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泉を探して  作者: roak
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第五十四話 記念

 広場に着く。上り続ける赤い煙。途切れることなく空高く上る。何かを燃やしている。それが何かは分からない。炎と煙を囲むようにして立っている人々。彼らは皆視線を地面に落とし、じっとしている。マネキンのように動かない。音を立てずに静かに歩く。人々の輪に向かって。誰かと肩がぶつからないように気を配る。そうして、ユキと二人で輪の中へひっそりと紛れ込む。好ましい立ち位置を見付ける。誰の邪魔にもならず、煙にそれなりに近い場所。少し離れたところでユキも立ち止まる。目を閉じる。これからのことを考える。ここで暮らしていくことについて考える。もう親にも友達にも会えない。彼らとは特にうまくやっていたというわけではない。特別な何かをして、泣いて喜ばれたということはない。一緒に何かを成し遂げて、感極まって抱き合ったなんてこともない。それでも、もう会えないと思うと少し寂しい。空を見上げる。周りの人々が頭を下げて、じっとしている中、一人だけ空を見る。少しくすんだ空の青を背景に、真っ白な雲が流れていく。空のとても低い場所を流れている。あの雲はどこへ行くのだろう。あの雲もやはり、この森からは出られないのだろうか。この森一帯の上空をただ漂うのだろうか。そのような目的のない旅を続けて、やがて消えてしまうのだろうか。限られた空を舞い、巡って消える。ここにいる人々の生活も似たようなものに思えてくる。そこには何か誇らしく喜ばしい意味があるのだろうか。今度は視線を落とし、足下の地面をじっと見る。裸足で立っている。この地に今、こうして立っている。足の裏から伝わる確かな皮膚の感覚が教えてくれる。ここにいると。今日という日を忘れない。ここで生きていくことについて考えた日。そして、今ここで生きていることを確かめた日。大切な記念日にしようと思った。誰かを祝うわけでも何かに感謝するわけでもない記念日。そっと一人で思い出し、大切にする日。そのような記念日があってもよい。再び空を見上げると雲はどこかへ消えていた。

「何考えてるの。真剣な顔して」

「ここで生きていかなきゃならないのかって考えてたんだから、真剣にもなるよ」

「そっか。でも、そんなに重く考えなくていいから。気楽に気楽にね。ここの人たちは分かってる。考え込んでも仕方ないって。この儀式にも大して深い意味はない。思い詰めないことが大事だよ。ほら、そろそろ始まるよ」

「何が始まるの」

「上、上」

 そう言ってユキは天を指さした。指さす先には、赤い煙の中にできた空洞。じっと空中にとどまっていたかと思うと、ぐぐっと急激にそれは膨らむ。それからしばらくその大きさでとどまっていると、突然また膨らむ。煙の中の空洞が広がっていく。その動きは生き物のようだった。増大する意志を持った生き物だ。また、膨らむ。今、確かに見えた。煙が吸い込まれるのを。膨らんだ空洞に大量の煙が吸い取られていくのを確かに見た。次の瞬間、声が聞こえる。

「コイヨー」

 森の住人の誰かが発した。その声を皮切りに一斉に皆が叫びだす。コイヨ、コイヨと。男も、女も、子供も、老人も。その場にいる全員が叫んでいた。ユキの方を見る。彼女もまた叫んでいた。何に来いと言っているのだろう。誰に向けてこの声は発せられているのだろう。彼らは何かの救いを求めているのか。ユキに聞いてみた。

「コイヨ、コイヨってどういうこと?」

 ユキは言う。

「さあ。よく分からない。お祭りの掛け声みたいなものだと私は思ってるけど。とにかく叫んでみなよ。胸がすっきりするから。小さな悩みなんてどうでもよくなるから。考えてることも、困ってることも小さなことに思えてくるから」

 試しに叫んでみようと息を吸った。そのときだった。後ろから声がした。

「参ったね」

 振り返ると、そこには昨日食堂で偶然会った工場長がいた。ユキも振り返り、彼を見る。

「あなたもお祈りですか」

 ユキが尋ねた。工場長は言った。

「うん。まあね。たまに来るんだ。しかし、参ったね」

「何が参ったのですか」

 ユキが聞く。

「あの掛け声、僕が最初に始めたんだ。それをみんながまねるようになった。そして、今も続けられている。恥ずかしいことだ」

 ユキが言う。

「なんだ、そうだったんですか。普段『ア』しか言わない彼らがどうしてだろうと思ってたけど、そういうことだったんだ」

「うん」

 工場長は少し照れくさそうに言う。

「でもどうして、『コイヨ』なんですか」

 ユキが聞くと、「君たちには言ってもいいか」とぼそりとつぶやいてから彼は話し始めた。

「さかのぼること十年以上前、僕はこの森に足を踏み入れた。嫌なことがあってね。自暴自棄になっていた。それにしても、ここはちょっとうるさいね。少し離れよう」

 広場の隅に三人で移動した。昨日食堂に来ていた彼の家族の姿は広場になく、一人でこの広場に来ているようだった。立ったまま工場長は語る。

「今から十年以上前、僕の、いや、僕たちのやっていた事業が大失敗したんだ。ベンチャー企業というものさ。学校を卒業してから僕は会社を立ち上げたんだ。卒業する前から仲良くしていた数人と立ち上げた小さな会社だ。最初は割とうまくいった。若い起業家なんて特集で、ローカル誌にも取り上げられたんだよ。だけれど、じりじりと業績を落として最後はジリ貧状態さ。運が悪かった。巡り合わせっていうかタイミングっていうか。言い訳をしようと思えば、その材料はいくらでもあった。けれども結局のところ、僕の実力不足だったのだろうね。それで、自暴自棄になって僕はこの森へ入った。いや、僕たちはここへ来た。一緒に会社を立ち上げた人のうちの一人。当時、大切にしていた恋人とね。とにかく深くまで行こうと思った。今となっては何をあんなに思い詰めていたのだろう、なぜあんなに絶望していたのだろうなんて思ってしまうのだけど。とにかく僕らは自暴自棄になっていた。この森を歩き回り、二人で探したんだ。最後の場所はどこがよいだろうかと。そんなわけで僕らは深くへ深くへと進んだんだ」

 コイヨ、コイヨという声は止まない。ほとんど全員が半狂乱で叫んでいるように見える。工場長は続けた。

「森で一晩過ごしたあと、朝ちょっとした散歩のつもりでぶらぶら歩き回ったんだ。眠っている恋人をテントに残し、僕一人で。するとここへたどり着いた、というわけ。あの赤い煙の意味についてはよく知らない。彼らに尋ねても返ってくる返事はあいまいで、どうやら彼らも本当の目的は分かっていないようだ。去年もやったから今年もやる。昨日もやったから今日もやる。やることに深い理由はないけれど、やらずにはいられない。やめることがどうにもできない。本当に、その程度の行為であるようだ。思い込みかもしれないけれど、あの煙にできた空洞。あれは現世とこことをつなぐゲートのようなものかもしれない。そんな感じがする。いや、多分そうだ。そんな気がして、向こうに残した恋人に会いたくなった。声をかけたくなった」

「それで、あの掛け声を発したのですね」

 とユキが言うと、工場長は言った。

「そうだよ。本当に、本当に無意識のことだった。気が付くと涙を流しながら叫んでいた。するとどうだろう。周りにいた人たちも声を上げだしたんだ。化学反応が起きたかのように」

 工場長はそれきり黙り込んで煙を見上げた。それにならってユキと二人で煙を見上げる。空洞の向こうには、少し違った色の空が見える。それは工場長の言う「現世」の空なのだろう。そして予感する。「あの空洞部分を通れば戻ることができるのでは」と。ただ、その空洞は、どれほど強く地面を蹴っても届かない高さにあった。

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