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魔法使いと絆の旅のお話

作者: トリノ


〈朝日〉

 目覚めたからには、見ていた夢が終わったことを自覚しなければならない。それはまるで現実を突きつけられるようで辛いこともある。

 でも眠りから覚めて辛いと感じてしまったとしても、いつも見ている窓の向こうの世界が朝日に照らされて普段より輝いて見えたなら?

 きっと「今日は一日大当たりの日だ」と思えるはず。そう、彼は考えている。


: : : :


 今朝の彼の目覚めは決して良いものではなかった。

 昨夜閉め損ねてできたカーテンの隙間から射し込む一筋の強い光がちょうど顔に当たっての目覚めだったのだ。無理矢理起こされた上に見ていた夢も忘れてしまった。楽しい夢だったか悪夢だったかさえ思い出せない。

 もやもやした気持ちでベッドから上体を起こす。二度寝をして同じ夢を見ようとするのは幼少期にいくら試してもできなかったためそういった発想は捨てている(まだまだ若い彼は、ときどきまた試してみたりもするけれど)。

 ぐぐっと体を伸ばすと欠伸が一つ口から漏れた。

 目覚めた場所はいつも通りの自分の部屋。白い壁紙に木製の机や椅子などの家具。いわゆる屋根裏部屋というもので、家の屋根と形が同じ高い天井からは丸い布シェードのついた照明が吊り下げられている。

 照明は消してあり、もう寒い季節だが暖かく居心地が良い状態に保たれている。


 彼は布団から出るとカーテンを開けるより先に窓の横にある大きめの鉢植えに水をやりに行った。

 毎日の日課なので半分眠っていたとしても問題なくできる。自分用の食器しか入っていない食器棚から空のコップを取り、水を出したらコップの中の水を鉢植えの土にかける。実に簡単だ。

 彼は再び空になったコップをテーブルの上に置き窓に向き直った。窓は東の壁にある。つまり開けると部屋は一気に明るくなるのだが、彼はカーテンを掴むと特に何も考えずそれをさっと開け放った。まだそんなことをすればどうなるか考えられるほど頭が起きていなかったのだ。

 当然、眩い朝日が部屋の中へ駆け込んでくる。彼の視界は一瞬真っ白になり、寝ぼけた頭は叩き起こされた。

 ぱちぱちと瞬きをして目を慣らしてから窓を見て、彼は「お、結露」と呟いた。確かにキラキラと光る結露が本来透明な窓について外の景色を隠している。その輝きは彼をわくわくさせた。

 サプライズプレゼントを自分に与えようとしているかのように、彼は自分の目を閉じた。そしてそのまま外開きの窓を開け放つ。

 冷たい空気が流れ込む。彼は自分の肩に届く長さの髪がわずかに風になびくのを感じた。

 期待が裏切られやしないだろうか、と少し考える。もし目を開けた時に見えた景色が特別輝いてるわけではなかったら?

 彼はドキドキしながらゆっくりと目を開けた。

「……わぁっ!」

 二階の高さからの街の景色。空は晴れて空気は澄み、早起きな小鳥はすっかり油断して人家の窓辺でお喋り。そこかしこに光が満ちた街は清々しい朝を迎えて目覚めを喜んでいるかのようだ。

 期待は裏切られなかった。それだけで、今日という日がうまくいく気がした。


 彼は外の景色に満足して身支度を始めた。

 まずは寝癖がついていないか鏡で確認する。幸い、彼の特徴の一つである明るめの赤毛(染めていない。地毛である)にはひどい寝癖はついていなかった。前髪をちょちょいと手櫛で整えて、他は後頭部の低い位置で小さく白い羽の飾りが付いたゴムを使って一つに纏める。

 次は服だ。あまりたくさんは入っていない衣装箪笥からシャツとズボンと羊毛フェルトの茶色のベストを取り出し、さっさと寝巻きを脱いで手早く着替える。

 その様子はまるで遅刻寸前の学生のようで、傍目にはかなり焦っているように映る。

 しかし時間に余裕が無いわけではない。今はまだ太陽が昇ってきたばかりの早朝。

 彼が自分の店を開けて仕事を始めるまでに二時間ほど余裕があるのにもかかわらずこれほど急いでいるのには別の理由があった。

 その別の理由というのは、同居人が起きてきたときに下着姿だと気まずいからである。

 彼が着替え終わったちょうどそのとき「おはよー」と彼より高い女性の声が言った。

「あっ、おはよう! よかった、着替え間に合って」

 彼は服の裾を直しつつ彼女に向き直る。

 はにかんだ笑顔からちょっと目を背け、彼女はさらりと言った。

「間に合ってなかったわよ」

 彼の方は着替えに気を取られていたので見られていることに気がつかなかったが、実際、彼女は見ていたのだ。放たれた言葉に恥ずかしくなって彼の頬はさらに赤くなる。

「えっ、恥ずかしい」

「何を今更恥ずかしがっているの。あなたは人で私は『小人』。大きさ違いすぎでしょ」

 彼女はその小さな顔の中の大きな目をくるりと回してみせた。イタズラ好きの仔猫のようなその仕草には小さなもの特有の可愛さがある。

「確かにそうだけど……でもコットン、そっちだって自分が着替えてる時は見ないように命じるくせに」

「それは当然。ルイユは男だけど私は女だもん」

 悪びれもせずそう言って彼の小さな同居人はくあっと欠伸をした。

 彼女はルイユと呼ばれた赤毛の青年の屋根裏ワンルームにある本棚の中で生活している小人。本棚は本来の用途では使われておらず、それだけでコットンの小さな一軒家のような役割を果たしていた。小人サイズのベッドが置かれた一番上は寝室でその下は彼女自慢の衣装部屋だ。

 コットンはルイユがてきぱきと水やりに使ったコップを片付けたり朝食を用意したりしている間はベッドの上でうとうとしていたが、しばらくすると本棚の下の段へ行くためにベッドから古い木の板の上に足を下ろした。細く綺麗な足は靴下を履いていない。

「あら、つめたい」

「ウソだぁ。部屋はあっためておいたんだよ? そこだけつめたいなんて……あれ?」

 ルイユは本棚を触ってみて首を傾げた。

「ね、つめたいでしょう。足が冷えちゃうわ。歩いて下の段まで移動するのが億劫だから、運んで!」

 本棚の一番上から下の段へは板に開けた穴に架けられた梯子を下りればすぐに到着だ。

 しかしコットンは足を引っ込めてベッドの上で体を布団の中に包んでしまった。ふかふかで暖かい布団に包まれてコットンは幸せなため息をつく。

「ほら早くぅ」

「しょうがないなぁ」

 ルイユは思わず表情筋が緩むのを感じた。

 彼は自分がこの小人の可愛さに弱いことは自覚している。それから、実はちゃんとコットンが自分を気にかけてくれていることにも気がついているので、いくらツンツンした態度をとられたりワガママを言われたりしても嫌いになんてなれない。

 ルイユは彼女のお望み通りに彼女を布団ごと持ち上げて下の段へ移動させた。もちろん、華奢な小人が痛い思いをしたりしないように両手でそっと、細心の注意を払って。

 ルイユに買ってもらった服がたくさんある下段に到着したコットンは布団から出て立ち上がり、ぐぐっと伸びをした。

「ありがと。じゃあ私は着替えるから、ルイユはこっち見ないで」

「……うん」

 好きな人からの「こっち見ないで」は心に突き刺さるものだ。だからルイユは思わず愛想のない返事をしてしまった。

「文句あんの?」

 コットンの大きなカーキ色の目がすっと細められる。

「いいえ、何も」と言い、ルイユはコットンに背を向けた。

 怒っているわけではなく従順に言われた通りにしただけなのだが、コットンにはルイユの気分を損ねてしまったように思われたらしかった。

「そう? な、なら良いのよ」

 少し焦った声に、ルイユは優しく微笑んで返事をした(最も、言いつけ通り背を向けたままなので彼女に顔は見えないのだが)。

「大丈夫、怒ってないよ。僕は店の方に行って開店準備をしてるから、そっちも準備できたら呼んでね。一緒に朝ごはん食べよう」

「も、もちろん! 今日のスープの具はなあに?」

「今日はいろんなお豆が入ったトマトのスープだよ! 君のお気に入りでしょ」

「ええ、そうよ」

 コットンの頬が緩む。ルイユは見るなと言われているのでその顔は見れなかったが、幸せそうな声を聞き嬉しくなった。

 壁のフックに掛けたエプロンを手に取り、ルイユは階下へ降りていった。


 彼が手に取ったエプロンは彼が営む雑貨とお菓子のお店「綿雲」の店員である証。

 薄めの革でできているエプロンには店の名前が刺繍されており、毎日使ううちにこの店の制服のようになっていったものだ。コットンも自分で手作りしたお揃いの生地のエプロンを持っている。

 ルイユは階段の最後の一段を降りると静かに店内を見渡した。

 店は決して広くない。それでも彼の自慢の店だ。きちんと掃除されてどこもきれいで、商品である雑貨はどれも不思議な魅力がたっぷり。

 よく手入れされて所狭しと並べられたピンからキリまで様々の雑貨たちは西向きの窓からの少ない光の中で静かに出番を待っているかのように見えた。

 でも、お客様が来店した時に薄暗いようでは取り扱っている雑貨の不思議な雰囲気が増強されても細部が見えにくくていけない。

 ルイユはぱちんと指を鳴らした。それだけで商品以外には使える状態の照明器具がない店内がほんわりと明るくなる。

 ルイユが魔法を使って穏やかに光る小さな球を生み出したのだ。

 彼はちょっと首を傾げて自分が作ったプチトマトサイズの光球を見、指先でその形を丸い羽をもつ小さな蝶の形に整えるとそれを手でそっと押し上げて天井近くに浮かべた。

 蝶は光の尾を引きながらゆっくりゆっくりと羽ばたいて回線の不具合で使えない照明のガラスのランプシェードの上にとまった。ガラス越しの光の揺らぎは弱々しく、とても寂しそうに見える。

 なのでルイユは四、五匹ほど追加で光の蝶を生み出した。

「これでよし。さ、飛んでごらん」

 一匹目と同じように新たな仲間も空中へ送り出す。

 光の蝶は思い思いに飛んでお気に入りの休憩場所を見つけにいった(もっとも、魔法の光に好みがあるのかはわからないが)。一匹だけの時よりも元気そうに飛ぶ蝶たちを見てルイユは目を細め、次の作業に移る。

 レジカウンターの店員側に置いてある脚の長い丸椅子に座り、店の外に出す看板の黒板部分を取り外して白いチョークで〈今日のお菓子はりんごのタルトとジャムクッキー〉と書く。

 文字だけだと味気ないのでりんごの絵を描き足していると、二階からコットンが「ルイユ、準備できたわよ〜」と呼ぶ声が聞こえてきた。明るく返事をして黒板をカウンターに置くと、ルイユは二階へと上がっていく。


 すてきな雑貨とおいしいお菓子のお店、綿雲。

 赤毛の魔法使いと小人が営む小さな店だ。






〈旅のはじまり〉

 ルイユの店に本日最初のお客様が来たのはお昼ごろ、街の時計塔が十二の鐘を鳴らす少し前のことだった。

 お客様が来るまで、コットンは二階と店を繋ぐ階段の下の方で本棚の奥から引っ張り出してきたルイユのアルバムの写真を見ながら鼻歌を歌い、ルイユはもうどこにも埃なんて無いのに小さな箒を手に持って掃除をしていた。要するに二人ともヒマだったのだ。

 だからドアに取り付けたベルがカラコロと音を立てた時は、二人ともぱっとドアの方へ顔を向けて「いらっしゃいませ」と挨拶をしようとした。

 しかし、やって来た人物の姿を見て二人は絶句してしまった。


 その人物は確かにこの店にとってはお客様なのだ。見るからにならず者だったとかこの店に来ようはずもない有名人だったとか、二人がそういった理由で言葉を失ってしまったわけではない。

 ただ、その人の見た目に心底驚いたことは正しい。

 明るい色の赤毛に焦げ茶色の目。

 コットンはアルバムの写真に映る子供時代のルイユと初めて会うお客様の姿をとを見比べてぽつりと呟いた。

「ルイユ、弟がいたの?」

 ルイユは「いないよ。でも、ちっちゃい頃の僕にそっくりだね」と返事をした。お客様に聞こえたら失礼なので、コットンにだけ聞こえるように魔法で細工をして。

 二人がつい挨拶を忘れてこのような会話をしてしまうほどにお客様は子供の頃のルイユにそっくりだった。十歳のルイユの横に立たせたならまるで一卵性の双子のように見えただろう。

 彼は春先に着るような薄手の服を着ていたがまったく凍えているようには見えなかった。

 少年の息は上がりまだ幼さの残る顔はわずかに紅潮していたが、警戒しているような鋭い光の宿る目はそれらが寒さからではなく怒りや興奮といった感情からくるものだと示していた。

 ルイユは少し緊張しながらも、まずはいつもと同じように「いらっしゃいませ」と声をかける。

「雑貨屋『綿雲』にようこそ。あの、どうしました?」

「赤毛の青年……お前が店主か」と少年はルイユをにらみつけて言い放つ。ルイユは随分と喧嘩腰の返答に驚いたが、確かに自分がこの店の店主なのでとりあえず頷いておいた。

 するとお客様は表情を一層険しくして今にも喰らいつきそうなほどルイユに詰め寄ってきた。

「やっと見つけた! 俺の呪いを解けこの野朗!」

「の、呪い!? 僕は解術師じゃない……」

「るせー! 魔法使いなら自分がかけた魔法だの呪いだのは簡単に解けんだろーが!」

「えええっ、僕はそんなことしてない! 初対面だよね!?」

 少年のルイユの姿をしたお客様はルイユのエプロンを掴んでぐいぐいと引っ張った。小さな体に似合わない強い力で揺さぶられてルイユは堪えきれず床に片膝をついた。

「ルイユ、この子に何したの?」

 低い姿勢では階段の上にいる小人の姿は見えなかったが、その声からは彼女がドン引きしていることがよくわかった。

「何もしてないよ! 初対面だよこの子」

「オメー俺が誰かわかんねーのかよ! 俺はお前が成長してでかくなってても同じ奴だなってすぐわかったのに!」

 ルイユの顔の間近で少年の怒りに呼応するようにオレンジ色の火の粉が舞った。

 ルイユの顔がさっと青くなる。人が使う魔法の赤い炎とは異なる特徴的な色の炎は見覚えのあるものだった。

 七年前、まだ十歳だったルイユが見たものは猛々しい火竜の大きな顎が自分に向かって開かれる恐ろしい光景。そして思い出されるのは肩に噛みつかれたときの激痛。自分で火竜に呪いをかけて難を凌いだのは無意識に行ったことだったが、後から人に聞いて知っていた。

 ルイユは視界がぐらりと揺らぐのを感じた。恐怖で体が震え、息が荒くなる。

「その炎の色……火竜の……!」

「やーっとわかったか! 俺は七年前にお前に呪われた火竜だ忘れたとは言わせねーぞコンチクショー!」

 そう叫んで、人の子に姿を変えられた火竜は口の端から火の粉を振り撒きながらルイユに殴りかかった。コットンが驚いて悲鳴をあげる。

 ルイユは後ろへ飛び退ると、魔法を使って体を浮かび上がらせて子供の姿の火竜の動きを封じた。

「あっ、何すんだテメー! 降ろせ!」

「また……また噛み付かれたら今度こそ死ぬ」

「もう七年前に懲りたって! かっとなって悪かったよ、噛み付かねーから降ろせ!」

「……本当に?」

「竜の炎に誓って!」

 その言葉を聞き、ルイユは怯えつつも火竜を床に降ろした。

 竜の炎への誓いは王に仕える騎士の忠誠と同じくらい絶対であるというのは有名な話で、その言葉を信用してやらなければこの短気な火竜はまた暴れ出しかねないと思ったからだ。過去の自分と同じ容姿をしていることも恐怖を和らげる一因になっているのだろうが、ルイユは一度自分を襲った火竜に対し警戒を緩めなかった。

「そ、その誓い、もし破ったら今度は呪いで姿を変えるんじゃなくてお前の皮を剥ぐからな」

「俺は呪いを解いてほしいだけなのにぃ……」

 火竜はすっかり大人しくなってしまった。

 目に涙を溜めてプルプルと震える姿は十歳の少年の見た目をしているだけに、同情を誘うには十分弱々しく見えた。

 それにコットンは、心身ともに傷ついてこの店にやって来たばかりの十歳のルイユの世話をしていた。たとえ中身がルイユを傷つけた火竜でも見た目が弱りきったルイユ少年ではどうしても助けてあげたくなってしまう。

「ルイユ、あなたが昔火竜に何されたかは知ってるけど、もう少し優しくしてあげてもいいんじゃない?」

「そっ、そうだぞ……俺はなぁ、この七年間ずっと自分を呪ったヤツとおんなじ姿で過ごしてきたんだぞ……」

(僕は死にかけたんだけど。それに火竜は人の約十倍長く生きるから、彼にとっての七年は僕たちにとっての一年にも満たないはず……)

「ルイユ? ほら、話聞いてあげなさい」

 コットンにこう言われてはルイユは逆らえない。

 彼はしぶしぶ、話を聞くためにお客様を店内の椅子に座らせたのだった。

 荒っぽく執念深いのが普通だと言われている種族だがその評判とはだいぶ違う性格で、今は自分を襲う意思のないこの火竜に対する恐怖心が少し弱まっているのを、自分でも不思議に思いながら。


: : : :


 ルイユは丸椅子に座り火竜の話を聞いていた。

 火竜曰く、ルイユを訪ねてこの店にやって来たのは呪いを解いてもらうことが目的であり決して復讐をするつもりはないということ。また、当時十歳だったルイユに噛み付いて怪我をさせたことも大変反省しており、竜の姿に戻ってももう二度とルイユはもちろん他の人間にも噛み付いたりしないと約束するということ。

 ルイユは話を聞く中でこの火竜がいつも考えなしに行動するバカであると見抜き、また呪われた状態の火竜はビクビクと怯えるほどの脅威ではないとわかっていた。約束は魔法できちんと守らせることができるので竜の姿に戻ってもこの火竜が再び自分に危害を加えることはない。だが、ルイユは呪いを解くことに積極的ではなかった。

 火竜の方では「怪我」と言ったが、噛み付かれた肩口の傷からの出血は酷かった。ルイユが魔法の使えない普通の人間であったなら確実に命を落とすほどの「致命傷」であった。気が狂ってしまうほど痛かったし、魔力も体力も大幅に失い、当時通っていた魔法学校は退学しなければならなくなった。

 この火竜は今や脅威ではない。だが恐怖の対象であることは変わりないし、謝られたからといって恨みが晴れるわけでもない。

 コットンもいるのできちんと話を聞いてはいたが、ルイユに呪いを解くつもりはなかったのだ。

 いや、解くことはできないだろうとわかっていた。気持ちではなく、魔力量や技能の面で不可能なのだ。

 大怪我のあとに魔法使いが陥りやすい障害や病気を避けるため、多過ぎる魔力を制限する『能力規制の魔法』をかけてもらった今の自分では、何の制限もなかった当時の自分が命がけでかけた呪いは打ち破れない。

 コットンは規制を受けてもなお強力なルイユの魔法をいつも間近で見ているので能力規制のことはすっかり忘れていたが、ルイユは常に自分にかけられているその魔法を忘れてなどいない。呪いは解けないとわかっていて、ただ静かに話を聞いていたのだ。


 一通り話も終わり、店に気まずい沈黙が流れる。

 深刻な表情のルイユと少年姿の火竜に何も言うことができず、金属製のレジスターに寄りかかって立つコットンは腕を組み替えた。

 するとその時、店のドアのベルが鳴った。別のお客様が来店したのだ。店内の全員が出入り口に顔を向ける。

「コンニチハ〜!」と元気よく挨拶をして店内に入ってきた新たなお客様はこの街の人ではない、若く魅力的な女性だった。

 亜麻色の髪に深緑色の目、明るく朗らかな声は不思議なことにその場の空気を一気に軽くした。

「ここが魔法使いさんのお店ですね? うん、素朴で良いフンイキ!」と女性は言った。

「あ、ありがとうございます」

 ルイユが驚きつつもお礼を言うと、女性は目を輝かせて彼に詰め寄った。

「あなたが魔法使いさんですね! 私、魔法使いさんに依頼があるんです」

「依頼? 僕にですか?」

 本来この店では商品の販売以外はしていない。それにそもそも、依頼とされるような案件はどの街にもある仲介所という施設を通して冒険者たちに頼むのが普通だ。

 だがルイユにとって、このタイミングで別の話を受けることは火竜の頼みを後回しにする良い口実になる。そうしてうやむやにしてしまおうとルイユは考えた。

「ちょっ、俺の件は後回しか?」と、まるでルイユの心を読んだかのように火竜が慌てた声をあげる。

 女性はチラッと彼を見たが、またすぐにルイユの方へ目線を戻してしまった。

「ええそう! 魔法使いさんに依頼があるんです。受けてくださる?」

「おいコラ、俺の依頼が先だぞ!」

 女性は抗議を無視してルイユの手を取った。色仕掛けとまではいかないが初対面にしては馴れ馴れしいとコットンに思わせるには十分距離が近い。

 突然のことに驚いて固まるルイユ(と、なぜかそれを見て恥ずかしそうに赤くなった火竜)の代わりに、コットンが待ったをかけた。

「ちょっと、お客さん。まずはうちの店主の手を離して。私の話を聞いてくださいな」

 少し敵意が含まれた声だ。ルイユとの距離が近いことや先客がいるのに割り込んできたことが気に入らないため、コットンの眉間にはシワが寄っていた。

「あ、可愛い小人の店員さんが居たんですね。何でしょうか?」

「ここは雑貨とお菓子を売るお店。依頼を受けたりなんかしないんです。そういうのは街の仲介所に持ってってください」

 女性はルイユの手を離し、少し困った顔で長い髪を指でいじりながら言った。

「うーん、私もそうしようと思ってたんですけど、おじいさまが『年頃の娘が粗野な冒険者連中に借りを作るのはよくない、代わりにこの店の魔法使いに頼んでごらん』って言うから……」

 事情を聞き、コットンは苦虫を噛み潰したような顔をした。とくに考えなしにここへ来たわけではなく過去に来店した人の紹介で来たのだとわかってはあまり強い態度で接することができない。

「お客様のおじいさま、ね……きっとこの街の人じゃないわ。となると、昔と今じゃ店主が変わってることは知らないわよね。先代は物品販売よりむしろ依頼を受ける方をメインにしていたから……」

「先代? おじいさまの言っていた魔法使いとあなたは別の魔法使いなんですか?」

 ルイユは頷いて肯定の意を示した。

「たぶん、あなたのおじいさまは僕と会ったことはないですよ。先代店主のクロさんに何らかの頼みを聞いてもらったんでしょう。クロさんは僕よりもずっと強い魔法の力を持っていて、人助けをするのが趣味みたいな人でしたから」

 火竜の件でボロボロのルイユを保護し、この街に連れてきてくれたのもクロさんだった。彼は二年前にルイユに店を任せてふらっと旅に出てしまって以来戻ってきていない。

「そうだったんですね〜。でも昔の話とはいえおじいさまだって受けてもらえたなら、私の依頼も受けてもらえますよね!」

 コットンが呆れて「私の話聞いてましたか」と言った。当然の反応である。

「だって、ここはおじいさまが言っていたお店なんでしょう? おじいさまはよくて、私だけ断られるなんて理不尽じゃないですか?」

 お客様はこうして、邪気の無い笑顔で常識を粉砕してみせたのだった。


: : : :


 ルイユとコットンは少し話し合って女性のお客様の依頼というのがそれほど重大なものではないだろうと判断し、とりあえず内容を聞いてみることにした。

 火竜は自分が後回しにされることを怒っていたが、顔もスタイルも良い彼女にお願いされるとあっさり許してしまった(ルイユはそれを見て、この火竜が自分の姿でどんな風に過ごしてきたのかちょっと心配になった)。

 ルイユが話を聞く間、彼はコットンに店の商品を見せてもらうことになった。


「で、依頼というのはいったい?」

 ルイユがそう尋ねるとお客様はにっこり微笑んで簡潔に言った。

「私ね……火竜の鱗が欲しいんです!」

 一瞬、店内が静かになる。

 火竜(ルイユ少年の姿)が「キュウ……」と情けない鳴き声を発して手に持って眺めていたオモチャのびっくり箱を落とした。

「い、今、俺の鱗が欲しいって言ったか?」

 お客様は一瞬キョトンとした。当然、彼女は彼が姿を変えられた火竜であることを知らないのだから、人間の子供がおかしなことを言い出したと勘違いしてすぐに笑いだしてしまった。

「アハハ! ボクは人間でしょ。鱗なんて無いじゃないの〜!」

「お客様、彼は火竜ですよ。とある事件で罪のない人を襲ったので呪われて姿は変わってますが」

「わあバカ人聞きの悪い! それにそんなこと教えたら俺の皮膚が危ないじゃねーかぁ!」

 女性は口に手を当てて「そんなことって……」と呟いた。

(まあ信じないか。普通、火竜は人に呪われるようなヘマなんてしない賢い生き物だし)

「そんな、こんなにすぐ鱗をくれそうな火竜に出会えるなんてまるで奇跡! すごいです! ねえ店長、彼の呪いを解いて私に鱗を渡すように言ってもらえません?」

(うん、教えたのは自分だけどまさかあっさり信じるとは思わなかった)

 ルイユは無言で立ち上がり、どうしたものか思案しながら火竜に近づく。

 ルイユはいつでも自分の呪いを解けると思っているので、火竜は真っ青になると店の端っこへ逃げ出した。突然動くので危なっかしくて店の案内のためにその頭に乗っていたコットンが近くの机に飛び移る。

 分厚い魔法書や色とりどりの鉱石が並べられた大きな本棚とアイビーフレームの傘立ての隙間にぴったり収まってしゃがみ込み、彼は頭を抱えて叫んだ。

「ふざけんなぁ! 鱗剥がすのって痛いんだぞ! ダチとふざけあってて剥がれたことあるからわかる!」

 怯える火竜を見、その言葉を聞いて、ルイユはニヤリと笑った。完全に悪役の顔である。

 じわりじわりと火竜に近づき、呪いは解けないがそれっぽく手に魔力を纏わせてみる。

「ふうん、痛いんだ。アー、僕としては火竜クンの願いもこのお客様の願いも叶えてあげたいなあ。じゃあ呪いを解いたら火竜クンの鱗を丁寧に剥いであげないとだなあ……僕の肩に噛みついたことを後悔させてあげるよ……」

「ひっ……」

「呪い解くのやめる? 火竜の鱗なら別の方法でも手に入るから、僕はそれでもいいんだけど」

「っ……そ、それでも、元の姿に戻れるのなら! 呪いを解いてくれ。鱗でも尻尾でもくれてやる! 俺は家族に会いたいんだ。父ちゃんとか母ちゃんとか、兄弟たちにも……!」

 火竜は硬く目を閉じた。これから与えられる痛みに耐えようとするように。

 あわよくば呪いの解除を諦めてくれるかもと思っていたが、火竜がずっと家族に会えていないことを知ってしまった。罪悪感に襲われ、ルイユの足が止まる。

 ルイユは生まれ故郷の村から遠く離れた魔法学校に通うため、六歳から十歳で退学するまで両親と離れて寮で暮らしていた。一定以上の強い魔力を持つ者は必ず学校の寮に入り魔法の正しい使い方を学ぶことが法に定められた義務であるからだ。

 ルイユはどうしても生まれ故郷の村をバカにされると反発してしまってうまく友人作りができなかったし、生家も夏と冬の長期休暇以外の短い休暇の間では行き来できない距離にあり滅多に心許せる人には会えなかった。ひとりぼっちの寂しさや怖さはよく知っていた。

「……そういうことなら、早く言ってほしかったな」

「へ?」

 静かな、心から申し訳なさそうな声を聞いて火竜は顔を上げた。

 コットンははらはらして、お客様は不思議そうな表情で俯くルイユを見つめる。

「ごめん。正直に白状するよ。今の僕には能力規制の魔法がかけられている。……傷ついて不安定な状態だった僕を補助するためにクロさんがかけてくれたんだ。強い魔法だよ。だから僕は、君にかけた呪いを解くことはできないんだ」

「ええーっ!」と、コットンまでもが大声で驚きの声を上げた。

「そうだった、能力規制! すっかり忘れてたわ」

「そんな、じゃあ俺は……」

「もしかして、私の鱗探しも振り出しですか!?」

 三者三様の悲鳴が店内に響く。ルイユは少し泣きたくなったがぐっとこらえた。

 ルイユは無言で柱に寄りかかって魔法で大切に収納していた紙片を取り出した。くたびれた小さなメモ用紙に外からの光が反射して箇条書きに書かれた文を僅かに浮かび上がらせる。

「呪いを解く方法はあるよ。僕にかけられた魔法を解けばいいんだ。能力規制を解く必要ができたときのために、クロさんは解除薬のレシピを残してくれた。材料はあらかた集めてある。残りはあと一つ」

 全員の注目が集まる。ルイユは緊張してレシピを見つめる。

 赤いペンでチェックされていない材料。それは、ルイユが恐怖の対象と対面しても平穏を保てる精神力を身につけたとき取りに行くように先代から言われた最後の難関。

「……火竜の鱗だけ」


: : : :


 ルイユはついに火竜の鱗を手に入れるための旅をする決心をした。家族と再会したいという火竜の願いを叶え、ついでに女性客の願いも叶えるために。

 今は大急ぎで旅のための荷造りをしているところだ。必要になりそうなものを見繕っては手当たり次第に魔法で収納している。

 なぜ旅をするのか。それは火竜の鱗を取りに行くためである。

 彼が火竜と女性客の依頼を達成するために立てた計画はこうだ。

 まずは火竜の鱗を手に入れる。だがそれらは高くてとても買えないので(そもそも安ければ彼女はこの店まで来る必要はなかったわけである)、呪われ火竜に聞いて鱗を手に入れられそうな場所の心当たりを教えてもらうことになった。

 次に、手に入れた鱗を使って薬を作る。薬を飲んで呪いを解いたら、元の姿に戻った火竜に痛み止めの魔法をかけて綺麗な鱗を取らせてもらう。


 ルイユが準備を終えて店舗スペースに戻ると呪われ火竜が一番安いお菓子をコットンから買っているところだった。どこでどうやって手に入れたのかはわからないが、七年も人として暮らせば火竜も人の社会のルールに則って行動できるようになるらしい。

「ねえ、お金ってどうしてたの? 盗んだの?」

「ちげーよ! このお金は冒険者としての稼ぎだ! ひ弱な子供の形でもなぁ、ザコ魔物くらい一発で倒せるんだよ!」

「ふうん……。ところで、フューラーさんはいないの?」

「あっこいつ信じてなさそう」

「あの自分勝手な女性客? 旅のための費用はくれたけど帰っちゃったわ。用事があるらしくって。『火竜さんの呪いが解けて、鱗をもらえたら連絡してくださいね〜』だってさ」

 コットンはレジ横に置かれた布製の袋を顎で示した。それに女性客から受け取った路銀が入っているのだろう。ルイユはその袋の膨らみに驚いて思わず尋ねた。

「費用……いくら?」

「旅の間のお財布管理は私がするからルイユは知らなくていいわよ」

 少し期待した様子のルイユの質問をコットンはさらりと受け流してしまった。会計で火竜から受け取った硬貨をレジに納めて言う姿はまるでやり手の銀行家のようだ。

 しかしルイユは危険な旅にコットンを連れていくつもりはない。そのことを伝えようとするとコットンは「私がいなくちゃ。ルイユはあの事件以来ろくにこの街から出てないもの」と言って何か言われるより先にルイユの反対を封じてしまった。

 たしかにそうなのだが、ルイユの表情から不安の色は消えない。万が一にも彼女に怪我をさせたくないのだ。

「でも、場所によってはかなり危険だろうと思うんだけど」

「ああ、そのことに関しては大丈夫だぞ」

 火竜が子供用の椅子に腰を下ろして言った。

「そう遠くない場所で、火竜のおかげで温泉が出るから観光地化されてる場所があるんだ。島なんだけどな。火竜の鱗は島の火竜のねぐらに入り込むくらいしないと見つからないかもしれないが、その火竜が変わってて、すっごく大人しい爺さんなんだ」

「……そんな火竜がいるのか?」

「信じねーのかよ。なんなら竜の里に行くか? 里のほうなら鱗なんざ地面にばらばら落ちてるぞ。里の竜に見つかったら体を八つ裂きにされるだろうけど」

 サクサクとお菓子を食べながら、火竜は「俺、実はかなり人に優しい思考の持ち主なんだぞ」と付け加えた。

「竜の里なんて行けないよ。島の方に行く。じゃあ僕はすぐ出発するから、その島の場所を……」

「あ、私を連れて行かないなら旅には出させないからね」

「……ハイ」


 ルイユは結局コットンも連れて行くことにした。旅費には限りがあるので火竜は同行できないのだが、そのことを伝えると彼は暇なのでこの店で店番をして待っていると言った。

 ルイユたちにとってそれはとてもありがたい提案なのだが、商品で遊んで壊すのではないかと不安になったので店の商品の一つに店と火竜の見張りを頼むことにする。

 シンプルなデザインで幼児の玩具のような見た目をしたふかふかぱふぱふ頭のパペット型ピエロ人形。名前はリディリアスだ。

 リディリアスは呪い人形であり、意志を持って動くうえに主人の命令に忠実で簡単には壊されず、攻撃全般に高い威力を誇るので選ばれた。

 初めはそれをただの可愛く丸っこい人形としか思っていなかった呪われ火竜は、リディリアスの服の黒っぽい模様が魔物の血で書かれたものだと知らされると身震いして絶対に商品を壊さないようにしようと心に決めた。

 そうして店を一頭と一個に任せ、ルイユとコットンは旅に出たのだった。






〈目的地は〉

 店を出発し、ルイユとコットンは目的地の火竜が住む島までの道のりを着々と進んでいた。

 ……野宿をしながら。

 なんとフューラーが渡してくれた貨幣は遠い外国のもので、この国の宿屋では使えなかったのだ。夜の街では外にいると盗賊が怖いので、諦めて森の中で野宿をすることを選んだのである。

 盗賊ですら魔物を恐れて夜の森には立ち入らないが、小人族のコットンがいるのでルイユに魔物に襲われる心配はなかった。

 小人族は森の妖精たちと仲が良いのだ。その友人ということで、ルイユも妖精たちに守ってもらえた。

 危険な獣や魔物から襲われないようにしてもらったり、美味しい果実のある場所を教えてもらったり、人が使うのとはまた少し違った妖精の魔法で次の森までワープさせてもらったり。妖精たちは友人に対してとても優しかった。


 そうしてたくさんの助けを借りて旅を続けて三日目の昼、二人はようやく森を抜け海の見える崖にたどり着いた。崖の上からはそう遠くない距離に目的の島が見える。

 ここは二人の住む街と比べてだいぶ暖かかった。天気も良いが、流石に冬なので崖の上に立つと海からの潮風が少し冷たく感じられる。

 独特の潮の香りに青く澄んだ空と煌めく南の海、その海の向こうには目的地。

 ルイユは胸がドキドキと跳ねるのを感じながら言った。

「ねえコットン」

「なあに?」と肩の上に座るコットンがにこにこ笑顔で返事をする。

「……道間違えたね」

「そうね……」

 ルイユはコットンに怒られずに済んでほっとした。責められたらどう謝ろうかとドキドキしていたのだ。

「ここはどう考えても港町じゃないよね。協力してくれた妖精の中にイタズラ好きがいたらしい」

「うん。妖精はみんなイタズラ好きよ。ちゃんと目的地が見える場所に着いたのは奇跡だわ」

「そっか……」

 火竜が教えてくれた道をちゃんと進めば島に向かう船が出ている港町に着くはずだった。しかし妖精たちが彼らをワープさせるときに少しずつ、少しずつ座標をずらしていたらしい。コットンの言う通り目的地が見える場所に着いたのは奇跡に近かった。

 でも崖からでは島への渡航手段がない。

「ルイユ、どうするの? 近くに港なんて無さそうよ。見渡す限り崖が続いてるわ」

 ルイユはじっと海を見て考えていたが、ふと森へ視線を向けた。まだ葉が落ち始めたばかりの木々がちらほらと生えている。

「ここに歩いてくるまでに、森の中で大きくてきれいな白い羽が落ちているのを見なかったっけ」

「見たわね。たぶん鳥型魔物の羽だねーって話したじゃない」

 ルイユは頷いてにっこり笑ってみせた。表情筋が動いたのを感じ取ったコットンが肩から顔を覗き込んでみれば、その目には自信の光が宿っていた。

「羽を取りに行こう。僕がそれを使って鳥に変身して、海を飛んで渡るんだ」

 森の中に戻り羽を手に入れる。その羽は優に一メートルを超える大きさの美しい尾羽だった。手にとってみると軽く、蝶の鱗粉かおしろい粉のようなものがついていて不思議といい香りがした(ルイユはその香りを「学校の初等科の真新しいテスト用紙の匂い」と形容したがコットンの同意は得られなかった)。

 まずは崖に戻る。

 そこで羽を使い純白の巨大な鳥に変身したルイユは、ふわふわの首元に雛鳥を運ぶためのものなのかポケットのような部分があったのでそこにコットンを入れて海を渡った。

 冬とはいえ南の海は美しく、真っ白な羽で空を飛ぶのはとても気持ちがよかった。羽毛に付いた鱗粉のような粉が、潮風でべたべたになるかと思われた羽をさらさらに保ってくれたので快適だった。

 島の上空に着いた時、本物の魔鳥と間違われて島にいた冒険者やハンターに襲われたがルイユが彼らに反撃をしたのは言うまでもない。もちろんルイユとコットンは無傷である。


: : : :


 冒険者たちを魔法で撃退した後、まずルイユは火竜がいる詳しい場所を調べることにした。

 ヤシなどの南国らしい植物に強い日差し、変わった造りの建物に楽しそうな人々。観光地なので人は多い。

 現地の人は忙しいだろうが、ルイユが念のため持ってきていた自分の財布から泣く泣く出費をして買い物をすれば愛想よく答えてくれた(フューラーがくれた外貨はやはり使えなかった)。

 とはいえ店の人は他の人にも接客をしなければいけないので、ルイユたちが島の火竜について聞けるのは断片的な情報だけだった。

 店にいない島の人というとほとんどが休日をゆっくり過ごしている最中の人か観光客を狙う地元のチンピラだけ。もちろん、ルイユは休日の邪魔はしないしチンピラには屈しない。まとまった情報はなかなか手に入らなかった。

 一番情報が集まりやすそうな繁華な通りにも行き情報を集めたが、そこで聞いた情報もあまりに断片的すぎた。

 わかったのはもう何十年と前に島の火竜が眠りについたらしいということ、島の人たちがその火竜に感謝しているということの二つ。「眠りについた」とは永眠したことの表現なのかそれとも単に寝ているだけなのかすらわからない。

 歩き疲れたルイユと人混みに疲れたコットンは一休みしようと少し通りから外れた場所へ避難した。観光客向けの商店や食べ物屋もあるがこちらの方がずっと落ち着いた雰囲気だ。

 ふと立ち止まったすぐ横、島の伝統的な建物の土の外壁に街では見たことのない蜥蜴のような生き物がへばりついてハフハフと荒い息をしているのを眺めているとルイユはちょっとその蜥蜴に同情心を覚えた。


「ルイユ、ちょっと」

 壁に寄りかかりぼうっと蜥蜴のお腹が呼吸に合わせて動くのを眺めていたルイユは、その壁に沿うように設置されたベンチの背もたれに立つコットンに呼びかけられてハッと気が付いた。

「ん、なんだい? あ、ここで買った南国風の服も似合うねコットン。ちょっと胸元が広い気もするけど……」

「そうじゃなくて」

 コットンは少し赤くなってルイユの言葉を遮った。

(いつもは新しい服褒めないと拗ねるくせに)

「あっち見て。ほら、あの人が集まってるところ。なーんか見覚えのある人が居ない?」

 確かに、いつの間にか人が少なかったこの場所にも人が集まってきていた。

 なぜか一点に人が集中しているうえ、集まっている人々は男ばかり。彼らはこの島の店の売り子や呼び子のようで、ルイユも見覚えがある者も多くいた。

 彼らはみな一心に中心にいる人物へ話しかけて自らが働く店へ来るように誘っているらしい。南国の鮮やかな色使いの服を着ている見た目の整った男ばかりが集まり競っているような様子はなんだか華やかですらある。

 あまり見ない光景なので物珍しくて、ルイユはコットンを再び肩へ乗せるとそちらへ歩み寄り少し中心の方を覗いてみた。

 中心に居たのは美しい女性だった。玉の肌に深緑色の目、亜麻色の髪。朗らかに笑ってちょっぴり困った様子で男たちをあしらうのは見覚えのある人物だった。

「フューラーさん!?」

「あれっ、魔法使いさんじゃないですか〜! お久しぶりです! 会えて嬉しいです!」

 フューラーが驚きと喜びの混じった声を上げると彼女を取り巻く男たちは彼女のために道を開けた。それはそれはきれいに道の端と端に寄るのでフューラーが南の島の女王のように見えるほどである。

 ルイユとコットンは男たちの視線がチクチク刺さるのを感じながらも、偶然会った依頼人から逃げ出すわけにもいかないのでそこで立ち止まった。

「魔法使いさん、この島に来てたんですね〜! お仕事……なわけないか。ここ南の島ですし。観光ですか?」

 観光に来たのかと尋ねている割には怒った様子はない。彼女の祖国では仕事はゆっくり、かつバカンスは大事にするのが普通なのである。

 ルイユは正直にここへ来た目的を話した。フューラーはここが火竜にゆかりのある土地とは知らなかったらしい。

 コットンが情報集めは難航していることを伝えると彼女は男たちを振り返り、にこりと笑って甘い声で尋ねた。

「ねえ、君たちの中に火竜の居るところとか知っている人はいないかなぁ」

 フューラーの甘い声はその場の男たちの鼓膜をくすぐり、彼らをうっとりさせた(ルイユは例外だが)。

 フューラーが着ている服はこの島で買ったものらしく、南国風の服の胸元はやはり大きめに開いている。コットンが買ったものとは違い女性の魅力を最大限に引き出ためスリットも深めで、男たちの目には服の情熱的な赤色や大輪の花の模様が艶やかにすら映る。男たちを夢中にさせる魅力がある彼女の体にぴったりだった。当然、男たちはフューラーのお願いを叶えようと我先に話しだす。

「俺たちは若いんで伝え聞いた話しか知りませんが……」

「火竜について話を聞きたい観光客は皆、土産物屋のオバさんのところへ行きますよ」

「そのオバさん、いい人なんで。土産を買えばなんでも教えてくれます」

「そんなことよりお姉さん、フューラーさんっていうんですね。あなたにぴったりな素敵なお名前だ。ぜひうちの店に……」

「おい、抜け駆けはナシだぜ。フューラーさん、俺と来てくれますよね」

「いやいや、うちに」

 目がハートになるってきっとこういう状態のことだ、とルイユは思った。男たちの目にはフューラーしか映っていないかのようである。ルイユの足は男たちに踏まれているがきっとわざとではないのだろう……。

 フューラーは少し困った顔でルイユたち二人にこっそりウインクをした。「一緒には行けなそうです。情報は集まりましたか?」と尋ねているように思えたので二人はこくりと頷いた。

 その秘密めいたやりとりに気付いた男がルイユに喧嘩を売ってきたが、もちろんルイユは特別筋力があるわけでもなく丸腰で魔法が使えない男になど負けない。

 フューラーを中心にして移動していく集団と、ルイユに魔法をかけられて彼らとは反対方向へフラフラと自分の店まで帰っていく男とを見送ってルイユはそっとため息を吐いた。

(この島に来てから襲われてばっかりだ。僕の顔には「僕は田舎者です、襲ってください」とか書いてあるんだろうか)

「ねえコットン、僕の顔に……」

 コットンは肩の上でふてくされていた。自分の胸のあたりをじっと見て言う。

「人って不平等だわ」

「……コットン、僕は君の方が可愛いと思うよ」

「ありがと」

 コットンの機嫌は直らない。

「服も似合ってるよ。ほら、ハイビスカスっていう花とおんなじ色とかヒラヒラしてるスカートの裾とか、すごく素敵だし……」

「うん……」

 少し気まずい空気が流れる。髪質や体型にコンプレックスを持つ者の目にフューラーの容姿は羨ましく映ってしまったようだ。


 二人は男たちが(フューラーに)教えてくれた通りに何でも教えてくれるという土産物屋のオバさんに会いに行く前に疲れをとるために温泉宿へ行ってお風呂に入ろうと決めた。島全域の地図を見たとき、港方面の海沿いに海の見える露天風呂を売りにしている宿があると知ったのでそこへ向かう。

 南国の日差しがじりじりと暑く感じられた。


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 島の火竜の恩恵を受けているという温泉に浸かって疲れをとり、この島の名物の南国果物ジュースを飲んだ後はまた徒歩で移動。

 繁華な通りから離れて人もまばらな場所に店を構えるオバさんはいかにも商売人といった風情のご婦人だった。

 ルイユの身長の半分ほどしか身長がない彼女は、どうやら長生きをする種族のノームのようだった。直接は聞いていないがコットンがノームだと思うと言えばルイユはそれを信じる。

 少し栗色も残った白髪や人当たりの良い笑顔が素敵だったが、ルイユはなぜかこのオバさんと腕相撲をしたら負かされそうだと思った。ふくよかな体型のせいだろうか。

 話を聞きたがる二人にオバさんは一つずつ土産物を買わせた後、島の人々と火竜の昔話を聞かせてくれた。

 幼子に話すような調子で、丁寧に教えてくれたのはこんな話だ。


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 島の人はその火竜のことを火の様って呼んでるんだ。島に人が移り住んできたときにはもう火の様のおかげで島には温泉が湧いていたから、人々はありがたがって敬意を込めてそう呼んだんだよ。火の様はとても優しくて、温泉を絶えず湧かせるために火山の出力を操ってくださっていた。何百年と前からずっとね。

 でも、八十年ほど昔のある時、火の様は温泉の出が悪かったのでいつもより火山の活動を活発にした。それがいけなかったんだろうねえ、火山の火口以外の場所から溶岩が出てきてしまったんだよ。幸い死人は出なかったが人家が一軒焼け落ちてしまった。そう簡単に燃えないはずの石造りの家が燃えに燃えて、それは恐ろしかったらしい。

 人々は火の様を恐れた。もしかしたらいつか自分たちのこともああやって焼くつもりなのかも、と誰かが言い出せばそれに乗じてもっと悪いことを言う愚か者もでてきてね。それで人々は当時島に来ていた冒険者に頼んで……いや、あれはそそのかしたと言った方がいいかな。そうすれば竜殺しと言われて箔がつくとか言ってたからね。とにかく恩を忘れて火の様を封印させてしまったんだ。この島の港があるのと反対側に火の様が寝起きしてらした離れ小島があるんだが、そこで封印の道具を使い火の様を眠らせてしまったんだ。

 その封印というのは道具に頼った不完全なものだったから、火の様ほどの力の持ち主ならもしかしたら自力で逃れることもできたかもしれないんだ。でも火の様は封印されることを受け入れた。自分の非を認めて、これは戒めだとおっしゃってね。それで人々はようやく、火の様に働いた無礼を反省した。

 封印を解くのはやはり怖い。だが放置して何もしないでおくのも、それはそれで怖い。だから年に何度かの祭りの時は火の様の元にお供物を持ってって島の安泰と島の人の安全を祈り火の様に封印したことを謝る。そんな状態がずるずる続いて今に至るのさ。


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 話を聞き終わり、その封印の場所を詳しく教えてもらった二人は早速そこへ向かうことにした。封印されているならば島の火竜は起こさず、その住処に行って古い鱗が落ちていないか探すことにしたのだ。

 フューラーが欲しがっているような価値のある鱗というのは取れてからまだ新しいうちに処置を施した物なので大半の人にとって古い鱗は石ころ同然。落ちていてもおかしくない。

 昔話をしてくれたお礼と火の様の住処へ行く意思を伝えてもオバさんは止めなかった。別に祭りの時以外に行くことは禁止されているわけではないという。

 万が一の時のお守りにと商魂逞しい彼女にもう一つ土産を買わされ、二人はまた少し軽くなった財布を持って彼女の店を出発した。






〈火の様〉

 ルイユとコットンはオバさんの話にも出てきた火山をぐるっと迂回して島の反対側に行った。人家も商店もない、したがって人も居ない林の中を歩き島の中で火竜が眠る離れ小島が最も近く見える所へたどり着いた。

 しかし着いたはいいものの、現在地との間には海がある。

 所々残る塗装は白色であるもののすっかり錆びついて全体的に茶色くなってしまった柵の向こう側には波しぶきを上げる海。離れ小島と本島との間に波が流れ込んで勢いを増しているようで岩肌に波が砕ける音は心なしか大きく感じられる。

 流石のルイユも体内に溜めた魔力の量が減っており、どんどん魔力を消費する行為の筆頭である対人戦は避けたいので、再び純白の鳥に変身するのは断念した。あの鳥は体が大きいので目立つ。今度は目立たない鳥に変身する必要がある。

 所々雑草が生えた少し黄色い地面の砂の上に視線を滑らせる。ヤシの木の下の陽だまりにあの白い鳥のものよりもずっと小さくもっと一般的な形のカモメの羽が落ちていた。

「こんどはカモメでもいい? 背中にしがみついてもらうことになると思うんだけど」とルイユが聞くと、コットンは目を細めてうーんと考え込んだ。

「カモメじゃ安定しないじゃないの。落っこちたら回収してよね。濡れるの嫌だから空中キャッチね」

「う、うん。極力落とさないようにします」

 薄灰色のカモメの羽を手に取り、ルイユはコットンより二回りほど大きなサイズのカモメに変身し、買わされた土産品などの荷物はカモメの翼では運べないため魔法で収納し始めた(カモメがそこそこ高等な魔法を使う様子はなんだか滑稽にすら見えたが、コットンはそのことは伝えず心のうちにしまっておいた)。

 その作業を終えてカモメの目でコットンを見たルイユはこれは重労働だと思った。


 背中に小人を乗せてふらふらと飛んでいきついに離れ小島。

 島の内部に続くほら穴の手前で変身を解いたルイユはまず地面に膝から崩れ落ちた。日差しに暖められていた細かな砂の熱が両手に伝わりじりじりと熱い。

 ルイユの両腕は細かく痙攣し、息も荒く上がっていた。

「腕……もげる……」

「私が重かったって言いたいの? 失礼ね。あのおっきな鳥の時はへっちゃらだったくせに」

 コットンも不安定な鳥の背中にぎゅっとしがみついていなければいけなかったので疲れてしまっていた。ご機嫌ナナメだ。

「うう……まず大きさが違うし、あの巨大な鳥には体内に魔力を体力に変える特殊な器官があったんだ。火竜みたいな高位種の魔物にも無いようなホント珍しいやつ。だからもちろん普通のカモメにはそれが無いんだよ」

 ルイユはごろんと地面に寝っ転がった。

(あのキレイな鳥、何だったんだろう)

 眩しすぎる陽光に手をかざして考えているとコットンが顔を覗き込んできてペチペチとその頬を叩いた。

「何をのんびりしてるの。火竜の巣は目と鼻の先よ! ここまできたら怖くなる前にとっとと鱗見つけちゃいましょ!」

 一生懸命にぐいぐいと横っ面を押して火竜の住処の方へと顔を向かせようとするコットンがなんだかとても愛おしくてルイユは微笑んだ。

 ゆっくりと起き上がり優しく彼女を持ち上げて肩に乗せ、真正面から巣の入り口を見据える。

 横幅も高さもルイユの身長の何倍もある巨大なほら穴。奥は深そうである。

 端の方には木製の立て看板があり、「火の様のおられる所」と書かれている。潮風の当たるところにありながら朽ちていないのは島の人が頻繁に手入れをしているからだろうか。

 ほら穴の周りもゴミなどはなく小さなシダ植物や鮮やかな南国の花が自生している。鳥や虫は本島に比べて圧倒的に少ない。季節外れに赤や黄色の大輪の花が咲いている様子は見た目には華やかであるはずが、どこかここが墓地であるかのような印象を与えていた。


 洞窟の中を少し進み段差を降りればもう入り口からの光は届かない。外と比べてひやりとしている空気が肺を満たす。

 ルイユは魔法で小さな光を空中に灯して火の様の住処の中を進んでいった。それだと周囲の岩と土の壁がうっすらと浮かび上がって見える程度なのでもっと明るい光で辺り一帯を照らし出したかったが、それは洞窟に住み着いている生き物たちには眩しすぎるからやめろとコットンに止められたのだ。

 火竜の鱗というのは封印されている間も抜けるものなのかはわからないが、封印前に抜けた古い鱗が落ちているとすればきっと火の様が封印され眠っているところだと見当をつけて最奥部を目指す。目印は矢印の書かれたシンプルな木製看板だ。

 洞窟は小島全体が火竜の住処になっているのかと思われるほど規模が大きかった。知りたがりなコットンに頼まれてルイユが魔法で少し調べてみたところ、痕跡が古すぎて術者が火の様かそれとも人かすらよくわからなかったがこの洞窟内の空間は実に緻密で繊細な魔法で歪められているとわかった。実際より大きくされているのだ。

 天井までの高さは光が届かないためどのくらいあるのか目視で確認することはできないが、足音などの反響の仕方から少なくとも十メートルはありそうだとわかる。また横幅もとても広く、火の様は火竜の中でもかなり大きな個体だったのだと物語っていた。

 自然、まだ見ぬ火の様の姿を想像してしまう。だがルイユは十歳で火竜に襲われた時以来火竜の姿を見ることは避けてきた。

 だから蘇るのはもう何度も悪夢として繰り返し見てきている辛い記憶。


 放課後の学校の外廊下、同級生たちを小型の魔物が襲っている。彼らを助けるため咄嗟に使った魔法に刺激され、大型の魔物も空から襲ってくる。

 赤い鱗の若い竜と目が合った。

 急降下してくる火竜から逃げようとしたが誰かの魔法で足を取られる。嵌められたのだ。同級生たちに。

 恐ろしい咆哮に振り向けば炎をまとった牙が目の前に迫っていた。猛々しい火竜の大きな顎が開かれている。

 左肩に噛み付かれ、意識が飛びそうになるほどの痛みに思わず叫ぶ。

 何と叫んだのかは覚えていない。自分の叫び声で他の音など掻き消されてしまうはずが、同級生たちの嘲笑う声がいやに耳についた。

 それからは負の感情に任せて呪って、呪って、呪って。

 クロさんが正気に戻してくれるまでの三日間の記憶はない。何を呪ったのか、どうして瀕死の状態で大量に魔力を消費しても命を落とさずに済んだのかもクロさんに後から聞いた話から推測するしかなかった。

 推測の結果、ルイユは「あの時、自分は魔物になりかけていたのかもしれない」という結論に至ったのだが。


 ルイユはこの事件で命を落としかけ、そして学校を去らざるを得なくなった。魔法使いに自身の魔法との向き合い方を学ばせ、安全な社会づくりに貢献することを理念の一つとする魔法学校に在籍していたルイユが感情のままに呪いを使ったことは、たとえ背景に度の過ぎたいじめがあったとしてもそれだけで問題になった。

 生来の性分のせいでいじめっ子も火竜も恨みきれないルイユは後ろ指をさされながら退学したこともあり、やがて全ての原因は自分にあると思い込むようになってしまった。クロさんに引き取られて今も暮らす街で過ごしていくうちに肩の傷も心の傷も癒やされていったが、今でもきっかけがあれば痛みは帰ってくる……。

 ルイユは左肩をそっと撫でた。かつて穴が開いていた部分に手を伸ばしてもう穴が開いていないか確かめるように。

 右の肩に乗っているコットンは彼が小刻みに震えているので顔を見ようとしたが、ルイユはさっと顔を背けてしまった。

 コットンは彼の首に優しく抱きつくと目を閉じた。火竜に噛みつかれて死にかけたことなどなくても彼の気持ちを思うととても胸が締め付けられた。

「苦しいんだね……ルイユ。もう大丈夫だから。私がついてる」

 声をかけるとルイユが硬く閉じていた目をゆっくりと開けた。

「ありがとう。君に救われるのはもう何度目だろうね」

「いいのよ。それより大丈夫? さっきは早くしようなんて言っちゃったけど、ルイユ、あなたが辛いならまた仕切り直して別の日にでも……」

「ううん、大丈夫。苦労してやっとここまできたんだから、今更引き返せない」

 声はしっかりとしていたが、彼が自分の方を見てその言葉を言わなかったことをコットンは気がかりに思った。


: : : :


 看板の矢印が示す方へ進み続けてしばらく経った。コットンがすぐそばにいてくれることでルイユの火竜や過去の記憶に対する恐怖心はかなり薄まっていた。

 しかしこの洞窟のちょっとした神殿のような広さが与える独特の圧迫感にすっかり萎縮してしまい二人の口数は徐々に少なくなり、ついには一言も喋らなくなっていた。

 ゆらゆらと壁に落ちる影が揺れるのさえも亡霊が潜んでいるように見えて恐ろしい。こうなるともう集中などできず周囲の様子は目に入っても意識の上を滑ってすぐ落ちてしまう。

 二人でそれぞれにオバさんに売ってもらったお守りをそっと握ったその時、精神的支えが増えて気が緩んでしまったのかルイユが足元の石につまずいて盛大にすっこけた。

 いつもなら魔法で転ぶ前に体勢を立て直すがそれすら忘れ、思いっきり岩の地面に両手を擦ってしまう。

「キャーッ!」

 肩の上に座っていたコットンが放り出される。何の弾みか、かなり勢いよく斜め上へと吹っ飛んでいく。

「危ないっ!」

 ルイユは岩で切って血が出ている両手を彼女の方へ素早く向けた。無論、この動作は吹き飛んだ彼女を魔法で助けるためのものである。コットンが空中でピタリと止まり、二人は一安心してほっと息をついた。

 問題は慌てて手を伸ばした先から放たれた余計な魔力で空気が震え、曲がり角に立つもうすぐ終着点と書かれた矢印看板の先から「パキン」と脆いものが割れる音が聞こえてきたことだ。

 普段から魔法の雑貨を売る二人には聞き覚えのある独特な音に二人の表情が引きつる。

「あっ。……島民がお供えした何かを壊しちゃったに違いないよね。別に封印の道具が壊れる音に似てたなんて思ってないよ僕」

「ル、ルイユ、早く肩に乗せてよ……。私を浮きっぱなしにしないでぇ!」

 コットンはもう涙目だ。

 ルイユは慌てて彼女の体を両手で包み込み肩には乗せず胸の前に抱いた。コットンはきゅっと彼の服を掴んでもし支えがなくなっても落ちないように備えた。

 地鳴りがし、高い天井からぱらぱらと土と埃が落ちてくる。ひっそりと動かなかった洞窟の空気が震えている。まるで怒っているかのようだ。

 ルイユは終着点への曲がり角の岩壁に身を寄せてコットンに石の礫が当たらないように庇った。

 地鳴りに混ざって巨大な生物が動く音が聞こえる。コットンはきちんとルイユの耳に届くよう腹の底からはっきりと発声した。

「逃げるわよ!」

「ま、まだ鱗見つけてないのに」と決心がつかないルイユは弱々しく言う。

 地鳴りはどんどん強く大きくなっていき落ちてくる石も大きなものが増えてきた。

 それでも諦めきれずにルイユが曲がり角の先を覗き込んだのと、封印されていた火の様がそちらに顔を向けたとのは同時だった。


 色褪せた紅色の皮膚に静脈血のような暗い赤色の鱗、埃が舞う中で僅かな光を反射して光る金色の目。その身体はまだ翼や手足を折り畳み寝そべったままだが洞窟の岩壁と見間違うほどに巨大であることがわかる。

 厳格な老竜。魔物を見慣れた冒険者などならそういった印象を受ける人もいるかもしれなかったが、ルイユはトラウマを抱え火竜を避けて生きてきたが故にただただ恐ろしかった。

 火の様はグルグルと喉の奥を鳴らして目を細めると、怯えてすっかり腰を抜かしたルイユの方へと首を伸ばした。

(威嚇音か? 食われる。今すぐ逃げなきゃコットンも僕も丸呑みにされる……!)

 ルイユは立ち上がりコットンが何か言いたそうに服をついついと引っ張るのも無視して走り出した。しかしすぐに地面の揺れのせいで足がもつれて倒れ込んでしまう。コットンを潰さないように横に倒れたルイユに彼のトラウマそのものと同類である火の様の頭が迫る。

「ひっ」

『儂の封を解いたのはお前さんかい』

 火の様がゆっくりと話しかけると乾いてしわがれたその声で空気がビリビリと震えた。真っ暗な天井からがらりと岩が落ちてくる。

「なあに、聞こえないわ!」

 ルイユに無視されて不機嫌なコットンが彼の腕の中から顔を出して叫ぶ。

 ルイユは顔面蒼白だ。きっと完全に怒らせた、もうダメだと思い目を固く閉じた。

 だが、聞こえてきたのはだいぶ声量を落とした竜の声だった。

『おお、すまんの。なんとかしよう』

 火の様は首を上げるとその大きな両眼を閉じた。ルイユはまだ恐ろしくてさらに身を縮こまらせたが、コットンは反対に身を乗り出してその様子をじっと見ていた。

 ルイユのように魔法は使えないが普段から魔法の雑貨に触れているコットンには目の前の火竜によって洞窟全体にふわりと魔法がかけられたことがすぐにわかった。

 今までも洞窟内に微かに残っていたのと同じきめ細やかで上質な空間の魔法だ。洞窟の中の空間が広がっていくにつれて暗かった洞窟内は屋外と同じくらいに明るくなり、地鳴りもだんだんと収まっていく。

 ほんの少し明るいオレンジ色の絵の具を混ぜたような色の灯りの下で、火の様の目は豊かな経験の光に満ちてハチミツのように輝いて見えた。

『儂が最後に巣の手入れをしてから、もう随分と時が経ってしもうたようじゃの。そろそろ死にそうになっておった儂を、お前さんが助けてくれたのじゃな。封が解かれた時、お前さんが持っておるのと同じ、大切なものを守ろうとする強い意思を持った魔力を感じたのじゃ。おお、なんと優しく可愛らしい人の子じゃろうのう』

 火の様はまた喉をグルグルと鳴らして目を細めた。魔法の効果で声も喉を鳴らす音も先ほどと比べてひび割れるような震えが取り除かれて耳に心地よく聞こえる。

 それでも目を開かないルイユにコットンは「火竜が喉を鳴らすのは嬉しい時や落ち着いている時よ」と教えてあげた。ルイユは驚き、パチリと目を開く。

 しかし火竜である火の様の姿を見ると恐怖がまたその心を覆ってしまう。立ち上がることもできず、ルイユはコットンをお腹に乗せたままの体勢で後ろ向きに這いずって逃げようとする。

 その様子を見て火の様はルイユと目線を合わせるように伏せて寄り添い、そっと頬ずりをした。

『怖がらせてしもうたかの。お前さんはまだ幼いだろうに、申し訳ない。だがなんと勇気のあることじゃろうか。小さき者にも好かれておるようじゃし、将来が楽しみじゃの〜』

「えっ。僕は、僕はもう十七で……。わあ、くすぐったい」

 頬ずりを繰り返す火の様のほんのりと暖かくすべすべの鱗が何度も行ったり来たり肌を撫でるものだから、あまりのくすぐったさにルイユは思わず身を捩って笑い出した。

 コットンは自分よりずっと大きな二つの体に挟まれないように洞窟の隅へ移動して少し岩壁を登った。ちょうど良く横になれば体が入る大きさのくぼみを見つけたのでそこに身を収める。

 まずは火の様が本当に温厚な火竜だったことに安心してホッと息を吐き、そしてルイユにここへ来た目的を思い出させるべくじゃれ合う一人と一頭に声をかけた。


 コットンは「ちょっと、お二人さん?」と、少し芝居を打って怒った声を出してみた。楽しそうにじゃれ合うお二人さんはハッと気がついて彼女の方を見る。

「な、なんだいコットン」とルイユが少しきまり悪そうに訊ねる。

 別個体とはいえ散々怖がっていた火竜とすっかり打ち解けて背中に乗せてもらい、祖父と遊ぶ小さな子供のようにその背にしがみついていたのだから、何年も何年も火竜に怯え彼女を始め周囲の人たちにさんざん迷惑をかけてきたと思っている彼は途端に気まずくなってしまったのだ。

「まずルイユ」

「は、はい」

 彼はぴしりと背筋を伸ばした。大きすぎて簡単には降りることができないので火の様の背に乗ったままだ。

 コットンはよくよく目を凝らし火竜に触れた状態でも彼が震えていないことを再確認するとふっと微笑んで「よかった。限定的なものかもしれないけど……」と呟いた。岩壁の凹みの縁を蹴り火の様へと飛び移る。

 ルイユに目配せをして魔法で体を浮かせ火の様の背中まで運んでもらうと、ルイユはもちろん火の様もできる限り首を回してコットンが何と言うのか注目した。

 二対の目に見つめられたコットンはゆっくりと諭すように言った。

「目的、忘れてない?」

「……あっ」

「あらあら、やっぱり忘れてた。全くしょうがないんだから。では火の様、おっちょこちょいなこの子の代わりに私がお伝えしますわ」

 ルイユはぐうの音も出ず、小人と火竜のやり取りを静かに聞くことになった。火の様は少し首を傾げるとコットンに『はて、なんじゃろうか』と尋ねる。

「私たちは火竜の鱗を手に入れたくてここまで来たんです。水竜とか雷竜みたいな他の竜のものじゃダメで、抜け落ちたばかりのものに限らず何十年何百年と前の古いものでもいいから、とにかく火竜の鱗であることが大切なの」

『……そうか? 人が欲しがるのは新しいもの、そうでなければ古代のものと思っとったんじゃが』

「ええ、普通はそうね。そういったものは人にとって価値があって高く売れるもの。でも火の様、ちょっと事情があってうちの店主にかけられている能力規制魔法を解くのには古くてもいいから火竜の鱗が必要なんです。で、新しいのを使うのはもったいないから古いのを探してたんです」

 コットンが言い終わると火の様は納得して二度頷いた。

「古いのでもいいとはいっても、やっぱり新しいもののほうが薬の材料としては良いんですけどね」とルイユが独り言のつもりでボソッと言うと、火の様は耳聡くもそれを聞きつけて答えた。

『そうであったか……能力規制とは、それは大変じゃのう。じゃがお前さんたちは運がいいのう。儂はもう長いこと眠っておったから、脱皮の準備はできておる。新しい方がいいなら、島の様子を見に行く前にお前さんたちのために脱皮を……』

「脱皮を? お腹も空いているでしょうし無理していただかなくて大丈夫ですよ。僕たちはもともと……その、落ちているものを拾うつもりで来たんですし」

 ルイユが慌てて言うと火の様は笑って言った。

『ああ、心配せんでいい。脱皮とは言うが儂のような老竜の場合皮はそのままで鱗だけ抜け落ちるんじゃよ。省エネじゃ』

 以外だねと顔を見合わせる二人に『しっかり掴まっているんじゃぞ』と楽しそうに告げて火の様は洞窟の出口の方へ歩き出した。


 出口といっても外に繋がっているのは一箇所だけなのでルイユたちが歩いてきた道を戻る形になる。一歩一歩が大きいのですぐに出口に着いた。

 魔法で空間を広げた関係で出口にはミルク色の厚い膜がぴたりと張られているように見え、外の景色はわからない。しかし吹き込んでくる潮風と波が岩に砕ける音は変わらず感じられる。

 火の様は内と外とを隔てる膜の前で一度立ち止まると『緊張するのう』と言って背中の上の二人をちらりと見た。声は気軽そうでもその目にはある種の諦めのような寂しさが浮かんでいた。

『儂は島の人々に受け入れてもらえるじゃろうか。再びあの頃のような暮らしを望むのは……共に暮らして行きたいの望むのは……儂だけなのかもしれん』

 コットンが呆れたように肩を竦めてペチペチと火の様の背中を叩く。

「ウジウジしないの! ほら元気出す! ね?」

(この雑な励まし方、子供の頃の僕がふてくされてる時とか文句を言った時とかによくやってくれたやり方と全く同じじゃないか!)

 唖然とするルイユに、ペチペチ叩くのをやめないコットン。火の様は叩かれても怒りはしなかったが元気が出るわけでもないようだった。

『だが、儂は封じられて当然のことをしでかしたのだ。お前さんたちは知らないかもしれんが……』

 完全に落ちこみモードである。ルイユは何を伝えるべきか少し考えてから言った。

「大丈夫です。何があったのかは知っています。島の人々は恐怖に駆られてあなたを封印したことを後悔していました。封じられていてはわからなかったと思いますが、彼らはお祭りの際には必ずこの洞窟に来てあなたに謝っていたんです」

『そうじゃったのか! だ、だが生きた竜を見るのと竜の剥製を見るのとではまた別だろう。動く儂の姿を見せることで不安にさせてしまったら……』

「確かに人は心身共に弱く流されやすい生き物です。トラウマに怯え続けている僕なんかが偉そうに言うのもなんですが。でもあなたが守ってきた土地に住む人々はあなたとの暮らしを望んでいます」

「そーよ! だからほら、前へ進んで」

 火の様は目を閉じた。

 じっと考え、そして力強く頷いて老竜は前へ進んだ。

 ゆっくり、ゆっくりと膜がその背に乗る二人の目の前に迫ってくる。コットンはルイユの座るすぐ前に座り直すときゅっと目を閉じた。ルイユも目を閉じ、外の眩しい光に備えた。


: : : :


『ああ、何年ぶりの外の空気か』

 ちょうど二人が洞窟の外へ出た時、火の様は洞窟の入り口に影を落とす茜空を仰いでそう言った。

 時刻はすでに夕方。島の火山にかかる雲はルイユの赤毛のような明るい色に染まり、空は美しいグラデーションだ。

 火の様は背の上で微笑む二人に目を細めて感謝の意を伝える。

 体調は大丈夫かと尋ねるコットンに頷きかけ、火の様は脱皮をするために洞窟前の広場にとぐろを巻き始めた。それでも大きな体の半分はまだ洞窟の中だ。


 そして火の様の長く立派な尾が完全に洞窟から出ようとしたその瞬間、事は起こった。

 前触れはあった。だがそれはごく小さなただの物音だったから、唯一それに気づいていたルイユは草むらにカモメでもいるのだろうと思い気に留めていなかった。

 上方から火の様の首の付け根をめがけて魔法の氷柱が飛んできたのだ。

 対魔物用の威力が高い攻撃魔法だ。竜だろうと食らえば酷いダメージを負う。

 自由落下よりも明らかに早く落ちてくる氷柱をルイユが魔法で弾いて落とした。その氷柱が地面に落ちて割れれば息つく間もなく矢や雷魔法などが次々と襲いかかってくる。

 手を振り物理反射の魔法と魔法を受け流す魔法を矢継ぎ早に発動させて全ての攻撃を不発に終わらせ、攻撃が飛んできた方へ「誰だ!」と鋭い問答の声を返す。

 襲撃者からの返答は洞窟の入り口の上、まさにルイユたちが顔を向けているこの島の頂上から返ってきた。

「そちらこそ誰だ。俺たちは島の民に頼まれて地震の原因を探りにきたのだ。俺たちの邪魔をするとは万死に値するぞ」

 随分と気取った話し方に夕陽を反射して煌めく装備品。彼らは火の様やルイユたちを見下ろしてフンと鼻を鳴らした。

「地震はその火竜が原因なんだろう? 少し暴れれば地震くらい起こせそうなでかい図体だ。町に被害を出す前に討伐してくれる!」

 彼らはルイユたちがいる場所へと飛び降りて各々の武器を構えた。先頭の鎧を着けた青年は立派な剣、ウィッチハットの女性は指先に魔力、盗賊のような身なりの青年は弓だ。

 この冒険者たちは今日の昼に白い魔鳥に変身したルイユを本物と間違えて襲った冒険者たちと同一のパーティーだった。

「火の様、逃げますよ! こいつらは厄介な冒険者どもで、見た目のザコさによらず意外と強いしネチネチしつっこいんです!」

 ぷんぷんしてコットンが叫ぶ。連続で魔力消費の大きい魔法を発動させたせいで疲れて息も上がっているルイユはいつもより止めるのが遅くなった。

「コットン……悪口であいつら刺激してどうすんのさ」と服の袖で汗を拭きながら宥める。しかしコットンの怒りはまだふつふつと煮えたままだ。

「ふーんだ! どれだけ私たちを攻撃すれば気が済むのよ! それに今度は火の様を討伐って、詳しい事情も知らないくせに!」

「コ、コットン……」

「なにい! 一度ならず二度までも俺たちを侮辱するな!」

「一度ならず二度までも攻撃してくるなっての、このポンコツ冒険者どもー!」

「う、うるさい! あの時は調子が悪かったんだ! 今度こそ負けないぞ、鳥人間にうるさい小人め!」

「コットン〜!」

 リーダー格の青年がビシリと人差し指を向けるとその後ろの二人が攻撃を仕掛けてくる。また魔法で攻撃を防ごうとして、ルイユは魔力切れを起こし気絶した。

 火の様の背中から滑り落ちていく彼にコットンが飛びつく。

 火の様は冒険者たちの攻撃を翼で防ぐとルイユとコットンを両前足のかぎ爪に引っ掛け、力強く翼を打ってそのまま攻撃が届かない上空へ飛び上がっていった。






〈竜と人の絆〉

 魔力切れを起こして気絶していたルイユは後頭部や背中が熱くなっていることを感じて目を覚ました。ゴツゴツとした小石の感触や風が吹きっさらしの身体を撫でる冷たさから屋外の硬い地面に寝かされていることがわかり、ぼんやりとして記憶の整理がつかなまま上体を起こす。

「よかった、目が覚めて。ほらルイユ、早く起きて。しっかりして」とコットンが優しく声をかける。

 ルイユはゆっくりとその声が聞こえてくる方向へ顔を向けたが、沈みゆく太陽が燃えているように眩しくて少し動きが鈍る。強い光が目に残ったのを目をくりくりと擦って解消しようとする。

 コットンはルイユの悠長な動作が焦ったくて彼の膝の横あたりでぴょんぴょんと跳ねた。黒っぽく粒が粗い砂の地面がザリザリと音を立てる。

「ねえ、早くってば」

「ごめんよコットン。それで、ここは……? いや、まず僕は何してたんだっけ」

「火の様に鱗をもらおうとしてたのに冒険者どもに邪魔されたから撃退しようとしたの。でもタイミング悪く魔力切れ。心配したんだから」

 コットンがその小さな肩をすくめ、やれやれと首を振り「無理するからこうなるのよ」と付け足す。だがルイユは付け足しのほうは聞いていなかった。

「冒険者……魔力切れ……。そうだった冒険者! あいつらは今どこに? 火の様は……」

 ルイユは地面に手をついて立ち上がろうとした。しかしまだ機敏に動けるほどに回復できていないためくらくらして座り込んでしまう。

「ひどく目眩がする……」

「もう……。あいつらはまだここへ来てないわ。じきに来るかもしれないけど時間はかかるはずよ。私たちは火の様の立派な翼でひとっ飛びに運んでもらったけど、重い装備をつけてちゃ山登りは大変だもの」

「山? もしかしなくても火山だよね。なんだか地面がじんわり熱いし、植物が少なくてそこらじゅうに火の妖精がたくさん」

「そう。私たち今は本島にある火山の火口近くにいるの。ルイユ、魔力分けてもらったんだから火の妖精さんにお礼言ってね」

 そう言われてルイユが妖精たちに顔を向けると、彼らは平らな岩の上で飛び跳ねて『お礼は金の装飾品でいいよ』とケラケラ笑いながら言った。彼らが跳ねるたびに彼らの纏う赤い炎が細かい火の粉になり暖炉のとろ火のようにチラチラと煌めく。

 個人で金の装飾品など持っていないルイユは苦笑いをして「助けてくれてありがとう。僕の店にある蝶の形の動く金細工、あなたたちになら半額で売りますよ」と返す。

 妖精たちは『欲しいな、欲しいな、金の蝶』と歌ってどこへともなく消えていった。

『お代はこれでどうでしょう』と妖精の声だけが聞こえてきて、ルイユはつい彼ら妖精が人とは違うと知りながら妖精たちが消える前にいた岩の上へ顔を向けてしまう。すると後ろの方から何か小さく硬いものが投げられてきてこつんとルイユの後頭部に当たった。

 地面に落ちたそれをコットンが押さえて転がっていかないように固定する。彼女の顔ほどの大きさのその石は宝石のようにキラキラとしていた。

「これ、あったかいわ」

「火の妖精が持っていたからじゃない?」

「違うわよ。石の中で赤い色の火が燃えてるの、そこからだと見えない?」

 キレイな炎よと言ってコットンが石をルイユに差し出す。ルイユはそれを受け取り、じっくり観察した後に言った。

「ありがとう。結構大きな炎だね」

「……ルイユ、老眼ってやつ? そんなのも見えなかったなんて」

「違うよ! まだ少し頭がくらくらしてたんだ。妖精たちに分けてもらった魔力の量が多すぎたみたい」

「突然空きっ腹に食べ物を詰め込んで気持ち悪くなっちゃった、みたいな?」

 コットンはルイユの右肩の上に登りそこに腰掛けた。彼は頷いて肯定の意を示す。

「うん、そんな感じ。どうしよう、今冒険者たちが来ても太刀打ちできそうにないよ。火の様に何かあったら困るのに」

 あの冒険者たちの国籍はわからないが、少なくともルイユたちも住んでいるこの国の冒険者たちは自分が倒した野生の獲物は自分のものにできる。そういう法律があるから、冒険者たちに火の様が討たれてしまうと鱗はわけてもらえないかもしれないのだ。それにそもそも心優しい火の様が地震を起こした悪者として討たれてしまうことは避けたい。


「火の様は今どこにいるの?」とルイユが周囲を見回して言う。

 ルイユたちの周りに人間より大きな生き物の姿はなく、火口に近いためか植物も少ない。生えているのはせいぜいルイユの腰の高さほどの細くひょろひょろの木や雑草ばかりである。地面も色が黒っぽくあまり植物が育つのに適しているようには見えない。

 もうすぐ太陽が水平線に届こうとしている黄昏時の空を見上げると、標高が高いところにいるので空が近いように感じる。

 しんとした山の上で聞こえてくるのは風の音ばかりだ。その静けさがルイユの不安を掻き立てる。

「ね、ねえ。まさかもう火の様は山を降りたなんて言わないよね」

「えっ、それは……ど、どーだったかなー」

 コットンの目がせわしなく左右に揺れるのを見てルイユは真っ青になった。

 ふらふらしながらも立ち上がるとちょうど足を向けた方向から島の住人が四、五人やって来るのが見えた。彼らは防寒具に身を包んで頬を上気させており、笑顔でルイユに手を振っている。

 火の様をどうしたのか問いただそうとルイユが走り出す。だがすぐに彼らの声が耳に入り立ち止まった。彼らはみんな「ありがとう」と言っていたのだ。

 何が「ありがとう」なのかわからずに戸惑っていると先頭の島人たちにだいぶ遅れて歩いてくる火の様の頭が見えた。よくよく目を凝らすと、その背中にはルイユとコットンにお守りを売ってくれたオバさんと島のリーダー(ルイユは彼に直接会ってはいないがポスターに顔が載っていたのでそうとわかった)が乗っているのも見える。

 火の様はルイユの近くまで来ると背中の二人を地面に降ろした。

『起きたんじゃな。気分はどうかな』

「僕は大丈夫です! よかった、無事だったんですね」とルイユが火の様に駆け寄って言う。

「でも、どうして」

 その問いには答えずにグルグルと喉を鳴らしてルイユに頬ずりをし始めた火の様に代わってオバさんが口を開く。

「どうしてって、アタシはあんたとその可愛い小人さんに火の様の話をしたはずだよ。アタシたち島人は八十年前からずっと封印を解きたかった。実行に移す勇気のある者はいなかったがね」

 そう言うとオバさんはめいいっぱい腕を伸ばして厚手の上着をルイユの肩にかけた。高山でよく着られるものである。

 ルイユは保温性のあるその上着をかけられてからやっと自分が標高の高い山の上では寒すぎるはずの薄手の服しか着ていなかったことに気がついた。

 不思議がって自分の手を閉じたり開いたりする彼に、火の様はとても嬉しそうな声で話しかけた。

『火の精にも好かれておるようじゃの。彼らが人の子にそれほど寛容であるとは珍しい』

「いえ、魔力の代償に金細工を求めましたよ彼ら」

『おやおや。ところでお前さん、儂は島の人たちに許しを乞うてもう二度と火山の管理を怠ったりはせん、島人に被害が及ぶようなヘマはせぬからまた共に暮らさせてくれと頼み込んだのじゃ。優しき人の子よ、彼らの答えはどんなものじゃったと思う?』

「ど、どんなって」

 嬉しそうな火の様により強く顔を擦り付けられて倒れないようにするのでルイユは精一杯だ。コットンが自分の足をよじ登って借り物の上着のポケットに入り込んだのを出させようとしても腕を伸ばすことすらできないほどで、答える余裕などない。

 みかねた島の住人たちのリーダーが前に一歩出ると咳払いをし、口を開いた。

「私は島の代表として火の様と対面いたしました。この八十年間の我々の後悔を伝え、封印しておいて身勝手だとお怒りになるのも当然とは存じますがまた竜と人との絆を紡いでいってはくださらないか、と頼みました」

『そう、そうなのじゃ! お前さんの言った通りじゃった。儂はまた人と暮らしていける。お前さんのお陰じゃのう』

「よかった……。じゃあ、島人たちは火の様を討伐しようとはしていないんですね?」

 ルイユが島人たちに問うと彼らは首をぶんぶんと横に振った。

「討伐だなんて!」

「そんな、そんなこと絶対にしません!」

「あなたがおっしゃっているのはあの冒険者たちのことでしょう。ご安心を。出過ぎた真似をしたことはこってり絞っておきましたし、今は島人みんなで見張っていますから」

 リーダーがにこりとして言う。ルイユはなんだか体から力が抜けていくのを感じた。鱗に覆われた火の様の大きな鼻先をそっと撫でる。

 火の様は頬ずりを止めてルイユのこげ茶色の目を覗き込んだ。ルイユは何気なく火の様の穏やかなレモン色の目を見返して、コットンがとっくに気づいていたようにハチミツ色の経験の輝きに気がついた。

「僕がここで寝ている間にもう全部片が付いたんですね」

『ああ。じゃがやはり、お前さんには感謝してもしきれん。封印を解き和解のための機会を与えてくれたのも、洞窟の上からの急襲を防いでくれたのもお前さんじゃった。油断していた儂を守ってくれなければ、儂は人々と和解することもできずあの時にくたばっていただろうよ。本当にありがとう』

 火の様がそう言うと島人たちも揃って頭を下げる。たくさんの人が「ありがとう」と感謝の言葉を自分に言うのを聞いて、ルイユは赤くなって俯いた。

「僕、火の様が無事で本当によかったです。あの時、守りたいって思ったから……その目的が果たせてよかった」と小さな声で呟く。

 だが、冷静なコットンが黙っていない。ごそごそと身動きをしてポケットから顔を出し、ぷはあと息継ぎをしてルイユを軽く睨みつける。

「ルイユ、確かにあなたは冒険者たちから火の様を守りたいと思ったでしょうし、その目的は果たせたわ。でも『本来の』目的を忘れてどうするのよ。もう何回目? 忘れるの」

「……? あっ、そうだ、まだ鱗を……」

 鱗と聞いて島人たちが怪訝な顔をするが、すぐに火の様が『そうじゃった、お前さんにかけられた魔法を解くために必要なのじゃったな』と言って計らずも島の人たちの疑いを晴らす。

『少し待っておれ。この老竜の鱗を渡そう』


: : : :


 火の様が目覚めた、その次の日。

 ルイユは島の宿屋の真っ白でふかふかなベッドの中で目を覚ました。自分の枕のすぐ横で宿屋のミニタオルを布団にしているコットンに声をかける。

「おはよう、コットン」

「うん……ふわふわー」

(目を開けて……寝てる……?)

 半目を開けて寝言を言う彼女の長い髪の毛を指先でつまみ上げてみる。まさに綿花の繊維のようなふわふわの髪をつんつんと引っ張るとコットンはぱっちりと目を開けた。

「ルイユ? 髪触んないでぇ」

「……はい」

 彼は言われた通り手を離してベッドの上で体を起こした。

 朝の九時。彼らにとっては遅めの朝だ。


 二人がまだ島にいるのは、昨日は火山の頂上で長々と話している間に太陽が沈んでしまったため脱皮はできなくなってしまい脱皮が次の日に持ち越しとなったからだ。火竜とはいえ寒いところで脱皮をするのは危険なのである。

 つまり、二人はまだ鱗を手に入れられていない。

 二人は今、島人たちの厚意で島一番の宿屋にいる。彼らが昨日に温泉施設だけ利用した宿屋よりもずっと高級で、南国風情に溢れ、建物全体に爽やかな花のいい香りがしているようなグレードの高い宿屋だ。しかし二人は(ルイユの財布の残金が子供の小遣いとさほど変わりないというのもあり)タダ同然で泊めてもらっていた。

 二人は起床するとまずはいつもよりも時間をかけて念入りに身支度をした。ルイユは火山を降りたあと島の住人にもらったこの時期の島の気候にぴったりなクリーム色の長袖シャツとワイン色のズボン、コットンは昨日ルイユに購入してもらったワンピースを身につける。

 着替えが終わればお互いにおかしなところがないか確認し合い、それから右肩にコットンを座らせて部屋のドアの前に立つ。深呼吸をしてドアノブに手をかける。

 廊下には冬の寒さを南の島で凌ぎに来た本物のセレブたちがいるのだ。ド庶民の二人が緊張するのも無理はない。

「じゃあ、行こうか。火の様とはお昼ごろに島の中心の広場で待ち合わせだよね」

「うん」

 ドアノブを回して手前に引く。ちょうど部屋のすぐ前に立っていた人が驚いて小さく「きゃっ」と声を漏らした。

「あ、すみません……へ?」

「あらフューラーさん」

 呼びかけられてフューラーがぱっと顔を向けた。束ねられていない亜麻色の髪がサラリと流れる。

「雑貨屋の店長さんに小人の店員さんじゃないですか! すごい偶然です、私隣の部屋に泊まってるんですよ〜! おはようございます!」

 目をキラキラとさせる彼女の人懐っこい笑顔につられてルイユとコットンの緊張は少し和らいだ。

 コットンは「なんで私たちには使えない外貨を渡しておいてこの人は普通に高級宿に泊まってるの?」と思ったが口には出さなかった。きっと深く考えて行動できる人ではないと判断したからだ。


 洒落た食堂で美味しい朝食を食べ、土産物屋を少し覗いてみてから一行は島の中心広場に向かった。

 コットンは朝食のパンが普段食べるものよりもずっと柔らかく甘かったので上機嫌だった。それでも表情が硬いのはなぜフューラーまでくっついて来て一緒に歩いているのかが不思議でならなかったからだ。ルイユも不思議に思ったが、口に出して尋ねることはしなかった。

 商店が立ち並び人も多い通りに入るとそこら中の男性たちの目が観光客の財布からフューラーへと寄っていく。

 ルイユとコットンは男たちの視線にチクチクと刺されながら歩くことになったが彼女はそれに気付く様子はなく、のほほんとした笑顔でルイユに話しかける。自分のその行為が店先に立つ男どもの嫉妬心を煽りに煽って彼(とその肩の上の小人)を苦境に追いやっているとは気付かない。

 ルイユは彼女を無視することも馴れ馴れしくしすぎるのも許さないぞと視線で訴えかけるフューラーファンたちと目を合わせないようにして歩くしかなかった。

「いや〜、この島の火竜はおじいちゃんらしいですねぇ。私、ここの火竜の鱗でもいいなぁって思えたら別にそれでもいいんですよね〜。そりゃあ、キレイな方がいいんですけど……」

「そ、そうなんですか?」

(視線がチクチク……まるで質の悪い毛糸の服を着ているみたい。もう、なんなのよ一体)

 コットンはため息を吐き、大きく体を後ろに倒した。ルイユが慌てて魔法で落ちないように補助をする。目に見えない背もたれを使って空を見上げている様子は傍目にはかなり無理な姿勢に見える。真っ青な南の島の空を見ているはずの目は寝不足の時のようにどろんとしている。

 流石のフューラーもコットンの不機嫌オーラに気付いて慌てて付け足した。……最も、フォローの方向性は的外れだったが。

「あっ、私から依頼したのにこんなワガママ言ってすみません! 遠い島までわざわざ行かせておいて……あれ、でも結局はあのちびっ子になっちゃった火竜くんが来てたからこの島に行くことになってたのかしら?」

「まあ、そうでしょうね」

 コットンが不機嫌に答える。

「と、とにかく苦労が減るならそれでオッケーってことで。あはは」

「フン……まあいいわ。ルイユ、早く行って鱗を受け取りましょ」

 コットンは背もたれにもたれかかったままルイユの耳たぶをぐいぐいと引っ張って言った。

「お客様が火の様の鱗ではお気に召さなかった場合、家まで戻って鍋をかき混ぜ薬を作る必要があるんですしぃ!」

「コットン、お願いだからもうちょっと小さな声で喋って……視線が針から槍にならないように……」


 そうしてチクチクと刺さる視線に耐えながら歩いて長い大通りの端まで来るころには、もう広場で寝そべっている火の様の頭が見え始め、人々が楽しげに笑い合う声が聞こえ始めていた。コットンに急かされて広場の入り口への短い距離を走る。

 広場の入り口付近では島のリーダーが彼らのことを待っていた。小さな荷物を両手で大事そうに抱えたまま綺麗なお辞儀をして出迎える。

 火の様は広場の奥半分をその大きな体で占拠して島の子供と遊んでいて子供の相手で忙しそうだが、ルイユが来たことに気がつくとそっと首を回して軽く会釈をした。ただ「そっと」と言ってもかなり動くので頭の上に乗って角を触っている子が普段体験できない動きに嬉しそうな悲鳴をあげる。

 グルグルと喉を鳴らす音が出てくると島の子たちが不思議がって火の様の顔や喉、手足や尻尾などをペタペタと触りまくる。火の様は目を細めてさらに喉を鳴らす音を大きくした。

「お待ちしておりました。ルイユさん」と島のリーダーが言ってルイユを出迎える。

「すみませんロンさん、遅くなってしまって」

「ああいえ、そういった意味ではなくてですね……。どう言ったらいいのかな、もう十年ほど島の代表をやっとりますが、いつでも挨拶というのは難しいものです」

 島のリーダー、ロンは苦笑いをして「これでも初めよりはマシになったんですが」と言って一つに束ねた濃い栗色の髪を揺らした。彼の髪はルイユと同じように低い位置、しかし彼よりもゆったりと余裕を持たせて首の付け根に結び目がくるように結んであり、長さはへそのあたりまである。

 ルイユはきっと気付いているだろうと思いあえて口に出して言うことはしなかったが、ロンも恐らくそれなりに強い魔法が使えるのだろうとコットンは思っていた。

 髪は呪いに使われる。束ねていた方が地面に落ちる髪の毛は少なくて済むため、自衛のためにも身近な人の安心のためにもその方がいいのだ。

「代表っていうのも大変なんですね。うちのルイユもいちおう店の主人ですが、そんな様子はこれっぽっちも見せないものですから、こういう機会がないとさっぱりわかりませんわ」

「そ、そうですか」

(ロンさん気まずそう……。それに僕だって、島をまとめるよりは規模が小さくったってそれなりに大変なんだけど)

 コットンは滅多なことでは自分の発言により沈黙が訪れても気にしないし、フューラーはこのやりとりに興味がないようで火の様の方をじっと見て何事か考えつつ自分の髪をいじっているが、ルイユとロンの間には微妙に気まずい空気が流れる。

 二人は何も言わずともお互い苦労しているのだなとわかり苦笑した。

「……ええと、気を取り直して。ルイユさん」

「はい」

「実はもう火の様は脱皮を終えられました。鱗がまだ乾いていない時に強い日光に当たるのはあまり良くないらしく、脱皮は日が昇ってすぐに洞窟の中で始められたそうです。抜け落ちた鱗はこちらに運び、ルイユさんにお渡しするもの以外は火の様がまた島人たちと共に暮らしていくこととなった記念としてアクセサリの形に加工して島人に配るにすることにいたしました」

「それはいいですね! 竜と人の絆……島の人たちが取り戻したものの象徴ですね」

「よろしければ、お二人にもこれを」

 ロンはルイユとコットンに赤い鱗の髪留めを手渡した。小人のコットンには小さめの鱗でも髪留めとして使うには大きいのでネックレスのように首から下げてみると、首飾りとして使うにはぴったりだった。

「それから、ルイユさんには加工していない鱗もお渡しします。解除薬の材料としてご活用ください」

 無加工の鱗と聞いてフューラーが目を向ける。だが、お気に召さなかったらしく肩をすくめて首を横に振った。

 コットンがため息を吐きこっそり彼女を睨みつけていると、火の様が『おおーい、人の子よ』と呼びかけて子供たちを踏みつけないようにしながらゆっくりとルイユたちの方へ歩いてきた。

 すると火の様の周りの子供たちが勘違いをして火の様を見上げた。

「呼ばれた? なあに?」

「声ふしぎ、魔法でしゃべってるのすげーなぁ」

「ぱんちする? えいっ」

『これこれ、儂の爪は硬いぞ。ぱんちなどしたら怪我をしてしまうかもしれん。すまんがルイユ、お前さんがこちらに来てもらえるかな。見ての通り身動きが取れないのじゃ』

「はい、わかりました」

 ルイユが歩きだすとロンもついてくる。フューラーはその場から一歩も動かず、三人に見られていることに気がつくとアイドルのようににっこり笑顔で手を振った。


 火の様の近くまで行くと島の子供たちの笑顔がよく見える。彼らはお祝いの時の装いで髪にハイビスカスの花飾りをつけてはしゃぎまわっている。

『幼子の笑顔は活力に満ち溢れておる。いつの時代も変わらぬものじゃのう』

「そうですね、彼らは心の底から楽しくて笑っていますから。僕も……魔法学校に通う前……それくらい小さいころの楽しい思い出はたくさんあります。友達といたずらしたり、バレないように手を抜きつつ父の仕事を手伝ったり、母の手料理をつまみ食いするのも楽しかった」

「ルイユさん、それ、怒られませんでした?」

 ロンがやんちゃな子供から自分の髪を守りつつ思わずといった風に尋ねる。

 ルイユは楽しそうに「きゃー」と悲鳴をあげて襲ってきた子供を魔法で浮かばせて火の様の背中に乗せてあげてからその質問に答えた。

「ええ、怒られましたよ。でも相手が深刻にならない程度にやってたので。『風妖精ルイユ』なんてあだ名もつけられて……。楽しかったので、続けるつもりでした」

 ルイユは自分の足元に視線を落とした。

 楽しかった思い出の次には半ば強制的に親元から離されその先の学校でもうまくいかない、そんな辛い記憶がある。

 火の様はまず子供たちに広場の端で待っている親の元へ戻るように言った。そしてルイユに向き直ると『お前さん、また辛かった当時のことを思い出しておるのじゃな』と静かに言った。

 ルイユもコットンは驚いた。能力規制の魔法については話したが、魔法学校時代のことは何も教えていないのに知っているのはおかしい。驚いた顔をするルイユに火の様は申し訳なさそうに言った。

『すまんの。実は昨日、魔法でお前さんの過去を見させてもらった。なにせ、お前さんからは島の温泉の匂いはしても島の生活の匂いはしなかったからのう。島人以外の人間に苦手意識があったのでな』

「……そう、でしたか。でも大丈夫です! 警戒するのも当然ですから」

 ルイユは笑顔でそう言ったが、その表情に陰りがあることはコットンやロン、火の様にもまるわかりだった。

 コットンが顔を覗き込んで「無理してる」と言う。疑問系ではなく断言するように強い口調だ。

 ルイユは何も言い返せず口をつぐみ、彼女から目を逸らした。その様子を見て火の様がゆっくり静かに地面に伏せて首と頭も地面につけた。いくら体が大きくてもそうすればルイユよりも目の位置が低くなる。

『儂がお前さんの過去を覗き見たのはお前さんが気絶して火山で寝ている間のことじゃった。……儂は、お前さんが火竜に食い殺されそうになった過去を持つとは知らなかったが、それでもあんなに怯えていたのだから、お前さんの気持ちをきちんと汲んで動くべきじゃった。儂を見て、それは怖かったろう。いきなり近づいたりしてすまなかった。許してくれ』

 火の様はそう言って目を閉じた。ロンは驚きで目を見開き「火竜に……そんなことが……」と呟いて口元に手を当てる。

 ルイユの視界の端で、先ほどロンの髪を引っ張ろうとしていたやんちゃっ子がうずうずして火の様の元へ走り出そうとするのを親にそっと止められ、不服そうな表情をしている。

 ルイユはゆっくりと、しかし淀みない足取りで火の様のすぐそばまで近づくと、その鼻先に触れた。もうすっかり固くなった新しい鱗のつるつるとした感触を確かめる。

「確かに僕は怖くてたまりませんでした。あなたを見て逃げようと思った。七年ぶりに火竜の顔が間近に迫ってくるのを見て……食べられると思いました」

 ルイユの手の下で火の様が縮こまるようにぐぐっと動いた。ルイユは手を止めずに続けた。

「でも、僕はあなたが優しく接してくださったおかげでトラウマを克服できたと思います。きっともう、あの悪夢を見ることもありません」

『本当に……? 儂はお前さんに無理をさせてはいないだろうか。気を遣わせてしまっているのでは……』

「大丈夫です。今、僕の手や声は震えていますか?」

 そう言われて火の様がそっと目を開ける。ルイユは少し屈んで火の様と目線を合わせた。彼の丸っこくこげ茶色の目は決して巨大な火竜を恐れてなどいなかった。

 島人たちが皆押し黙って見守っている。

「お礼を言わせてください。僕はあなたに救われました。あなたのおかげで、克服できたんです。ありがとうございます」

 ルイユの声は緩やかな風に乗って確かにその場の全員の耳に届いた。

 言い終わると、ルイユは火の様に頬ずりをした。火の様が彼にしてくれたように、たくさんの喜びと感謝がしっかりと相手に伝わるように。

 広場の中は一瞬時が止まったように静まり返った。常夏の島の強い日差しが広場の白っぽい石畳に反射して眩く輝くが、人々が見ているのは何年経っても変わらないその輝きではなく、広場の中心の老いた火竜と赤毛の青年であり、この島に新たに芽吹いた何かだった。

 初めに広場の静寂を破ったのは誰かの拍手だった。

 それは初めはぱらぱらと、そして徐々に広場全体に広がっていった。指笛が聞こえ、誰かが高くよく通る声で高らかに「絆に、万歳!」と叫ぶとワッと歓声が上がる。

 ルイユが火の様から頬を離して初めの万歳が聞こえた方に目を向けると、そこにいたのはフューラーだった。彼女は満面の笑顔でぱちりとウインクをすると、晴れやかなよく通る声で「竜と人の絆に万歳!」と叫んだ。

 人々が新たに結ばれた絆を讃えて手を叩き、喜び合う。

 歓声の中、ロンが目頭を押さえて滲んできた涙を拭う。彼は一つ強く頷くと、晴れ渡った南の島の空へ手を伸ばした。真っ直ぐ伸ばした人差し指の先に魔法の力が灯る。

「竜と人の絆に、万歳!」

 彼はそう言うと指先の魔法を放った。

 魔法は広場の中に爽やかな潮風を吹き込ませ、色とりどりの鮮やかな花弁へと姿を変えて南の島の空へ舞い上がった。また歓声が上がり、人々は花弁に手を伸べて明るくどこまでも続く空を仰ぐ。

 ルイユもつられて水色の空に舞う花弁に手を伸べた。

 コットンが微笑んでルイユに寄り添う。するとルイユも微笑んで右手の人差し指でそっと彼女の小さく柔らかい頬を撫でる。


 人間よりも長い時を生きる竜はいつか彼らを見送らなければならない。人間は竜よりも弱く、脆く、簡単に命を落としてしまう。深く関われば関わるほど失ったときは心が痛む。だが……。

(ああ、儂は……儂は人を、この儚くも眩い笑顔を守りたくて人との共存を選んだのじゃな。もう忘れかけておった。もうずっと昔になってしまったあの日、人が儂を受け入れてくれた日はどんな気持ちだったか)

 火の様は自らの愛する島の人々が絆を讃えるなかで、今までに見送った人たちの顔を思い出していた。今ここにいる人々のように笑い合う様子、ロンのように彼らの先頭に立つ人が自分だけに見せた涙、ルイユとコットンのように種族の壁を乗り越えて互いを愛おしく思う絆の形。

 火の様は彼らと共に暮らしていた。長い命の時間を持つ者としては深く関わりすぎた。だが、彼らと真摯に向き合ってきた彼だからこそ悲しさや寂しさの中にも絆を見出せた。

『ありがとう、優しい人の子』

 火の様はルイユに包み込むように寄り添うとコットンを潰さないように注意しつつ彼に頬ずりをした。感謝の心がしっかりと伝わるように。

「なんだかすごいことになっちゃったわねえ、ルイユ」とコットンが彼の肩の上で言う。

 ルイユはこくんと頷いて答えた。

「そうだね。こんな素晴らしい経験ができるなんて全く想像してなかった。火の様に会えて本当によかったよ」

『儂もじゃ。ルイユとコットン、お前さんたちに出会えて本当によかった。おかげで儂はまた人と暮らすことができる』

 ルイユとその右肩の上のコットンは照れ笑いをした。フューラーやロンを始め島の人々が近づいてくると火の様は目を細めてルイユに微笑みかけ、彼らの方にも目を向ける。

 それを見て、ルイユは慌てて小声で火の様に話しかけた。

「火の様……その、一ついいですか?」

『なんじゃろうか?』と、火の様もつられて小さな声で言い、他の人に聞かれずに話をしたいらしいと気がつくと繊細な魔法で自らの周りを包み込み、声が他の人たちに聞こえないようにした。

 人々が不思議そうな顔をして足を止める。魔法のない向こう側の音は水中にいるときのようにくぐもってほとんど聞こえないが、様子はいつも通り肉眼で見るのと同じように見える。

 一度は立ち止まったフューラーが首を傾げてまた進もうとするのを、ロンが彼女の肩に手を置いて止める。ぷうっと頬を膨らませて何か文句を言う彼女に苦笑いをして二言、三言返答するとロンはルイユに頷きかけた。

 魔法使い、とりわけ一定以上の強い力を持つ魔法使いには同じように強い力を持つ者にしかわからない苦悩がある。ロンはルイユが何を恩のある火竜に伝えようとしているのかわかっているようだ。

 ルイユはロンに軽くお辞儀をして、少し緊張しつつも続きを口にした。

「ええとその、僕は魔法使いです。だから本名は信頼できると判断した相手にしか教えられないんです。……名前を知られれば自分の力を利用されるかもしれないから。呪いの類で、相手の本名と魔力を利用するものがあるんです。それで、みんな僕のことをルイユ呼びますが、ルイユというのは愛称みたいなもので……僕の本名ではありません」

『なんと、そうじゃったのか』

 火の様が金色の目を驚きで見開いた。

 コットンが「私は当然、もう知ってるけどね」と誇らしげに胸を張る。

『本当の名を、儂に教えてくれるのか』

 ルイユは照れてこくりと頷くと、内緒話をするために火の様の耳に自分の口を当てて口元を手で覆った。

「僕の本名は、-----です」

 ルイユはそう言うと口を火の様の耳から離した。『良い名じゃ』と目を細める火の様に屈託のない笑顔を返す。

 火の様が魔法を解くと、ロンや他の島の住人の魔法であっという間に祭りの会場と早変わりした広場のざわめきが押し寄せてきた。

 広場の周りを縁取るように植えられたヤシの木に風にはためくガーランドがかけられ、建物の外壁には島のマークが入った鮮やかな赤色の布製の旗が造花のハイビスカスとともに飾られている。

 火の様の昔話を教えてくれたノームのオバさんやその他の商人たちはお使いちびっ子たちに指示を出しててきぱきと出店の準備を進め、耳の早い観光客も広場の入り口付近に集まって予定になかったお祭り会場の出現に期待して目を輝かせている。

 冬でも暖かな気候の島に降り注ぐ太陽の光と爽やかな潮風が、今日はお祭り日和だと告げているようだった。






〈旅の終わり〉

 ルイユとコットン、それにフューラーは島で火の様との新しい絆の始まりを記念して開かれたお祭りを楽しんだ後、名残惜しく思いながらも夕方の早い時間の船に乗り込んだ。

 ルイユたちがこの日のうちに島を出ることにしたのは店に帰るのにも最低で三日はかかるから、これ以上島に滞在すると弱冠十歳の子供(の姿をした短気な火竜)と呪い人形に一週間以上も店を任せることになるためだ。島の人たちはあと一日と引き留めたが、訳を話すとわかってくれた。

 火の様とロン、島の人も何人かが港に並んで立って見送りをしてくれたのはまだ日が傾き始めた時間のことだった。

 船の甲板に立ち、人々が両手を大きく振って、また火の様が彼らの真似をして立派な翼を振って見送ってくれるのに手を振り返す。

 ある程度島から離れたとき美しく燃える太陽が山肌を輝かせるのを見て、ルイユは魔力のお礼として火山の妖精たちに蝶の金細工を売る約束をしたことを思い出していた。


 港の人たちが見えなくなると、ルイユは島の全景を眺めていつかまたこの島に来ようと心に決めてから甲板を後にした。

 その足で船の客室に戻る。ただ、客室といっても個室ではなくふかふかしたクッションのついた長椅子がいくつか設置されているだけの広い部屋だ。この船は客船というより遊覧船に近い造りをしている。航行時間は約一時間ほどあり、乗船している人は甲板かその部屋かのどちらかで時間を潰すのだ。

 ルイユは前から二番目の長椅子、コットンの右隣に腰掛けた。手触りのいい青色のシートを手で撫でる。

 コットンの左隣にはフューラーが窓枠に肘を乗せて座っている。それでもルイユがそこに座れたのは、船の中にいる人の大半がカップルや家族連れで一人の人がほとんどいなかったからだ。

 部屋内は穏やかに談笑する声でざわざわとしていて、ルイユにはなかなかに居心地良く感じられた。


 彼女たちはすっかり話し込んでいて、ルイユがすぐ近くに座ってもなぜか全く気付いてくれなかった。

 フューラーはコットンだけに聞かせているつもりで、元々今日の昼ごろまでの滞在のつもりで来ていたのに帰る予定が長引いてしまったと朗らかに笑って言っていた。

「それでですねコットンさん、今日までなのよって言うと島の男の人たちが自分の家に泊まらないかーって言うんですよ〜! 魅力的なお誘いですが私もお仕事があるので〜って言って逃げました!」

「へえ、美人も大変ねぇ。私はそんなセリフちっとも言われなかったわ。私が小人だしルイユと居たって言うのもあるだろうけど、それ以前に島の男どもの目に入ってなかったみたい」

「いーえ、コットンさんはとってもキュートですよ! 私、コットンさんみたいなふわふわの髪に憧れてるんですよ〜! ふわふわなのに広がりすぎない、私の理想に近い髪質です!」

「そ、そうかしら? 私は自信ないわ。フューラーさんみたいな魅力的なものも何もないし」

「そうでしょうか? コットンさんはとっても素敵な小人さんですよ! 私、ちゃんとコットンさんのこと見てハナの下伸ばしてる人見つけましたよ〜? あ、ハナの下伸ばしてるっていうとちょっと違ったかもですが……娘を見るような見守るような目? というかそんな感じでした」

「誰それキモっ! そんな目で小人を見る人間なんて……」

「ルイユさんですよ」

「ああ、なあんだ。それなら安心。いつものことだもの。あのね、ここだけの話ね、ルイユは私が育てたようなものなのよ」

「ええっ! コットンさんとルイユさんってどんなご関係なんですか? あっ、そういえば店でルイユさんのことうちの『亭主』って言ってた記憶が……! しゅ、種族を超えた愛、みたいな!?」

「ばっ、そ、そんなんじゃないわよ! 『店主』よ、テンシュって言ったの! ……まあ、ルイユとは一緒に住んでるけど」

「ええっ!」

「いやあ、そんなんじゃないわよ〜!」

「いや? そんなんじゃないの?」

 ルイユが思わず口を挟むと女子二人はピシリと固まった。女子トークに花を咲かせて完全に油断していた笑顔が引きつる。

 コットンは体ごと回転して彼を振り向いた。その顔は少し引きつっているもののまだ笑っているが、目はうるうると潤んだ泣き笑いのような微妙な表情をしている。

「……ルイユ、いつからそこにいたの?」

「……ついさっきから」

「うそ。はっ、恥ず……ルイユぅぅぅぅ!」

 コットンは真っ赤になってフューラーの後ろに隠れた。

 ルイユはトテトテと走る彼女を見慣れているのでそのあまりにも素早い動きにかなり驚いた。視線を遮っているのがフューラーなのでその向こうを覗き込むことはできないが、精一杯首を伸ばして「コットン?」と呼びかける。

「こっち見ないでぇぇぇっ!」

「え……なんで……」

「えーと、オトメゴゴロですよ! ルイユさん、頑張って!」

 フューラーは困惑するルイユにガッツポーズをした。この部屋にいる人々も微笑ましく思ったようでにこにことしている。だが、ルイユはなおも理解できずに眉尻を下げた不安そうな表情をしていた。

 フューラーは自分の陰に隠れるコットンを見た。彼女はフューラーの服をぎゅっと掴んで「見ないでって言っちゃった……」と小さな小さな震える声で呟いては、大きな目からほろほろと涙をこぼしている。

 フューラーが自分を見ていることに気がつくとコットンは下唇をキュッと噛み潤んだ目でフューラーを見上げ、そしてくしゃっと泣き顔を緩めると小さく気の抜けた声を漏らして突然倒れてしまった。極度に緊張して気を失ってしまったような形で、驚いたフューラーがルイユに心配をかけないようにリアクションを抑えつつも様子を見る。彼女は眉根に小さくシワを寄せてすやすやと眠っていた。強気な彼女もきっと長旅で疲れていたのだろう。

 フューラーはルイユが来る前に彼女が「昨日は緊張して眠れなかった」と言っていたことを思い出し、コットンのまさに綿花のようにふわふわな髪を指先で撫でた。

 そして不安で仕方がないはずの魔法使いを振り返り、彼がまだ不安そうな表情をしているのを見ると彼女がずっと彼と一緒にいるのも納得だと微笑んだ。

 その気になれば難しい乙女心も魔法で暴いてしまえるはずなのにそうしない。勢いで口から飛び出した傷つく一言に逆上したりもしない。それでいて、決して彼女のことをおざなりに扱わず、とても大切にしていることが傍目にもよくわかる。

「コットンさんは幸せ者ですね……。ルイユさん、コットンさんが目を覚ましたらきちんと謝るんですよ?」

 ルイユは少し驚いた顔をして立ち上がりかけたが、「今は起こしちゃダメです」とフューラーが言うと素直に頷いて座り直した。

「コットンは疲れるとすぐ寝ちゃうんです。寝顔もかわいくて」とルイユは小声でフューラーに教える。

 それから間もなく、彼も疲れていたようで椅子に座ったままぐっすりと眠ってしまった。

 フューラーはしばらく静かに何もせずそこに座っていたが、二人ともちゃんと眠っているのを確かめてからルイユの腕の中にそっとコットンを返してあげた。

 二人は楽しい夢でも見ているのか、優しい笑顔で仲良く寄り添って眠っていた。


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 ルイユとコットンの二人は、火の様の島と大陸とを繋ぐ船の客室で眠りに落ちた。だから当然のように無意識の中で、次に起きるときは客室の一つ前の椅子の背もたれかフューラーを始め部屋に居た人(あるいは船員かもしれないが)を最初に目にするものと思っていた。

 当然だが、大抵の場合、人が目を覚ましたときその人が最初に目に映すのは最後に眠りに落ちた場所の風景である。


 しかし二人が揺れを感じて目を開けたとき目に飛び込んできたのは、遠く離れた土地にあるはずの自分たちの店。そして店番を任せたはずの人形だった。

 呪い人形は二人が店にいることを不思議とは思っていない様子で、自らの持ち主であるルイユに泣きついた。

「ああ、ご主人! お会いしたかったです! なぜ、なぜリディーにこやつの子守をやらせたのですか。もう我慢できません、我慢できません!」

「え……リディリアス?」

「るっせー! 何が子守だ! 俺はもう百九十四歳、立派な大人だっつーの!」

 そう叫ぶ声がした方を振り向けば、十歳のルイユ……もとい、十歳のルイユの姿をした火竜がぷんぷん怒って文字通り火花を散らしていた。

 ルイユはまだはっきりしない頭で、やけにリアルな夢だと思ってスッと目を閉じた。腕の中でもそもそとコットンが動くのを感じるが、彼女はフューラーの隣にいるはずと思っているのでそれもきっと夢だろうと思うことにする。つまりは現実から逃げたかったのだ。

 しかし堪忍袋の緒が切れたリディリアスがきいきいと騒ぎ立てるので寝ようにも寝れない。

「黙れ黙れ黙れ、この出来損ないが! 我がご主人様の店をめちゃくちゃにしておいて!」

「え、なんだって!」

 ルイユは一気に目が覚めてしまった。

 やっとはっきりとした目で周囲を見てみると出発前に整頓して陳列しておいたはずの商品は倒れて床に散乱しているものもある。柱に飾ったルイユのお気に入りの魔除け草のドライフラワーはなぜか青々とし、窓にはヒビが入り、棚から床に落ちた魔法の本はひとりでにパラパラとページがめくれ、陳列机の上はごちゃごちゃと乱れて、カウンターの上のレジは開きっぱなし。そしてどこからか焦げくさい煙が漂ってくる。

 相変わらず十歳のルイユの姿をしている火竜はルイユがわなわなと震えて開いた口を塞げないでいることに気がつくと、手に持っていた雑貨屋の商品の一つ「呼べルンです第七号機」を慌てて自分の背中に隠した。

 呼べルンです第七号機は外国のベルンという発明家が造った魔道具だ。ルイユは実際に使ったことはなかったが、ベルン博士の直筆と噂の説明書には「この素晴らしい魔道具は最大三回、その場に一番必要な人物が呼べるんです」と書いてあった。どうやら火竜は様々な商品で遊んでいて、効果も知らずに呼べルンです第七号機を動かしたらしい。

 たらりたらりと汗を流して下手な口笛を吹く火竜の後ろの棚から火竜の手が当たってぐらぐらとしていたガラス瓶が床に落ちた。ガラスががしゃんと割れ、その中の薄ピンク色の液体が古い木の床に溢れ染み込んで消える。

 コットンはぱちぱちと目を瞬いてぽかんとしていたが、状況を理解するとすぐに怒りで顔を赤くした。

 それはルイユも同じである。そして彼は、人一倍大切なものを守ろうとする気持ちが強いがゆえにそれらを害された時は人一倍怒りに燃える。

 いつもは寝起きだと機敏に動けないコットンもルイユの様子に気がつくとこの時ばかりは飛び起きて彼が店のドアの下に設置した小人用の出入り口から外へ逃げた。

 彼は怒りのあまり震えながらゆっくりと立ち上がった。

「……まあ、火竜に店を任せた僕がバカだったよ」

「え……あっ、そっ、そうだぞ! こんなに面白そうなガラクタがごろごろしてて興味を惹かれないやつなんていないんだぞ! 四日間も耐えたのを褒めてほしいくらい……」

「ガラクタ?」と言うルイユの声がぐっと低くなる。

「あっ」

「よし。お前のあだ名は今日から『カワハギ』だ」

「ヒッ……。ご、ごめんなさーい!」

 バタバタと逃げようとするが相手は魔法使いだ。あっという間に捕まって浮かび上がらせられてしまう。

 しかし、ルイユは心根の優しい魔法使いであった。

 火竜のあだ名を「カワハギ」にしてやると宣言したものの相手は幼い自分と同じ見た目をしているため流石に気が引けて、ルイユは皮を剥ぐのはやめて魔法でお仕置きするだけにした。

 雑貨屋の中に雷電の鋭い光が煌めき、空中でもがく少年姿の火竜に命中。

 悲鳴があたり一帯に響き渡った。


 恐ろしいお仕置きから数分後の今、火竜はルイユとコットンが能力規制解除のための薬を作っている横でリディリアスに見張られて大人しくしている。

 火竜が「ま、まだピリピリするんだぞ」と自分の両腕をさすりつつ言うと、ルイユは手に持つボウルの中身をかき混ぜる速度を上げた。

「ずっと痺れたままにして竜の姿に戻っても飛べないようにしてやってもいいんだけど。歩いて竜の里まで帰りたいの?」

「反省してるってばぁ……」

 目を潤ませてコットンを見つめる。しかし彼女はちらりと冷たい一瞥をくれただけだった。

「私がちっちゃなルイユの泣き顔に弱いのを見抜いたのは褒めてあげるわ。でも知っててその顔にしてるのムカツク」

「ちぇっ、ダメか」

 火竜は唇をとんがらせて使い古されたスツール(これも一応商品)の上で自分の膝を抱えた。

 七年間人の姿で過ごしたとはいえ火竜に魔法薬作りの知識はない。かと言って他のことをしているわけにもいかないので大人しくしている、というわけだ。

「薬作んのって時間かかるんだろ〜? 潰してまぜまぜしたり、大きな甕を火にかけてぐつぐつ煮たり」

 スツールの脚二本だけを床につけ、軽く後ろにのけぞるようにして壁に寄りかかっている火竜はとても反省しているようには見えない。

 ルイユはため息をつくと手に持った製薬用ボウルと混ぜ棒をカウンターに置いて言った。

「いや、もうできたよ」

「火にかけたりしないのか? 黒くって臭い大釜でぐるぐるとさ」

「あのねえ、今時そんなことしないわよ。火にかけるのは片手鍋で十分だし、そもそも火を使う工程はすでに終わってるわ」

 ルイユが頷く。二人がバカにした目で見てくるので恥ずかしくて微かに赤くなった火竜は、「だったら善は急げ! 疾風怒濤の速さで俺を元に戻してくれよ!」と言った。

「別に、無理して難しい言葉使わなくてもいいんだよ。君は今十歳の子供の見た目なんだから。中身がもうすぐ二百歳でも気にしないよ」

 その時、店のドアが勢いよく開き、なんと船に乗っているはずのフューラーが顔を出した。

「二人ともいますかっ? ああ、よかったぁ! 私心配で……。飛んできちゃいました! ところでもうすぐ二百歳ってなんの話です?」

「フューラーさん!? 飛んできたって……? もうすぐ二百歳っていうのはこの子供の皮を被った火竜のことですよ」とルイユが答える。

 今度こそ、火竜は恥ずかしくて茹でたカニのように真っ赤になった。


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 ルイユとコットンと呪われ火竜、それにフューラーは街の外の森へ向かうことにした。

 冬服に着替える、薬を小瓶に流し込むなどの準備をしながらフューラーにどうやってここまできたのか具体的な方法を尋ねると、彼女は突然消えた二人を心配し、大枚をはたいてあの船が着いた港から一番近い特別な魔法の施設を利用したと答えた。この街までワープしてきたと言うのだ。

 その技術はまだ普及が進んでいないもので、あの島でフューラーが泊まっていた高級宿に何十泊もできてしまうほどの金額がかかったはずだ。

 二人はそのことを聞いて申し訳なく思った。それを聞いた時に思わずやっとできた解除薬入りの小瓶を取り落としそうになったほどだ。それでフューラーに頭を下げたが、彼女は鷹揚に笑って「お二人が無事だったのを早く確認できたので」と許してくれた。

 どうやら彼女は、自分もうとうとし始めてふと目を離したすきに二人が消えたので誘拐か何かだと思っていたらしい。どこへ行こうか迷った末、もし誘拐だとしてルイユが逃げ出せたら真っ先に店に戻るだろうと考えてここに来たということだそうだ。

 ルイユは南の暖かい島で着ていた服装のままのフューラーに自分が持っている中で一番上等な上着を手渡した。

 散らかった店内は片付けに時間がかかりそうなので、日が落ちる前に竜の姿に戻りたいと駄々をこねる火竜に手伝わせるのは諦める。さっさと彼を元の姿に戻し厄介払いをしてしまおうと判断したのだ(口に出しはしなかったが)。


 持ち物の最終確認をし、すぐに戻ってくるからと約束をして文句を言うリディリアスを宥めて森へ出発する。

 久しぶりに自分が住む街の風景を目にしたルイユは、この街に来てからの七年間で四日も街の外にいたのは初めてだったなと気がついた。

 街の中と外とを隔てる簡易関所で門番に挨拶をして森へ出る。それなりに発展していて石の道路や大きな広場や役場があるとはいえ、この街はまだまだ田舎町なのだ。街から一歩外へ出ればそこは森である。

 森には数キロ離れた隣街までの街道が伸びているが、それも石畳で整備された道ではなく馬車の轍がずっと続くような道だ。

 ルイユたち一行はその道から逸れた森の中で少し開けた場所へ行き、そこで火竜にかけられた呪いを解くことにした。いくら火の様より小さな個体とはいえ火竜は火竜。突然大きな体で道を塞いでしまうことは避けたい。

 あまり街から離れると危険な魔物も出るので街を囲む頑丈な造りの建物に沿って膝の高さまである枯れ草の草むらをかき分けて進む。土に還りきっていない落ち葉が積もっており地面はふかふかだ。

 少し歩くとおあつらえ向きに開けた場所があった。フューラーにはコットンを預けて離れていてもらい、ルイユと火竜はちょっとした広場のようになっているその場所の中心へ歩み出た。

 もう雪が降ってもおかしくない季節、葉を落とした木々は太陽のオレンジ色の光をほとんど遮ることなく寂しくなった枝を空へ向けて伸ばしている。冬の森の黄昏時、吐く息は白く鼻先はじんとして冷たい。

 ルイユは上着のポケットからひんやりと冷えた解除薬入りの小瓶を取り出すとコルクの栓を取り、その中身を飲み込んだ。

 一見して甘そうな薄桃色の液体は渋みが強く、粘り気があるのにざりざりとした舌触りでお世辞にも美味しいとはいえないものだった。

「それ、うまいのか?」と聞いてくるのんきな火竜に「不味いよ。フツーの薬といっしょ」としかめっつらをして答える。

 薬を飲んだ彼の外見に変化は見られないが、ルイユ自身には体内に溜められる魔力の量が大幅に増えたことがわかった……気がした。正直実感が湧かなかったルイユはつい首を捻ってしまう。

 火竜を始め周りの人が不安な気持ちを滲ませた表情をしたのを見て、ルイユは慌ててポケットからまた別の小瓶を取り出した。市販の薬で、一般に冒険者として活動する魔法使いが魔力を一気に回復したいここぞという時の魔力回復に使うものだ。

 自作の薬で能力規制の魔法が解けていたとしても体内の魔力の量は変わっていないので、今度はなんらかの形で魔力を摂取しなければならない。

 魔力が自然と溜まる速度は個人差があり、ルイユは鍛えて本来より相当早くしてはいても遅い方。仕方がないので市販の薬草を煎じた薬で補わなくてはいけないがこれもまた不味い。

 火竜はじりじりして何か言いたそうだったが、ルイユが苦味に悶えているのを見て言葉を飲み込んだ。火竜自身は苦いものはむしろ好物だったが、今それを言えばまた電撃を食らいそうだと賢い判断をしたのだ。

「ル、ルイユさーん。アメちゃん要りますか?」

「もらいます……」

 とろけるように甘い飴でなんとか口の中の渋みと苦みをごまかし、ルイユは今度こそと自分の立ち位置に戻って呪われ火竜と対峙した。


 呪いは厄介だ。

 世の中には解術師といって呪いを解くことを生業にしている人もいるが、基本的に術者以外がその呪いを解くことはできない。そして、呪いを解くには呪いをかけるために使った以上の魔力を消費しなければ解除失敗のリスクが高まる。解除に失敗すれば、悪ければ命を落とす。

 ルイユは緊張で跳ねる心臓の音を聞きながら、ゆっくりと震える手を呪われ火竜へと伸ばした。ぴとりと触れた火竜の額の感触は完全に人の子のそれである。

(まったく恐ろしいよ。どうして昔の僕は死にかけながらこんなに精度の高い呪いをかけたりなんかできたんだ? どんな姿に変えようかすら……いや、何をどうしようかすら頭になかったはずなのに)

「目を閉じて」

 七年前のルイユと同じ顔の火竜は皮肉にも当時の彼とそっくりなやり方で目を閉じた。ルイユも七年前と変わらないやり方で、一定の速さですっと瞼を下ろす。

 刺すような冷たい風がざあっと吹いた。

 開始だ。

 火竜に触れた指先からどんどん魔力が吸い込まれていく。薬で回復したはずの魔力がぐんぐん吸い取られて体が足先から冷えていく。

(耐えなければ)

 ルイユは歯を食いしばって魔力を丸ごと持っていかれないように踏ん張った。吸い取られるのに任せてぼーっと突っ立っているだけでは魔力と一緒に魂まで抜かれかねない。


 数十分にも思える数分……もしくはほんの一瞬だったのかもしれないが……魔力が底を突きかけて意識も遠のきかけたその時、ようやく呪いの解除が終わった。

 だがルイユはきちんと火竜が元の姿に戻れているか確認することもできなかった。目を閉じたまま、遠くからコットンたち女性陣の声がするのを他人事のように感じながら後ろへ倒れ込んだ。

 ふかふかの落ち葉に守られてまともに受け身を取らずとも怪我をしなくて済んだが、それでも痛いものは痛い。しかし彼は魔力不足に陥って指先すらろくに動かせなかった。

 彼女らが周りに集まってくることが落ち葉がガサガサと乾いた音を出すのでわかった。仰向けに倒れた状態からなんとか音が聞こえてくる方に首を回す。

「無理しないで。ルイユ、お疲れ様」

「コットン……」

「ルイユ、聞こえてる? 成功してるわ。まずは魔力を回復させるから口を開けて」

 そうコットンの声が言うと、すぐルイユの上に覆い被さるように影が落ちる。

 ルイユは言われた通り口を開けた。またあの苦い薬が流れ込んでくるが吐き出さず喉へ流し込む。疲れすぎて味も感じられなかったのだ。

 そこはさすが高価な薬と言うべきか、薬は飲み終えるとすぐに効果を現してきた。ルイユは舌の上に残る苦味に顔をしかめつつも地面に手を突いて上体を起こした。

 コットンがフューラーの手の上からルイユの肩の上に移動する。目を閉じていても彼には重量や動きからそれがコットンだとすぐにわかった。

 くわんくわんと頭が揺れているかのように感じながらもルイユがゆっくりと目を開けて右肩の上のコットンに笑いかける。正面を見ると小瓶を持って屈み込むフューラーと呪いから解放された火竜の姿があった。

 あの日と同じ。今度は別個体でもない全く同じ火竜の姿。あの日と同じ赤い身体に、鋭い牙が覗く大きな口。

 こうなることはわかっていたものの、やはりショックが大きい。

 ルイユはヒュッと息を飲んだ。自分のことを殺しかけた存在が目の前にいるのだ。体がひとりでに後退する。

 ルイユが見た火竜は犬のおすわりのような姿勢で座っていたが、自分を見るなり青ざめて距離をとったルイユから目を逸らして翼の先で頭をかく仕草をした。

 火竜の体は火の様の半分にも満たない大きさだが、それでも長い尻尾を含めない部分だけでも森の小さな広場のほとんどを占めている。圧迫感はなかなかのものだ。

『あ〜……。やっぱ引くよな、うん。俺も七年ぶりなんで自分でも引いてるくらいだし? ウソだけど』

 別段笑ったりもせずそう言って火竜は赤みが強いオレンジの目をくるりと回した。

 先程までの少年の声とは全く違う魔物の声。低く大きく、火竜にそのつもりがなくても威圧になる。

 コットンがルイユの頬をくにくにと撫でて注意を逸らそうとするが彼の目は彼女の方へ向かなかった。火竜は、ルイユはもう火の様との交流で火竜への恐怖はあらかた解消されたものと考えているようで特別に彼を気遣う様子はない。

『はあ、自分の体だってのに慣れねーなぁ……。呪いが解かれたらもっと清々しくぱりっと戻れるもんだと思ってたんだけど、まあ現実こんなもんか』

 ルイユは恐怖で震えて返事もできない。火竜を直視しないように地面を見つめている。

『……拗ねてるのか? でも俺、お礼はちゃんと言うぜ。ありがとな』

 そう言って前足をルイユへ踏み出して上から見下ろすように首を伸ばす。コットンがしまったと慌てるがすでに遅く、ルイユは反射的に上から迫る火竜のことを見てしまった。

「来るな!」

『えっ』

「早く僕の目の前から消えてくれ!」

 ルイユの悲痛な叫び声が冬の森の中にこだまする。彼の目には涙が滲み、魔力の大量消費による体力の消耗と恐怖からの過呼吸で胸を激しく上下させる様子が決して演技などではないのは明らかだった。

 しかし姿が変わる前は普通に話せていた相手が本来の姿に戻った途端に心からの拒絶を示す様子は火竜の心を傷つけたらしい。火竜は少したじろいだが、すぐに口の端から火の粉をこぼして怒り出した。

『なっ、なんだよ。俺がそんなに悪いのかよ! 俺だってあの時、好き好んでお前のことを襲ったわけじゃねーんだよ』

「嘘だ!」

『ハン、物知りなフリしてても火竜についてはなんにも知らねーんだな!』

 頭に血が上った火竜は怯えるルイユにずいずい近づいた。コットンとフューラーが火竜の足を押さえて物理的に距離を取らせようとするが当然小人と一般女性の二人だけでは火竜の力に敵わない。

 火竜は彼女らがいないも同然に突き進み、ルイユの上に覆い被さって口の端から夕日の色の炎をちらつかせる。

『俺たち火竜ってのはな、自分の体表と同じ色のものに自然と目が行くようにできてるんだよ。がぶっとしたくなるもんなんだよ。逆らえない本能ってやつだ! それなのにお前の髪の色ときたらまるっきり俺の鱗の色と一緒じゃねえか。あの時俺はよくわからん人間のガキどもに捕まってチクチクされて気が立ってたんだから、しょうがないだろ!』

 人にはめちゃくちゃな論理に聞こえるが、火竜にとってこれは順序だった主張だった。確かに火の様のような温厚な個体は珍しく、火竜のほとんどを占める怒りやすい個体は気が立っていれば本能に逆らえない。ルイユの明るい赤毛の色と火竜の鱗の色がほとんど同じなのもまた真実であった。

 火竜の炎が徐々に大きくなり、ルイユも怯えきって攻撃に転じようとしている。

 そんなとき、とっさにフューラーが叫んだ。

「あっ、雷雲!」

 茜色の空はきれいに晴れている。すぐに嘘とわかるはずのハッタリだが、周囲の様子が目に入っていなかった火竜はそれを信じてビクッと反応すると急速に縮こまりルイユを避けて地面に伏せた。

『ごめんなさいー! も、もうビリビリはいやだ!』

 火竜が離れたことでルイユが緊張を緩める。コットンは彼の顔の近くに素早く駆け寄ると優しく彼の頭を撫でた。彼女はルイユが少し落ち着いたのを確認するとふうと息をつきフューラーを見やって尋ねる。

「どうしてわかったの? この火竜がルイユのビリビリお仕置きを食らったのは見てなかったでしょう」

「でも、街を走っている間に小耳に挟んだんです。『雑貨屋の方から雷が落ちる音がした』って。それと店に入った時、子供のルイユさん姿の火竜の髪が静電気か何かでふわふわしてたので」

 コットンはフューラーの意外と機転がきくところに驚き、感心した。火竜は雷が落ちてこないのでそうっと空を見上げ、ビクビクしながらも雷雲を探してキョロキョロと視線を巡らせている。


 しかしコットンはまだ安心できなかった。火竜の怒りは気が逸れたことで収まったらしいが、今度はフューラーが謎の行動をはじめたからだ。

「それで、ねえ、何してるの? そんなに引っ張ったらルイユの腕が抜けちゃうわ」

「よいしょ。ごめんなさいねルイユさん、びっくりするかもですが……立ってくださーい」

 フューラーはルイユの背中を押して彼を立たせた。

 コットンがそのまま彼を連れ帰るのが一番の得策だと思った次の瞬間、彼女は「えいっ!」と勢いをつけて彼のことを地面に伏せている火竜の方へ突き飛ばした。

 突然のことだったうえなかなか強く突き飛ばされたのでふらふらの状態のルイユは簡単に火竜の上へ。足がもつれて半回転し、背中を火竜とぶつける形で倒れ込む。つまり火竜が驚いて首を回せば、彼の手が余裕で届く位置に火竜の顎がくる。しかも顎がより近いのは左側、ルイユがこの火竜に噛みつかれて大怪我を負ったのと同じ方だった。

「えっ……ぎゃあああああ!」

『うわあああ!』

 一人と一頭の悲鳴が響き渡る。しかしフューラーは容赦がなかった。

「暴れちゃダメです! いまここで治さないと! ルイユさん、落ち着いて〜!」

 目の前でフューラーがやったことが信じられずコットンは元々吊り目なのをさらに吊り上げてスフェラを怒鳴りつけた。

「何やってるのよ!」

「ルイユさんはきっとじっくりタイプじゃありません、荒療治タイプです。島でもそうだったはず! だからほら、コットンさんも押さえてくっつけて!」

「そんな無茶な」

「やめてっ、離して! こいつは、こいつは僕を……!」

「ルイユさん、竜の体に手を当ててみて! この子は怒ってません、ぽかぽかあったかくて気持ちいい、火の様とおんなじです! 優しい気持ちを持ったステキな竜なんです!」

 そうフューラーが言う。暴れはしないものの瞳孔を針のようにして唸り声を出していた火竜は美人の「優しい気持ちを持ったステキな竜」でスッと唸るのをやめた。ルイユを押し付けられて迷惑そうな顔をしているものの怒りの炎はちっとも燃えていない。

 その様子を見、コットンはハッとして彼女が何を考えているのか理解した。

(この娘、ちゃんと仲直りさせるつもりなんだわ。ルイユがこの先の長い人生を火竜に怯えて過ごすことのないように……)

 ルイユのためとわかればコットンの行動は早い。火竜の体を駆け上がり、ルイユの顔の横に移動する。

「ルイユ、落ち着いて。大丈夫よ」

 普段は気恥ずかしくてなかなか見せられない優しい微笑みを彼に向ける。天使か女神のような最高の笑顔。

「コットン……」

「スフェラさんの言う通りやってみましょ。難しいかもだけれど、今を逃せばきっと一生このままよ。好きになれとは言わない。でも、もう火竜に怯えて苦しむことがないように……」

 彼女の声を聞くと、まるで魔法にかけられたかのようにルイユの手が火竜の体にそっと触れた。フューラーが彼を押さえつける力を弱める。

 鱗の向こうから伝わるほのかな温かさと心地よい鼓動。ルイユは「火の様と同じだ」と呟くと自分で涙を拭った。

 一度怖くないとわかると彼はだいぶ落ち着いてもう震えたりしなかった。

 ルイユが鱗の上を優しく撫でると火竜がクルクルと喉を鳴らす。火の様がよく鳴らしていたのと同じ、落ち着いた時や嬉しい時の音。

『そこそこ、そこ撫でてほしい……あ、もうちょっと上、首のすぐ下あたりぃ』

「ぷっ。あははは……」

 ルイユが笑い出した。何か吹っ切れたような爽やかな笑い声だ。

『な、なんだよう。俺のことをバカにしてるのか?』

「ううん。ちょっと思うところがあってね。僕にとって恐怖の対象そのものであった君は、ずっと悪の権化みたいな話の通じないやつだと思ってた」

『そんなことないんだぞ……。あの時は相当チクチクされて痛かったから理性は遥か遠くに吹っ飛んでたけど、いつもは優しい気持ちを持ったステキな火竜だからな』

 火竜はフューラーを見てにぱーと表情を緩めた。それを見て、ルイユはまたくすくすと邪気のない笑い声を漏らす。

 コットンを左の肩に座らせて、ルイユはゆったりと火竜にもたれて地面に座った。火竜が彼の座る周りを取り囲むようにもぞもぞと動く。鱗で覆われた尻尾の先をルイユの足の上に乗っけると、ルイユはそれを押しのけたりせず両手で優しく撫でた。

「もう大丈夫……こんなにあっさり怖くなくなるなんて思ってもみなかった。ありがとう、フューラーさん」

「私からもお礼を言わせて。七年間一緒に暮らしていたけれど、ルイユが荒療治タイプだとは気付けなかったわ。ありがとう」

『俺も、ありがとう。それからルイユ、俺も一応悪いなとは思ってたんだが呪われた恨みとかあって再会したときに真っ先に謝れなくて……こんなに遅くなって、噛み付いたりしてごめんな』

「いいんだ。許すよ。正直なところ、僕はあのことがあってこの街に来れたことを嬉しく思ったことが何度もあったんだ」

『そうか。よかったじゃねーか』

「……僕がこの街でコットンやクロさん、周りの人々に支えられて暮らしている間、君が人の子供の姿で家族に会うこともできず彷徨っているなんて想像もできなかった。本当にごめんね」

『……! いいってことよ。我を失っていたとはいえあの規模の事件、討伐依頼を出されたっておかしくねーのに……ありがとうな』

 フューラーは微笑んで彼らを見、空気を変えるようにパンと両手を胸の前で合わせた。

「うんうん、仲良きことは美しきかな! それで、私の依頼は?」

「あっ」

『……ひえぇ』

「結局それ……?」

 ルイユははっとして口を開け、火竜はこれから行なわれるであろう鱗剥がしの痛みを想像して縮こまり、コットンはがっくり呆れてやれやれと首を振る。

 フューラーは一人きょとんとして首を傾げた。裸の木々の隙間を通り抜けてオレンジ色の夕日の光が森の広場を照らす。フューラーの褐色の長く真っ直ぐな髪がさらさらと風に揺れて絹糸のように輝く。

 ルイユと火竜は顔を見合わせた。こげ茶色の目とオレンジ色の目がパチリと合う。

 火竜の顔を見ても、火竜の頑丈な顎が左肩に触れても、ルイユはもうそれを気に留めていなかった。






〈旅の終わり、そして〉

「僕はこの四日間のことを決して忘れないように、日記にでも書き留めておこうと思います」

 街中を歩きながらルイユはしみじみと言った。

 火竜の呪いが解け、さらにルイユがトマウマを克服できた森の中での出来事はフューラーが手に入れた火竜の鱗が夢ではないと物語っている。

 火竜は一刻も早く家族や友人に会いたいということで、ルイユと再会の約束を交わすと竜の里がある西へと飛び立った。

 別れ際にルイユが友情の証に本名を教えようとしたが『俺は口が軽くてあぶねーから』と苦笑して断った火竜が自分の名前は教えてくれたこと、夕日に向かっていくその翼がとても力強くかっこよかったことはルイユの脳裏にしっかりと刻まれている。

「スカルドラッチェ……また会いたいな」

 今ルイユの肩の上にはコットンがいて、隣を歩くのはフューラーだ。彼女らは微笑んで日記に今日のことを残しておくことに賛同した。

「良いと思います。あ、でもそれって私のことも書くってことですよね! いやあ、ルイユさんの目に私はどんなふうに映ってたんでしょう? ワガママとか、自分の気持ちに素直とか?」

「確かにそうねぇ。でも、それってフューラーさんの魅力の一部なんだと思うわ」

「僕はあなたにたくさん救われましたから、そのことをちゃんと書くつもりです。フューラーさんは素敵な人でした、って」

 フューラーは小さな小人と年下の青年がそう言って自分に笑いかけるのを眺めて感動すら覚えていた。彼女の鋭い観察眼は彼らが嘘やお世辞のつもりでそう言ったのではないと告げたのだ。

 彼は肩の上の小人と旅の思い出を語り合い、店の片付けはどうしようかと苦笑し合っている。フューラーはふと歩みを止めて彼らの姿を目で追った。

 石畳の道路の上の小石がルイユの靴先にあたり、カチカチと音を立てて転がっていった。石はこの街で最も一般的な煉瓦造りの建物の外壁に当たってわずかに跳ね返るとそれ以上転がることなく道の端で止まった。

「フューラーじゃなくて、フューでいいよ。私の大事な名前」と、彼女は小さな声で呟いた。

 先を歩いていたルイユとその肩の上のコットンが振り返る。西日を背にしてその表情が濃い影に隠れても、二人は純粋でまっすぐな二人のままだった。

「フューって、そう呼んでくれないかな」

 フューラーがはにかんで再度そう言うと、ルイユはびっくりして目を大きく開いた。

「! もしかして、フューラーっていうのは愛称だったんですか? フューラーさんも魔法使い……? どうりでいろいろ見抜いているなと思いました」

「ううん、私は魔法使いじゃない。愛称なのはフューのほうなの。私がいろいろうまく立ち回れてるのは私の観察力のおかげ。昔っから天然バカとかバ金持ちとか言われても、観察力だけは誰にも負けない自信があるんだから。おじいさまにもお前は観察の達人だなって褒められてね」

 そう聞いてルイユが元々丸っこい目をさらにまん丸にして驚く。そんな彼の様子見てもなぜそれほどまでに驚いているのか理由がわからず眉をひょいと上げるフューラーに、コットンは肩をすくめて言った。

「魔法使いには魔法使いにしかわからない苦悩がある。実力ある魔法使いにとって愛称は先に伝えるもの、本当の名前は相当の恩があるか家族同然に親しい者にしか教えられないもの。皮肉なものね、魔法使いとそうじゃない人で反対になるなんて」

「フュー。火の様とロンさんに、スカルドラッチェに、フューさんかぁ」

 ルイユが照れ笑いをし、そう言ってまた歩き出す。

 馬車がぎりぎり通れない細さの路地を曲がって少し歩けば、懐かしい雑貨屋前の小さな広場に出る。

 ベージュ色の漆喰で塗られた二階建ての雑貨屋も、今は寂しい隣の空き地も、広場の隅にある街の時計台も温かくちょっぴり切ない色の夕日を受けて彼らの目に染みるようだった。

 広場の石が敷かれた部分は街の大通りに続き、茶色の土がむき出しになった残り半分は雑貨屋に続く。ルイユは自らが店主を務める魔法の雑貨屋「綿雲」の方へ足を踏み出した。

 フューラーが石畳の終着点で足を止める。

「じゃあ……さよならね、ルイユ。私のために旅をしてくれてありがとう。鱗も大切にするわ」

「フューさん、またいつでも遊びに来てくださいね」

「またのご来店をお待ちしてるわね! ルイユの上着を返すのはその時でいいわ」

 フューラーとルイユは握手をしてさよならの挨拶をした。コットンもルイユの肩の上で手を差し出し、フューラーが伸ばした人差し指にその小さな手を添えて上下に振った。

「そうそう、鱗の報酬のことだけど……」とフューラーが思い出して言う。だがルイユは首を横に振った。

「報酬はいりません。僕らが出会えた記念に。僕が彼……スカルドラッチェと仲直りできたのもフューさんのおかげ、つまり鱗を手に入れられたのはフューさんだから」

「いいの……?」

「最初に受け取った外貨を行商人に両替してもらえば十二分に足りるわ。いいのよ、ルイユがそう言うんだから」

 笑顔の二人に見送られ、フューラーは頷いて大通りへ戻る道へと足を向ける。

 ルイユは店の木目が美しいドアを開けて店へと帰った。


: : : :


「フュー!」

 まだ少しはにかみの残る大きな声で呼びかけられて広場の出入り口から短く返事をして振り返れば、ルイユが店の正面にあるあの大きな窓を開け放って手を大きく振っていた。

 広場の入り口から雑貨屋の方へさあっと風が吹き抜けて、フューラー褐色の髪も彼の明るい赤毛も等しく風に流れる。

 彼は眩しい夕日に目を細め、はにかんだ笑みを浮かべていた。

「伝え忘れていたことがあったよ。僕の本当の名前は、ガルグイユ。魔法使いのガルグイユ! どうぞこれからもルイユと呼んで。僕の大好きな愛称だから!」


 旅の終わり。

 そしてきっと、また次の物語の始まり。

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