いつもの朝
僕が道路で横たわっていると、そばで悲鳴が聞こえた。なにごとかと思い、それをきっかけに考えのまとまらなかった頭は動き出した。
いけないいけない。このままでは遅刻してしまう。ぷるぷる震える手で体を起こしながら、声のした方を見る。
「ね、ねえ、大丈夫なの? 大丈夫なの?」
いったいなにがあったのだろう。僕は頭に沸いた疑問の答えを探すが、うまく情報が伝わってこない。
なにやら若い女性が一人で騒いでいる。周りの人はそれを見、僕を見、そして通り過ぎていく。
朝からそんなに騒ぐことなんてあったんだろうか。僕はある程度近くを見渡してみるが、そのような様子はどこにもない。なにに動転しているのか。
と、よく見れば、その人は自分に話しかけている。……ああ、そうか。僕を見て、驚いてるのか。それに、どこかで見たような気がすると思えば、この前引越しの挨拶にきた近所の人だ。
綺麗に流れる黒髪を後ろで結んで、質素だけど新しい服を着ている。おそらく結婚したばかりなのだろう。引っ越してきた新築と同じように、すがすがしい印象の女性だ。年下の僕からみても生き生きとしていて、幸せそうに見える。そのとき初めてまっすぐ顔を見て、その目元に泣きぼくろがあることに気づいた。
「ちょっと、動いたら、だめじゃない」
にしても、よりにもよってこんな時に。これが朝じゃなければ、説明する気力も体力もあったのに。口を開くのがあまりに億劫で、僕は頭を掻いた。
そこに、住宅街を朝っぱらから騒がせる迷惑な音。朝じゃなければ好奇心で目を向けることもあるだろうに。その赤い光に白い車体。
「救急車、呼んだんですか」
「え、いけなかったの?」
驚く様子があまりに自然だ。普段は願ってやまないそれも、今はうらめしい。刻々と過ぎていく時間が、僕をだんだんと焦らせ始めていた。
狭い路地を潜り抜けて停まった救急車のドアから、ばたばたと人が降りてくる。
隊員の一人が僕の顔を見て、その引き締まった表情を途端に和らげた。
「友則くんじゃないか」
「ごぶさたしてます」
「いや。相変わらず、大変そうだね」
「すいません。わざわざ」
「いやいや、なにもなかったようで安心したよ。人が落ちてきたって言うから、危険な現場かと覚悟していたから」
他の数人の隊員も車に戻りながら、雑談を始めている。
「帰るぞー」
僕と話していた顔なじみのおじさんも、「それじゃ」と一言言って車に戻っていった。それを見るや否や、僕は家の方角を確認し、頭の中でどう行けば一番近いかをはじきだす。
……やばい。時間をずいぶんと使ってしまっている。急いで帰らないと、何を言われるかわからない。
「……なんなの?」
つったっていたままのご近所さんは、去っていく救急車を眺めながらそうぼやいた。
それを聞き流しながら、僕は自宅へと走り出した。
ぜえぜえはあはあと息を荒げて家に着くと、みかたが玄関で待っていた。
「遅い!」
「……ごめん」
僕を投げ飛ばして解消されたはずの怒りが、またこみ上げ始めている。全力疾走して正解だった。もう少し遅れていたら、今度は再起不能も視野に入れておかないといけなくなっていた。
「早く準備して」
はき捨てるようにみかたが言い、僕はその通りに行動を始める。
家に入ると、窓ガラスどうこうと母が父に怒鳴っていた。まあまあと父がなだめる横を通り過ぎ、机の上に目をやる。
僕の箸が食器の上に置いてあるが、その食器の中にあるはずのものがない。味噌汁とごはん、漬物といういつもの朝食が、きれいになくなっている。
そういえば、さっきみかたの口元にごはんつぶついてたな……、と行方に見当をつけ、僕は自室へ駈ける。
部屋につく頃にはすでに脱ぎ終え、たたみ終えていた服を置き、ハンガーから制服を取る。割れた窓から入ってくる風が体を冷たくし震えるが、それに負けない流れるような無駄のない動きは、常に緊張とともにあれば身につく動きだ。
数秒で着替え終え、用意しておいた荷物を手に取りそのまま玄関へと向かう。
「いってきます」
声をかけると、父が目線をくれた。助けてくれと言っているようにも見えたけど、僕は自分のことで精一杯だ。
玄関を抜けたところにみかたが立っていた。
朝のさわやかな風が、みかたの髪をなでる。髪をおさえるみかたはどこか遠くを見ていた。
その物憂げな美貌が僕に向けられる。そうすると、みかたはその表情を和らげた。
「それじゃ、行こうか」
どうやら落第点は免れたらしい。みかたの笑顔にほっと心の内で安堵のため息をつき、僕たちは二人で学校への道を進み始めた。