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泉を探して  作者: roak
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第七十二話 握手

 ヤマイさんから借りた地図は、思いのほか精巧に作られたものだった。建物の場所が細かく記されている。そして、建物には赤い点が打たれているものとそうでないものとがあった。赤い点は全部で二十六個。この赤い点の打たれている建物が、隊員たちの家ということだった。ユキと一緒に訪ねて歩いた。本人に会えたところもあれば、家族が代わりに応対したところもあった。対象者である二十六人のうち十二人は工場長と同じようにここで家族を持ち、暮らしていた。彼らに声をかけるのは気が引けた。この森を出ることは、彼らにとって家族と離れることを意味するから。だが、話をするだけしておこうと思った。

「すみません」

「何か用」

「この森から、もしかすると出られるかもしれません」

「元の場所に帰れるってこと?」

「そうです。明日、日の出の時刻に出発します。広場で待ってます」

「ふうん。そうなんだ。気が向いたら行くよ」

 対象者の家を訪問しては、このようなやり取りを繰り返す。「ア語」しか話せない家族が出てきたときには、ユキが彼らと話をしてくれた。話し終えると、決まって彼女は振り向いて言った。

「本人に伝えておくって」

「ありがとう」

「どういたしまして」

 このようなやり取りも何度か繰り返した。本人もその家族も話を聞く態度は一様に素っ気ないものだった。驚きも、疑いも、喜びも彼らの顔から感じとることはなかった。仕事中なのか、本人にもその家族にも会えない留守の家が八軒あった。それらの家には手紙を書いて残した。

 ユキと並んで歩きながらアカメさんの言葉を思い出す。「アンタが帰りたがっていると勝手に思っているだけで、本当に帰りたいと思っている者は実は少ないかもしれない」という言葉を。


 小さな集落とはいえ、対象者の家をすべて訪問し終えたときにはすっかり日が傾き、辺りは暗くなっていた。歩きながらユキが言う。

「食堂、空いてるかな」

「混んでたら、無理にいいよ」

「明日はうんと体を使うんだから。ちゃんと食べなきゃ」

「それもそうだね」

 食堂の出入口の前に立つ女にユキは一枚の紙片を渡す。食堂の中に通される。賑やかな話し声が聞こえてくる。広間は人で一杯で、今日も活況を呈していた。

「あの席が空いてるね」

 とユキが場所を指して言う。まるでそこが予約席であるかのように奥の方に二人分の席がぽっかりと空いていた。

「そうだね、あそこにしよう」

「お料理を取りにいってくる」

 代わりに行こうとしたが彼女に制止された。世話になってばかりだ。明日、恩返しをしたいと思う。表立っては言わないが、彼女も帰りたいはずなのだ。帰れる手段があるのなら、それを使いたいと思っているはず。明日、できることはすべてやりたいと思う。仮に隊員たちはだめだとしても、彼女だけはどうにかして連れていきたいと思う。

「お待たせ」

「ありがとう」

 ユキは料理の盛られた皿を静かに床に置いた。この食堂はどういう仕組みで運営されているのだろうと疑問に思う。でも、考えたところで、ユキにそれを聞いたところで、何がどうなるわけでもないと思い、考えることも聞くことも結局やめた。明日、ここを去るのだから。芋のようなものの料理を食べながらユキは言った。

「明日どれぐらい集まるかな」

「どうだろう」

「浮かない顔ね。どうしたの」

「訪問してるとき、あれこれ考えてしまって」

「どんなことを?」

「本当にこれでいいのかと思った」

「帰ること後悔してる?」

「そうじゃないんだけど。本当にいいことをしてるのかなと思ったんだ。正しいことをしてるのかって思ったんだ。みんなに声をかけて、集めて。絶対に帰れる保証なんてないのに。それに、みんなにもここでの暮らしがあるのに」

「いいか悪いか、正しいか間違ってるか。それは、今は分からないよ」

「うん」

「あとになって、周囲の状況が変わってから、分かることって結構あるでしょう」

「うん」

「あのとき、ああしてたからよかったんだとか。あのとき、こうしておけばよかったんだとか」

「うん」

「今は分からないんだよ。誰にも分からない。だから、分からないことは仕方ないんだよ。分からないなら分からないでいいと思うんだ。できることをやって、やるだけやってみて、そうすれば、あとになって後悔しなくて済むから。まあ、後悔するかもしれないけど、後悔するときはするんだけど、できることをやっておけば、辛いのが少なくて済むかもしれないから」

「うん。そうだね」

「そうでしょう」

「ありがとう」

「どういたしまして」

 ユキは穏やかに笑う。それから彼女は豆のようなものでできた料理を手に取って食べた。目を閉じて味わっている。幸せそうな表情だ。それは一昨日の夜、初めてこの食堂へ来たときから気になっていた料理だ。手に取って口に入れてみる。すると、鼻も、舌も、食道も、胃もねじ曲がるかと思うような強烈な味と香りがした。それは、「酸味」や「苦味」や「辛味」といった味覚の枠に収まらない。「刺激」としか言い表せないようなものだった。ほとんどかまずに飲み込んだ。そして、思わず頭を抱える。心配そうにユキが言う。

「どうしたの?大丈夫?」

「大丈夫。ちょっとショッキングな味がしただけ」

「それ食べ慣れてないときついかも。慣れるとすごくおいしいんだけどね」

「慣れなくてもいいや」

「明日、出るんだもんね」

 ユキの目はどことなく輝いて見えた。この森から出ることについて、思っている以上に彼女は乗り気なのかもしれない。

 今日も音楽隊が現れる。さまざまな楽器を携え、列をなして広間に入ってくる。双子のボーカルが前に出て、それぞれ一言、二言「ア語」を発した。それ以外に特に挨拶はなく、演奏が始まる。今日は音楽隊の全員が赤い線の刻まれた服を着ていた。一曲目はゆったりと静かに始まり、それから速く激しく展開していった。楽器が奏でる音と双子の発する歌声が見事にかみ合っていた。たくさんの音が結び付き、組合わさり、一つの作品となっていた。客たちは皆食べることを忘れて、演奏に見入り、聴き入っていた。今日は工場長の姿は見えなかった。

 二曲目が始まる。二曲目は最初から最後まで静かで遅くて単調で、少し退屈に感じる曲だった。でも、客たちは熱心に聴いている。一曲目よりも深く聴き入っているように見えた。その様子を不思議そうに眺めていると、小さな声でひっそりとユキは教えてくれた。

「これが彼らの代表曲」

「そうなんだ」

「そうだよ。最初は私もつまんない曲って思った」

「うん、単調過ぎる気がするな」

「歌詞がいいの」

「歌詞がいいんだ」

「ア語が分かるといいなって思える」

「そうなんだ」

 どのような意味なのかユキに聞こうとした。だが、少しためらい、結局やめた。知ったところでどうするのだろうと思ったからだ。そして、この集落の魅力をまた一つ知り、出ていくという気持ちがわずかでも揺らいでしまうのが何よりも怖かった。

 二曲目が終わると、始まりのときと同様に双子のボーカルが前に出て、「ア語」で短く挨拶した。どうやら今日の発表はこれで終わりのようだった。客の方を見ながら双子の女の方が何かを叫んだ。叫び続ける。彼女と目が合う。何かを訴えている。

「何を言ってるんだろうね」

 とユキに聞いてみた。

「来てください、だって」

「来て?」

「うん。私たちに」

「え?」

「行こう」

 よく分からないまま立ち上がり、音楽隊の方へユキと一緒に歩いていった。座っている客たちの背中を蹴ってしまわないよう気を付けながら。双子の目の前まで歩いていくと、女の方が何か言葉を発した。穏やかな口調で長々と何かを話した。ユキはうなずきながらその話を聞いて、意味を教えてくれた。

「感謝してるって」

「どうしてだろう」

「この服が、音楽隊のつながりを強めてくれたんだって。バラバラになってしまいそうだったメンバーをつなぎとめることができたんだって」

「その服は工場長が」

「この食堂で着ることを工場長に提案したじゃない」

「そうだけど」

「今日、工場長と話をして、そのことを知ったんだって」

 何気ないことが、思いがけない結果を招くものだと思った。更に続けてユキは言う。

「それから、明日、帰ってしまうことも知ったんだって」

「そうなの」

「だから、会ってお礼を言いたかったんだって。今日、ここで会えてよかったって」

「どうして知ったんだろう。明日帰るってことを」

「この方の旦那さんが、今日声をかけて回った人たちの一人だったんだよ」

「そっか」

 双子の男の方が手を差し出した。握手をする。女の方も手を差し出す。握手をした。それから、音楽隊の全員が手を差し出してきて、一人一人と握手をした。今まで生きてきて、これほど多くの人たちと握手を交わした日があっただろうかと思う。

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