SilverBullet 略奪
ひどく冷たい風が、朝霞の白い頬を掠め去る。
当てもなく、ふらふらと街中を散策していたのだが、それは暇潰しとは言えないほどに退屈だった。
それは単に寒いからではない。時期もあってとうに日は暮れているが、それすら問題にはならなかった。理由は季節や時間などではなく、街中に求めざるを得なかった。
この街には、人が生活している確かな生活感がない。それは普通の街なら当然有しているはずの華やかさや、良くも悪くも雑然とした雰囲気とも、言い換えが効くだろうか。
まるで、舞台の書割を連想させる。あるいは真新しい廃墟のような欠落感を感じさせた。
最も、廃墟と言うには整いすぎている。糸を張ったようにまっすぐに引かれた街路、ついさっき掃き清めでもされたかのように清潔な路面。落書きははおろか、ひびや欠けも見いだせない、近世風の煉瓦と石材を積み上げた建物の群れ。
清潔好きなのはそうでないよりも結構なことではあるが、それにしても耐えられる限度は存在する。この街の、非人間的なまでに度を越えた潔癖さは、朝霞にとって些か耐え難いものがあった。
「……そう、何もかも支配してみるのは。愉しいものなのかしら?」
聞くものもないと分かっていながら、朝霞は独語する。ただ、純粋な疑問に対して問いかける。
ああやって、踵を返す。墨でも流し入れたような夜空には、歪な円弧を持った月だけが浮いていた。
去り際に、朝霞は月を見上げる。
どれだけ控えめに評しても、朝霞という少女は美しい。陳腐な物言いが許されるのなら、完全無欠と言ってしまってよいほどに。
秀麗を絵に描いたような眉目は、淑やかな微笑を纏うだけで、余人を振り向かせるに足りた。多少なりともこの街に見合うだけの人通りがあれば、誰もが足を止めずにはいられなかったはずだ。二重の、涼やかな切れ長の瞳の奥、鮮烈な紅い双眸が月を捉える。惜しげなく背中に流れる白銀の髪は、腰椎に届いて余りあった。髪は僅かな光を弾いて、月光をも色褪せるほどに煌めいていた。
もし観客があるならば、そこに舞台の一幕を見いだしただろう。そこにあるだけで、彼女は寒々しい街路ですら、華やいだものにしてみせた。
「……ああ」
月を観覧したところで、心躍るものもない。どうにか振る舞おうとしてみても、誰かが見ることも、自分を愉しませることもできない芝居に、何の意義を見いだせばいいのか。
諦めて今宵の宿に戻るべきか。落ち着かないほど静かな部屋に籠るのを厭って街に出たのだが、益体もなく出歩くことにすら疲れてしまった。
「……早く、戦争でも起こらないかな」
「え……?」
だから全く予期することなく、その言葉は朝霞に届いた。誰に向けてのものでもないだろうが、珍しく昂りが身体を満たす。
それは過ぎた退屈と苦痛の反動か、しかし朝霞にはどうだっていいことだった。声の聞こえた方角を頼りに視線を巡らせて、朝霞は彼女を探した。
見つけ出すことは難しくなかった。異邦人でも迷う余地がないほど、街は複雑な地形でもない。街路の端に設えられたベンチに座る、一人の少女。昏い夜には似つかないほど幼い彼女は、どれだけ年長に見ても、十二、三より上であるとは思えなかった。
身につける真白のワンピースドレスは、寒気から身を守るには頼りのない装いに見えたが、彼女がそれを苦にした様子はない。黄金と形容するには少し色の浅い髪は、肩にかかるかどうかの長さに品よく切り揃えられている。
彼女が端正な面立ちに纏う超然とした雰囲気は、身体の幼さとは対称を為していた。淡い翠色の瞳は、何を探すでもなく夜空に向けられて、表情らしいものは窺うことができない。その振る舞いもあって、どこか深窓の令嬢のような趣も漂う。
戦争。
こんな幼い少女から発せられる言葉にしては、些か剣呑だった。
戦争から連想されるもの。
闘争、狂騒、混乱。言葉の意味を少しずつ解釈して、朝霞は相応しいだろう台詞を用意した。
「何もない平和に、飽いてしまわれましたか?」
なるほど、飽いてもしまうだろう。一日もいないだけでさえ、退屈極まりないのだ。過激ではあるかもしれないが、この街を覆うものと全く反対の何かを求める心情は、決して理解できないものではない。
「あなたは、だぁれ……?」
見も知らぬ人間から声を掛けられた少女は、首だけを朝霞の方に巡らせて朧気に微笑んだ。声を掛けられて、ようやく気づいたといったような振舞い。朝霞にはどこか、人形のような不自然さを感じ取った。
先程の問いかけに応えるつもりはないのだろう、返ってきた言葉からはそんな意図が汲み取れた。
ふと、社交辞令という言葉が脳裏に浮かぶ。表層で見目良く振舞うことで、遠回しに関心のない人間をあしらう手法は、朝霞にも覚えがあった。
「私は朝霞。こんな遅くに、お嬢様はどうされたのでしょう」
しかし我儘な朝霞の流儀からすると、軽くあしらわれるのも気に入らない。淑やかに微笑み、幼い少女へ一礼を施す。余人ならば気障だと嘲られるだけだろう、道化じみた仕草を、朝霞はごく自然に演じてみせた。
「どうもしないよ? わたしは愛歌。お姉さんは、私に何かご用事?」
「用事というほど、堅苦しいものでは。少しだけ……、ふふ」
「……? いいよ?」
不思議なひと、と少女は朝霞を見上げる。確かに怪訝なことだろうと、どこかでまだ冷静な思考が告げた。
どうして笑ってしまったものか。それも、抑えようとすらしなかったほどに。理性は単に不可解だとしか考えられないが、感情はまた別の答えを見いだす。
昂揚、興奮。どんな理由かはもう定かではないのかもしれないが、いや、それを言ってしまえば過去のことに意義はない。朝霞が愛するのは、今、瞬間の連続。
「きっと、退屈のせいでしょう。失礼をお許しくださいませ、愛歌様」
「そう……。別にいいよ、許してあげる」
「ありがとうございます。失礼のついでに、隣にお邪魔しても構いませんか?」
「うん」
承諾を得た朝霞は、蝶か小鳥のように軽やかな挙措で愛歌の隣に寄り添う。その光景だけなら、姉妹のように見えなくもないだろうか。
とはいえ、愛歌から積極的に会話するつもりはないらしく、朝霞に視線を向けることはしない。彼女が口を開くのを持っても良いのだが、そうしないくらいには、朝霞も飢えていた。
「本当に、静かな夜……。この静けさが、苦痛に感じたことはない?」
「ううん。夜は静かなものではないの?」
「そう。私は何故だか、ひどく退屈だわ。それこそ戦争の一つや二つ、起きてしまえば良いのにと思うぐらい。……ねえ、愛歌は戦争を、狂乱を望まない?」
戯れに投げかけた言葉は、明確な否定が返される。それでも、行儀のよい外に向けられた微笑は、少しだけ揺らいだように見えた。
「お姉さんは、それを聞いてどうするの?」
「どうにもしないわ。そう、単なる好奇心のせい」
「好奇心が、自分を殺すとは考えない?」
「ふふ、怖いことを言うのね。だけど、考えたこともない。……愛歌が、私を殺すというの?」
「ううん、わたしがお姉さんを殺したりはしないよ。お姉さんに教えてあげるつもりもなかった、わたしだけの秘密。……だけど、教えて欲しいなら、ひとつだけ」
「教えて、愛歌。私に」
「平和は、わたしを満たしてくれないの」
朝霞は沈黙を保って、続きの言葉を待つ。だけど、それきり愛歌は何も語ろうとしなかった。異邦人である朝霞に語るべきお話は、これでおしまいだと言いたげなように。
愛歌は既に、朝霞という人間への興味を失ったのかもしれない。いや、元から興味などという積極的な意志を持っていないだろう。機械のように、反応を求められたから応じたに過ぎない。そんな彼女の振舞いに、朝霞は怒りを露わにすることはなかった。代わりに、場違いなほど涼やかな笑い声を立てていた。
「おねえ、さん……? どうしたの……?」
予期しなかったらしい朝霞の反応に、愛歌は当惑するしかない。朝霞は感情の高揚に従うまま、身体を愛歌に正対させる。銀糸のような朝霞の髪が、流れるように夜闇を舞う。
「愛歌と出会えて、楽しいの。私なら、愛歌の厭う停滞を、終わらせてあげられる」
「え……?」
「何も、難しいことはないわ。愛歌が、私のものになりさえすればいいの」
真正面から、二人は見つめ合う。愛歌は適切に言葉の意味を理解することは叶わなかったが、それでも得体の知れない恐怖が命じるまま反射的に、自らを抱き寄せようとする朝霞の腕を叩く。
「やめて? 残念だけど、わたしはお姉さんが思っているような子じゃないよ?」
「お戯れを、美しい天使様」
明瞭な拒絶を向けられたにもかかわらず、朝霞が笑みを崩すことはない。自分の望むことが否定されるなど、あり得ないと言わんばかりに。
「愛歌は本当にそんなことを望まないと、言い切れる?」
「……何が、目的なの?」
「目的? ふふ、簡単なことよ……? 愛歌、貴女が欲しいの」
彼女は自分に何を求めているのか、愛歌には見当もつかない。説明のつかない気迫に押されて困惑と恐怖を抱きながらも、かろうじて冷静さを保って朝霞に問いかける。それに応える朝霞は、もはや先程までの会話を楽しむ風だった、飄々としたものではない。声には蕩けるような熱を帯びていた。先程の抵抗など気づきもしなかったかのように、愛歌の小さな身体を抱き寄せる。
「え、や……っ、離して……!」
本能的な恐怖感を抱いて、愛歌は反射的に腕を突き出すようにして抵抗を試みる。しかし華奢な少女の細腕では振り払うほどの力もなく、突き出した手は朝霞の豊かな膨らみに埋もれてしまうだけ。
掌いっぱいに感じる柔らかな感触は、今まで愛歌が感じたことのない不思議な心地良さと、背徳感を与えた。それは忘れたくとも脳裏から離れてはくれなくて、愛歌の意識を呪縛する。思わず身体が強張ってしまうのを、続いて頬が熱を帯びるのを、愛歌は我が事ながらどうにもできない。
衝動的な反抗は、朝霞にとっても予期し得なかった。ごく微かながら、蕩けるような熱い吐息が、はっきりと愛歌の耳朶を擽った。それが何を意味するのか、純粋無垢な愛歌が知る由もないが、理解できずとも背筋の戦きが止まらない。熱病にでも罹ってしまったように震える身体を愛歌は制することも叶わず、自らを抱き上げる朝霞の相貌を、恐怖と不安に駆られながら見つめる。
夜闇にも曇らない端麗な面立ちは、こんな状況であるにもかかわらず、見惚れてしまうほど完成されていた。鍾美の人とはこういう存在に用意された言葉だと、否応なしに理解させられる。
そうして互いを見つめていた時間は、恐らくほんの数瞬に過ぎなかっただろう。それでも、一度視線を交錯させてしまえば、魔眼のように愛歌を縛りつけて離さない、緋よりも紅い宝石のような瞳に、睫毛の影が落ちるのを愛歌は見た。
それが目を伏せたせいだと気づくより早く、無防備に晒された愛歌の白い首筋に、触れるだけの軽いキスが落とされる。
「愛歌、螺旋のように、獣のように堕落しましょう? 無垢で、真っ白な愛歌が堕ちたとき、どんな可哀らしい表情を見せてくれるの……?」
「っ……! なにを、言って……っ!?」
全身の震えが止まらず、口づけられた首筋から灼けるような熱が身体を侵す。自分の意志では制御できないそれが恐ろしいのは言うまでもないが、朝霞の語った言葉の意味が理解に及ばないことも愛歌を混乱させる。
しかし何よりも愛歌が怯えざるを得なかったのは、朝霞ではなく、自分自身だった。理解できない朝霞を警戒し、恐れているはずなのに、そんな理屈抜きに朝霞の存在が心地良いと感じてしまう自分がたまらなく恐ろしい。
朝霞が何を望んでいるのか愛歌は理解できないまま、理解する時間も与えられず、さりとて彼女に逆らうこともできない。そして何かを問うことすら許さないつもりなのか、愛歌が開きかけた唇を塞ぐように、柔らかいものが触れていた。
「ん、っぅ……!?」
朝霞と触れる場所から、融かされそうな熱に浸される。自分というものが溶けていくような錯覚。溶けていった先はどうなるのだろう、そんなことがちらりと脳裏をよぎる。だけど、そんなことを考えるのに、どれだけの価値があるというのか。
身体の内側から融けていくような熱が、愛歌の思考を奪っていく。見も知らないひとに抱かれるのが、どうしようもなく心地いい。薄目を開けて、自分を抱きしめるひとの顔を見る。
きれいなひと。欠けることも傷つくことも、彼女には無縁に思われた。そして、ほんの少しでいい、自発的に触れたいと愛歌は願った。ほぼ同じ瞬間に、艶やかな薄紅の唇が離れていく。
「……寒くはない?」
愛歌には、その言葉の意味が理解できなかった。身体はひどく熱くて、彼女の言う寒さが入り込む余地はなかった。愛歌が感じられるのは、熱と、抱きしめてもらう心地よさだけ。
「場所を移しましょう。愛歌が、寒くないように」
どこへ、という疑問すら、愛歌には浮かばない。ただ、女神さまみたいに美しいひとが望むところへ、わたしを連れて行って欲しい、そう願うだけだった。