信仰
酷い悪夢に苛まれ、ミレオミールは静かに現へと覚醒した。
視界に収まるのは、水濡れた建物の内側。神を祀るためか、弁舌を揮うためか。判然としない祭壇の上には、枯れた花が静謐の中でくすんだ己の存在を誇る。
例え枯れていようとも、自然発生では無い存在には意味が、理由がある。あれは、突然祭壇に沸いて出た物では決して無い。魔法の痕跡も、ミレオミールに感知できない。
祭壇の花は、誰かが此処へ持ってきて、神に献上したもの。それはつまり、花が献上される程の信仰が、此処には未だ根付いていたという事。
視覚的に優しく、息の詰まる水面に、透明な魚が跳ねる。
内側に入ってしまえば、その音を聞くのも容易。ミレオミールの耳にも、水の落ちる音が、魚が跳ねる音が、安らぐ清らかさを伴って届いていた。
祭壇の花と、由乃を喚んだ水音と、由乃を閉じ込めんとする力。
『ネロ』は一体何を求め、何を由乃に期待しているのだろう。
花を備えてほしい。信仰が欲しい。『勇者』が欲しい。『由乃』が欲しい。
由乃にあって、ミレオミールに無い物。
逆に、ミレオミールに在って、由乃に無い物――
起きて暫しの間思索に耽るのが、ミレオミールの癖の様なものであった。由乃よりも数段早起きなミレオミールは、案外寝起きがよろしくない。元々睡眠に深く入り込む性質ではないが、それ故に、睡眠を欲する身体が判然としない微睡みに縋る。けれども悪質な夢に対する無意識的な嫌悪からか、再び眠りに落ちることは無い。
覚醒までの時間を勿体ないと感じ、最早覚えてもいない、悪い後味だけを残す夢から意識を剥がそうと思索をするようになったのは、散らばった本の中心で眠るようになって、百年を過ぎた頃だっただろうか。
自身の学習能力の低さを痛感し、大きく欠伸をしながら、天井に向けて身体を伸ばす。
堅い長椅子の上で眠ったにも関わらず、身体は悲鳴を上げない。骨が鳴る様子も無い。
城に帰ってもソファで眠るのが通例のミレオミールだ。寝返りを打たない器用さと、寝返りを打っても落ちない器用さは、誰にも負けない自信があった。
細やかな陽を透かせて、内側を照らすステンドグラスの光を素通りし、絨毯を挟んだ向こう側で眠る少女へと視線を移す。
背凭れに顔を向け、器用に足と、前に流した髪と、勇者の剣を抱えて転がっていた。彼女の睡眠を確認した時、ミレオミールが身体に掛けてやった布は微動だにしていない。由乃も由乃で、寝返りを打たない器用さを持ち合わせているのかもしれない。
「…………」
由乃は、ミレオミールの希望だ。
ミレオミールが見定め、彼女に総てを賭けると決めた。
勇者。
この国の――希望。
遠い記憶。
子供のように幼い笑顔と、穏やかだが楽しそうに、単調な遊びに全身全霊を尽くす姿を思い出す。
夢にも、登場した気がする、懐かしいその姿。
彼が呼ぶ。
――ユノ。
「……ユノ」
呟いた言葉は静謐を一瞬だけ震わし、蹴り上げた水の音の内に融けて消えた。
「あら、こんにちは」
由乃は案外寝付きが良い。と言うより、一度寝たら中々起きない。
危機意識が低いというか、危機的状況に対する楽観さと言うか。ミレオミールを信頼しての行動と言うよりも、単にそういう性質なのだろう。
だから、唐突な他人の登場に対しても、彼女は顔を隠す様に眠ったままだった。
「旅のお方ですか?」
その人は、まるで青空のような淡い水色の髪に、同色の瞳を持った女性だった。
彼女はその腕に瑞々しい花を抱き、人を疑う事の知らぬ純粋さで、迷うことなく半壊した入口からその身を協会の内側へと踏み入れた。
腰まである長い髪をふわりと、風に揺れる水面のように翻しながら歩く。歩くという動作も洗練され、足音も無く優雅に椅子の間を滑る。
優しげに微笑む女性に、ミレオミールは天を指した人差し指を口元に当てることで静寂を求める。小首を傾げるので、その人差し指で隣の椅子を示す。すると女性は表情を綻ばせ、親指だけを天井へ掲げ、他の指をぎゅっと握りしめた。見た目や所作とは裏腹に、元気の良い了承の意である。
ミレオミールは笑顔で頷き、女性も同じように、頬を染めて楽しそうに微笑んだ。
少しだけ歩を早めて、女性はミレオミールの隣まで訪れる。
「旅人さんですか?」
上から覗きこむように、流水の様な髪を垂らして女性は尋ねた。
ステンドグラスを通った光に透け、髪も瞳も、本当に清らかな水のようである。
「そう、旅人。魔獣に囲まれて困ってたんだけど、ここには気配が無くって。丁度いいから、休憩を兼ねて一泊させてもらった」
あながち嘘でも無いことを告げ、ミレオミールは女性に笑いかける。由乃には時折胡散臭いと評される笑顔ではあるが、初対面時に評価が概ね良好である事実は覆らない。元々顔立ちも悪くないし、人と話すことも嫌いでは無い。
後にミレオミールの類稀な頭脳を知り、逆に最初から知っているが故に不審がられることはあるが、一般人であれば、ミレオミールはかなり好まれる人種である。
否、例え一般人で無かったとしても。魔導師として、友人としても。胡散臭いと評する由乃でさえ、ミレオミールの事を決して嫌ってはいない。
彼は生来、人に好かれる性質なのだ。
女性は「あらあら」とおっとり答え、慎ましやかに笑った。
「それはお疲れでしたね。ネロ様の御加護が、きっと貴方方をお守りくださることでしょう」
「それはもう確りと。お陰で一晩ぐっすりでした」
「あら、一晩程度では希薄でしょう。よろしければ、ご一緒にお祈りを捧げませんか?」
「それは御遠慮」
片手を胸の前に掲げ、ミレオミールは簡潔に拒否を表す。
女性は気を害した様子も無く、柔らかく微笑み「残念」と身を翻した。
祭壇の隅に花を置き、枯れた花を片付け始める。
花を包んでいた布に枯れたそれを乗せ、四隅を結んで繋げ、確りと包み込んだ。どうやら持ち帰るらしい。
瑞々しい花を祭壇の中央へ並べ、二段分だけ高い祭壇から下り、さらに一歩下がって女性は膝を突いた。
左手で右手を包み、浅く頭を下げる。
光が彼女を照らし、神への祈りは、静謐の中にしんと沁み渡る。
彼女は何も言わないが、彼女がそうして神の前に跪いている事実が、この場の清廉さを高めている気がした。
それが通常の長さなのか、簡略された物なのか。女性の祈りはものの数分で終わりを告げた。神に対する信仰はもっと厚い物だと思ったが、どうやら祈りの時間は信仰の厚さとは比例しないらしい。
「あら」
それは口癖なのだろうか。
どうでも良い疑問を頭に浮かべ、由乃へと視線を向けた女性を、ミレオミールは見やる。
女性は、じっと由乃の事を見ていた。
興味津津、という風に。
今の由乃は、すっかり剣を抱きこんで眠っているため、顔も見えないし剣もその姿を見せてはいない。由乃を勇者と判断できる要素は無く、彼女に掛けた腰布には、魔法都市の国章が描かれている。カルロディウス国との繋がりを示す物は無いが――他国存在を強く示す物があるのだから、そこそこ安全を確保できているだろう。
彼女が由乃に危害を加えるとは思えない。だが、用心しないわけにはいかない。
ミレオミールは勇者のお供であり、由乃を選んだのだから。
彼女が傷つけられるようなことを、決して許してはならないのだ。
女性は由乃へと寄って行く。
ぱしゃりと床の水が跳ねるが、女性は気にした風も無い。それが普通なのか、それとも――
(……見えてない?)
水の滴る教会。この場所は、確かに神の力の及んだ、神秘的な空間だ。水濡れたこの不思議な空間。それを奇怪と取るか、神の御業と取るか。それは個人の判断に委ねられる所である。
別段、見えなかった所で、それが一般的に言われる『普通』の範囲なので、信仰が廃れることも無いだろう。だが、それならば何故、ミレオミール達の瞳には、流れる水が映るのか。
考えるが、別に女性が「見えない」と語ったわけではない。ミレオミールの憶測にすぎないのに、思考に耽るのは良いこととは言えないだろう。
直ぐに考えることを打ち止め、ミレオミールは女性の動向を注視した。
女性は背を向けて眠る由乃の前にしゃがみ込み、その背をじっと見つめていた。
何がそこまで、彼女の興味を引き付けるのか。
由乃の事を知っているミレオミールならばいざ知らず、彼女は由乃の顔すら知らない他人である。注視するような何かがあるとも思えず、ミレオミールは内心首を捻る。
由乃は由乃で、相変わらずの爆睡だ。起きる気配は一切無く、無防備にその寝姿を女性に晒している。
危機感が無いように思う。
この勇者は、節約のためであれば異性であるミレオミールとの相宿も厭わない。ミレオミールにそんな気があるわけでは決してないが、少しは他人という存在を意識した方が良いとは思う。
今度の機会にでも、説教をして置くべきだろうか。
ミレオミールは心のメモに残しながら、それでもあまり深く考えることは無い。
意識はいつでも魔法を発動できるように整えられている。
女性が凶器を取り出すよりも、魔法を展開するよりも速く。
ミレオミールは、彼女を八つ裂きにすることが可能なのだ。
女性はくすりと笑い、ミレオミールの許へとゆっくりと歩いて来る。
由乃の事は満足したのか、そのまま彼の隣に腰かけた。
「……なーに?」
彼女が隣に座る意図が解らず、ミレオミールは小声で問うた。
女性は相も変わらずにこやかに楽しげだ。ミレオミールの問いを受け、ふふと微笑みながら、その美しい髪を揺らす。
「旅のお方のお連れ様、魔法都市からの使者様ですか?」
ミレオミールは納得した。
女性が見つめていたのは、由乃では無く、彼女に掛けられた腰布の国章だったらしい。
「外れ」
「あらーそうなのですか」
「でも正解かな」
「……?」
勿体ぶるミレオミールに、女性はきょとんと曇りない疑問を向ける。
ミレオミールはへらりと真意の見せない笑顔を返し、人差し指で自身を指した。
「あれは俺の。魔法都市からの使者様は、俺の方。あっちのちっこいのは……新米付き人、みたいな?」
神に対する信仰のある者に、勇者の存在を明かすのは如何なものか。疎まれているわけでもないが、ミレオミールは暫し考え、曖昧に言葉を濁すことにした。
女性はそれに小さく沈黙を落とす。口元に人差し指を添え、うーんと視線を動かしながら、ミレオミールの濁し方に勝手な推測を始めた。
こういうのは、深く考えずにスルーしてさしあげるのが礼儀である。
適当に、相手がそれらしい嘘を考えてくれるのだ。
自身、そして由乃にとってのマイナスにならない場合、寧ろそれを推奨した方が得策と言える。
ただし、下手に人の好奇心を刺激する様なものは駄目だ。人の口に戸は立てられない。否定をして、それ以上に意外性のある、口を閉ざさなくてはならないでっち上げを行わなくてはならない。だが、ここは端も端の孤立した田舎である。由乃の事情がバレない限り、何を言われても大抵の事は許容できるだろう。
女性はゆっくりと、ミレオミールに視線を戻す。
思考が纏まったのだろう。
「……駆け落ち中の、幼い恋人さん?」
「……まさかの方向」
ミレオミールは苦笑する。確かに由乃は身長は低いし、ミレオミールに比べれば年齢もかなり離れている。が、これでも十六歳。恋人が居るには充分な年齢で、女性で言えば結婚を考えるような年齢である。幼いと称される程ではない。
それに、見た目で言えば、ミレオミールと由乃の年齢差はそれほどでもない。それこそ、兄妹と称されて問題の無い程度に。実年齢を考えるならば、そこには途方も無いほどの差はあるが。
女性は「違うんですか」と、無垢な瞳で首を傾げた。
「何で人って、男女が寄ると恋愛ごとに結び付けようとするのかね」
「あら、人間の本質は、生存本能からくる好意や敵意。種族反映の附属である恋愛でしょう? 人間も、どこまで行っても生物なのです。本能には、抗えませんわ」
「不埒な好奇心では無く?」
「好奇心は、人生を豊かにするための香辛料です。不埒なんて、ありません」
好奇心があることは、認めるらしい。
間違いに対する否定こそすれ、ミレオミールは訂正を加えない。
そのまま暫しの間、世間話のような会話を楽しむ。
会話は貴重な情報源だ。由乃との会話は、世間話からこれからの未来予想の話まで、総てが刺激的で楽しい。
その人にしかできない考え方。思想の飛躍。思考の分岐。
どんなことで怒り、泣き、笑うのか。
決して同じ生を生きた者はおらず、同時に、全く同じ思考を辿ることも不可能。感情の表し方も様々で、千差万別という言葉がこれほど生きることも他には無い。
ミレオミールには、それが心地いい。
何よりも他人を感じる瞬間が、彼にとっては、会話をしている時だった。
「教会の周囲の森に、一部だけ、木々の無い個所があったでしょう? わたしはその一本道の向こうにある、小さな集落の住人なんです。数年前は集落にも人が一杯いたのですけど、魔獣さんたち、その頃から元気いっぱいになってらっしゃるでしょう? 皆、いなくなっちゃいました」
気にした風も無く笑う女性だが、それが強がりであることは明白だった。
今はその集落に女性だけしか住んでいないらしく、小さな畑で少量の野菜と、無駄に広い田んぼと、昔から育てていた鶏だけを守りながら生きながらえているのだと言う。
「一人は寂しいですけど、わたしは、そこから出られないんです。ネロ様にはお世話になりましたし、家族はそこで死にました。それに、魔獣さんがやって来ても、ネロ様の周囲では安全です。魔獣さんは畑にも鶏にも興味が無いようなので、逃走は気楽なものですわ。今のわたしに、失うものはありません」
話せてよかったです。旅のお方、あなたに水精ネロ様の御加護があらんことを。
そう告げて、彼女は枯れた花を包んだ風呂敷を持ち、最後に由乃に微笑みかけ、教会から何の障害も無く出て行った。
彼女も、誰かに話したかったのだろう。いや、誰かと話したかったのかもしれない。
一人きりになってしまった集落。そこまで届かない加護と、思い出したように訪れる魔物の襲撃。
女一人で生きるには辛く、心の砕けてしまいそうな苦痛。
それでも、女性は生きて来た。
移住もせず、たった一人、ネロの元へ、花を届けるために。
たった一人。
大切な何かのために。
魚の跳ねる音が響く。
波紋は、ミレオミールの見上げた天井に模様を作る。
光の反射で小さく映り込んだ顔は、まるで他人の様な表情をした、ミレオミール自身の顔だった。
今年の更新はここまでとなります。
次回の更新は、年を開けた最初の土曜日となります。
まだまだ続きますが、此処まで読んでくださって本当にありがとうございます。
皆さま、どうぞ良いお年をお迎えください。
それではまた新年にヾノ・ω・)




