第三十八話 商店
長く続く石畳の道をユキと並んで歩く。人の姿はなく、辺りはとても静かだった。鳥も、虫も、草木も、風も、朝の訪れに気付かずに眠ったままでいるかのようだ。やがて白くて四角い建物が見えてきた。ユキはそれらのどれにも目もくれず進み続けた。道沿いに建っていた建物の窓から一人の老婆が顔を出す。その窓にはガラス戸がない。壁に設けられた単なる四角い穴だった。建物の外と中とをつなぐだけの小さな穴だ。そこから顔を出して、何かをユキに話している。ユキは立ち止まり、一言、二言、言葉を返す。ユキの後ろで立ち止まり、その「会話」を聞く。老婆もユキも歌うように話す。これが「ア語」。これこそが、この森の集落の共通語なのだ。本当に使っている。何が話されているのか。その声からは断片さえも推測できない。「ア語」は、「方言」と呼べる範囲を軽く越えていた。全く異なる言葉だということを思い知らされる。ユキは話をやめて、また歩き出す。付いていく。前を向いたままユキは言った。
「ごめんね。ちょっと世間話をしただけ」
「何を言ってるのかさっぱり分からなかったよ」
「当たり前でしょう。ア語を覚えてないんだから」
歩きながら話す。道の両側に並び立つ多くの建物の間を抜けて、広場へとつながる坂道を目指す。坂の始まりでユキは言う。
「早く居住権を得て、ア語を覚えたらさっきのような会話も楽しめるようになる」
会話を楽しむ。ユキが老婆と話していたとき、楽しんでいたようには見えなかった。老婆の顔は、初めて広場で見た森の住人たちと同じような表情をしていた。硬い仮面を被ったような表情を。それにユキも一つの笑みも浮かべることなく淡々と声を発していた。あれで会話を楽しんでいたのだろうか。この森にいると、表情や感情を失っていくのだろうか。「ア語」という特殊な言語が、そうなるように作用するのだろうか。楽しいとか、悲しいとか、そういった感情が、あの発せられた声の音の高低に託され、表され、口角をあげる必要も、眉をひそめる必要もなくなるということなのだろうか。坂道を登る。脚が疲れて、息が荒くなる。ユキの足取りは平地を歩くときとほとんど変わらなかった。その細い脚のどこにそのような力があるのだろうと不思議に思う。
「もっと慣れた方がいいよ」
早口でユキは言った。そして、続けて言う。
「力があるわけじゃない。慣れてるだけだよ。動くことに慣れること。このことはすごく大事なことだから。どんなことをするにもね」
「ちょっと疲れた」
となんとか一言返す。
「頼り過ぎてたんだよ。車とか、楽をさせてくれるものに。ここにはそういったものはない。自分の体で動くんだ。動かなくちゃならない。それは苦しいことのようだけど実は楽しいことなんだ」
「うん、少し楽しくなってきた気がする」
嘘ではなかった。行きたい場所へ行くために、体を動かして険しい道を進むこと。それは苦しくもあるが、楽しくもある。ユキの言葉で改めてそう思った。ふと見上げれば、坂の終わりが見えてきた。もう少しだ。リュックの重みと足の疲れ具合を確かめて、残された坂道の長さについて考える。大丈夫。このまま行ける。休まなくても歩いていける。
「大丈夫。行けるよ。もう少しだから」
ユキが声をかけて励ましてくれた。さっきから心の内を彼女に読まれているような気がする。「ア語」を覚えたら言葉を交わさなくても人の考えていることが分かるようになるのだろうか。「ア語」にはそのような力があるのだろうか。彼女に聞いた。
「『ア語』を覚えると人の考えてることが分かるようになるの?」
「さあ、どうだろね」
と言って彼女は小さな笑みを浮かべる。いたずらを企む子供のような笑みを。心を交わす言葉。「ア語」はそういう言葉なのではないかと思った。飾らず、装わず、心の赴くまま発する言葉。今思い返せば、老婆とユキの会話にもそのように感じられるところがあった。弾んだ声、うわずった声、震えた声。「ア語」では、それらの声が言葉の意味さえも変えてしまうのではないか。音を大切にする言葉なのだから。「ア語」を聞き取るということは、話の相手から心を受け取ること。「ア語」を話すということは、話の相手に心を渡すこと。そうあることで、成り立っている言葉。それが「ア語」。その言葉を覚えることは、人の心の動きに敏感になるということ。だから、自然と人の気持ちが、考えていることが分かるようになる。たとえそれが「ア語」を知らない者であったとしても。おそらくそういうことなのだろうと一つの予想をしてみるのだった。
「大丈夫?もう着くよ」
ユキは言う。その言葉のとおり坂道はほとんど終わりにさしかかっていた。
「大丈夫」
広場に出た。煙の儀式は終わっていた。集まっていた森の住人たちが後片付けの作業をしているところだった。彼らは輪になって地面に残された真っ黒な灰を黙々と袋に詰める作業をしていた。外側から内側へと、輪を狭めて行きながら、彼らは灰を素手で拾い集めていく。熱くないのだろうか。火傷しないのだろうか。彼らの手はすっかり黒くなっていた。作業の途中で一人、二人と輪から抜けて広場をあとにする。輪から抜けた一人がユキに向かって話しかける。無表情のまま「アアアア」と機関銃のように発声している。何について話しているのだろう。ユキは答える。「アアアア」と。「ア」の音の高低が微妙に変わっているのが分かる。分かるようになってきた。しかし、話の内容は相変わらず何も分からない。ユキは振り向いて言った。
「居住権を得るのなら、早く手続を済ませた方がいいって」
「あんまり急かさないでよ」
その後、ユキは上の集落を案内してくれた。住宅地、食堂、工場、農場、商店街を見て回る。そのどれもが小さいながらも人の行き来があり、きちんと機能しているようだった。そこには確かに多くの人々が暮らす集落があったのだ。広場の下の集落が木々に覆われていたのに対して、上の集落は木が少なく、視界が大分開けている。こちらの方が広場の下よりもいくらか生活しやすいかもしれない。それにしても、誰も立ち入らないような森の奥深くにこのような集落があるなんて想像さえもできなかった。歩き回れば、多くの人の姿が目に入る。彼らは森の住人。森の住人がいて、「ア語」が飛び交う。血の通った共同体がそこにある。しかし、どことなく空虚なものに感じられた。
ユキと商店街を歩く。幅の広い石畳の道があり、両側に何軒もの店らしき建物が並ぶ。それらの建物の前には、品物が陳列されているが、看板らしきものを一切掲げていないため、誰かに案内してもらわなければ店だということが分からない。
「あれ、おいしいんだよ」
ユキは店先に陳列された品物を指さして言う。それは何かの干し肉のような形状の物体だった。木製の丸椅子に座り、うとうとしながら店番をしている店主の前にユキは立つ。そして、「アア!」と大きな声を発した。店主は「ア!」と声を上げ、勢いよく椅子から立ち上がる。ひどく驚いた様子だった。それからユキは何かを長々と話す。店主はこくりと一度うなずき、店の奥に姿を消した。再び現れたときには、小さなバケツのような容器を手にしていた。ユキは桶から直接その容器へ泉の水を注ぎ込んだ。店主は水の入ったその容器を大事そうに抱えて店の奥へと消えた。ユキは干し肉と思われる品物を二つつかみ取り、一つを差し出して言った。
「食べてみてよ」
かじってみると、それはかなり硬かった。
「これ、あごが鍛えられそうだよ」
「味はどう?おいしいでしょ」
よくかんで味わう。
「おいしい」
嘘ではなかった。辛みと甘みの中に微かな苦みと酸味がある。独特な香りもある。それらの風味はぶつかり合うことなく調和して、一つのものになっている。癖になる味だ。食べたことのない味だった。食材はなんなのだろう。どのような調味料を使って、どのような調理法で作られているのだろう。商店街の通りを歩きながら食べる。ユキも食べる。二人でばりばりと音を立てながら。
「これはなんなんだろう」
「アアアの肉」
「アアアの肉か」
「違う。アアア」
ユキに音程や強弱の間違いを指摘された。それから何度か挑戦するが、間違いを指摘され続ける。そのうちに、これが何の肉なのかどうでもよくなってしまった。味がよく、空腹が満たされたことに変わりはないのだから。