第七話 事件
ウェイターは紙片をそっとテーブルに置く。そして、「事件」について語った。
「あの事件は本当に不思議でした。おおよその顛末は知人から人づてに聞いたのですが、突然、空のある一点が、赤くなったそうなのです。日中の、天気のいい青空が。何人かが同時に見ています。人から人へ伝えられていくうちにいくらか誇張されている部分もあるかもしれません。まあ、とにかくそのような不思議な現象が起きたということだそうです」
ウェイターは笑みを浮かべながらも真剣な目つきで話をしていた。客を楽しませるためのちょっとした冗談というのではなさそうだ。
「ビールをもう一本」
とコウが注文した。
「かしこまりました」
と言って、ウェイターはその場から去った。
「まあ、そういうことだ」
とコウはばつが悪そうに言った。そして続けて言った。
「事件が起きたのは、泉の近くだと思う。とにかく、この記事を読んでみてくれ」
手渡された紙片。その大きさは手のひらぐらい。記事は二段に渡っており、冒頭には「異常気象か」との見出しがある。内容は、次のようなものだった。
<突然、空の一部が赤くなった。市街地から遠く離れた山林上空での出来事だった。周辺の地域に住む者をはじめ、偶然通りかかった者など複数の者が確認していた。現象が観測された地域の住民によれば、そのときの空の色は、まるで赤い絵の具の一滴を空色のカンバスに落としたかのようであり、とても作為的な風景で、自然現象には見えなかったとのこと。住民からの通報を受けて出動した消防隊員によれば、原因は不明だが、山火事ではないとのこと。ある科学者の話では、そのような自然現象は通常見られるものではないが、考えうる原因はいくつかあり、いずれにしても、非常にまれな現象とのことである>
記事の余白に小さく年月日が書かれていた。記事の掲載日をコウがペンで書き込んだのだろう。五年ほど前の記事だった。ビールを一口飲んで、コウは言った。
「山岳関係の記事のほかに、こういう記事も集めてたんだ。ちょっと恥ずかしくて、あまり人に見せられるようなコレクションじゃないけど。その異常現象が起きた場所がどこなのか当時の記事から探っていくと、どうも例の湖の場所に近いようなんだ。だから、一言言っておく。気を付けた方がいい。ただのハイキング気分で行くと大変なことが待っているかもしれない。異常気象の現場がどうだったか、山林で何が起きていたのか、それは調べた限りでは何も分からなかった。報道はそれっきりなんだよ」
「サンドイッチとビールをお持ちしました」
と言って先程のウェイターが現れた。
「どうも」
とコウは言って、皿に盛られたサンドイッチの一切れを手に取り、ほおばった。そして、何度かかんで飲み込むとビールを一口飲んだ。ウェイターはテーブルの近くに立ったまま、その場をなかなか去ろうとしない。話がしたくて我慢できないと言いたげな様子だった。彼は小さな声で
「少し話をしてもいいですか」
と言う。
「構いません」
と返事をした。すると、再び「事件」について彼は語った。
「とにかく、事件後の対応もなんだか不自然だったという話です。警察なのか自衛隊なのか、とにかく、何らかの組織、団体の方々がその事件のあった山林付近に集まり、バリケードを張ったり、二十四時間体制で見張りを立てたりしたそうなんです。そして、どうやら彼らは山林の中へ入り、何らかの調査を行うためなのか、異常現象の起こった現場へ足を運んでいたようなのです。二、三日そんな状況が続いたあと、突然、何事もなかったかのように彼らによる山林の封鎖と調査は打ち切られ、近隣住民へ何らの説明もないまま撤収したそうなのです」
「警察であれば、制服などで分かるのでは」
とコウが言う。すると、ウェイターは言った。
「そうですね。ただ、そのときの彼らは、所属する組織も分からないような出で立ちだったということなのです。あくまで、本当にただ人づてに聞いた話なのですが。迷彩服を着ていたのか、武器など所持していたのか、詳しい話は聞いていません。とにかく、何らかの団体がその事件現場を調査し、突然その調査を打ち切り、始めから何事もなかったかのように撤収した。事件には、そのようなその後の経緯があるということです」
「なるほど」
とコウは言った。そして、
「国家ぐるみの隠蔽があるかもしれないということかな」
と付け加えて言った。するとウェイターは反論した。
「いいえ、そうとは決まってません。特定の思想を持った者たちが立ち上げた民間団体による仕業かもしれません。そういった大掛かりな調査が行われたというのに、その様子はニュースや出版物で報じられることは一切ありませんでした。以前は都市伝説の類いの一つとして話題になったこともあったようですが、今では誰からも何も語られることなく、些末な記事の残滓がネット上を漂っているような状況です。では失礼します。どうぞごゆっくり」
と言って、ウェイターは小さく会釈し、去っていった。彼は去り際に笑顔を見せた。それは、言いたいことを言い終えて、胸のつかえがなくなったと言いたげな顔だった。コウはビールをぐいと飲み、三本目の瓶も空にしてしまう。そして、
「それでも行くの」
と聞いてきた。
「行くよ」
と返答した。あの泉には何かがある。これだけの話を聞かされたのに、どういうわけか行きたいという気持ちは少しも変わらなかった。