第六十二話 帰還
どちらの建物で寝るべきか。あちらで寝るか。それとも、こちらで寝るか。懐中電灯で交互に照らす。どちらがよいだろうかとしばらく考える。少し迷って、最後にはどちらでも構わないと思った。どちらの建物にしても、形はほとんど変わらないのだろうから。近い方の建物に入る。ここは、昨日泊まった場所と同じだろうか。よく分からない。それなりに快適な場所だということは分かる。壁も床も天井もひび一つなくしっかりと造られており、雨も風も問題なくしのげる。枯れ葉や石ころも落ちていないし虫の一匹も見当たらない。心地よく眠れそうだ。懐中電灯を点けたままそっと床に置く。背負ったリュックを下ろし、座り込んで考え事をする。
森の集落に住む異質な人々。最初、彼らとの心の距離は無限に思えた。でも、今はその距離が少しずつなくなってきている。縮まってきている。まだここへ来て三日だが、どうすれば彼らと仲良くやっていけるのか少しずつだが分かってきたような気がする。ユキは早く居住権を取るように勧めてくる。居住権とはなんだろうか。ここで暮らしていくための許可証のようなものなのか。まだ来たばかりだというのに、そのようなものを取得できるのだろうか。また、取得できるとして、取得することが果たしてよいことなのだろうか。ユキは喜んでくれるのかもしれないが、「おめでとう」とか言って、笑顔で祝ってくれるのかもしれないが、それから何をしたらよいのだろう。仕事を見付けて、家を見付ける。それでよいのだろうか。それはここで生きていくということ。ひらりひらりと目の前で見せられた乗船券。一度乗ればおそらくずっと乗っていられる船。だが、その船旅が本当によい旅となるのかまだ分からない。今はまだ分からない。例えるとすれば、そういった話だ。ユキには申し訳ないが、今はまだ券を受け取れない。その船に乗ることはできない。できないのだ。なぜなら、まだやっていないことがあるから。試してみたいことがあるから。
一人で静かにしていると、じわりと疲れを自覚する。驚いたこと、悲しんだこと、楽しんだこと、今日体験した一つ一つを思い返すと、少し目が回りそうだ。これほど心を動かされた一日があっただろうかと思う。ふと気が付くと、勝手にまぶたが下がってくる。ひどい眠気に襲われている。早く寝たいと思う。体が眠りを求めている。水筒の水を一杯飲んでから素早く歯を磨き、リュックから寝袋を出して中に入る。床に置いた懐中電灯を消す。辺りは真っ暗になる。目を閉じると、一瞬のうちに意識は眠りの海へ沈み込んだ。
「起きて」
声がする。目を開ける。辺りは暗い。声のする方へ目をやる。立っている人の姿がぼんやりと見える。なんとなく顔も見える。目を凝らす。誰なのか分かる。ユキだ。彼女が足元に立っていた。
「おはよう。やっと起きたね」
「おはよう。もう朝か」
「うん。これから泉へ行くところ。だから起こしにきた」
「そっか」
寝袋から出ると思わず身震いした。空気がかなり冷えている。ユキは言う。
「歩けば体は温まる。行こう」
リュックを背負い、建物から出る。二人で歩き出す。細い道を進む。ユキが前を歩く。後ろから付いていく。細い石畳の道を右へ、左へ、曲がる。彼女は迷うことなく進む。どんどん進む。歩みはいつものように軽やかで、昨日転んだ影響はほとんどないようだ。息切れしながらなんとか離れまいと付いていく。しばらく進むと太い道に出た。その頃には大分体は温まり、眠気もすっかり消えていた。太い道では、ユキと並んで歩いた。泉を目指してひたすら歩く。少しずつ日が昇り、周囲は朝の光に満ちてくる。森の中は薄い霧に包まれていた。
「どうして私の名字を知ってたの」
歩きながらユキは聞く。
「友達から聞いたんだ」
「友達って誰」
「コウって言うんだ。同じ学校に通ってた」
「コウ!ああ、コウちゃんね。懐かしいな。友達だったんだ」
「うん」
「私はね、バイト先が同じで。そこで知り合った」
「そっか」
「入らないかって誘われてね。地元のマウンテンクラブに一緒に入ったの」
「そうなの」
マウンテンクラブ。きっと登山好きの人たちが集まって活動する会なのだろう。
「コウちゃんとどんな話をしたの」
「ここへ来るためのアドバイスをしてくれた。アドバイスっていうか忠告っていうか。気を付けた方がいいって。それから、君が突然いなくなってしまったことも話してくれた」
「そっか」
「コウに会ったのは本当に久しぶりだった。もともとネットの航空写真で青い泉を見付けたのが始まりで、見付けて、そこへ行ってみたくなった。航空写真はよく見るし、普段は行ってみたくなるなんてことないんだけど。あれは特別だったんだ。それで、森の中を歩くのに誰かアドバイスしてくれないかなと思って相談した友達の一人がコウだったんだ」
いびつな石畳の道を歩きながら話すのは少し大変だった。歩くのに気を取られ、ところどころ声が途切れてしまっても、ユキはそれなりに興味をもって聞いてくれているようだった。彼女は言う。どこか寂しげな表情をその顔に浮かべながら。
「そうだったんだね」
「うん。あいつも君の帰りを待ってると思うな」
「そうかな」
「うん、きっとね」
そこで話は終わる。悲しげなユキの顔を見て、それきり言葉は出なかった。あとは黙々と二人で歩いた。しばらくすると遠くに一人の女の姿が見えた。石畳の道を颯爽と歩いてくる。手には大きな桶。頭の上に乗せている。彼女もまた水くみの仕事をしているのだろう。ユキと同様の技術を駆使して、あの泉の水をくみ上げているのだろう。そして、今彼女が持っているあの桶の中にはたくさんの水が入っていることだろう。歩みは互いに速い。見る見るうちに近付き、すれ違う。彼女はすれ違いざまにユキに何かを告げた。その言葉にユキは小さくうなずいた。互いに立ち止まることもなく、その連絡はほんの一瞬の出来事だった。水くみ同士の秘密の暗号の取り交わしが行われたのだろうか。
「なんて言ったの」
聞くとユキは微笑んで答えた。
「今日はいいものが見られる」
「いいもの?」
「着いてからのお楽しみ」
それからほどなくして泉に着いた。目の前に広がる光景に息を飲む。
「なんだこれ」
思わず発した言葉はそれだった。水がうっすらと青く輝いていた。蛍光色の青い色。見たことがある。それは航空写真で見た色。同じ色だ。
「すてきでしょ」
「うん」
「赤い煙もいいけど、こっちもいいよね」
言葉が出てこない。こくりと一回うなずくのが精一杯だった。
「これはなんだろう」
ユキに聞く。すると、
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
と小刻みに音の高さを変えて、彼女は「ア」を発した。
「長いね」
「意味は帰還。帰るってこと」
「それだけなの。あんなに長いのに」
「うん。もっと意味があったんだと思う。何か深い意味が。だけど森のみんなは忘れてしまった。残された意味が帰還。それだけになった。この現象を森の人たちはそう呼んでいる。もっとも、さっきの長いのは正式名称で、みんな略して『アア』と呼んでいるんだけど。ねえ、空を見てよ」
その青い色は目の前に広がる空の大半を覆っていた。青い水が泉の水面で霧と化し、空へ上っているようだ。
「これがどういう現象なのか。私たちも分からない。いろんな自然現象について人に聞いたり本で読んだりしたけれど、こんなのは全然知らない。多分誰も知らない。どうしてこういうことが起きるのか」
思い付いたことを言ってみた。
「これはきっと帰ってるんじゃないかな」
「帰ってる」
「帰還っていう言葉のとおり帰ってるんじゃないかな。森の中から外へ。森の外から中へ。そういうことじゃないかな。泉の水は、森を出たり入ったりしているんだ。泉が吸ったり吐いたりするようにして。それは動物が呼吸をするようなもので」
「そうかもね」
と言って、ユキは泉へ向かって歩き出す。足が水に浸かるかどうかというところで、彼女は振り返って言った。
「ここから先は一人で行って。私は仕事があるから。終わったら広場で会おう?」
「うん、そうしよう」
ここから先は一人。たった一人で会いに行く。泉の向こう側へ。変人に会いにいくのだ。