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長編骨組み

お水を飲んで

作者:井川林檎
 疲れが蓄積すると惨めになる。

 どんどん、どんどん自分の外側がカチコチに凝ってゆき、ぎゅうぎゅうと内側に狭められてゆく。外側に護られているはずのわたし自身が、あまりの圧迫感に口をパクパクさせてあえぎ、少しでも自分の自由が利くように、必要だと思ってとっておいたものを、せかせか、せかせかと外に投げ捨てるのだった。

 いつの間にか、捨ててはならなかったものを手放していたらしい。
 かさかさに乾いた自分自身は最早どうしようもなく、硬くてひび割れかけた外見を隠せないまま日々を生きていた。
 どれほどの時間をそう過ごしていたのかわからないが、それが日常となるほど、わたしは麻痺していた。

 夏が近づくにつれ、大気は暑く湿っぽくなり、まとわりつくような季節感がわたしを苛んだ。
 アパートの別の部屋に吊るされたガラスの風鈴が、カチカチカチカチ鳴るのが、風雅と言うより煩わしい。
 ブブウ、と排気ガスを大量に噴出しながら道をゆく大型トラックや、一秒も無駄にしたくないスーツの人たちがスマホをいじりながら駅へ急ぐ通りが見える。
 朝の換気は出勤前の日課であるが、ちりちりちりちりという音が聞こえてくるので、余計にせかされる気分になるのだった。

 そしてわたしは勢いよくガラス戸をしめて、履きなれたパンプスに足を入れ、忙しい日々の中に自分自身を送り出すのだ。



 明日から休みというある晩、へとへとになって帰り、シャワーを使ってすぐに床に入った。
 電気を消すと、青いカーテンから町の光が薄く入る。
 ぶうう、と、外の通りを車が通り過ぎ、そのライトが部屋の天井に跳ね返ってすうっと走って消えた。
 アパートの別の部屋からは、夜の番組の楽し気な音がうっすらと聞こえてくる。

 肉を焼いたにおい。
 子供の笑い声とはしゃぎすぎを叱る声。
 やがてそれらの生活の音が静まり返り、夜は更ける。

 いつしかうとうとしていたらしい。だけど非常に浅い眠りで、まるで寝た気がしなかった。
 憂い体と頭のまま目覚めたとき、部屋の時計は3時をさしていた。

 (今日から少し休めるとおもっていたのに)

 溜息をついた。
 目が一度醒めたら、もう眠りの中に戻れない体になってしまったのはいつからだろう。軋むような関節に歯を食いしばり、なにげなく前髪をかきあげた。
 髪はほつれてばさばさであり、ぱらぱらっと抜け毛が落ちた。触れた額の肌はごわごわとしていて、潤いがまるでないのだった。

 (仕方がない)

 床から起きると、部屋着のまま、わたしは伸びをした。
 煩雑な日々に与えられた連休なのに、体も心もそこから抜けられない。
 溜息が出た。その時、ぽちょんぽちょんと台所から水の音がした。

 古い安アパートの蛇口はしまりが悪く、しょっちゅう、水滴が落ちている。
 ぽちょん、ぽちょん――そっと居間の引き戸をあけて、ほの暗い台所の生ぬるい空気の中に顔を出した。
 ガスコンロの横の、明りとりの小窓から、朝が間近な青い光が差し込んでいる。まだ夜の濃厚さを残した光は、ぽちょんぽちょんと落ちてゆく水の珠を白く輝かせていた。

 水の珠の輝きは夜の色を残しつつ、朝焼けを促すような温かな光を秘めていて、わたしは思わず見とれていた。
 ぽつぽつと零れる水の珠を眺めているうちに、なにか得体のしれない衝動が込み上げた。

 サンドレスとゆるいトレパンと言う凄い格好で、わたしはサンダルをつっかけた。
 辛うじてスマホだけをポケットに突っ込み、玄関の戸をあけた瞬間、どこに行きたいかが分かった。
 まだ空は群青色と赤紫が混じり合っており、雲も暗い色をして漂っている。朝にはまだ時間がある。

 しんとしたアパートの階段を静かに、だけど大急ぎで降りた。
 トタン屋根の自転車置き場に駆け込む間に、サンダルからむきだしの足の指が朝露で濡れた。
 草むしりを定期的に行っているはずだけど、特に夏は伸びるのが早くて、あちこちに雑草が勢いづいている。
 ぬるい夏の空気の中で、しかし朝露は冷たくてさらりとしていた。足元の水の珠を蹴散らしながら自転車にたどり着く。

 走る。
 まだ明けない夜の中を。
 田んぼは青々と稲を揺らし、朝露がそこここに纏わりついていて、次第に力強く夜の幕を押しのけてゆく朝の光が照らしてゆく。
 畦道は雨が降ったあとのような露で飾られている。たくましく伸びて仲間を増やした、こんもりとしたクローバーの盛り上がりが見える。ぱつんと弾んで飛んで行く、朝のばったが見える。自転車の震動が伝わったのかもしれない。

 柔らかな土の道を自転車は行く。
 ぬるい空気も風になれば幾分涼しい。
 白のサンドレスをひるがえしながら、自転車をこぎ続ける。
 畦道から車道に出る。車道の泥は夜明けの光りで、白く輝いている。
 車一つ通らないその道を自転車で横断する。そして、細い坂道に、わたしは入る。

 ぎいぎいと悲鳴をあげる自転車だ。
 坂道に入った途端、ペダルが重たくなった。次第に汗が浮き出してくる。
 乾いた額に、頬に流れた汗が、かさかさに荒れた唇に纏わりついて口の中に入る。
 昨晩シャワーをしたのに、腋がべったりとしてくる。背中も濡れ始めてくる。
 べとべとの汗を纏わりつかせながらも、わたしは息を弾ませ、ひたすらかけ続けた。

 細い道の両脇は、廃れた古い商店街である。
 シャッターを下ろした店のほとんどが、空き店舗だ。
 「×月×日をもちまして、閉店させていただきます」
 という、達筆な筆文字で書かれた貼り紙が目の横を過ぎてゆく。
 硬そうな枯れ木の柄だが雑草の間から覗き、そこここに蜘蛛の巣がはっている。そこにも朝露が玉になって連なっている。

 ビニール製の軒から零れる水玉も、空き店舗を押しつぶすように覆いかぶさる傾いた松の木も、低い位置から差し込んで来る太陽を反射する。温かな金の光が緩く入ってくる。

 もう少し。
 もう少しだ。

 自転車を立ち漕ぎしながら、わたしは息を切らす。
 どうしてこんなに求めているのか分からない。
 だけど、確かにあそこで、何かが待っている気がする。

 苔むしたブロック塀を横目にぐいぐい進んだ。
 やがて、さあさあと涼しい音を立てる、豊かな水の気配が近づいた。



 もう少し明るくなったら、ランニングの人の休憩場所となるだろう。
 ごろごろと大きな岩に護られ、一気に急斜面となった崖上から水が落ちかかっている。
 そこは小さな滝であり、ざあざあと勢いよく落ちた水は、いったん澄み渡った池の中で休んでから、ちょろちょろと小川になって下に向かうのだった。

 杉の木に囲まれたその場所は、苔や短い草たちも手伝って、緑色で彩られている。
 昼間は子供たちが遊んだり、涼を取りに来た人々である程度は賑わうのだが、今は早朝だ。
 誰もいない澄んだ水の空間にたどり着き、わたしは自転車から降りた。

 さあさあと水の音がたち、勢いよく落ちたついでに飛沫がたって、わたしの腕や頬を冷たく濡らした。
 サンダルの足元は朝露でべちょべちょになっていた。歩く度にぐちょっと音がするほどだったから、わたしはついにサンダルを脱いだ。

 ひんやりとした土の感覚が足の裏から伝わり、その瑞々しさが全身を駆け巡るような気がした。

 ゆっくりと昇る夏の朝日は、やがて杉の梢から滝にもかかりはじめ、その黄金の輝きが水たちに反射されて、唐突に虹が生まれるのを、わたしは見た。

 (どうして、ここに来たいと急に思ったんだろう)

 茫然と虹の輪と滝の白い水を眺めながら、わたしは裸足の足で池に近づいた。
 ごろごろと池を護る大岩のひとつに腰をかけると、べとべとする顔をぬぐった。
 さあさあと滝は音を立てつづけており、梢から差し込む光も、角度をゆっくりと高くしていった。
 夏の朝は呆気ない。夜の深さなど問題にもしない。

 わたしは目を閉じて朝日を受ける。
 背後では、さあさあと虹の滝が音を立て続けている。


 「時々は思い出してね」

 ふいに背後から頬を包まれて、わたしは目を開いた。
 ふわっと瑞々しい香りが漂い、艶やかな黒い髪が流れてきて首筋にあたった。
 白くすべすべとした腕はきめの細かな肌をしており、ほっそりとしている。長く華奢な指がわたしの頬を両方から包み込み、耳の横で静かに語り掛けるのだった。

 (なぜ、ここに姉がいるんだろう)

 と、わたしは思った。

 姉は綺麗な人で、妹であるわたしが恥ずかしくなる程だった。
 今は実家のある、ここから電車で一日ががりの町に住んでいるはずで、そこでエステみたいな、スピリチュアリストみたいな変な仕事をしている。

 姉は子供の頃から木々や川のせせらぎを見て、妖精がいるとか、今日は午後から雨が降るから傘を持って行ってとか、変な事ばかり言う人だった。妖精はともかく、天気予報は気持ち悪い位に当たったので、狭い町の中では、霊感少女の噂がたっていた。

 だけどわたしはお姉ちゃんみたいな力はなかったので、いたって平凡な少女時代を過ごした。
 姉は優しい人だから、今でも時々電話をくれたりするけれど、こんなふうにテレパシーをくれるのは初めてだ。

 (お姉ちゃんが呼んだのか)

 ふっとわたしは思った。
 疲れ切って目が覚めた、ぱっとしない夏の夜明け。
 ぴちょんぴちょん落ちる水を眺めているうちに、無性に、ここの滝を見たくなった。
 それは、姉が呼び寄せてくれたのかもしれない。

 綺麗な水が流れる場所ならば、姉との通信ができるのかもしれなかった。
 確かに姉は、幼い頃から、美しい水を愛していた。川の流れや湖の光をこよなく愛していた。そして、そこに宿る光を見ては、妖精だとか、明日は晴れだとか言っていたのだ。

 姉は透明な輝く水のような人である。

 その姉が今、後ろから白い腕で、わたしを抱きしめているのだった。

 「耳を澄まして、匂いをかいで、風を感じるだけで、なんとかなることもあるのよ」
 静かに囁きながら、白い指は、わたしのかさかさの頬から首筋、それから、ばさばさの短い髪の毛を触った。
 姉の触れたところはしっとりと温かく潤った。
 オレンジ色の仄かな力が肌を通して伝わるようだった。


 瑞々しい香りが風に薄められ、触れていた指も静かに離れた。
 わたしは知らない間に目を閉じていたらしい。

 もちろん、滝の中に姉が立っているわけもなく、わたしは幻影を見ていたのだった。
 あまりにも疲れていたせいなのか、本当に姉が不思議な力を使ってテレパシーを送ってくれたのかは謎だけど、確かなのは、かちこちに狭められていたわたしの外側が、まるきり嘘のように力が抜けて、ゆるゆるになっていることだった。

 今や夜は完全にあけ、眩しい光が上から降り注いでいる。
 滝の虹は色を増し、あらゆる影はくっきりと濃くなった。

 はっはっは、と、荒い息が聞こえてきて、ランニングの人が一人、ここまで坂を駆け上ってくるのが見える。
 わたしは立ち上がるとサンダルをはき、ランナーと入れ替わるようにして自転車にまたがったのだった。


 一日は始まりを迎えている。
 白い小さな田んぼトラックが道を走り始め、畦道には既に農家の人が出ていたので、わたしは来た時とは別の道を行くことにする。
 連休など自分には関係がないと言う顔で仕事に向かうスーツの人々や、忙しそうなトラックの運転手さん、開店の支度を始める通りのお店……。

 朝だ。また、朝だ。

 何となく空腹を感じた。
 アパートの部屋に戻った時、まだ、ぽちょんぽちょんと水の音が続いていた。
 強い日差しを受けて、水はぴかぴかと光りながら落ちていった。

 水滴の一粒に、泣くほど懐かしい風景が写り込んでいるような気がしたが、あっという間に落ちて流れて行ってしまった。
 汚れた足の裏をタオルで拭きながら、なにか予感があって、ポケットに突っ込んでいたスマホを取り出した。
 姉からメールが入っていた。


 「お水をたくさん飲んで、野菜を食べてね」

 何故だか知らないけれど、何か月ぶりかのメールなのに、唐突にそんな言葉が送られていた。
 わたしは笑いながら立ち上がると、とりあえず冷蔵庫をあけて、昨日買ったばかりのトマトと、冷やした水を出して、朝ごはんの支度をはじめた。


 どんどん失われてゆく潤いだけど、時々こうやって補充してやれば、多分、うまくいく。
 そうしてわたしは、自分を取り戻し、また歩いてゆけるのだ。

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