プロローグ
まずいまずいまずい。まずいって。もう朝かよ。どうすんだよ。またいつものごとく、寝てるふりとかしてないといけないわけ? あーでもどっちにしろ、僕がひどい目にあうってのは変わらないんだよね……。永年に続いて繰り返されるこの恒例行事、これに慣れるってのは正直無理だ。絶対無理だ。
そうしてついに、足音が聞こえてくる。乱暴だ。頼むから、突き破らないでくれ……。修理費だけで、うちの家計を圧迫してるそうなんだから……。布団にもぐり、祈るように両手をあわせる。
足音は僕の部屋の前で止まる。それと同時に僕の心臓が暴れだす。息を殺し、懸命に寝ているふりをする。ばれるわけにはいかない。あとでなにを言われるかわかったもんじゃない。
「起きろ、とものり!」
部屋の扉をぶち破らんとする音と共に、僕の名前を呼ぶ豪気な声。よくぞそんな声が出せるものだ。これほど自信にあふれた声を、男であっても聞いたことがない。
「なんだー? 寝てるのかー?」
口の端を歪ませた、あの意地汚い笑みが目に浮かぶ。僕はあの彼女にこうしていつまでもおもちゃのように扱われ続けるんだろうか……、と何度目かわからない悲観をする。
そこに、目覚ましのけたたましい音が鳴った。
――しまった! なんてことだ! 僕の心臓が飛び跳ねる。とんでもないことをしてしまった。なんでだ? なんで目覚ましをセットしてしまったんだ? 寝ぼけていたのか、それとも錯乱していたのか? くそっ! こんな失態初めてだ!
彼女はなぜだかしらないが、「幼馴染は朝起こしにこなくてはいけない」と神経質なまでにこだわっている。ホントやめてくれ。だいたい、それならもっと早く起こしにくればいいだろうに。いつも完全に目が覚めてるんだよ。そんなにこだわってるならもっと自分が早く起きるとかしろよ! そうすればみんなが幸せになれるんだよ?
「な、なんだこれえ……?」
ええっ? まて、まてよ、声が震えてませんか? お、お前、マジ? マジギレ? 頼む。頼むから、落ち着け。ホント。落ち着いて。お願い。
体が震えだしていた。経験上、彼女はもう止まらないかもしれない。恐怖が体をかけめぐり、皮膚はあわ立ち、汗がふきだす。
「こ、この……」
どうなっているのか、布団の外はどうなっているのか。もぐってしまっているせいで、わからない。わからないっていうのも怖いが、だからってそこにはきっと更なる恐怖が立っている。確認したほうがいいのか? どうなんだ?
何度も迷った末に、誘惑に負けてチラリと顔をだしてしまった。
小さな顔に丸みを帯び愛嬌のある鼻。それに寄り添うようなみずみずしい唇。そして、輝く真っ黒な大きな瞳。中身がアレなせいでいつもつりあがっているそれだけれど、僕だけが知っている、力を抜いたときのその顔立ちはいまだに僕をドキリとさせる。
運動神経も常軌を逸しているけれど、見る限りそれが凶器だとは誰も思えない。華奢で、愛くるしい小さな肩に、触れない程度に髪が切りそろえられている。どう見ても雑に扱っているのに、それが似合うのだから生まれつきの格差があるのもしょうがなく思える。大きくも小さくもない形の整った胸、下半身の女性的なラインはそれだけで魅力的だ。
それなのに、そこに立っているのはなんだ。鬼か。悪魔か。歯をむき出しにして息を荒立たせ、顔を真っ赤にして怒りに我を忘れている。肩をいからせて、握る拳も音をたてるかのようだ。……アレはもうだめだ。絶対になにかやる。
いまだに鳴り響く目覚まし。それをとめる勇気はもちろんない。なにせ、僕はアレを見てしまったばっかりに、全身がまったく動かなくなってしまった。息もできない。死んでしまう。享年16歳、山岡友則、ここに眠る。
そんな覚悟を決めたというのに、彼女の凶眼が目覚ましに向けられる。……まさか。
止める間もなく、大きく拳を振り上げ、それが動く。風を切る音が鳴り、目覚ましが姿を消した。
窓ガラスが割れる、身が強張るような大きな音がしたのはそれと同時だった。
目覚ましが空のかなたへ飛んでいく。おお、これは、すごい。ハハ、すごいじゃないか。
割れた窓から外の声がそのまま聞こえてくる。
「なーに、今の」
「ほら、山岡さんとこの……」
「やだ、またなの」
「もう飽きてきたわねえ」
……見世物じゃねえんだよ。どっかいけ。近所付き合いなんて知ったことか。
「とものり」
布団からつい体を起こし、呆然としていた僕。最悪の幼馴染、神泉みかたが僕を今、見つめている。
「あたし、いつも言ってるよね? あたしがとものりを起こしにくるんだって」
「……はい」
それがどんなに理不尽か、わかっていても逆らえない。体に染み付いたそれも、もうすっかりなじんでいる。それが一番楽だったのだ。逆らえば、喚き散らし拳を振り上げ意識を失い、それでも続く痛みで目が覚める。奴は愚かな人間を支配するために地獄から遣わされた人の皮を被った悪魔だ。鬼だ。鬼畜だ化け物だ。人は目の前の圧倒的な実力差にその愚かさを知り、すごすごとそれに従うしか道は残されていないのだ。
「これ、なに?」
くいっと窓を指差す。風に誘われてガラス片がカラカラと屋根にあたって音をたてる。……僕が聞きたいよ。
僕が黙り込んでいると、みかたは胸倉をつかみ、ひょいと僕を持ち上げた。
「お前も目覚ましと同じ目にあえぇー!」
視界が回り、世界が歪む。僕は彼女の怪力で、今ふりまわされているんだ。ハハ、あいかわらず力持ちだなあ。
ごう、と風が耳元で叫ぶ。こいつはすごい。僕の体が空を飛んでいるよ。ハハ、ハハハ。窓を越え、屋根を越え、お隣さんの家も越え。ああ、涙がでちゃう。この後、落ちるんだもんな。もう、慣れっこだけどね。うん。でも泣くくらい、いいじゃないか。こんな不遇、僕くらいだろう?
ドサ、と聞き慣れた僕の体のきしむ音。心臓もどくどく元気に動いてる。体はまったく動かないけど。そうしながら、僕は微笑んだ。
よかった。この程度で済んで……。