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駆ける男~吉田稔麿の最期~

作者: 羽後燦樹

 「御用改めである!」

 野太い声が階下で響いた。

 「・・・。」

 顔を見合わせたその場の一同に怖れと緊張が走った。

 「皆様がた、御用改めだそうでございます。御用改めだそうでございます!」

 亭主の声が聞こえる。

 「どいてもらおう」

 「お聞こえでしょうか!御用改めでございますよ!」

 「どけと申しておる!」

 時間を稼ごうとした亭主が突き飛ばされた物音がした。


 元治元年6月5日亥の刻。三条木屋町の旅籠、池田屋で謀議中の尊王派浪士を新選組が急襲した。

 同座していた長州、土佐、肥後等の浪士たち二十数名は、それぞれ大刀を手許に引き寄せ膝を立て、いつでも抜刀できるよう身構えた。

 「僕がいく」

 座敷の入口近くに座っていた吉田稔麿が真っ先に抜刀して廊下に出、階段の降り口に走った。

 降り口から見下ろすと階段の途中に肩幅の広い、目のギョロリとした、エラの張った顔つきの男がこちらを見上げていた。浅葱のダンダラ羽織の下から、黒光りのする胴が覗いている。刀は抜いていない。

 男と目線が合った。男の口許に微かに笑みが浮かんだように見えた。

 吉田稔麿は裂帛の気合いとともに大刀を上段に振りかぶり、逆落としに男めがけて切りかかろうとした。

 ガシン、という反動が両肩にかかり大刀が頭上の梁に食い込んで体だけが二段ほど下に落ちた。刀は梁に残ったまま、丸腰の吉田が男と対峙するような格好となった。

 男はニヤリと笑って、刀を抜かぬまま一歩二歩と階段を上がってくる。

 背後には隊士が二人、こちらは抜刀して従っている。

 吉田稔麿は後じさりして階段を上がり、座敷に退いた。

 入れ替わるように土佐の北添 佶磨が階段を登り切った新選組三人めがけて切り込んだが、くだんの先頭の男は突っ込んでくる北添の体をひらりとかわし、つんのめったその背中を抜く手も見せず斬り下げた。

 「うおぉぉぉ!」と叫ぶ北添の腰のあたりを、付き従っていたもう一人の隊士が蹴り飛ばし、北添は頭から階段下に転げ落ちていった。

 座敷では、手に手に刀を構えた浪士たちが三人の新選組を遠巻きに囲んで睨みあっていた。


 「吉田君、逃げなさい。あとは我々に任せなさい!」

 肥後の宮部鼎蔵が新選組に声が聞こえぬよう低く言った。

 「しかし!」

 「長州藩邸に。桂さんに急を知らせるのです!」

 桂小五郎は一旦は池田屋に来たものの到着が早過ぎたたため店を出ていた。

 「大丈夫。ここは食い止めます。できれば援兵を連れてきてください」

 「心得ました!必ず戻ってきます!」

 裏口に通じるもう一つの階段を降りようとすると、階下で既に闘いが起こっている物音が聞こえた。

 「そっちは無理だ!ついてこい!」

 尾張藩から唯一この会合に参加していた錦織有無之助が窓づたいに隣家の乗り移り、そこから三条小路に飛び降りようとしていた。

 吉田稔麿も錦織に続いて飛び降りた。

 二階の座敷では剣戟の響きが聞こえ、斬られた誰かが絶叫した。


 「誰か外へ出たぞ!」

 捕り方が喚く声が聞こえた。

 「君はそっちだ。長州藩邸だ!生きろよ」

 錦織は突き飛ばすように吉田稔麿を木屋町方向に押しやると、自らは蝟集する捕り方に向かって切り込んでいった。


 吉田稔麿は阻止しようと出てきた捕り方を突き飛ばし、三条小路を東に走ると高瀬川を渡って左折し、長州藩邸を目指した。

 通り沿いに密集した家々からは薄暗い行燈の光が漏れていた。

 京の人々は今夜も繰り返されるテロリズムの成り行きを、息を潜めて見守っているかのようだった。


 吉田稔麿は駆けた。素足であった。

 池田屋から長州藩邸まではわずかに三百から四百メートルである。

 ものの数分で長州藩邸の木戸に着いた。

 「吉田稔麿にございます。お開けくだされ!」

 吉田稔麿は藩邸の裏木戸を叩いた。

 門番が覗き穴から人体をあらため、木戸を開いてくれた。

 吉田稔麿、時に24歳。若くはあっても松下村塾の四天王と謳われている。長州藩士の中では顔は売れていた。

 「どうなされた吉田殿。そのお怪我は」

 羽織の左肩が裂けて血が滲んでいる。捕り方を突き飛ばした際に袖搦か何かで切り裂かれたに違いない。

 「ご心配なく。かすり傷です。それより三条木屋町の旅籠、池田屋に新選組が討ち入りました。諸藩の浪士と刀争中です。そうだ桂さんは?桂さんはご在邸ですか?一度は池田屋に入られたもののまたお出になられたと聞いております。ご在邸ならばまずはご一報くだされ!」

 「おそらく藩邸にはお戻りになられておらん。念のため確認しよう」

 「かたじけない。それから人数をいくらかお貸しいただけませんか。池田屋に援兵を出さねばなりません」

 「なんと!援兵とな!」

 「そうです!討ち入ってきた新選組は今のところ数名。捕り方を引き連れてきてはおりますが、大した人数ではございません。しかし遠からず後続がやってくるに違いありません。いや、新選組のみならず、会津、桑名藩兵もやってくるかもしれません。長州がここで手を差しのべねば、池田屋の同志たちは皆殺しとなってしまいましょう」

 門番は驚愕した。そのような修羅場に長州が援兵など出せば、新選組、会津藩などと市街戦となることは必至。とてもではないが自分のような下郎の一存で決められる話ではない。

 逡巡する門番の表情を見て、吉田稔麿は言った。

 「わかりました。それでは草鞋と手槍を一本お貸しいただきたい」

 「なんとなさる?」

 「私一人でも池田屋に戻ります」

 「馬鹿なことを!お一人で戻られてどうなさるおつもりじゃ!」

 門番にじろりと一瞥をくれて、吉田稔麿は手近にあった手槍を引き寄せ、草鞋の紐を結んだ。

 当時の京都市内において各藩の藩邸はいわば治外法権。幕吏といえど踏み込むことはできない。このまま潜伏していれば吉田稔麿としても安全なはずであった。また長州藩としても軽々に援兵など出せず、門を閉じているしかないことも、門番とのやり取りを通じて吉田は覚っていた。

 吉田稔麿はひとつ深呼吸して立ちあがった。

 才気鋭敏、謹直重厚として吉田松陰に愛された吉田稔麿は、同志への義のために再び駆け出そうとしていた。

 「桂さんに連絡がついたら、池田屋には近づかぬようお伝えください。僕は、行きます」

 「吉田殿!」

 「御免!」

 木戸を開けて御池通りに出た途端、ぐぅわらぁり、と天地が揺れて吉田稔麿は昏倒した。


 どんよりと雲に閉ざされた梅雨の夜空が目の上にあった。

 どの程度のあいだ気を失っていたのか?一瞬のようにも思え、恐ろしく長い間だったようにも思えた。

 手槍を杖に起き上がり、片膝をついてあたりを見渡してみる。

 右手には巨大な建物が天を衝いて聳えていた。萩のお城はもちろん、東寺の五重塔よりも高いのではないか。

 「HOTEL オームタ」というネオンが瞬いていた。

 「オームタとな・・・。隣の文字はエゲレス文字ではなかろうか?」

 左手には欅の街路樹越しに広大な道路が通っているのが見え、車輪をつけた鉄の塊がものすごい勢いで行き交っていた。

 「ここは、どこじゃ・・・?」

 吉田稔麿は立ち上がり、歩き始めた。

 数歩も行かぬうちに路傍にある石碑が目に留まった。「長州藩邸跡」。

 「ち、長州藩邸、あ、跡ぉ・・・?なんじゃそりゃぁ!」

 吉田稔麿は走り始めた。走らずにはいられなかった。

 もう一つの大きな通りが左手の通りと眼前で直交していた。

 時刻は深夜に近く、あたりには人影はなかった。交差点では吉田稔麿が過去聞いたこともない甲高い音が、間歇的に鳴り響いていた。

 見上げると白い柱に矢印状の看板が二つ、方向を違えて付けられていて、白地に青い文字で「河原町通り」「御池通り」とあった。

 「ここは河原町御池の四つ辻か・・・。あっちが長州藩邸。とすると、池田屋は・・・こっちじゃあ!」

 既に歩行者信号が赤に変わった御池通りの横断歩道を、吉田稔麿は南に疾走し始めた。

 海老茶色をした車体のタクシーが警笛を鳴らしつつ急ブレーキをかけ、つんのめるようにスピンして停まった。

 「うぬ?」

 タクシーを一瞥しつつも吉田稔麿は脚を止めようとせず横断歩道を渡り切ると、建設現場の囲いがあって等身大の作業服姿のイラストが「ご迷惑をおかけいたします」と頭を下げていた。

 吉田稔麿はイラストの前で僅かに歩を緩め、「ご免」と一礼してそのまま南へ駆け去った。

 「何があろうと池田屋じゃ。何があろうと・・・・」

 しばらく行くとカトリック教会があった。照明の落されたガラスのウィンドウの中にイエスキリストを抱いた聖母マリアの立像が、そこだけほんのりと間接照明に浮き出ていた。

 吉田稔麿はファザードの上に立つ十字架をみて「これは禁制の切支丹の聖堂ではあるまいか・・・」。

 「ご免」。それでも聖母マリアの立像に一礼して河原町通りをさらに南下した。

 次に通りかかったのは真っ赤な看板に白で「膂力屋」と書いたラーメン屋であった。

 「ほぉぉ・・・。立派な書体じゃ」

 立ち止まって看板を見上げる吉田稔麿の風体は、肩から裂けた左袖が血でどす黒く染まった羽織姿で小脇に手槍を抱え、からげた袴の裾からは毛脛と草鞋を履いた素足が丸出しになっている。

 吉田稔麿は再び駆け始めた。

 その姿をラーメン屋の店員がカウンター越しに呆然と見送っていた。


 やがて大きな交差点に差しかかった。

 「どっちじゃ。このあたりか・・・?」

 交差点で足踏みしながら吉田稔麿はあたりを見回した。

 交差点の右手向こうには大きなアーケードのかかった商店街の入り口が見え、青信号を何人かの酔客がこちらに向かって渡ってきていた。

 吉田稔麿はそこに居合わせた飲食店の客引き風の男をつかまえて「ちとお尋ね申すが、池田屋という旅籠をご存知ないか?三条木屋町というからこのあたりかと思うのじゃが」

 男は吉田利麿が手にする手槍の抜身にぎょっとして「い、池田屋ですか?私の店です・・・」

 「なんと!池田屋の使用人とな。して新選組の御用改めは如何相成りましたか?」

 「は?ゴヨウアラタメ・・・?」

 「左様。新選組じゃ。御用改めじゃ。池田屋じゃ。旅籠のな」

 吉田稔麿は足踏みしながら次第に苛立ってきた。こうしている間にも同志がまた一人、新選組に斬られているかもしれぬ。あのエラの張った男は近藤勇に違いない。

 「ウチの池田屋は居酒屋ですが・・・。もうラストオーダーですよ」

 男がゆるゆると指さした先には、白地に黒で「池田屋」という縦書き看板が歩道の上に張り出しているのが見えた。

 「お、あれじゃ!かたじけない。失礼つかまつる!」

 待っておれ仲間達よ。

 援兵は連れて来れなんだがこの吉田稔麿、せめてひと太刀!

 吉田稔麿は河原町三条の交差点を左に折れてまたもや駆け始めた。

 前まで来ると入り口には大きな提灯と木綿の暖簾が掛かり、いずれも墨痕鮮やかに「池田屋」とある。傍らには立札があって「池田屋騒動始末記」。

 「ここじゃ!」

 暖簾を払いつつ吉田稔麿は店内に駆け入った。

 「いらっしゃ・・・」

 レジ脇にいた店員が吉田稔麿の姿を見て言葉を呑んだ。

 「長州藩士、吉田稔麿でござる。二階に用がある」

 見ると前方左に二階に通じる大階段があるではないか。

 これじゃ!少し幅が広くて段差が緩い気がするが・・・。

 階上の座敷からは笑いさんざめく嬌声が聞こえてくる。

 ええい、ままよ!

 吉田稔麿は手槍を構えて階段を駆け上がった。

 「吉田稔麿、再び見参!」

 (了)

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