いたいところだが、公園であのような出来事があったあとで、副菜一品だけとはいえ料理を作るというのは、たまらなく億劫だ。

 冷蔵庫の野菜室を覗いてみる。使えそうな野菜は複数種類ある。つまり、作らないという選択肢を選んだ場合、百パーセントわたしの責任だ。

 お母さんを最優先に生きていく。そう誓ったはずだ。それなのに、不履行。クラスメイトからしたたか殴られた、とはいえ。難題を突きつけられた、とはいえ。

「……お母さん、ごめん」

 トレイを手にキッチンを後にする。

 お母さんはベッドの上で上体を起こしていた。夏也に頼んで開けてもらったのか、自力で開いたのか。二十センチほどのカーテンの隙間を通じて、夜に包まれた庭を見ている。瞳にはうっすらと光が灯っているので、ただ窓の方を向いているのではなく、景色を眺めているのだと分かる。同じベッドの上にいるのでも、目を瞑ってただ横になっているのではなく、上体を起こしていることが最近は多い。

「今日はハンバーグだよ。熱い方が美味しいから、早く食べちゃって」

 テーブルを用意してトレイをその上に置く。パイプ椅子を引き寄せたさいに、足がこすれて音が立った。それに反応してこちらを向いた。

 双眸が見開かれ、白紙に黒のインクを落としたように瞳の中の光が広がっていく。鳥肌が立つ寸前のような感覚がわたしの全身を包む。

「……お母さん?」

「秋奈……」

 ベッドガードを両手で掴み、わたしへと身を乗り出す。眼差しは一直線にわたしに注がれている。ベッドから転落する危険性など、微塵も念頭にはないらしい。

 肩を両手で押さえてお母さんを静止させる。わたしたちは至近距離から見つめ合う。

 お母さんの顔には皺というものが殆どない。真っ白になってしまった髪の毛や、痩せ衰えた体と比べると、何度見てもアンバランスな印象を受ける。もともと大きな目は、瞠った上で見つめられると、視線を逸らせなくなる。異能の力を高次元で使いこなした経験を持つ者にしか宿り得ない凄みが、今なお瞳の最奥に鎮座している。

「秋奈」

 わたしの顔を見つめたまま、微かに震える右手を動かす。自らの肩を押さえる手を振り払おうとしたのかと思ったが、そうではなかった。

 わたしの顔面上の一点を指差したのだ。

「……腫れてる」

 右頬――多木さんに最初に殴られた場所だ。

 本当に腫れているの、と問おうとした途端、疼くような痛みを感じた。思わず顔を歪めてしまった。しかし、意識して押し殺せば、顔色一つ変えずにいられる程度の痛みに過ぎない。

「そう? 全然気づかなかった。少し前に鏡を見たときはなんともなかったから」

「真っ赤になってる。痛いでしょう?」

「ううん。痛みはそれほどでも――」

 言うべきセリフは最後まで言えなかった。

 お母さんの頬を、透明な涙が伝っていたから。

 困惑するわたしの頭に甦ったのは、トイレの個室で多木さんが見せた涙。

 片や、青春の只中にいる、心身ともに健全ながらも、むごたらしい被害に遭ったことを告白した少女。

 片や、まだ人生の半ばに差しかかるか差しかからないかの齢ながらも、老いさらばえた女性。

 あらゆる意味で似てもにつかないはずなのに、二人はどこか似ている。

 胸が苦しい。なんらかの感情が、心という器から溢れ出しそうになっている。わたしの辞書の中に、その感情を表す単語は記載されていない。

「ああ、どうしたらいいの……。悲しい……。凄く悲しい……」

「お母さん、待って。たしかに痛みはちょとだけあるけど、そんなに痛くないから。そこまで心配しなくてもいいよ」

「お母さんが駄目になっちゃったから、秋奈が悲しい目に遭うのね。夏也だって、お母さんがなにもできないから、いつもいらいらしているし。こんなお母さんで、本当にごめんね。昔はもっといろんなことができたのにね。夏也や秋奈を笑顔にさせるような、本当にいろんなことが……」

 目頭が急激に熱くなる。泣く、と思った。第一波はなんとか抑え込んだが、お母さんが涙を流しながらも、わたしから決して目を離そうとしないことに気がついた瞬間、雫は呆気なく滑り落ちていた。

 お母さんの顔が大きく歪む。このままではいけない、と思うものの、どうにも止まらない。

 肩を押さえられているせいで窮屈そうながらも、お母さんは両手を広げるような仕草を見せた。その意味するところを、血の繋がった娘であるわたしは瞬時に、なおかつ完璧に理解する。

 お母さん!

 声の限りに叫びたい衝動をかろうじて抑え込み、お母さんを抱きしめる。壊れ物を扱うように柔らかく、それでいて力強く。お母さんは、わたしの背中に両腕を回してそれに応えてくれた。

 なんて細い腕なのだろう。

 なんて弱い力なのだろう。

「ごめんね、ごめんね……」

 お母さんはうわごとのように謝罪の言葉をくり返す。たまらなく切なかったが、涙の量は緩やかにゼロへと向かっていく。お母さんがこうなってしまった以上は、わたしがしっかりしないといけない。そんな思いが湧いたから。

 さりとて、落涙を強いるほどに強い感情が、おいそれと引っ込んでくれるわけではない。

「ごめんね……。秋奈、ごめんね……」

 多木さんを酷い目に遭わせて。お母さんを悲しませて。

 わたし、生きている意味、あるのかな……。


 瞑想をサボる理由として、精神面の言い訳をわたしは断じて是認しない。元気だったときのお母さんの方針がそうだったから。それが第一の理由。自分の心を鍛えるために瞑想を始めたのだから、それを理由として成立させてしまえば、全てが崩れてしまいかねない。それが第二の理由だ。

 その方針のもと、今晩も瞑想に臨んだのだが、どうしても思案に集中できない。

 それほどまでに、多木さんの告白は衝撃的だった。詳細は語られていないにもかかわらず衝撃的だった。

 公園での出来事がくり返し、くり返し脳内で再生される。暴行を受ける場面は僅かしかなく、泣きながら怒った表情ですごまれる場面が大半を占めた。

『だったら、あたしの記憶を取り出せ。昨日味わった最悪の記憶を、一ミリ残らずきれいに。失敗したら、お前をぶっ殺す!』

 わたしは、多木さんの望みを叶えてあげられるのだろうか?


「秋奈、その顔どうしたの?」

 珍しく、四番手で教室に足を踏み入れたわたしを見て、茉麻は素っ頓狂な声を上げた。

 茉麻だけではなく、同じ机を囲む結乃と詩織も、どこか没個性な驚きの表情を一様に浮かべている。茉麻は三人を代表して発言したに過ぎず、全員が共通の感情と思いと疑問を抱いているのは一目瞭然だ。

 わたしは左頬を指でかく。顔にはきっと気おくれしたような苦笑が浮かんでいるのだろう。かいたのと反対側の頬には、大きなガーゼがこれ見よがしといった風情で貼りつけられている。

 入浴後から寝る前にかけて、本来ならば一日で最もリラックスできる時間帯に、多木さんに殴られた頬の痛みが急に強まった。腫れも悪化したらしい。

 まるでなにかを警告しているようだ。そう思いながら、その部位に大判のガーゼを貼りつけた。

 就寝するまでの一時間あまり、痛みがもたらす暗澹たる気分に促されて、様々なことを考えた。家族についてもそうだが、最も時間を割いたのは多木さんのこと。その多くが、まとまりと具体性に欠ける、取り留めもないものだった。最も考えなくてはならないが、最も考えたくないことを考えるのを避けているのは、疑いようがなかった。

 その多木さんは、今日も学校に来ていない。

「秋奈。どうしたの、それ。怪我?」

「うん、ちょっと派手に転んじゃって」

「転んで顔を強打って、有り得なくない? 秋奈、そんなドジキャラだっけ」

「恥ずかしいから詳細は伏せるけど、ちょっと不覚をとってね。転んでしばらくの間はなんともなかったんだけど、時間が経つにつれてだんだん痛みと腫れが――」

 親友を案じる気持ちと好奇心に、淡々と応えていく。つまらなさそうに話すというのは、根掘り葉掘り訊かれるのを回避するための最善の手だ。そういう意味では、「詳細は伏せる」と思わせぶりな言い方をしたのは悪手だったが、さらなる追求は免れた。三人の関心が、大きな目立つものを顔に貼りつけたまま、しばらく日常生活を送らなければならないことに向かったおかげだ。

 わたしの心に晴れ間は覗いていない。右頬からが強く痛み始めたころから、暗い気持ちは切れ目なく持続している。頬の痛みがある程度落ち着いた今となっても、良化の兆しは見られない。心と体は密接にリンクしている、などといい加減なことを最初に口走ったのは、どこの誰だったのだろう。

 現時点で、多木さんの記憶を取り出せるとはとても思えない。

 あんなにも深刻な負の記憶を取り出すのに成功した事例は、わたしが記憶士として活動を開始して以来、一度もない。

 取り出さないと殺す、と多木さんは言っていた。

 我を失って怒り狂っても、手加減をして暴力を振るった彼女だ。たとえ不首尾に終わったとしても、昨日の公園以上の過激な行為に踏み切るとは思えない。だから、物理的な危害を加えられることへの恐怖はないに等しい。

 ただ、多木さんの泣き顔は二度と見たくない。

 そして、自分の無力さを思い知らされることも。


 一時間目が終わったあとの休み時間、多木さんが教室に姿を見せた。

 いつものように、一脚の机を囲んで談笑に耽る輪の中で、わたしだけが緊張感を漲らせる。

 心身を強張らせながらも、彼女の姿を直視する。そして気がついたのは、ひりつくような攻撃的なオーラを発散していない、ということだ。表情は険しいようにも見えるが、寝不足で不機嫌なだけ、というふうにも解釈できる程度の険しさに過ぎない。

 自分の席に辿り着いたところで、多木さんはわたしの方を向いた。しかしすぐにそっぽを向き、椅子に座る。スクールバッグの中身を机に仕舞う彼女は、もうわたしには見向きもしない。

 さっきの一瞥は、わたしが登校しているか否かを確かめるためだろう。ということは、わたしに話があるのだろうか?

 友人たちとの会話がうわの空になる。生まれたての問題にわたしは悩んでいる。こちらから声をかけるべきか、否か。

 多木さんは机に教科書類を仕舞うと、席を立ち、わたしたちがいる方に向かってきた。

 道半ばで、わたしたちの視線は重なる。案に相違して、多木さんの表情に変化は生じない。さっきまで見られた険しさが顔から消え、普段どおりの彼女に戻っている。

「蜂須賀、ちょっと」

 出し抜けの声に、三人は一斉に多木さんに注目した。

「今日のお昼、あたしと二人で食べない? 昼食、この四人でいつも机を囲んでいるってことは、弁当だよな。あたしも弁当だから、どこか適当な場所で食べよう」

「あ……うん。分かった。えっと、昨日のことで話があるの?」

 多木さんは言下に首肯する。表情は変わらなかったが、分かりきったことを言わせるな、という心の声が聞こえた気がした。

「あっ。すっかり忘れてたけど、今思い出した」

 声を上げたのは、結乃だ。わたしではなく多木さんの方を見ながら、

「昨日の放課後、二人は話をしたんだよね。多木さん、あれはどうなったの?」

「私も気になる。どんな話をしたのか、教えてよ。……もしかして、秋奈の頬の怪我って、二人の間でなにかあったの?」

 茉麻も結乃に追随して質問を投げかけた。昨日公園であった出来事を知らない二人は、多木さんを恐れる素振りを全く見せていない。まさか教室で暴力沙汰は起こさないとは思うが、はらはらしてしまう。

 詩織も含む六つの瞳が多木さんを追及する。見つめられた方は、さも鬱陶しそうに眉根を寄せる。

「違うって。そんな傷、あたしは知らない。加害者扱いしないでくれ」

「じゃあ、なにを話したのかだけ教えてよ」

 多木さんは茉麻の言葉を無視してわたしに視線を合わせ、

「で、オッケーでいいわけ? 昼休みにいっしょに食べながら話すの」

「うん、いいよ。場所、どうする?」

「昼になったら決めよう」

 多木さんはさっさと席に戻り、頬杖をついてスマホを触り始めた。

 三人から質問攻めにあったが、はぐらかす対応に終始したのは言うまでもない。


 スクールバッグから紙パックのオレンジジュースと、二種類のサンドイッチが入った小さなレジ袋を取り出す。手結乃の席で弁当を広げる三人に目だけで別れを告げ、多木さんの席へ。

「多木さん。わたしは準備できたけど」

「ん。ちょっと待って」

 上体を折り曲げて鞄から取り出したのは、赤色の包みと象牙色の水筒。「行こう」と目で促しながら起立し、教室を出る。

「どこかおすすめの場所、ある? あたし、いつも一人寂しく教室で食べてるから、よく知らないんだ」

 口火を切ったのは多木さんだ。わたしたちは急ぐでももったいぶるでもない足取りで廊下を進む。

「ぱっと思いついたのは屋上だけど、そもそもドアの鍵開いてんの?」

「屋上はね、開いていることは開いてるんだけど、やっぱり人気スポットだから人が多いよ。一回みんなで行ったことあるけど、居心地はあまりよくなかったかな。怖そうな人も何人かいたし。さすがに『俺たちの縄張りだから出て行け』とは言われなかったけど」

「ああ、そう。じゃあ、どこにすればいいのかな」

「候補ならいくつかあるけど、中庭とかどうかな。植物が多くていい感じだよ。人も多すぎず少なすぎずで、うるさくもなく寂しくもなく。外だと一番おすすめかも」

「……蜂須賀、あんた、あたしと二人きりになりたくないの?」

「へっ?」

 思いがけない指摘に、声が裏返る。疑念に対してというよりも、その反応が不愉快だというように、多木さんは大仰に顔を歪める。わたしは慌てて頭を振り、

「そんなことない。全然そんなことないよ。そういう環境の方がいいかなって、なんとなく思っただけで」

「嘘つけ。昨日あんな目に遭ったんだぜ? 怖さはあって当然だろ、多少なりとも」

「ううん。教室に入ってきた多木さんを見たときは、たしかにちょっと怖い感じはしたけど、すぐに消えた。信じてくれないかもしれないけどね、ほんとにほんとだから。なにを言われるか分からなくて緊張したけど、怖いっていう感じではなかったんだよね。似てるけど全くの別物なの」

 多木さんは最初こそ口を挟みたそうにしていたが、中盤以降は唇を閉ざして主張に耳を傾けてくれた。とりあえず、嘘をついているわけではないと分かってくれたようだ。

 疑う気持ちは理解できる。わたしだって、単なるクラスメイトの一人として普通に接するように、自然体で多木さんに向き合えている自分を、少々奇異に思っているのだから。

 会話は途絶えた。わたしの意見を聞いたことで、なんらかの考えるべきことができたらしい。邪魔してはいけないと思い、口は噤んだままにする。

 目的地に着くまでの五分足らずで、不可解だった謎――なぜ多木さんに恐怖を感じないのか――の正答を掴めた気した。

 暴力という形で感情を発散したあとは、以前のように常識ある態度で接してくれる彼女に、誠実さを感じたからだ。


 来るべき夏に備えて、早くも業者の手が加わったらしく、中庭は前回訪れたときよりも整然としている印象を受ける。六月初旬の十二時台である現在は、日陰のベンチに座るとちょうどいい気候だ。昼食をとる場にもっぱら教室を選んできたこれまでが、少しもったいない気がした。

 中庭では三組ほどの生徒が食事をとっている。いずれも話し声は控えめで、騒々しさからは遠い。空いているベンチに並んで腰を下ろす。

「多木さんはお弁当の中身、どんな感じ?」

「特に変わったものは入ってないよ。蜂須賀はコンビニで買ったんだ」

「うん。サンドイッチとオレンジジュース。多木さんも見せてよ」

「あたしのは、ほら、こんな感じ」

 包みをほどいて蓋を開いてみせる。エビフライがメインで、野菜を使ったおかずがいくつか入っている。

「どう? メインは冷凍食品だし、それ以外は残り物が殆どだし、全然しょぼいよな」

「そんなことないよ。野菜が多めで、栄養バランスがよさそうで、とっても美味しそう。朝って忙しいのに、たくさんおかずが入ってるし。なんていうか、お母さんの愛情を感じる。あ、作ったのお母さんだよね?」

「そうだけど。……この程度でべた褒めされたら、逆に気持ち悪いな」

 照れくさかったらしく、純然たる微笑と苦笑の中間のような笑みを見せ、弁当箱を自分の膝の上に戻した。さっさと食べよう、というふうに顎をしゃくったので、頷いてサンドイッチの封を開ける。

 会話の流れから何気なく口にした愛情という単語は、金曜日に目の前の少女の身に起きた悲劇を否応にも思い起こさせた。

 多木さんの家族は、星羅が性犯罪の被害に遭った事実は把握しているのだろうか? 恐らく、知らないだろう。昨日友人たちとの会話で、多木さんを評するのに孤高という言葉が用いられたが、彼女にぴったり合っている。積極的に弱みや弱さを表明しない。それが多木星羅という人だ。

 淡い涙の気配を目の奥に感じる。

 わたしはお母さんが病気で、お弁当を作ってもらえないから、多木さんが羨ましい。

 頭に浮かんだそんなセリフは、胸に仕舞っておく。言葉を口にした瞬間、泣いてしまいそうな気がしたから。

 黙って自分の分の昼食を食べる。わたしも、多木さんも。中庭にいる他のグループが静かに話をしながら食事をとる中で、わたしたちは浮いているといえるかもしれない。しかし、わたしはそんな些事は気にしないし、周りの人間もわたしたちのことなど気にも留めない。多木さんだって同じだろう。

 多木さんの横顔は、なんらかの懸案事項について考えているように見える。わたしの方から発言を促すことはしない。気分を害するようなことを言って暴力を振るわれるのが怖いから、ではなくて。

 これまでに何度も、記憶の取り出したいと願う人間と面談してきたが、基本的には相手の方から話すように仕向けた。依頼者はたいてい、記憶士という非現実的な存在の実在を疑っている。なおかつ、記憶の詳細をなるべく明かしたくないと考えている。無理矢理訊き出すような真似をして信頼関係を損ねてしまえば、それ以上前には進めない。記憶を取り出すことが本当に可能なのか疑っていますよね、と切り出すのではなく、記憶士の存在を疑問に思っているのですが、と相手から切り出させること、それが肝要だった。

 やがてわたしの意識は、多木さんが遭った被害に向いた。

 わたしを殴って、涙して、「記憶を取り出さないと殺す」とまで言ったのだ。多木さんが被害に遭ったのは真実で、負った心の傷は相当深い。それは間違いない。性犯罪の被害に遭った経験がないわたしでも、発言が真実か誇張かの判断くらいはつく。

 厳密にいえば、全くないわけではない。人込みや満員電車の中で、故意に触ったのか、偶然触れてしまったのか、線引きが極めて難しいケースに遭遇したことが、片手で数えられるほどある。

 手の感触を覚えた瞬間は、鳥肌が立った。痴漢だったらどうしよう、という恐怖と不安が瞬く間に心を支配し、全身は強張り、心拍数は上昇した。逃げ場はあるだろうか。行為が執拗にくり返された場合や、これ以上過激になった場合に、声を上げる勇気はあるだろうか。様々な想念が脳裏を駆け巡った。体験したことがないのであくまでも想像に過ぎないが、死に際の走馬灯のようなものだったのだろう。

 ただ、不思議なもので、手が接触しなくなり、なおかつ安全な空間まで移動した途端、「その人は、わたしの体を故意に触ったのではない」という思いが圧倒的に優勢になった。犯人に対する怒りはない。安心材料を見つけてきてはそれが真実なのだと自らに言い聞かせ、問題の時間のことを忘却しようと一心に努めた。

 自分が性犯罪の被害に遭った事実を認めたくないあまり、自分にとって好都合な解釈を結論にしようとしたのだ。わたしはそう自己分析している。

 友人の中でその手の被害に遭うことが多いのは、ルックスがいい茉麻と、気弱な詩織だろうか。ただ、茉麻の場合はすぐに笑い話に変えてしまうし、詩織はそもそも被害について積極的に語ろうとはしない。

 重く暗い被害の記憶は、打ち明けるのも受け止めるのも、多大なる精神的な負担を強いられる。それは痛いくらいに分かる。

 この仕事は今までで一番難しいものになる。そんな予感がひしひしとする。

「黙っていても仕方ないから」

 多木さんが唐突に沈黙を破り、視線を合わせてきた。

「記憶士のこと、あたしに教えてよ。どんなことをする職業なのかとか、記憶を取り出す方法とかを」

「……信じてくれるの? 記憶士の存在」

「一応ね。あたしは常識的な人間のつもりだから、疑わしく思う気持ちは当然あるよ。でも、あんたの友だちの話と、話をするさいの顔つきを見たら、実在すると信じてみてもいいのかな、と思って。そうしないと話が先に進まないっていうのもあるけど」

「ありがとう」

 感謝の言葉に続いて、求められた事項について説明する。記憶士の存在を明かすというフェイズはすでにクリア済みなので、楽に話せた。まだ半人前なので失敗も数多くあることも、きちんと伝えておく。

「取り出せなければ殺す」と言い放った人が相手だ。サンドウィッチを持った手を虚空から動かせなくなるほど緊張は高まったが、なるべく正直に話した。

 周りに人もいるし、まさか殴られはしないだろうが、怒鳴りつけられたとしても文句は言えない。そう覚悟していたが、

「なるほどね。完璧ではないけど、かなり分かったよ」

 無感情な呟きとともに、多木さんは仰々しく首を縦に振った。どうやら杞憂だったらしい。

「一つ気になったんだけどね。失敗した、失敗したっていうけど、その根本的な原因ってなんなの? 腕前が未熟だからとか、そんな曖昧な説明じゃなくて、もっと具体的なことを知りたいんだけど」

「具体的、か」

 過去の失敗の数々を思い起こす。半人前の記憶士として、一人前の記憶士になるべく日々修行に励んでいる身として、今後の糧とするべく、失敗を犯すたびに反省する習慣がついている。だから、説明しようと思えばできなくもない。

 ――でも。

「でも多木さん。多木さんはそう言うけどね」

「なんだよ」

「失敗の原因というのは、記憶士だからこそ分かる感覚だから、説明しても分かりづらいと思う。だから――」

「ざけんなっ!」

 耳を聾さんばかりの怒鳴り声と、一定以上の硬さを持つ物体同士が衝突した音。座板に押しつけられた握り拳を見て、多木さんがベンチを殴ったのだと理解する。呆気にとられるわたしを睨む彼女の顔つきは、眼差しは、トイレの個室内で「記憶を取り出さなければ殺す」とすごんでみせたときのそれに、かなり近い。

「つべこべ言ってないで、話せよ。あたしはな、蜂須賀、あんたになんとかしてもらいたいんだ。あんたに困っていることがあるなら、問題解決のためにいっしょに汗を流すよ。悩んでいることがあるんだったら、いっしょに頭を使うよ。必死なんだよ、あたしは。目的を果たすためなら、なんでもしてやろうっていう気持ちなんだ。だから蜂須賀、包み隠さずに話せ」

 わたしは圧倒された。中庭にいる他の生徒が、何事かとこちらを見ているのを感じる。どう取り繕おう、などということは考えられない。目を、意識を、目の前にいる人から外せない。それほどまでに多木さんは真剣だった。覚悟のほどがひしひしと伝わってきて、相応の覚悟で応える必要性を痛切に感じた。

 こんな感覚に襲われたことが、今まで依頼者と相対してきた中であっただろうか?

 ないわけではなかった、と思う。ただ、これほどまでに強い意志を持った依頼者は、恐らく多木さんが初めてだ。

 人が己の考えを百八十度変えるときは、いつだって、他人の強い感情に触れたときだ。

「そうだね。ごめんなさい。多木さんの言うとおりで、あたしが間違ってた。それじゃあ、説明すると――」

 わたしはまず、記憶を取り出すコツは、取り出したい記憶に対して、出てきてもらうように呼びかけること、という話をした。案の定、ピンと来ていないようだったが、北風と太陽の童話でたとえるならば、太陽の方針に則って作業を行っている、ということは理解してもらえたようだ。

「失敗した人たちっていうのはね、みんな記憶士の噂を聞きつけて依頼に来た人たちなのね。ざっくりとした言い方をするなら、わたしとは親しくない人。逆に成功したのは、わたしの友だちとか、それからあとは、ちょとした付き合いがあるご近所さんとか。この事実と、さっき説明した、記憶に出てきてもらうように呼びかける方法、この二つを考え合わせると――」

「考え合わせると?」

「記憶士と患者は、ある程度仲よくないといけないんじゃないかな、とわたしは考えているの。相手のことをよく知るというか、相手に心を許すというか、表現はいろいろあると思うけど。わたしのお母さんは凄腕の記憶士だったんだけど、お母さんは初めて会う人でも簡単に取り出していたのね。どういう記憶を取り出したいのか、事前にちょっと聞き取りをしただけで、ささっと。わたしも上達すればその域に達せるのかもしれないけど、現時点ではその作業も必要になってくると思う」

「作業というのは、要するに――」

「多木さんとわたしが仲よくなること、これが先決だと思う。わたしが特殊な力を持っていることは信じてもらえたみたいだから、次のミッションが親密になること、という意味ね。わたしがいくら問題を解決する能力があるといっても、取り出してしまいたいと願うくらいの記憶なんだから、事情を洗いざらい打ち明けるのは抵抗があるでしょ。抵抗感を少しでも減らすという意味でも、まずはその努力をするべきじゃないかな」

 多木さんは難しい顔をしている。気持ちは理解できる。でも、避けては通れない道だ。

「というわけで、これからちょっとずつ、お互いの距離を縮めていこう。まどろっこしいかもしれないけど、必要不可欠な作業だと思って。……ね?」

 返事はない。小首を傾げるような仕草を見せ、俯いてしまう。わたしは固唾を呑んで結論が示されるのを待った。

 多木さんはいきなり、男子がするように荒っぽく後頭部をかいた。顔を上げてわたしと目を合わせる。

「まあ、いいよ。その方法をとるべきだって言うなら、そういうことで。蜂須賀の方針に全面的に従う」

「ありがとう。じゃあ、これから仲よくなろうね」

「……うーん。そうやって意気込むのも、なにか違う気がするけど」

 また同じ部位をかきながら、今度は大きく首を傾げる。文系の人間が難しい数学の問題と格闘しているときのような顔つきだ。

「もやもやする気持ち、わたしも分かるよ。友だちって、作るっていうよりも勝手になっているものだから。でも、必要なことだから、無理しない程度に努力していこうよ」

「でも、どうすればいいわけ? 単なるクラスメイトでしかない人間同士が仲よくなるのって。友だちが多いあんたの方が、こういうのは得意なんじゃないの」

「……えっと」

 返答に窮してしまい、自らの手元に視線を落とす。数秒にわたって思案したのち、手にしていた食べかけのサンドウィッチを差し出す。

「じゃあ、食べる?」

 多木さんは眉をひそめて頭を振り、長らく止まっていた食事を再開した。

 冗談のつもりで口にした、断られる前提の一言だった。とはいえ、力不足を思い知らされたような気がして、自分のことが情けなくなった。


「多木さん!」

 三人に挨拶を済ませ、教室から出て行こうとしている背中を呼び止める。振り向いた顔には、軽い驚きの色が浮かんでいる。声をかけられたことに対してなのか、声の大きさに対してなのか。

「なに?」

「いっしょに帰らない? ていうか、帰ろうよ。三人にはもう、多木さんと帰るって言っちゃったから」

「強引だな。トモダチ作戦の一環?」

「うん。でも、仲よくなる必要があるから嫌々いっしょに帰ろうとしているとか、そういうのじゃないから」

 男たちに乱暴されて、一人で帰宅することに恐怖心を抱いているかもしれないから、付き添い役に立候補する、という意図もあった。被害に遭ったのは下校の途中だから、一人で登校した朝とは話が違ってくるのではないか、と。

 世界は明るさに包まれ、自分以外にも登校している生徒が無数にいる。そんなシチュエーションであっても、平常心を保つのは難しかっただろう。月曜日の夕方に公園でわたしを待っていたときなんて、世界は夜へと向かい始めていたし、人気は全くなかった。恐怖は筆舌に尽くしがたかったはずだ。

 多木さんはこれまでのところ、被害の影響を感じさせない行動をとっている。

 過去に押し潰されたくないから、あえて挑むように振る舞っているのか。これという代替案を見つけられないから、ネガティブな感情を懸命に押し殺しているだけか。尋ねるのは怖いし、尋ねたとしても答えてくれない気がする。

 だからせめて、わたしはわたしにできることを全てやるつもりだ。

 こちらの腹の内を見透かしたのか。あるいは見透かそうとしているのか。多木さんはわたしの顔をまじまじと見つめていたが、

「いいよ、別に。拒む理由は特にないしね」

 さばさばとした口調で答えて、さっさと教室から出て行く。わたしは直ちに横に並ぶ。

「それにしても、そこまで親しくない人を誘うのって、緊張するね。声をかけるまではそうでもなかったけど、誘い文句を口にしている最中と、返事を待っている間、凄くどきどきした」

「そう? あたしたちの間に横たわっている事情が事情だから、拒みはしないってたかを括っていたんじゃないの」

「そうかもしれない。でも、緊張したのは事実だから」

「友だち相手に声をかけるなら、普通は緊張はしないよな。……先が思いやられるなぁ」

「初日だからこんなものじゃない? 焦らずにやっていこうよ」

 昇降口で靴を履き替え、校庭を横目に見ながら正門を潜る。歩きながらいくつかの個人情報を開示し合った結果、互いの自宅がある地区は隣接していて、途中まで帰り道が同じだと判明した。心置きなく長い時間話せるというのは、仲を深めたいわたしたちにとって、文句なしにプラスの材料だ。

「そうだ。昼休みからずっと思っていたんだけどね」

 校門を出て五分ほど歩いたところで、わたしは切り出した。

「お互いに下の名前で呼ぶようにしない? 些細なことかもしれないけど、仲よくなる第一歩ということで。どうかな?」

「下の名前……。まあ、いいけど」

「友だちから散々呼ばれてるからもう知っているだろうけど、わたしは秋奈。春夏秋冬の秋に、奈良県の奈って書くの。多木さんはたしか――」

「星羅。綺羅星って言葉、分かる? あの三文字から頭の綺の字を引いて、羅と星の順番を逆にして、星羅」

「セイラって名前、キラキラしててかわいいよね。由来とかあるの?」

「さあ。語感で決めたとか、そんな感じじゃないの。蜂須賀はどうなんだよ」

「安直だけどね、秋に生まれたから秋奈。お兄ちゃんは夏生まれだから夏也で、お母さんは冬に生まれたから冬子。ネーミングが割とざっとしてるんだよね、蜂須賀家の人間は」

「じゃあ、お父さんは春樹とか春夫とか?」

「ううん、信三郎」

「なんだ。全員ってわけじゃないのか」

「そう。お母さんが流れを作ったんだと思う。わたしの名前には季節を表す一文字が入っているから、子どもたちもそうしよう、みたいな」

「武士みたいな名前だね、蜂須賀パパ。武士といえば、蜂須賀っていう名前の戦国武将がいたような」

「うちの家は全然関係ないみたいだよ。自宅が古くて大きめの屋敷だから、たまに勘違いされたりもするんだけど。実際は、先祖代々の家を壊すのには抵抗があるから、古いまま置いてあるだけっていう。意外にも耐震性には問題ないらしくて」

 他愛もない話題だが、途切れることなく続く言葉のキャッチボールに、悪くないんじゃない、とほくそ笑む。ただ、一つだけ不満を上げるとすれば、

「ていうか、星羅」

「なに?」

「下の名前で呼ぶって約束したんだから、『蜂須賀』じゃなくて『秋奈』って呼んでよ。恥ずかしいかもしれないけど、そのうち慣れるから。星羅、そうしてくれる?」

「分かったよ」

「違う、違う。そうじゃなくて、『分かったよ、秋奈』」

「……分かったよ、秋奈」

「わー、恥ずかしい! 照れながら言われるとこっちまで恥ずかしくなる」

「うるさいなー。騒ぐなよ、もう」

 星羅の言動からは、なるべく会話を楽しもう、わたしと仲よくやろう、という意思が充分に感じられる。昔からの友だち同士のように会話が続いていることよりも、わたしにとってはある意味嬉しいことかもしれない。

 それからは、こまごまとしたパーソナルな情報を互いに出し合った。残念ながら、ぴったりと合致する趣味嗜好はなかったが、知らなかったことを知れるというのはストレートに楽しかったし、収穫でもある。些細な言動で感情を害してしまい、怒鳴られたり殴られるするのではないかという不安は、今となってはゼロに等しかった。

 記憶士と依頼者という関係を抜きにして、真の友だち同士になれる日は、そう遠くないかもしれない。そんな期待感が、いつしか胸に生まれていた。

「星羅、毎日いっしょに登下校するようにしない? せっかく家も近いんだし」

 分かれ道に差しかかったところで、わたしは提案する。事前にそう言おうと計画していたのではなく、星羅との別れを意識した瞬間、自ずと浮かんだ考えだった。

「んー……。まあ、いいけど」

「ありがとう。じゃあ、ついでに連絡先を交換しておこう」

「別にいいけど、馬鹿みたいに大量にメッセージを送りつけてくるなよ」

「えー、なんで?」

「そういういかにも女子高生的なやりとり、慣れてないし。それにあたし、文章打つの遅いから」

「返信が早いとか遅いとか、全然気にしないから大丈夫。でも、未読既読問わずスルーはやめてね」

「分かったよ。じゃあID交換を――って、どうやるんだったかな」

「任せて」

 わたし主導のもと、必要な作業は速やかに完了した。

 不安とか心配事とか悩みがあるなら、気軽にわたしに相談してね。そう言い添えようかとも思ったが、やめておく。余計なことは言わなくてもいい。まだ道を歩き始めたばかりとはいえ、そんな野暮な真似をする必要はない程度には、わたしたちは心を通わせているはずだ。

「じゃあ星羅、最後に『秋奈、また明日』って言って」

「なんだよ、その要求。バカップルかよ」

「どっちかという男役っぽいよね、星羅は」

「アホか。気持ち悪いんだよ、その発想」

 ぶっきらぼうに言って、そっぽを向いて唇を閉ざす。しかし、口で言うほど拒絶感を持っているわけではないのは、雰囲気からなんとなく分かる。星羅はおもむろにこちらに向き直り、真剣すぎるくらい真剣な瞳でわたしを見つめる。

「秋奈、また明日」

 照れくささを懸命に殺した、少し赤い顔の裏側に、要求に応えたいという真摯な思いをたしかに感じた。

「また明日ね、星羅」

 だから、屈託のない笑顔で別れの言葉を伝えられたし、星羅も微笑み返してくれた。

 最後の最後で交わしたやりとりが、初めて登下校を共にしての一番の収穫だという気がした。


 よいことがあると、抵抗するかのように、対抗するかのように、バランスをとろうとするかのように、悪い出来事が起きる。

 お母さんがベッドの上が中心の生活を送るようになって以来、わたしはそんな感覚を頻繁に覚えてきた。

 倒れてからのお母さんの精神状態は極めて不安定だ。朝は上機嫌そうにわたしと世間話に耽ったかと思えば、昼間は食事に手をつけようともせずに夏也を苛立たせ、夜には奇行を働いて兄妹を慌てさせる、といった具合で、掴みどころがない。

 一時期と比べれば、振れ幅は小さくなった感はある。倒れた当初の廃人のような有り様を思えば、少し手がかかるくらいの方が却って心配が少なくていい、という思いがあるのもたしか。体力や腕力に乏しいので、自分自身や他人が取り返しがつかないような傷を負うおそれはない、という意味では安心感を持っている。

 それでも、体調や機嫌がいい日が続くと、そろそろ悪い面が表に出る時期なのでは、と身構えてしまう。いざ予感が的中すると、それがお母さんなのだと理解していても、仕方がないことだと分かっていても、これまで積み上げてきたものの大部分が崩れてしまったような気がして、脱力感と徒労感に襲われる。

 お母さんの直感や感受性は、倒れる以前よりも鋭敏さを増している。その鋭さは、介護する人間がネガティブな感情を僅かでも表に出すと、それの影響を受けて被介護者が精神状態を乱す、という形で現れることもある。

 介護する側とされる側、互いの精神的負担を軽減する意味でも、その事態は極力回避したい。

 だからわたしは、自分自身が不安や心配事などを抱いているとき、お母さんが待つ部屋のドアの前で意識的に笑顔を作る。さらには、前向きに介護に臨むよう、心の中で自らに言い聞かせる。作り笑いを遠ざけるよりも、多少無理をしてでも笑みを灯した方が、よい結果に結びつく場合が多い。経験からそう知っているからだ。

 夕食の準備のため、自室を出て階下へ向かうわたしは、そのルーティンのことを意識していた。頭は完全に介護モードに切り替わっていた。星羅の記憶を取り出す件はいったん脇に置いておいて、お母さんに気持ちよく食事をしてもらうために最善を尽くすこと、ただそれだけを考えていた。

 前方右手にあるドアがいきなり開いた。思考を一点に集中していたのが災いして反応が遅れ、鼻を思いきりぶつけてしまった。ぶつけた方も、この事態は予想外だったらしく、間が生じた。部屋の中から現れたのは、

「なんだよ。秋奈か」

 兄の夏也だ。櫛を入れていない髪の毛に、シャツにジャケットにジーンズという、普段どおりの投げやりでだらしない姿。

 いつものように妹を罵倒しようとしたらしい唇が、罵倒対象の顔を視界に映した瞬間、動きを止めた。そして、銃口を突きつけるように視線の先にあるものを指差す。

「なんだよ、その顔の怪我」

「あ……。これは……」

「どこの馬鹿に殴られたんだよ。てか、殴られるだけで済んだのか? 疑わしいな」

 下卑た笑みを浮かべながらの発言だ。

 聞いた瞬間は、いつもの無意味な罵倒の類という認識だった。しかし一歩遅れて、言葉に秘められたニュアンスを解した瞬間、胸の底から熱いものが込み上げてきた。不健康な人間の血のようにどろどろとした、怒りが。

 自分自身が侮辱された気がしたからというのも、腹が立った要因の一つだ。しかし、主因ではない。

 星羅を蔑まれたように感じたのだ。夏也は星羅が性的暴行を受けた事実を把握していて、それを念頭に、「お前も友だちと同じような目に遭ったんじゃないか」と冷やかしてきたような、そんな気がしたのだ。

 実際には、夏也は星羅の存在を知らないだろう。星羅に暴行した犯人ではないし、加害者との繋がりもないはずだ。

 わたしが認識している兄は、記憶士として成功する道につまずき、絵に描いたようにやさぐれた、軽蔑するべき落伍者でしかない。不良と引きこもりの中間のような、中途半端な鼻つまみ者。弱りきった母親や、妹に対しては強気に出られても、あらゆる人間に対して大それた真似ができる人間では断じてない。

 畏怖というよりは、侮蔑の対象。だからこそ、怒りが湧いたともいえる。

 口を噤むという対応をとったからだろう、わたしを見つめる夏也の目は訝しげだ。俺がなにか言うたびに生意気にも言い返してくるくせに、今日はどうしたのだろう、なにを企んでいやがるんだ、とでもいうような。

 夏也を殴りたかった。日頃の恨みに対する返報の意味で。お母さんの介護が中心の生活で溜め込んできたストレスを発散する意味で。夏也を星羅暴行事件の加害者と仮に見なして、星羅の仇をとる意味で。おぞましい犯罪を犯した鬼畜どもに疑似的な制裁を加える意味で。

 右拳を握りしめる。本気で殴り合えば勝ち目はないだろうが、顔に一発見舞うくらいならできる、と計算する。

 しかし、行動に移すのは自制する。

 感情を溢れ出させてもおかしくない場面でストップをかける冷静さ。これは明らかに、お母さんがベッド中心の生活を送るようになったのを機に芽生えた。わたしがしっかりしないと、冗談でも誇張でもなく、蜂須賀家は崩壊してしまう。だから、最後の砦としての自覚を持ち、理性的に振る舞う。

 死んだのだ。お母さんがお母さんではなくなったことで、無邪気な子どもだったわたしは。

「なんだよ、その反抗的な目つきは」

 痺れを切らしたように夏也が言う。

「文句があるなら言えよ。ないんだったら、目障りだから、今すぐに俺の前から失せろ」

「馬鹿、馬鹿って、馬鹿みたいに頻発するけど」

「あ?」

「この傷を負わせた人はね、馬鹿じゃない。真剣だからこそ、傷つけたの。本気で傷ついた人じゃないと、誰かに傷を負わせることなんてできない」

「お前、なに言ってんだ?」

 心底意味が分からない、という顔を夏也はしている。対応によっては、軽蔑の嘲笑にも、怒りの暴言にも、呆れのため息にも分岐しそうだ。いずれにせよ、わたしにとっては不愉快でしかない。

「……まあ、欲望を叶えるためだけに平気で人を傷つける馬鹿も、世の中にはいるけど」

 小声で呟いて視線を切り、夏也の脇をすり抜ける。

「おい、今馬鹿って言っただろ。ふざけたこと言ってると――って、おい! 待てよ!」

 返事はせずに遠ざかる。お母さんに食事を出すという目的が間近に控えていたのは、衝突を回避する口実という意味では幸いだった。

 ただ、夏也といさかいめいたやりとりをしたせいで、気分はマイナスの領域に落ち込んでしまった。

 せっかく、星羅と親密になれそうな手ごたえを抱いて、前向きな気持ちになれていたのに。


 出来合いの総菜だけでは味気ないときは、手料理で補う。中でもよく作るのが、卵料理。

 オープンオムレツ、卵焼き、スクランブルエッグ。どれも手早く完成させられるし、工程が複雑な料理を作れないわたしでも大きな失敗はない。缶詰のツナやコンビーフを混ぜ込んだり、残り野菜を刻んで加えたりと、簡単にアレンジがきくのも好都合だ。さらにいえば、食欲がないとき以外は食べてくれる、外れが少ないおかずでもある。

 ボウルに割り入れた卵を菜箸でかき混ぜればかき混ぜるほど、夏也のせいで溜め込んだストレスが攪拌され、雲散霧消していくようだった。今日は削り節入りの卵焼きにした。巻くのに少し失敗してしまったが、味に問題はない。自分の夕食用に二切れ残し、世界で一番愛する人のもとへ。

「お母さん、ごはん持ってきたよー」

 お母さんはベッドに横になって目を瞑っていた。歩み寄り、いつものパイプ椅子にトレイを置こうとしたところで、瞼が開いた。光は、まだ宿っていない。一心に見つめてくる。

「寝ちゃってたけど、今日はどうしたの? 眠かったの?」

 目をしばたたくだけで、返事はない。いつものことだから、落胆も失望もない。淡々と食事の準備を整えていく。

 いつでも食べられる状態になったところで、お母さんが体を起こしたそうな素振りを見せた。こちらから抱きつき、自分の体ごと上体を起こす。お母さんは放心したような顔で料理をじっと見つめていたが、おもむろにわたしに目を合わせ、

「美味しそうな料理だけど、誰のかしら。私、おなかが空いているのだけど、食べてもいいのかな」

「お母さんの分って、入ってきたときに言ったじゃない。さあ食べて」

 五秒ほど真顔での沈黙を挟んで、おっとりとした笑みが顔に灯る。瞳の中に光が生まれ、牛歩ながらも着実に広がっていく。お母さんは箸を手にして食事を始めた。

 箸づかいはどこか覚束ない。最初に掴んだ甘酢漬けのにんじんを、いきなりトレイの上に落としてしまった。お母さんは落ちたにんじんではなく、皿の中のそれを掴む。今度はちゃんと口まで運べた。以降は少々危なっかしいながらも、こぼすことなく食事をとる。

 今晩のお母さんは、箸を持ったままぼんやりとしている時間が長かった。見かねて「食べさせてあげようか?」と声をかけると、びっくりしたようにわたしを見て頭を振り、照れくさそうに微笑みながら再び食べ始める。

 それを何度かくり返すうちに、手助けをする必要はないし、欲してもいないのだと理解した。だから今晩は、お母さんのペースを全面的に尊重することにする。リハビリになるという意味でも、介助しなくて済む分負担が減るという意味でも、それが望ましい。

 食べ終わるまでの間は、お母さんが一人にしてと強く望まない限りは、つきっきりでいることに決めている。食事中に突然奇行を見せることが多かった時代の習慣が、そのおそれがなくなった現在も、心配性と惰性から継続している形だ。

 食事の模様をただ眺めるか、携帯電話を弄るか、話をするか。だいたいこの三択なのだが、今日は前の二つには集中できない。最後の一つは、今のところお母さんにその希望はないようだ。

 この部屋にはたくさんの本があるから、読書をして時間をつぶす、という選択肢もあるにはある。今のわたしに少しでも役立ちそうで、なおかつ部屋にあるものでいえば、性犯罪の被害者に対するケアや、接し方についての書籍だろうか。

 お母さんのもとを訪れた依頼者の中には、星羅のように性的な被害を受けた女性も少なくなかった。記憶を取り出すには、広い意味で依頼者に寄り添うことが大切になってくる。お母さんは勉強熱心だから、その方面に関する知識を、書籍を通じて学習していたのは間違いない。実際、「性犯罪被害者のためのガイドブック」といったタイトルの一冊が本棚にあるのを、わたしは見たことがある。

 お母さんを見習ってわたしも――と言いたいところだが、今は読む気にはなれない。

 向き合うのが怖いのだ。星羅が抱えている闇を直視するのが、たまらなく怖い。それが理由の全てだ。

 窓外の金木犀へと視線を移す。ここから見る景色は見飽きている。考えごとをしたくなくても、どうしても思案に沈んでしまう。

 考えたのは、夏也のこと。

 兄の日頃の言動には、改善してほしいところが山ほどある。改善してほしいところだらけといっても過言ではない。

 わたしに対する嘲笑的で挑発的な言動もそうだが、なによりも物申したいのは、お母さん対する姿勢や態度。お母さんの苛烈な指導にさらされた過去には同情するが、現在の蜂須賀冬子はもはやあのころの蜂須賀冬子ではないのだから、恨みつらみは忘れて真摯に介護に取り組むべきだ。折に触れてそう苦言を呈しているのだが、馬耳東風、改善の兆しは見られない。 

 どうして、大人になれないのだろう。どうして、傷つける必要のない人間を傷つけるのだろう。わたしはともかく、お母さんは庇護してあげるべき存在なのに。

 これ以上あいつのことを考えると、いらいらしてしまいそうだ。意識的に、思案の対象を星羅へと切り替える。

 今日一日、正確には昼休み時間からの数時間、星羅と深く付き合ってきた。動機は純粋ではなかったが、その割には仲睦まじく交流できている、という手ごたえはある。星羅も、過度に無理をしている様子は見られなかった。

 しかし、不安は尽きない。

 わたしと星羅は、ずっと仲がいいままでいられるのだろうか。

 これまでのところは順調だが、「記憶を取り出すため」という目的で繋がった二人だ。なにかの弾みで呆気なく瓦解してしまう可能性も、充分に考えられる。次のステージに待ち受けている難関のことを考えれば、それに臨むのを避けたい意識が無意識に作用して、あと一歩のところで心を許してくれない、という場合が出てこないとも限らない。

 待ち受けている難関――性被害についての告白は、星羅にとって多大なる覚悟と精神力を要するだろう。

 それはわたしも同じだ。

 話す方がつらいのは当然だが、聞く方だってつらい。最後まで聞けたとしても、精神に少なからず動揺を来し、記憶を取り出す作業に支障を来すのは免れないだろう。

 その事態を回避するために、他人事に徹して感情移入しないようにする、という対応をとったならば、星羅はきっと不満を抱く。これまでの依頼者の場合がそうだった。他人の記憶をなおざりに扱う人間に、誰も自分の記憶をどうこうされたいとは思わない。記憶士と患者の間に信頼関係が成立していなければ、記憶を取り出すことなんて絶対にできない。

 それらのハードルをクリアしたとしても、わたしはそもそも記憶士として半人前。一生もののトラウマになるほどの記憶を取り出せるかは、かなり疑わしい。

「トモダチ作戦」がおおむね順調だから、多少楽観的になっていたのは事実だ。しかし、こうして一つ一つ俎上に載せて、冷静に客観的に吟味してみると、失敗に終わる公算が高いのでは、という気がしてくる。

 取り出せなかった場合、星羅はクラスメイトだから、学校生活が酷く気まずく、耐え難いものになるのは避けられないだろう。今日のように昼食や登下校を共にする機会は、二度とないかもしれない。

 不意に視線を感じ、思案はそこで止まる。

 顔を上げると、お母さんがわたしを見つめていたので、思わず「ひゃあ」と声を上げてしまった。放心しているようにも見える真顔。右手に箸を、左手に茶碗を持つというポーズだ。

 俯いて沈思黙考に耽っているところを、見られた。見られてしまった。

 わたしはきっと、とても暗い顔をしていたはずだ。お母さんに余計な心配をかけたくない。どう取り繕えばいいだろう?

 答えが出るよりも先に、お母さんの唇が綻んだ。

「秋奈、なにか困っていることでもあるの?」

「いや、その……」

「すぐに結果が出なくてもね、毎日頑張っていればね、いつか必ず結果が出るの。ちゃんと頑張っているんだったら、その結果はきっといい結果よ。ほら、見て」

 お母さんは手にしている茶碗を傾け、半分ほどになっている中身をわたしに見せた。そうしてから、一口分のごはんをすくい、口に入れる。よく噛んでからそれを嚥下し、嚥下したばかりの白米のように白い歯をこぼす。茶碗の中身を再びわたしに見せる。

「ね? 一口分減ったでしょう。こうやって一口ずつ食べていけば、お茶碗はいつか空っぽになるの。減るって言ったら悲しい感じだけど、お茶碗のごはんはおなかの中に行ったわけだから、よい結果よね。……それにしても、ごはんが美味しいわねぇ」

 お母さんは白米ばかりを食べる。がっつくというふうではないが、その食べ物ばかりをひたすら噛む。いかにも美味しそうに。いかにも幸せそうに。

 お母さんが突飛な行動をとるのは日常茶飯事だ。とはいえ、いざ目の前でされると、やはり困惑してしまう。はっきり言って、わたしになにを伝えたかったのかはよく分からない。

 しかし、ごはんをよく噛んで食べる、その子どもらしい振る舞いを眺めているうちに、心の空を覆い隠していた雲は見る見る退いていく。

「今日は随分大人しいのねぇ」

 おもむろに箸を動かす手を止め、わたしの顔を下から覗き込むようにしながらの一言。わたしは表情を緩めて頭を振る。

「そんなことないよ。ちょっとぼーっとしてただけだから」

「なにかしていれば、ぼーっとしなくても済むわよ」

「そうだね。じゃあ、友だちの話をしようかな。星羅ちゃんっていう子なんだけど」

「どんな子? 初めて聞く名前ね」

「最近仲よくなったばかりだから。その子はね――」

 お母さんが言うとおり、小さな努力を日々積み重ねていこう。くよくよと思い悩むよりも、前向きに頑張ろう。

 そうしなければ、明るい未来が訪れる可能性さえ消えてしまうのだから。


 互いにどこかぎこちなく、それが却って微笑ましいような、昨夜の星羅との会話を頭の中で反芻しながら、学校とは反対方向へと伸びる道を歩く。

 よくも悪くも平均的な住宅地といった景色で、特筆するべきものは特にない。ただ、通ったことが一度もない道なので、普通に歩いているだけでも新鮮な気分ではある。

 やがて目的の建物が行く手に見えた。外壁はグレイ。屋根は藍色。間違いない。

 門前で足を止めると、表札には「多木」の二文字が刻まれている。住宅は大きくも小さくもなく、外観にこれといって目を惹くところはない。庭は広くはないが、余計なものが排除されている上、植木の配置が絶妙で、空間的なゆとりが感じられる。

 門扉は閉ざされている。インターフォンは門ではなく、玄関ドアの横に備わっている。門扉の内側には錠が取りつけられているが、手で簡単に開閉できるようだ。それを開け、扉を潜って敷地に足を踏み入れる。直後、訪問ではなく待ち合わせが目的なのだから、門の外で待っているべきかもしれない、という思いが生まれた。

 玄関まで行ってインターフォンを鳴らそうかとも思ったが、急かすようで悪い。ならば、敷地内に突っ立っている理由はない。閉めたばかりの門扉に手をかける。

 直後、玄関のドアが開いた。

 隙間から覗いた顔がわたしの姿を捉える。顔がそっくりだったので一瞬星羅かと思ったが、違う。星羅の母親だ。

 微かに眉根を寄せた、訝しげな眼差しがわたしに注がれる。睨んでいるわけではないが、切れ長の目から射出される視線からは圧力が感じられる。

「びっくりした。物音がしたみたいだったからドアを開けたら、あなたがいたから」

「すみません、勝手に入って」

「いや、全然いいよ。えっと、星羅のお友だち?」

「はい。いっしょに登校する約束をしていて」

「ああ、そうだったの。もうだいたい準備できてると思うから、急かしてくる。ちょっと待っててね」

 笑顔を残してドアが閉まった。

 胸を撫で下ろしたあとで、印象的な笑顔を脳内で再現してみる。見つめられている最中は怖い感じもしたが、それを帳消しにするほど魅力的な笑顔だった。星羅もきっと、心から笑うとあんな顔になるのだろう。

 やがて玄関ドアが開き、星羅が姿を見せた。見慣れた制服姿で、スクールバッグを肩にかけている。

「ごめん。待たせちゃったみたいだね」

「ううん、全く。ドアのところまで行ってチャイムを鳴らした方がいいのかなと思って、門を潜って中に入ったらドアが開いて」

「……なんだ。母さんは『待たされていらいらしてる』みたいなこと言っていたんだけど」

 やれやれ、とばかりに星羅はため息をついた。顎をしゃくって促したので、門を出る。星羅もすぐにあとに続いた。門扉を閉め、わたしたちは通学路を歩き始める。

「星羅のお母さん、若くてきれいだからびっくりした。親子だから当たり前なんだろうけど、顔がそっくりだね。親子仲は良好?」

「んー、普通じゃないかな。たまにいっしょに買い物に行くけど、お互いにべたべたって感じでもないし」

「そっか。でも、同性の親子ってなにかと反目しがちだから、かなり仲がいいレベルじゃないかな。お母さんが星羅に言及したとき、星羅のことが大好きなんだなって、凄く伝わってきた」

「そう?」

「うん、ひしひしと。いいな、羨ましい」

「もしかして、秋奈は母親と折り合い悪い?」

「そうでもないけど、お母さんは今病気で、前みたいにいっしょになにかをしたりとかは無理だから」

「……ああ。そんなことも言ってたね」

 星羅はわたしのお母さんについて尋ねるのではなく、母親と休日に駅前までショッピングに行った話をした。雑貨屋の店員に姉妹と勘違いされて、母親はそれを嬉しそうにしていたが、星羅は単なるお世辞だと思っていること。レストランで食べすぎたこと。帰りのバスに乗り遅れ、次の便が来るまでの暇つぶしに店を冷やかしていたら、その便も逃してしまったこと。

 自らの母のそそっかしさに、星羅は一貫してネガティブな評価を下していたが、心から嫌気が差しているふうではない。仲のよさがしっかりと伝わってきて、ついつい口元が緩んでしまう。

 赤信号に二人の足が止まる。ちょうど話題が一段落したところだったため、会話も止まった。朝の澄んだ静けさの中、心の隙を衝くように、一つの懸念が胸に忍び込んできた。

 それは、星羅の事件と彼女の母親との関係について。

 前回同じ問題について考えたときは、彼女の母親は事件のことを知らないのでは、と予想した。星羅の性格がその根拠だ。母親の話題を出したときの反応を見る限り、予想は当たっていたらしい。

 しかし、恒久的にそうであり続けるのかと問われると、首を縦には振れない。なんらかのきっかけ事件のことが耳に入る場合も、今後あるはずだ。具体的な状況を想像するのは難しいが、可能性としてはゼロではない。

 知ったとしたら、星羅の母親はどんな反応を見せるだろう?

 わたしが星羅の友人だと知る前の、わたしを見据える険しい表情を思えば、加害者に対して烈火のごとく怒りそうな気がする。わたしが星羅の友人だと知ったあとの笑顔を思えば、娘に感情移入して滂沱と涙を流しそうな気がする。

 どちらにせよ、休日にいっしょにショッピングに出かけるほど仲睦まじい娘が穢されたのだから、激しいショックを受けるのは間違いない。何事もなかったように今までどおりの日常が続く、とはいかないだろう。二人の関係は少なからずぎくしゃくするはずだ。

 あまりにも恐ろしい想像だった。

 なおのこと恐ろしいのは、その想像が現実になる可能性は決して低くない、ということだろう。

 ……なぜなのだろう。

 その未来を回避するためにも、屈しないためにも、絶対に星羅の記憶を取り出そう――という方向に気持ちが向かわないのは。

「ねえ、秋奈」

 信号が青に変わって歩き出した直後、星羅が沈黙を破った。そのタイミングでの発言は充分に予測していたので、星羅に目撃される寸前に、なんとか暗い表情を消し去ることができた――と思う。

「秋奈のお母さん、凄腕の記憶士だったって言っていたよね。だけど、病気だとも言っていた」

「そうだよ。どうしたの」

「それってつまり、お母さんの力は借りれない、ということだよね」

「うん。星羅のために無理をしてもらって、と言いたいところだけど、病気のせいで記憶士の力を使えなくなっちゃったから」

 沈黙が下りる。予想していた以上の重苦しさだ。わたしが努めて快活な声を発したのは、それに晒される時間が長引くのが嫌だったからに他ならない。

「わたし、頑張るから。記憶を取り出すの、絶対に成功させるから」

「……うん。期待している」

 星羅は短く答え、話頭を転じた。

 悔しいし、情けないが、それが全てだった。


 休み時間、ふと思い立ち、自分の教室がある階の一つ下――二階へ行ってみることにした。

 わたしたちの学校では、一学年につき一棟の校舎が割り当てられ、二階と三階にある部屋が教室として使用されている。わたしは別のクラスには友だちがいないので、登下校のさいにフロアの様子を一瞥するくらいで、足を運ぶことはまずない。だからこそ、行ってみた。

 結果はというと、大当たりだった。

 女子トイレから、ハンカチで手を拭きながら、金髪の女子生徒が出てきたのだ。あの派手なメイクに、他の女子とは一味違うオーラは、間違いない。

「ちょっと! ちょっと待って!」

 大声を飛ばすと、金髪の女子生徒の足が止まった。体ごとこちらを向き、わたしをじっと見つめる。なにをしに来たのかは分からないが、面倒くさいことになりそうだ、と思っている顔だ。ただ、わたしを無視して去ってしまうのではなく、その場で待ってくれている。駆け足で彼女のもとへ向かう。

「蜂須賀。なんの用?」

 金髪の女子生徒――一昨日、星羅からの伝言を教室まで持ってきてくれた子――は渋面を作って問うた。

「あっ、名前覚えてくれてたんだね。ありがとう」

「まあ、珍しい名字だからね。ていうか、その頬のガーゼはなに? そもそも、なんで二階まで来てるの?」

「このガーゼはね、転んで怪我をしちゃって。あなたに会いに来たのは、用があるから。多木さん――星羅のことなんだけど」

 眉間の皺が深くなる。メイクに気合いを入れなくても充分にかわいいに違いない顔が、台無しだ。

「わたし、星羅と仲よくなりたいと思ってるの。多木さんとあなたは、友だちみたいなものなんだよね? 星羅にまつわること、いろいろと教えてくれたら嬉しいな、なんて思ってるんだけど」

「ふーん。あいつと仲よく、か。奇特な人間もいるんだね」

 どこか勿体をつけるように、ハンカチを制服の胸ポケットに仕舞う。眉間から皺が消失していることに気がつき、わたしは内心胸を撫で下ろした。トイレの前というのはちょっとどうかと思うが、文句を言える立場ではないし、移動している時間もない。

「さっそく質問させて。まず、あなたの名前は?」

「篠田。訊くの遅すぎ」

「ごめんなさい。篠田さんは、星羅といつどこでどんなふうに出会ったの?」

「なんかインタビュー受けているみたいで、気持ち悪いなー。まあ、いいけど。多木とは中二のときにクラスが同じでね。なんか生意気そうなやつが一人いるなー、と思って、こっちから絡んだわけ。そうした場合、たいていの女子は恐れをなして卑屈な態度になるんだけど、多木は毅然としていて全然動じなかったんだ。だから一目置いたっていうか、興味が湧いたっていうか」

「しのりん、そんなことしたの? たしかに、ちょっと怖そうな人だとは思っていたけど」

「誰がしのりんだ。馴れ馴れしいな」

 そう言葉を返したものの、篠田さんは口調も顔つきも怒ってはいない。

「とにかく、あいつとの繋がりができたのはそこから。なにせ多木は不愛想で非社交的だから、休み時間になるたびに話に花を咲かせて、休日になるといっしょにどこかに遊びに行って、みたいなことはなかったけど、割と仲よくやっていたと思うよ。学校帰りに駅前まで行ったりとか」

 簡潔にではあったが、篠田さんは星羅と二人で遊んだときのエピソードをいくつか語ってくれた。星羅と友だち付き合いするようになってまだ間もないわたしにとって、どの情報も新鮮味があって、貴重だ。

 話を聞く中で分かったのは、中学二年生当時の二人の関係は、友だち同士と呼んでもなに一つおかしくないものだ、ということ。篠田さんは星羅を名字で呼び捨てにしているし、友だちだとは一言も言わない。星羅も、篠田さんから遊びに誘われ、暇だったときだけ行動を共にする、という対応をとっていたようだ。それでも、そう呼ぶのが最も相応しい、とわたしは思った。

 わたしは一つの可能性として、篠田さんが星羅になんらかの恨みを持っていて、交友関係のある男友だちに依頼して星羅を襲わせたのではないか、と疑っていた。でも、それは馬鹿げた誤りだったと、篠田さんの話を聞いて思い知らされた。

 恨みを持っているなんて、とんでもない。星羅が男たちから酷い目に遭わされたと知ったら、篠田さんは歪んだ喜びに笑うのではなく、激怒しながら涙する人だ。

 もちろん、教えるつもりはない。その事実は、妄りに他人に教えていいものではない。星羅の身になにが起こったのかを知らないまま、星羅との思い出話を、時折微笑みをこぼしながら語っているのだと思うと、心が痛かった。

「――とまあ、そんな感じで付き合っていたわけ。三年生になって、クラスが変わった途端に交流は途切れたけどね。街中を歩いていたらばったり会って、いっしょに遊んだことが二・三回あるだけで」

「ありがとう、篠田さん。星羅のいろいろなことを知れて、楽しかったし参考になった。もうすぐ授業が始まるし、教室に戻るね」

「人に話をさせておいて、謝礼もなにもなしなんだ。あんた、見かけによらず図々しいんだね」

「だって篠田さん、星羅との思い出を凄く楽しそうに話してた。だから、そういうのは不要かなって」

 篠田さんは虚を衝かれたような顔つきになった。頬が徐々に赤味に浸食されていく。それを見られるのを嫌がるようにわたしに背中を向け、

「払う気ないなら、別にいいよ。あんたじゃなくて多木に請求するから。じゃあね!」

 後ろ姿が教室に消えるのを見届けて、来た道を引き返す。

 暴行事件の加害者は、星羅とは全く無関係の人物。それはつまり、自力で犯人に肉薄し、自らが犯した罪を償わせるのは限りなく難しい、ということを意味する。

 はっきり言って、悔しいし、腹が立つ。

 でも、だからこそ、星羅のために尽くそう、という思いは強まった。

 篠田さんが休み時間のうちに話を終わらせてくれたのは、幸いだった。今日も星羅といっしょにお昼を食べる予定だから、延長戦なんてことになっていたら、星羅と仲を深める貴重な時間が減ってしまっていた。

 そうやって、物事を少しでもポジティブに捉えながら、一歩一歩前に進んでいくしかない。


 お母さんの入浴の日は決まっていない。あらかじめこの日はすると決めておいて、当日の朝食のさいに「今日はお風呂の日だね」と声をかけると、拒絶反応を示し、その日一日活動を停滞させた、ということが過去に何度かあった。以来、二日に一回、あるいは体臭を強く感じるときに、入浴を希望するか否かを尋ねて、希望すれば準備し、望まないならばその話はなかったことにする、という対応をとっている。

 今夜のお母さんの返事は「入りたい」だった。

 今日は介助の必要もない日だったので、久しぶりに二人いっしょに夕食をとる。お母さんが「早めに入りたい」と希望したのと、夏也の入浴時間の都合を考慮して、食事が終わるころに合わせて湯が張り終わるようにした。

 夏也が習慣を曲げるつもりはないと分かった瞬間、体が震えるほどの憤りが湧いた。しかし、兄の身勝手な振る舞いにはもう慣れた。行動パターンが読めないお母さんに振り回されるのに慣れたのと同じで。

 いっしょにバスルームに入ると、まずはかけ湯をする。風呂桶に湯を汲んで体にかける役割を担うのは、もっぱらわたしだ。体にはなにもまとわない。今の暮らしが始まったころのお母さんは、娘の前で肌を見せるのを嫌がっていたが、いつの間にかあけすけになっていた。

 わたしは未だに恥ずかしさを感じるが、お母さんのためだと思って我慢している。初めは入浴時間になると憂うつになるくらい嫌だったが、慣れは恐ろしい。今となっては、まじまじと見つめられない限りは、頬を赤らめて狼狽することもなくなった。

 お母さんはいつも、いっしょに湯船に浸かるように娘に勧める。わたしを介助者ではなく、母親に甘えて混浴をしたがっていると認識するためらしい。要求は拒まない。バスタブから出入りするときが一番危険なので、まず入るべき人を湯の中に導いてから、自らも入る。入ってしまえば大人しいので、わたしも息をつける。わたしたち親子はいつも、向かい合って湯に浸かる。

「今日はお風呂の時間が早かったわね」

 お母さんはリラックスした表情で呟く。食後すぐに入浴となった経緯はちゃんと話したのだが、早くも忘却してしまっているのだ。

「お兄ちゃんが入浴時間をずらしたくないって言うから、この時間になったの。ちょっとくらい融通きかせてくれてもいいのにね」

「親が子どもに譲るのは当たり前だから。親のために子どもが無理をするよりも、よっぽどいいわ」

 夏也のわがままは微塵も気に留めていない、という口振りだ。昨夜、夏也に不愉快な目に遭わされているわたしとしては、面白くない。

「ねえお母さん。お母さんはお兄ちゃんのやり方に不満とか、ない?」

 だから、常日頃から抱いていた疑問をぶつけてみる。

「不満? どういうこと?」

「土日以外のお昼にお母さんにお昼ごはんを持ってくるの、お兄ちゃんの係でしょ。平日はわたしが学校だから。でもお兄ちゃん、それすらも面倒くさがって、仕事が雑になってると思うんだ。最低限のことはやっているみたいだけど、でも、できればここをこうしてほしいなっていうところ、たくさんあるんじゃない? だったら、この場で言って。お風呂から上がったら、お兄ちゃんの部屋まで行って注意してくるから」

 お母さんは娘から視線を逸らし、考え込んでいる。わたしは黙って返答を待つ。

 ……が、長い。なかなか言葉が出てこない。何事かについて考えているのはたしかからしいが、時間がかかりすぎている。だんだん心配になってくる。

 声をかけようとした矢先、眼差しがわたしへと注がれた。珍しく、眉尻が斜め上を向いている。悪さをした園児や児童に対して、先生が「私は怒っていますよ」と意思を表明してみせるような、緊張感には欠けるがメッセージはひしひしと伝わってくる、そんな顔つきだ。

「秋奈、お兄ちゃんのことを悪く言っちゃ駄目よ。たった二人のきょうだいなんだから、どんなときでも仲よくしないと」

「え……。別に、そんなつもりは……」

「そんなつもりはないのかもしれないけど、それでも仲よくしなきゃ駄目。お母さん、こんなことになっちゃたから、夏也と秋奈が喧嘩をしたら、止めようと思っても止められないの。だから、できるだけ仲よく、仲よく。……ね?」

 表情を大幅に和らげての言葉に、わたしは黙って頷く。お母さんは白い歯をこぼした。それに続いて、鼻歌を歌いながら、湯面を手で軽く何回か弾くという、分かりやすい上機嫌のサイン。

 お母さんはいつもこうだ。

 わたしが夏也に批判的な言動を見せると、いつもわたしをたしなめて、夏也の肩を持つ。あからさまに贔屓したりはしないが、結論はいつもそこに逢着する。

「きょうだい仲よく」というのは、そのさいの決まり文句のようなもの。夏也の悪行を具体的に報告したとしても、客観的に見て夏也に非があるのだとしても、「夏也が悪いのはたしかだが、それを理由にきょうだい喧嘩をしてはいけない」と、逆にわたしを注意する。一方で、息子を厳しく叱りつけることはない。

 腹の底で、黒い感情が渦を描いている。

 その渦は、勢力を爆発的に増大させるポテンシャルを秘めているわけではない。回転速度もじれったいくらい低速だし、回れば回るほど薄れていきそうな淡い黒色から、暗夜を思わせるおどろおどろしさは感じられない。

 しかし、折に触れてそれを直視してきたわたしは、それを脅威に非ずと認定することはできない。精巧な被膜を身にまとっているだけで、宿主が油断した隙を衝いて、必ずや牙を剥く。そう思えてならない。

 ある意味、わたしはその瞬間を待望しているのかもしれない。ふとした拍子に、気の迷いかなにかのようにそう思うこともある。

 倒れてからのお母さんは、温和で穏やかな、対立を好まない性格になった。夏也のことを言いつけるときはどうしても言葉づかいが攻撃的になるから、それを快く思わないというのは、まあ理解できる。陰で夏也に脅されて、娘ではなく息子を優遇するように強制されているわけでもない、というのもたしか。

 では、なぜ、きょうだいを平等に見るのではなく、夏也を優遇するのか。不条理だとか、腹立たしいとかではなく、首を傾げてしまう。

 倒れる前のお母さんは、夏也に厳しい修行を課していた。それだけ夏也の才能に期待していた。その思いは倒れたあとも不変、ということなのだろうが――。

「お母さん、のぼせるから出よう。体、洗わないと」

 まずわたしが出て、お母さんが湯船から出るのを助ける。風呂椅子に座らせ、石鹸をたっぷりと含ませて泡立てたタオルで裸体をこする。お母さんの方から「体を洗ってあげようか」と提案することもあるが、手にあまり力がこもらず、悪戯にくすぐったいだけなので、苦手だ。今日はなにも言わなかったので、介護者としての役割に徹する。

 ベッドの上で大半の時間を過ごす生活を送るようになってから、お母さんはかなり痩せた。着衣していてもその細さは一目瞭然だが、脱衣するとその特徴が一層強調される。肋骨はくっきりと浮き出ているし、四肢は折れそうなほど細い。乳房はしぼんではいないが、張りが失われていて瑞々しさが感じられず、貧弱な体つきとの対比で酷く重たげだ。

 記憶士として活動していたころのお母さんは、若々しくて精力に満ち溢れていた。肉体を鍛えるための特別なトレーニングは積んでいなかったが、引き締まった体つきをしていた。同性のわたしから見ても魅惑的な肢体の持ち主だった。授業参観のさいに教室に姿を見せる、年齢よりも若く見える美しいお母さんを、わたしは密かに誇りに思っていた。逆上がりができない娘に手本を示すべく、いとも容易く体を一回転させてみせた姿は、今も色褪せずに記憶に残っている。

 当時を思うと、現在のお母さんの裸体は、憐憫と哀愁を催す装置でしかない。

 もう、あのころのお母さんではないのだ。そう実感を強いられるいくつかのシチュエーションの中で、裸を見たときほど胸が切なくなるものはない。

 食べ物をシーツにこぼしても、支離滅裂なことを口走っても、今日は体調が悪いのだ、朝が早いから寝ぼけているのだ、といった、なんらかの言い訳が用意できる。しかし、肉体の場合はそれができない。痩せ細ったその体は、真実そのものだ。

 お母さんは放心したような顔つきで、うっすらと曇った鏡に映る自分と見つめ合っている。鏡越しに目が合うのを恐れるかのように、わたしは俯く。わたしを生み、育ててくれた人の体を黙々と洗う。

 お母さんの前でお兄ちゃんのことを悪く言うのは控えるようにしよう、とわたしは心に決める。

 お母さんは別に、贔屓と呼ぶほどあからさまに差をつけて兄妹を扱っているわけではない。息子も娘も、どちらも愛していて、甲乙をつけるとなった場合に、僅かながらも夏也が上回る。ただそれだけの話なのだから。

 自分が今のような身の上になっても、子どもたちに対する優しさを、思いやりを、慈悲深さを失わずに、温かな光で照らしてくれる。それだけで充分だ。

 黒い渦はいつしか回転を停止している。わたしたちが入浴を終えるころには跡形もなく消滅しているだろう。

 わたしが不満をぶつけるべき相手は、お母さんではない。

 わたしとお兄ちゃんは、いつか絶対に話し合う必要がある。


『秋奈、最近付き合い悪くない?』

 そんな一文から始まるメッセージに、わたしに影響を及ぼす時間の流れは一瞬停止した。長めの入浴でリラックスしたあとだっただけに、自分だけが安楽としているのを咎められたような気持ちにもなった。

 それに続く文章には、茉麻らしい肩肘を張らない調子で、今週末は四人でどこかに遊びに行こう、と綴られていた。気心の知れた相手だからこそ通用する省略がいくつか使用され、スタンプによってメッセージが補強されているため、総文字数は驚くほど少ない。

 結乃と詩織からはすでにレスポンスがあり、二人とも茉麻の提案に賛意を示している。メッセージがグループのメンバーに共有された当時、入浴中だったわたしだけがまだ意思を示していない。

 わたしが星羅と共に過ごし、不在だった昼休みに、詩織がここ二日間の二人の急接近について指摘した。それに対して茉麻や結乃が、親密ぶりをからかうような言葉を口にした。夜になって茉麻が、当時のやりとりを思い出し、冗談めかしたメッセージをわたしに送った。そんなところだろう。

 三人がわたしの姿勢に心から不満を抱いているわけではないのは、文面から伝わってくる。従って不快感は微塵もないが、困ったことになったな、という思いは滲んだ。星羅、お母さん、夏也、その上に茉麻たちまでだなんて。疎かにしていい人間は一人もいないだけに、余計に困ってしまう。

 指摘に対する直接の言及は避け、「遊びに行けるなら遊びに行きたいけど、土日は予定がどうなるか分からない」とレスポンスした。そのあとで、こんなメッセージを星羅に送ってみる。

『星羅もわたしたちのグループに混ざらない? わたしと一対一じゃなくて、みんなと仲よくするの。人数が多いと楽しいよー』

 たっぷりと間を置いてから届いた返信は、こんな内容だった。

『悪い子たちじゃないのは分かるけど、あたしが仲よくなりたいのは秋奈だけだから』

 こちらの都合に合わせてほしいという下心を見透かされた気がして、頬が微熱を帯びた。初めからこうしておくべきだったと反省しながら、茉麻から「付き合いが悪い」と指摘されたことを報告する。

『ふーん。友だちが多いっていうのも大変なんだな。でも、秋奈は記憶士ってことを友人一同は知っているわけだから、あたしから依頼されている最中だからって説明すれば、それで済む話じゃない? あ、でも、依頼内容のことを話したりするなよ』

『分かってる。守秘義務は仕事の基本だから。三人は当然、わたしが星羅から依頼を受けていることは気づいているだろうね。でも、三人とはもともと仲よしで、今星羅と二人三脚でやっている工程は省略したの。だから、星羅と仲よくなる必要性を理解していないんだと思う。茉麻もみんなも、本気で付き合いが悪いって思っているわけではなさそうだから、とりあえず今のところは様子見かな。機会を見つけて、一回ちゃんと説明しようとは思ってる』


 時刻は夜の十二時が近い。

 闇の中を歩いて蔵まで行き、戸を開く。立てつけが悪いので、不可抗力的に一定以上の大きさの音が発生する。夏也の部屋の明かりはまだ灯っていたから、わたしの行動を把握したかもしれない。わざわざ乗り込んできて怒鳴ることはないだろう。ただ、明朝に顔を合わせた場合、嫌味を言われる可能性がこれで生まれた。

 でも、そんな些事はどうでもいい。瞑想のためにこの場所を訪れるときのわたしは、心が大きくなっている。不安や悲しみを抱いている日でも、それは例外ではない。

 壁を手探りして電気を点ける。埃のような黴のような独特の臭い。千年前から滞っているような無機質で冷たい空気。明かりなしでも茣蓙のもとに辿り着けるくらい、訪れることにも慣れたこの場所も、ひとたび足を踏み入れれば身も心も引き締まる。その瞬間は、我ながら誇らしくもある。

 茣蓙を敷く間、大きな木箱に頻繁に目が向いた。その中には、記憶を封じ込めるための特殊な小箱が収納されている。星羅の記憶を取り出すさいには当然、世話になる代物だ。

 もう何か月の間、木箱を開けていないのだろう。あの小さな箱を再び手にするときが、本当に訪れるのだろうか。そういえば、もう随分と長い間、義行さんに会っていない。

 茣蓙の中央で胡坐をかく。外界に由来する情報が遠のいていく速度が、いつもよりもいくらか速い。心が、考えることに没入したがっているのだ。

 深呼吸をくり返し、集中力を次第に高めていく。やがて思案の火蓋が切って落とされる。音もなく、唐突に。

 積み重ねが糧になるのだという認識、それすらも放擲して、意識の流れに身を委ねる。


 お母さんは取り出した記憶を手早く小箱にしまうと、直ちに立ち上がって所定の棚へ向かった。人体から離れた記憶が、完全に消滅するまでにかかるとされる七日の間、一時的に保管しておくためだ。

 空間の一隅、紺色の座布団の上に座ったわたしは、半分口を開けた顔で、患者の中年女性を凝視する。

 女性は魂を抜かれたように茣蓙の上に正座している。目は虚ろで、今にも前のめりに倒れそうに見えるのに、姿勢正しく座ったまま微動だにしない。

 もしかして、本当に魂を抜かれてしまったのだろうか?

 まさかとは思いながらも、なおも真剣に見つめていると、お母さんの話し声が聞こえてきた。振り向くと、棚にもたれて携帯電話で話をしている。「義行くん」という人名が頻繁に出てくる。竹末家の人間に小箱の処理の件を頼んだついでに、世間話をしているらしい。砕けているながらも最低限ていねいな言葉づかいから察するに、話し相手は義行さんの父親か母親だったのだろう。内容は定かではないが、お母さんはリラックスした表情を見せている。

 女の人、放っておいて大丈夫なのだろうか? わたしはそれが心配でたまらない。

 お母さんに声をかけるべきか。言いつけに従って、全てが終わるまで黙って待っているべきか。

 葛藤に決着がつくよりも先に、お母さんが携帯電話をポケットに仕舞って戻ってきた。患者の女性が何回か瞬きをした。お母さんが茣蓙の上に跪いて声をかけると、女性は少し表情を緩めて言葉を返した。

 お母さんは、女の人が意識を取り戻すタイミングを知っていて、その時が来たから声をかけたのだ!

 わたしの体は感動に打ち震えた。

 あのころのわたしはピュアだった。もはやピュアではなくなってしまったわたしが、嘲笑ではなく微笑を催してしまうくらいにピュアだった。

 携帯電話で通話する傍ら、女性の様子に絶えず注意を払っていて、我に返る兆候が見られたから歩み寄った、というのが実のところだったのだろう。しかし、小学生のわたしには、お母さんが特殊な力を使ったとしか思えなかった。才能、経験、技術。それらの要素が一つでも欠ければ実用化は不可能な、世界で蜂須賀冬子一人だけが行使可能な、なんらかの超常的な力を。

「お客さんを駅まで送り届けてくるから、おやつ先に食べといて。エクレア、人数分しかないから二個食べちゃ駄目よ」

 お母さんは玄関先でわたしにそう告げ、女性の肩を抱いて歩き出した。

 女性はひっきりなしに洟をすすり上げながら、うわ言のように感謝の言葉をくり返している。施術直前まで記憶士の力を疑ってお母さんに食ってかかったり、わたしが同席することに難色を示したりと、蜂須賀親子に対して攻撃的な言動を見せてきた過去と比較すると、まるで別人だ。

 一方のお母さんは、どこか子どもっぽい、それでいて鷹揚な微笑を見せながら、盛んに相槌を打っている。お母さんは女性よりも一回りほど若いが、まるで我が子を慰める母親のようだ。

 キッチンへ行って冷蔵庫からエクレアを取り出すのではなく、開け放たれた玄関ドアに寄り添うように佇み、二人の背中を目で追う。やがて姿が見えなくなっても、その場に佇み続けた。

 視界から消えてしまったお母さんに代わって、脳内に彼女の姿を蘇らせる。女性の告白を傾聴する真剣な横顔。殆ど一瞬で記憶を取り出してみせた鮮やかな手際。女性の肩にさり気なく回された手の優しさ。その全てが、わたしには眩しかった。

 お母さんは、凄い。まるで神様みたいだ。わたしもお母さんみたいになりたい!

 当時のわたしは、心からそう願っていた。

 一年も経たない未来に、お母さんの身に、記憶士からの実質的な引退を余儀なくされる悲劇が降りかかるなどとは、夢にも思わずに。

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