行方
そこは、お世辞にも良い環境であると言える場所ではない。
人が居ない間こそ手入れはされるものの、一度人が入ってしまえば、後はその人物の居城となる。そうすれば、他人が手入れをする筈もなく、内に住みついた人物も掃除などに手は回さず、結果として、悪辣とした環境が出来あがって行った。
ただ「掃除道具を貸してくれ」。そう言って自身の手で清潔を保てば、中々良い場所であると言うのに。
朝、昼、夕の三食は必ず届き、寒さを凌ぐ毛布もくれる。寝ているだけで生かされ、必死になって、身を粉にして働いていた日々が馬鹿らしくなるほど、最低限の生が保たれる場所。
解っていない。
少年は、ずっとそう思っていた。
奴らは解っていないのだ。この国に生まれた幸福が。国民であると言うだけで、行動さえ起こせばそれなりの報いをくれる、この国の頂点に座する人々の甘さを。
――否、解っているからこそ、こうしてこの環境に甘んじる馬鹿がのさばるのだろう。
少年は大きく溜息を吐き、狭い階段を上り、右隣の狭い階段を降りはじめた。
地上に戻る階段は一つ。どれとも同じように狭く、唯一光が眩く照らしている、少年が登って来た階段の左隣りに在る、唯一天へと向かう階段だ。
つまり、この穴に在住しているわけではない少年は最初、降りて来た階段を右に曲がり、そして次に、正面の階段へと脚を運んだわけである。
その順番は、昔から決まっている物だった。
地上へと続く階段から降りて、右が一から十。正面が十一から二十。左が二十一から三十。数字通りに物事をこなしたがる少年は、右、正面、そして左の順に階段を下るのが、通例となっていた。
人一人しか通れない、狭い階段。無理をすれば擦れ違う事も可能だが、それは標準体型以下の人間だけが為せる技だろう。兵士たちは基本的に鍛錬を積み、そのおかげか肩幅が広かったり図体がそれなりだったりで、身体を横にしなくては通れない苛々を募らせる道だ。
少年はまだ十三になったばかりだが、「十も無いだろ」とからかわれるような矮小な体格をしていた。つまるところ、それほど狭さは苦にならない。こんな階段を下る人間も少なく、限られているので、基本的に擦れ違うような事態に直面する事の方が少なかった。
そんな階段の途中に、男が座っているのを、少年は見た。
見覚えのない真っ白な髪に、見覚えのある髪型と服装。体格も、少年自身の瞳と記憶を信じるならば、当人でありそうな様子。髪色はまぁ――奴の事だから、どうとでもなる。
襟足だけ伸ばされたような髪は、根元の方で結わえられている。けれど短い襟足以外の髪が多く、赤い髪止めの玉は殆ど見える事は無い。服は白いシャツ――良く見ると、髪の方がよっぽど美しい透けるような白さだった――で、その襟もとから黒い紐が結ばれているのが窺える。彼の上着の中身は知っている。本当に『布を巻き付けたかのような』服だった。背中がとても無防備なのを見て、彼と仲の良い勇者が「そんなお色気誰も求めてない。女子がやるべき」と真剣そのものな表情で首を振っていたのを覚えている。彼女曰く、「金太郎のような服」らしい。彼はその『金太郎』について説明を求めていて、勇者はとても嫌そうな顔をしていた。
腰から下は、見えない。少年の方が階段の上に居るため、座り込んだ彼の下半身が見えないのだ。でも、きっと、記憶に違わぬ恰好をしているのだろうと、少年は踏んでいた。
だが、おかしなことがある。
彼は今、勇者と共に、絶賛遠征中の筈なのだ。
少年は首をかしげつつ、十何歩残った歩みを詰められずにいる。髪の色が違うから他人なのかと思案するが、他人だとすれば、彼が此処に居る意味がわからない。
いや、他人でなくとも解らないのだが、他人であるとするならば、牢番が此処に入れる筈がないのだ。牢に入る手順は簡単だが、必要書類や身分証明、その他諸々の手続きは意外と面倒なのである。他国の客人である彼が一人で入ることなどできないし、まして、彼はどこかへ遠征に行っていて。確かに彼の力をもってすれば、人に気付かれずに忍びこむ事も可能だが、それをする意図が不明で。
「……そこの人」
最早確認するのが早い。そう思い、少年は視えぬ答えに悩むのを止め、結論を急いだ。
彼の名を呼ばないのは、敢えてのことだ。もし彼が彼でなかった場合、彼の名を呼ぶことで、この不審人物が彼を装う可能性を排除するためである。
勿論、本人であるという場合もある。だが、彼は決してこの国の規律を破るような人間ではないと、少なくとも少年はそう信じていた。
この建物の奥に入るのは、二人以上が規律。少年こそ単体が許されているものの、他の人間は決して許されない。
「何やってるんだ。ここは関係者以外、立ち入り禁止なんだけど」
解り易い定型文を放つ。話しかけられた事に気付いたらしい男性は、ゆっくりと少年を振り仰いだ。
男性は、正しく『彼』だった。
魔導師、ミレオミール。
輪郭も、顔の部品も、瞳の色も、耳を飾る装飾に至るまで。
どう見ても、ミレオミールだった。
けれど、少年が若干の安堵を得た所で、彼は、笑った。
とても綺麗に、とても嬉しそうに。
少年を見て、とても優雅に笑ったのだ。
そして――消えた。
まるで、蜃気楼のように。
化かされたような、白昼夢でも見ていたかのような心地で、少年は歯切れの悪い気持ちを抱えたまま、溜息混じりに階段を下った。
心臓がざわざわと鳴る。冷たい血が全身に行き渡り、動きの鈍る足をどうにか奮い立たせる。
少年の用事はこんな所には無い。下に行き、そこに住まう人々の体調確認をするのが、少年の日課であり仕事だ。疎かにするわけにはいかないし、疎かにする気もない。少年は腕っ節こそ弱いが、度胸だけは一人前だ。この程度の事で、震えあがる事はない。
けれど、階段を最後まで下ったところで、少年は茫然と立ちつくした。
そこでは――
一つの大きな牢に収容されていた、先日の脱獄犯が、
一面の赤に身を浸し、バラバラに千切られた肉片が乱雑に積み上げられていた。
少年は思い出す。
そういえば、先程階段に居たミレオミールの掌は、鮮やかな赤で、汚れていた、と。
□■□
ミレオミールが、いない。
だからと言ってどうということも無いのだが、過る些かの不安が由乃の気を引いていた。
元より、ミレオミールは由乃の戦闘中に気兼ねなく姿を消す。戦闘が終わって呼びかけると、いつもの軽い調子で表れるので、由乃はそれほど気にしていない。それこもこれも、戦闘中はある程度完璧に由乃を守ってくれているから。彼のおかげで由乃は未だ、一度の大怪我もしていない。大怪我をしそうになった事は幾度もあるが、それも未遂だ。それは正しく、由乃の力量ではなく、ミレオミールの功績に在った。
ミレオミールの守り方は、的確で完璧だ。
由乃の取りこぼした危険を、正確に見えない壁で阻む。彼にとっては別段苦でも無いだろうに、余分を嫌う彼は、基本的に最小の壁だけを扱い由乃を守った。
だが。
「…………」
怪我をした。
その事に関しては、別段なんら思うところも無い。否、自身の不注意に対して思う所はある物の、ミレオミールに対する不満は、無い。
問題は、その前。
脹脛全体を囲う様に現れた淡い光。中型魔獣の牙を阻止するには、明らかに大きすぎる壁。
(…………ミオ……)
心の中で、彼の名を呼ぶ。
服の内側に下げられた指輪を確認し、呼んで問い詰めてやろうかと気を逸らした瞬間、魔獣たちは一斉に由乃へ向かって攻撃を仕掛けて来た。
由乃は心の中で舌打ちをする。癖になったら嫌だから、普段から舌打ちをしない様に心がけていたが、最近はそれが無駄な苦労に思えてならない。舌打ちをしたい状況が、この所彼女に降りかかりすぎているせいだろう。
幸運なのは、大型がまだ動いていない事だろうか。中型に周囲をしっかり包囲されてしまった由乃は、けれども負ける気は一切しない。それは剣の効果を過信しているせいか、ただ由乃がそういう性格なのか。
けれど、負けを考えないということは、焦りが少ないことに繋がる。冷静でいられるほど慣れてもいないが、激情に追い立てられるほどでもない。それは由乃の強みだった。
右から獣が飛来する。
タメが長かったからか、獣は一瞬で由乃の直ぐ横へと現れた。
身体を半身後退させることで、その獣を避ける。早さゆえに、振るった剣は何にも掠りすらしなかった。五体満足で左側へ行った獣に視線を取られていると、今度は前方――身体の向きが変わった故に、右側となった方向から、中型の魔獣が現れる。
矢継ぎ早とはこの事だろうか。由乃は何度も身体を捻って躱し、その都度の足踏みで、傷からの痛みが無視できぬ物になって来た。
この場から離れて体勢を立て直すのが一番だろうが、それが出来るなら由乃だってそうしている。隙を与えない連続攻撃は、避けるだけで必死すぎて、他に気を回す余裕がないのだ。少しずつ腕や足、尾や耳等を削ってはいたが、中枢には届かない。
核、と呼ばれるくらいだ。基本的に、重要な構築式は、どうでもいい構築式を盾として、一番奥に隠れている事が多い。ミレオミールはそれを逆手にとって外側に雑ぜることもあるらしいが、外側に置けばその分壊れるリスクは上がる。何と言うか、彼はとてもギャンブラーだな、と由乃は思ったのを良く覚えていた。
最早、タイミングだけを見て無茶苦茶に剣を振るった方が有意義なのではないか。由乃はそう感じ始める。足の痛みは鋭いし、どくどくと血が流れて行くのも感じる。安静にしていれば問題の無さそうな傷だが、戦闘中はそうも言っていられない。ミレオミールも、此処には居ないのだから。
「わっ……と、お!」
一匹を真っ二つに割り、幾分余裕が出る。中型魔獣は止まらないが、逃げ道は増えた。
(……やっぱり、ミオを呼ぶべきか……)
ミレオミールは良くやってくれている。由乃の怪我は脹脛唯一だし、先程の一匹も、ミレオミールのいつもよりでかい魔法の壁が捉えてくれた功績だ。壁にぶつかって動きが止まった瞬間、壁ごとぶった切ったのである。
由乃は、意識を首から下がった指輪へと向けた。紐に通されたその指輪は、ミレオミールから授かった物。自分が居ない所で無茶をされるのは困る、と寄こした、魔法力を持たない由乃がミレオミール限定で呼びかける事の出来る魔法道具だった。
使い方は、指に嵌めて静かに声をかける。それだけで良い、のだが、戦闘中にそんな余裕がある筈もない。第一、由乃の片手には剣が握られているのだ。他所事に興じる余裕があってたまるか、という気持である。
だからこそ、これは戦闘前に己を呼べ、というミレオミールからのお願いだったのだが。
本人が戦闘中に消えるなど、誰が予想できようか。
今、ミレオミールは、由乃の様子を視認できない所にいる。それは、絶対だ。
最近、魔法にて探査能力を格段に上げたウィルという《人形》の少年がいる。彼は十二神将が一人、リュネ・ドーラという人物が創り上げた魔動人形であり、生みの親であるリュネを主と仰ぐ彼の近衛兵士兼お世話係だ。十数体だか、二十体ほどだか似たような《人形》がいるらしいが、由乃が言葉を交わした事があるのは、ウィルを含め数名程度だ。
そのウィルと、ミレオミールはここ数日密に会話を楽しんでいた。主に彼が新たに手に入れた探査魔法に興味が津々で、その魔法をさらに深め、実用性を上げようと言う魂胆だったらしい。
彼が由乃を今守れるのも、それに因る物だろう。
どういう魔法かは由乃も良くは知らないが、曰く魔力感知に近いとのこと。大魔導師たるミレオミールが首を突っ込んだのだから、ある程度の精度の向上は絶対だ。
恐らく、大まかな人の動きを確認できるようになった。けれど、先程の尾を使った不意打ちの攻撃等には対応できない程度の精度、ということなのだろう。
結局、由乃の想像でしかないけれど。
けれど、彼が近くで視認しているとすれば、それこそ守った可能性が高い。
脚の怪我は機動を削ぐためのもの。機動重視で戦いに臨む由乃にとって、それは死活問題だ。必死こいて今正に頑張ってはいるが、このままでは脚自体を駄目にする恐れもある。彼ならば、きっと守った。見えていれば、知っていれば。彼があの攻撃を防がない筈がない。その確信がある故の、先程の解釈である。
だが、それらは問題では無い。
問題は、何故か、彼が、由乃から目を離し、尚且つ魔法で彼女の様子を探りながら、それを悟らせない様に由乃を守っている点だ。
「…………ッ」
両足を地面から離し、両手で背後へ跳躍しながら中型魔獣と距離を取る。脚に負担をかける事を避けるため、空中で回転しながら地面に剣を刺して勢いを殺し、傷の無い片足で己の体重を受け止めた。
勿論、中型魔獣も追う。
既に教会からは離れていて、背後は森。
由乃と森は相性が悪い。そちらへ逃げ込む事は、絶対に出来ない。背水の陣ならぬ、背森の陣だ。
例え近くにおらずとも、由乃はミレオミールを信頼している。
それは彼がそう言ったからではなく、彼の事を、由乃が心の底から信頼できると理解しているから。
大型魔獣にも気をつけながら、由乃は踊るように魔獣の突進を躱す。元々持久力は困窮している方なので、戦いが始まり数十分。既に由乃の息は上がり始めていた。戦闘というある種の興奮状態にありながら、それは最早、意味をなさない。寧ろ心臓が鳴って疲れやすい。
殺らなければ、殺られる。
解り易い図式が、由乃の動きを鈍らせる。
既にいくらも光に変えて来たというのに、由乃の心は、自嘲するほど脆弱だ。
そして、心の隙は、窮地となる。
一瞬遅れた反応に、中型魔獣が身の気を逆立て――まるで針鼠の様に硬質な毛を伴って突進してきた。全身が針。最早剣を突き立てるか、大振りに身体を捻って躱すしか無い。立ち位置を変えようにも逃げたい方向からも魔獣が突進してきていて、由乃は何度目かの舌打ちしたい気持ちで、身体を捻って地面に倒れこむように剣を振るった。
咆哮。
タイミングも場所も連携も完璧な攻撃だが、それが逆に隙を生む。重なり合うように由乃の頭上を通った中型魔獣を、下から円を描くように剣を振り、光に変えた所で。
大型魔獣が、空気を、大地を揺るがすほどの咆哮を上げたのだ。
由乃が倒れ込む中、大型魔獣が動きだす。猪に似た体形は、紫色に発光する鋭い牙を伴って、由乃の背をめがけて突進してくる。
それだけならば、まだまだどうにでもする事が出来ただろう。
機動に優れた中型魔獣と戦闘を行ってきたのだ。いくら大地を震わせようと、その巨体を力強く走らせようと、由乃の目と身体は、既にそれを『速い』とは捉えない。
避けようと思えば、避けられる。
だが、由乃は身体を硬直させ、重力に身を任せていた。視線は大型魔獣ではなく、その目前――先程まで背面に在った、森を捉えている。
正確には、森から飛び出してくる、何か。
『――森に何匹隠れてるかもユノには解らないんだから』
ミレオミールの言葉が、由乃の脳で木霊する。何匹だろうが構わない。出てきたら出て来ただけ、倒せばいい。
その簡潔な理屈と、当然の帰結。浅慮と言われようが、結局やる事は同じであり、それが真理であるとも言えるだろう。
だが、そういう問題ではない。
そんなちっぽけな問題では、決して、全然、皆無で。
「うっ……あああああああああああああ!!」
由乃は戦慄の声を上げた。女性でも本当に怖い時は野太い声が出ると言うが、あれは嘘だ。いや、嘘ではないかもしれないが、由乃の喉は狭まり、声は甲高くなる空気を引き裂いた。
森から飛び出してくる何かは――一様に、虫を連想させる形をしていた。
薄い透けた羽や、おぞましい関節。数の多い脚と、仰々しい身の凹凸。
由乃は、虫が苦手だった。
どのくらい苦手かと言うと――命を懸けた戦闘中、恐怖に身が硬直してしまうほど。
視界が暗くなる感覚は錯覚だ。おぞましく蠢く世界に対する認識が鈍り、脳が理解する事を拒否している。呼吸の仕方すら忘れ、現状も傷の痛みも勇者という己の地位も、総てが吹っ飛んで、頭の中が真っ白になった。その白は、きっと恐怖の色なのだろう。
それでも、固まり続けているという選択肢は無い。このままでは、それらが由乃に突っ込んでくるからだ。
それだけは、避けないと。
例え大型魔獣に踏みつぶされようと、その毒々しい牙に貫かれようと。
虫に触れる事だけは、絶対に、避けなくては。
絶対に。それだけは――絶対に!
瞬間、由乃の総てを満たしていた恐怖に、剣が呼応した。
走馬灯のように色々な思い出が脳裏を駆け巡る中、由乃は衝動に任せて剣を振るった。
そして、その結果。
生存を噛みしめる間も無く放心し、再度、由乃は素っ頓狂な悲鳴を上げることとなった。
次回の更新は、土曜日を予定しております。




