第二十七話 再開
準備を整えて、出発したのは昼近くのことだった。それまで小屋の中で作業をしていた。家から持参した地図にさまざまなものを書き込む作業だ。オオトが見せてくれた手書きの地図。それに書き込まれたバツ印や等高線の位置を細かく確認し、ペンで一つ一つを丁寧に書き写していった。位置に誤りがあってはならない。慎重に二つを見比べ書き込んだ。突然眠くなってしまうという不思議な現象。集落と何か関わりがあるのだろうか。よく分からないが、とにかく危険から逃れるため、できることは面倒でもやっておくべきだと思った。そして、もちろん忘れてならないのが赤い円と青い点。そして、その二つを結ぶ緑の線だ。これらも転記する。小屋がどこに建っているのか。集落の入り口がどこにあるのか。この二つは特に入念に確認してから地図に記録した。出発地点と目標地点を示す印なのだから。ぐりぐりとペン先を押し付け、力強く印を入れた。
作業を終えると、一息ついて水を飲み、地図を閉じてリュックに入れる。オオトから譲り受けたコンピュータもリュックに入れる。予備のバッテリーも忘れずに。靴ひもをしっかりと結び直す。テーブルの上に五百円玉を一枚置いた。使った水の代金だ。不便な森の中の貴重な飲み水。少し安いかもしれないが、感謝の気持ちを込めて置いていく。腕を伸ばし、体操をする。膝の屈伸運動もする。太ももに軽い筋肉痛を覚える。だが、歩くのに支障はない。昨夜と比べるとあまり寒くなく、小屋の中は快適だった。だが、快適だからといって、いつまでもここにはいられない。小屋のドアを開ける。外へ歩き出す。そして、二、三歩進んでから振り返り、小屋に向かって
「ありがとう」
と一言礼を言った。オオトにも礼を言いたかった。しかし、彼は結局来なかった。方位磁石をよく見て、進むべき方向を見定める。それから再び歩き出す。黙ってひたすら前へと進んだ。しばらく進むと足腰に疲れを感じ始める。ふと立ち止まり、振り返れば、もう小屋は見えない。森の中で、本当に一人きりだ。朝かかっていた霧はすっかり晴れて、今は遠くの木々まで見通せる。心の片隅に居座っていた不安は、歩くほどに消えていく。テンポよく進む。
歩き続けて、小屋からはもう大分遠ざかった。遠ざかる途中に細い道を見付けて、ずっとその上を歩いている。この道こそオオトが、彼の組織が、切り開いた道なのだろう。集落へと続く特別な道であり、手作りの地図に記された緑色の線が示す道なのだろう。地図上ではわずかな距離に見える。だが、実際に歩いてみると、その本当の長さを知る。暖かな日差しの中、爽やかな風に触れて歩く。緩やかな斜面が続く。少しずつ登り続け、いくつもの木々の間を通り抜けた。
歩きながら考える。オオトの仕事はどのようなものだったのだろうか。「決められた場所で決められた業務をこなし」というのは、いつも同じ場所で同じ仕事をしていたということなのか。それとも、日によって場所が異なるのか。おそらく後者だ。後者でなければならないはずだ。小屋を拠点にいくつもの経路が設定されていて、毎日、そのうちのどれかを歩くのだ。一日に歩く経路は一つなのか、二つなのか、それとも、もっと多いのか。それは分からない。一本の経路がどれほどの距離なのかも分からない。だが、とにかく、いくつもある経路のうちのいずれかを歩いて見て回るのだろう。でなければ、無理な話だ。この広い森の中を端から端まで一日で見て回るなどということは。手作りの地図では、広範囲に渡ってバツの印が付けられていた。オオトとその前任者たちはおそらく歩くべき経路が変わるたびに探索したのだと思う。そして、数ある経路の中には、集落へ接近するものもあった。それは、今まさに歩いている道。ここを通るときだけオオトは「投石実験」ができた。「投石実験」に関する彼のレポートには、書かれた日にちに間隔が見られた。おそらく、そういうことなのだと思う。例えばレポートによれば、小石を投げたのが九月十日で、ボールや人体模型を投げたのが九月二十日だった。その間は、別な経路を歩いていた。歩くことになっていた。組織からの命令で。多分そういうことだ。
斜面は徐々に急勾配なものになる。ひたすら登り続ける。息が切れる。考えごとをする余裕もなくなった。斜面の上の方を見上げる。黒々とした、大きな四角い板が見えた。