第三十一話 清流
青々とした木々の葉が、空を覆い隠すかのように頭上に広がっている。柔らかな木漏れ日を浴びながら進む。細く、頼りなく続く道の上を一歩、また一歩進む。その道は誰かが意図して作ったものではなく、地面に刻まれた多くの往来の形跡と言った方がよい。慎重な足取りで、注意深く前を見て歩く。たまに立ち止まり、左右を確認する。前へ進めば進むほど木々の密集の度合いは高まった。空から注ぐ日の光も、厚い葉の層に遮られて減っていく。辺りは次第に暗くなり、いよいよ鬱蒼としてきた。草の匂いも土の匂いも濃くなっていく。大きな黒い板を通り過ぎてからずっと斜面を下り続けている。緩やかに下り続けている。下の方へ、下の方へ。深く、より深く。進み続けている。遠く前方に目をやると、更に深い森が待ち受けていた。そこまでたどり着くと、その先には、更に深い森が待っていることだろう。そういう気がする。まるで吸い込まれていくようだ。吸い込まれ、取り込まれ、やがて溶け込み、その一部と化してしまうような感覚。この感覚はなんなのだろう。少し現実感が欠けている。森にできた謎の集落に足を踏み入れること。それは現実からの隔絶で、この感覚はその兆しということなのだろうか。
しばらく進み続けると、微かに水の音が聞こえてきた。どこかで川が流れているようだ。耳をそばだて、音のする方へ目を向けた。細い川が見えた。道から逸れて、少し下ったところに一本の細い川が流れている。この細さ。沢と呼ぶのがよいのだろうか。よく分からない。ひとまず川と呼ぶことにする。あの川の近くで休憩することにした。斜面を慎重に下りる。崖とまでは言えないが、かなりの急斜面だ。木の枝や幹をかわし、次の一歩をどこへ踏み出すか考えて進む。一歩と、その次の一歩との間に思考と決断の過程を入れて、用心深く進んだ。不意に足を滑らせた。思わず、「あっ」と声が出る。斜面を転がるように落ち、最後は強く腰を打った。激痛にもだえながら顔を上げると、川はすぐそばを流れていた。その幅はとても狭く、少しの助走をつければ跳び越えられそうなほどだった。腰をさすってなんとか立ち上がり、水面に顔を寄せる。透き通った水がこんこんと流れている。水の中へ手を入れる。とても冷たい。そして、清らかだ。その水で手を洗い、顔を洗う。リュックからタオルを取り出し、水をたっぷり吸わせ、固く絞る。それで丁寧に体を拭いた。身も心も清められていくようだ。水の冷たさは気にならない。むしろ心地よい。歩き続けて、体はかなり温まっていたから。今度はリュックから水筒を取り出した。水を入れる。ほとんど空だった水筒にたっぷりと。そして、一杯、二杯と蓋のカップに移してはがぶがぶ飲んだ。なんてうまい水なのだろう。止まらない。気が付くと水筒は空になっていた。もう一度、たっぷりと水をくみ、蓋を固く閉め、リュックにしまった。川から少し離れて、斜面から小さく突き出した岩に腰掛けた。リュックからビスケットを取り出して食べた。川が流れる森の景色を眺めながら。頭上に生い茂る木の葉がまばらなおかげで、さっきまで歩いていた場所よりもいくらか日当りがよい。ここは居心地のよい場所だ。素直にそう思った。そのように思える場所が、今までどれくらいあっただろう。ずっと見ていたくなる場所。とどまりたくなる場所。そういう場所へ今までどれくらい訪れたことがあっただろう。オオトの属する組織のこと、「投石実験」のこと、黒い板のメッセージのこと、分からないことはさまざまある。だけど、今は考えることは忘れて、目の前に広がる景色の美しさを味わいたいと思った。
そろそろ行こうと腰を上げたそのときだった。ここから少し離れた場所の上空に、何か赤いものが浮遊していることに気付いた。あれを見たことがある。あれは、例の空の赤いシミだ。もうかなり近い。そのシミはほとんど球体と言ってもよい形をしていて、ゆらゆらと揺らめいている。近くだからよく見える。あれは一体なんなのだろう。改めて近くで見ると、その赤はとても綺麗だった。今まで見たことのない深みと鮮やかさをその色は備えていた。決して触れることができない、そばに行くことさえかなわない神々しさを感じる。「赤」と分類される絵の具という絵の具を全部並べたとしても、それらをどのように混ぜ合わせたとしても、あの色を再現することはできないように思われた。その色をもっと近くで見たいと思った。歩き出す。腰がかなり痛む。だが、歩けないほどではない。さっき転げ落ちた斜面を登る。木の幹につかまって、一気に体を引き上げる。堅い岩石を蹴り上げて、柔らかな土を踏みつける。今度は滑らないよう気を付ける。そうして一歩、また一歩、上がっていく。緩やかな下り坂に戻る。地図を見ながら進む。道は続いている。右へ、左へ緩やかに曲線を描きながら。森の更なる深みへと歩く者を導く。立ち止まり、地図をよく見て確かめた。もう既に航空写真の泉に相当する場所に足を踏み入れていた。
「なんだ、泉なんてないじゃないか」
と思わず言った。視界に広がるのは深い森の景色。それでも落胆しない。本当の旅の目的地はこの先にあるのだから。この先にあることを知っているから。コウに、オオトに、教えてもらった場所。森にある集落。いつからあるのか分からない。どうしてできたのかも分からない。謎に満ちた場所。その入り口を目指す。もっとだ。もっと進むのだ。更なる深みへ。この前進はもう止められない。
進み続けていると少し離れたところに大きな丸い物体が落ちているのを見付けた。大きく張り出した木の根に隠れているが、確かに丸い物体が落ちていると分かる。桃色の丸い物体が。それは、この森の中でひどく場違いなものに見える。形も、大きさも、表面の質感も。あれはなんだろう。近付いて確かめる。見たことのある物だった。バランスボール。手で触ってみる。大分空気が抜けていた。それにあちこち泥で汚れている。ふと視線を移すと、今度は人形のようなものが落ちている。これは人体模型だ。バスケットボールとサッカーボールも近くに落ちていた。状況を少しずつ理解する。今、起きていることを把握する。真夜中に小屋で見たレポートを思い出す。「投石実験」のことが頭に浮かぶ。隊員たちが失踪した場所を示しているという赤い円の中。そこへ投げ込まれ、消えてしまった物たち。それが今、目の前にある。周囲を見回す。景色に際立った変化はない。相変わらず深い森の中にいる。だが、さっきまで歩いていた細い道が、どういうわけか見当たらない。代わりに一本の別な道を見付ける。それは、粗雑な作りの石畳の道だった。




