空と地上の星
ほんのりと浮かんだ笑顔を見た人は誰もいなかった。
だけど、その時、少女は確かに幸せを感じていた。
壊れてしまったガラクタと人は言うかもしれない。
だけど、大切にそれを抱きしめて、少女は確かに微笑んだのだ。
見上げた夜空には星なんか浮かんでなくで、明るすぎる街の光を少し恨めしく思った。
幼い頃、祖母の家に行った時に見た夜空とはあまりにも違うその空に。
だけど、空から目を離した時に足元に忍び寄る暗闇に怯えたのも事実で。
きっと、私はこの人工の光溢れる町以外で生きていくことはできないんだと思う。
学校の後に軽食をとって塾に行く。
全てのカリュキュラムを終える頃にはとっくに時間は深夜に近い頃で、眠る頃には日を超えている。
眠たい目をこすりながら起きだして、とっくに学習を終えた授業の内容を夢現に過ごし、また放課後を迎え………。
それが当然で、そのことに疑問を持つことなんてなかった。
好きなものなんて無くて、ただ詰め込まれる教科書の内容を消化する日々。
一緒にご飯をとったのがいつかなんて考えるも虚しいほど、両親との関係も希薄で。
だけど、たまに顔を合わせれば「あなたのためなのよ」「頑張りなさい」と繰り返される言葉になんと無く頷く。
そんな毎日。
365日を毎日毎年。
壊れそう、なんて分からなかった。
だって、それが私の普通だったから。
だけど、多分、心のどこかが悲鳴をあげてたんだと思う。
その角を曲がったのはなんとなく、だった。
いつもと反対の方へ。
寄り道なんてしてる時間はない。
早く家に帰って、お風呂に入って寝なきゃ。
遅刻なんてしたら内心に響いちゃうから。
だけど、足は勝手に歩みを進めていた。
いつもと反対へ。
知らない道へ。しらない場所へ。
ふと我に返った時、本当に知らない場所に立っていて、なんだか笑ってしまった。
そうか、私はどこかに行きたかったのか。
知らない町の知らない小高い丘の上の公園のような場所。
ぼんやりと柵にもたれて眼下に広がる町の明かりを見下ろしていた。
「どこに行きたいんだ?」
不意に隣から聞こえた声にぼんやりと首をそちらに動かす。
いつの間にそこにいたのか、黒ずくめの男がそこには立っていた。
あまりにもベタな展開に押し殺した笑いが漏れる。
「別に、どこにも」
返した言葉は我ながら抑揚もなく暗くて、なんだかやっぱり笑ってしまった。
あぁ、私は、こんなにも空っぽだ。
親の言うまま。教師の指し示すまま。
ただ目の前に敷かれたレールをたどるだけの私の中には何もないのだろう。
昔は。
祖母の家に夏ごとに預けられていたあの頃は、もう少し、違っていたように思う。
少なくとも、満天の星空に感動し、暗闇に怯える心があった。
「では、なぜここにいる?」
問いかけに首をかしげる。
なぜ、なんて、聞かれたの初めての気がした。
なぜ?
「歩いてたら、ここに着いただけ。意味なんて、無いよ」
つぶやきはやっぱりどこか空々しく響いて、私は少し虚しさを感じた。
「そうか」
だけど、黒ずくめの男はさほど気にした様子もなくそう呟くと、そのまま黙り込んで空を見上げた。
その瞳が、なんだかひどく優しげに見えて、何を見ているのか、興味がわいた。
「何を見てるの?」
ポツリと尋ねれば、不思議そうな瞳がこちらを振り向いた。
「空にあるのは星だろう?」
さも当然のように言われ、つられて空を見上げるけれど、そこにはやっぱり町の光に焼けたいつもの煙ったような夜空が広がるだけで、星なんて見えなかった。
「嘘つき。なにもないじゃん」
思わず、詰るように言えば、男はクスリと笑った。
「見えにくいだけで、そこにはちゃんとあるんだ」
小さな子供に言い聞かせるような声音に少しイラつく。
そんな私の心など知らなげに、男はどこか面白がるような顔で私の顔を覗き込んだ。
「見たいか?」
どこかからかうような声に、少し考える。
見たい?なにが?
脳裏に幼い頃に見た怖いくらいの美しい星空が浮かんだ。
あの光景をもう一度見れるなら、見てみたい気が、した。
「みたい」
頷いたのは無意識で、そんな私に男は笑みを深めるとそっと私の方に手を伸ばしてきた。
「綺麗なモノばかりではないよ?」
その言葉に足元から忍び寄る暗闇の恐怖を思い出す。
いつだって美しいものはそうでないものと表裏一体だった。
「………でも、いい。………かも」
最後に少しためらったのはご愛嬌。
男はクスクスと笑いながら伸ばした手で私の目元を覆った。
「じゃぁ、試してみたらいい。後悔もまた、
甘いものだ」
囁きは甘く、鼓膜の奥にとろりと絡んで消えた。
それは刹那のふれあい。
男の手のぬくもりを感じたと思った次の瞬間には、その全ては消えていた。
そうして、開いた眼で見上げた空は…………。
星はそこにあった。
だけど、私の目はそれ以上のものを捉えるようになってしまったらしい。
あの黒ずくめの男が何者だったのかなんて未だにわからない。
神の一種だったのか、もしくは神ならざるものだったのか。
親の敷いたレールの上を淡々と歩けば良かっただけの日々から随分離れてしまった今を、だけど、面倒くさいと思いはすれ拒絶しようとは思わない私は、あの日に、瞳以外の何かも変わってしまったのだろう。
「れな」
名を呼ばれて、見上げていた空から目を戻す。
少し困ったように私を見つめる青年に、私は首をかしげて見せた。
「時間?」
端的に尋ねれば頷きが返される。
随分と長い間、ぼんやりとしてたみたいだ。
相変わらず、私は時間の流れによく置き去りにされてしまう。
1分1秒を管理されていた日々の反動なのかもしれなあ、と少し思うけれど、残念ながら周りの賛同は得られていない。
ただ、私がボンヤリなだけだというのが周囲の見解であり、甚だ遺憾である。
「ごめん、いこ」
もっとも、今、そんなことを目の前の青年に訴えたところでしょうがない。
やるべき事をやるだけ、だ。
最後にもう1度見上げた空には、数え切れないほどの美しい星空。
そうして、地上に目を落とせば、同じように数え切れないほどの無数の町の明かりが見える。
それは、とても不思議で、ありえないはずの光景。
でも、少なくとも、この光景を見えるようにしてくれた黒ずくめの男に私は少なからず感謝をしている。
だから。
いつか、もう1度会える時があれば、「綺麗だね」って言ってみたいと思ってるんだ。
踵を返し、声をかけることもなく私を待ってくれていた青年へと歩みよる。
伸ばされた手をつかめば、青年はゆっくりと歩き出した。
引かれるままに歩き出した私の耳にいつかとおなじ笑い声が聞こえた気がした。
手に入れたもの。
無くしてしまったもの。
その全てを言葉にすることはできない。
けど。
抱え込んだ何かを落としてしまわないように、大切に大切に抱きしめて。
私は今日を歩いていく。
読んでくださった物好きな貴方様。
どうもありがとうございました。