縋る物
城の聳える山の麓に広がる、小さな――ある意味では大きな町。
畑が多いから土地は広いのだが、人口を比べればそれ程栄えているわけではない。近いが遠い――隣り合ってはいるが、距離的に言えば遠い――商店街の方が余程栄えているし、便利だ。畑仕事は面倒なだけで、日々苦労が絶えないにも関わらず、大金に変わるわけでもない。
それでも、その周囲から取り残されたかのような田舎町から、人口が減る事は無かった。高齢者も多くいるので、人が死なないという訳ではない。自らそこから離れる人間が、他の村や町と比べて、とても少ないのだ。しかも、新たな住人の移住はある。結果、田舎町はプラスマイナスゼロ。城にも近く、心底便利とは言い難いが、苦労は主に日々の重労働だけ。それも仕事、もしくは趣味と割り切って行けば、それないに楽しい作業に変わる。
何かを育むことは、必要とされていることと同義。
役割があるということは、存在を許されていることと同義。
半ば卑屈に思えるその考えは、由乃から譲り受けた、底辺ながらも前向きな思考。
『要は考え方の違いでしょうよ。本当に逃げるべき、逃げたいことなら逃げればいいけど、それは頑張る行為を否定するもんじゃないわっていう。私は嫌なら逃げるし、勇者もやりたくなかったから逃げてたし』
感覚で物を言う人間だ。
わかるような、わからないような。
けれど――けれども確かに。
その言葉に、希望を見ることも、確かにあるのだ。
「姉さん」
畑の土は湿っていた。前日の雨のおかげである。水をやる必要は無く、大方の作業は父親であるフレドが午前中に済ませてしまったので、今日のフェリアは、畑の周囲の低い柵に腰かけながら、とても暇を持て余すこととなった。
「……ロニ」
自身を呼ぶ声に、たっぷり瞬き五回分の時間を費やし、フェリアは声の主を振り返って視界に収めた。柔らかい陽光のような髪は眩しく、茂る夏の若葉のような翠玉は光を纏い、高い彩度で煌めいていた。その奥にあった不安は、フェリアが振り返ったことで大方が霧散する。
その色の変わり方に、今度はフェリアが罪悪感に苛まれ、むすっと拗ねたように瞳を逸らし、自身の短い灼熱の髪を撫でる様に頭を掻いた。
フェリアは数日前、ロニに対して酷い八つ当たりを行使してしまった。
彼は何も悪くないし、フェリア自身が気を悪くした原因も、『悪く』は無かった。
それでも怒りは抑えられず、嫌な言葉で傷付けることはしないようにと、フェリアは二人を無視したのだが、それがかえって酷くロニを傷付けてしまう行動になったであろうことは、夜布団に入った頃、漸く思い至ることになったのだ。
彼は、人に嫌われる事を恐れている。
フェリアも良く知る理由により、ロニの両親は、彼に正当で真っ直ぐな愛情を向けられることが出来なかった。子供故の直感か、それとも子供らしからぬ観察眼故か、彼はその事に気付いてしまったのだ。
けれどロニは賢い少年だった。気づかないフリをし、少しずつ相手と距離を取り、相手の顔色を窺い、邪険にされない境界線を見極めるのに特化した。
妹が生まれてからは、それが更に顕著になる。『お兄ちゃん』という役割を得た少年は、その役割を誇る演技の中に、羨望や憧憬といった類の感情を封印し、与えられないわけではない愛情に疑惑を持ちつつも、悟られない様に生きて来た。
それをやってのけるだけの才能があり、それをこなしてしまえるだけの力量が合ったのは、彼にとって、酷く不幸な事だっただろう。
誰にも疑われず、彼は『年不相応な優等生少年』として、世間に浸透してしまった。
彼は家族と距離を置くのに成功し、他人との間に欠片の諍いも起こさない薄い絆を手に入れた。
誰もが彼を気にかけず、心を配らず。彼はいつも一人で成功し、一人で難儀を抱えねばならない、独りの地位を確立させてしまった。
平気な筈が、無い。
それでも『家族』の前では完璧な『兄』を演じ、子供達の間では『優等生』として振る舞い続けた。
フェリアも、気付いていない人間だった。
彼の家族たちと同じ。どこか距離があるのは、単に彼が早熟なだけだと思っていた。
敬語で話すのは性格で、悪戯っ子のようにじゃれてくるのに、決して踏み込まないのはただ賢いから。
それがフェリアと、ロニの家族と、そしてロニを良く知る、友人たちの見解。
間違った見解は、時としてそれが真実と成る。
ロニは確かに賢く、境界線を探るのが上手く、早熟で丁寧な子供だった。
否となるのは、それが『彼の望んだ自身』では、決して無いと言う事――
けれど、由乃が現れた。
人を見る目はあるのだと豪語する彼女は、他の誰も見抜く事の出来なかった彼の闇を見抜き、凍ったそれを融かした。彼女の前だけでは、ロニも子供らしく笑う。計算尽くの笑顔ではなく、自然と零れてしまったような、蕾が花開くが如く、綻ぶように表情を移ろわす。
ただ懐いているだけでは無い。
ロニを理解し、受け入れた彼女だからこそ、ロニは彼女に心を傾けたのだ。
フェリアが知るのは、由乃に聞いた事だけである。
『ロニは、人に嫌われるのが怖いんだよ。人一倍ね』
詳しい事は言わず、首を傾げるフェリアにそれだけを伝え、疑問は解消されないながらも、下手な行動は慎むようにと釘を刺された。フェリアとロニの関係は由乃よりも古く、長い。それなりに軋轢もあったし、それでもやって来られたのだ。釘を刺されるような事は何もない。
――そう思っていたのは、フェリアの尊大な勘違いに他ならなかった。
「……こないだ、態度悪くて、ゴメンな」
柵から下りないまま、器用に向きを変えて座りなおし、意を決して、フェリアは自身の不遜を謝罪する。
彼女がロニに謝罪したのは――これが、初めてだった。
それなりの軋轢がありつつも、それでもやって来られた。
そんなのは、フェリアの幻想だ。
ロニはその観察眼と立ち回りの巧さ、要領の良さから、只管に『友人』とのどんな些細な諍いも、起こる前からその芽を摘み取っていたのだ。喧嘩らしい喧嘩などした事も無く、フェリアの不機嫌を感じては、ロニはそれに正しく対処してきた。
フェリアとロニの関係が続いてきたのは、偏にロニの功績である。目立たない喧嘩をしつつも、特別な絆は『親戚』という名の血縁関係だけ。馬が合うとか相性が良いとか、そういった物では無い。ロニの努力の賜物。
でもそれは、お互いが望む最良の関係では、決して無い。
ロニは、フェリアが気付かない一瞬だけ、表情を消した。
猛烈な安堵がロニの思考回路を停止させ、震える指に、暖かな血を通わせたからだ。
ふふ、と小さく声を出しながら、ロニはこてんと首を傾け、酷く満足げに、可愛らしく善良な微笑みを浮かべた。ロニは母親譲りの天性の美少女顔を綻ばせ、その幸福を雄弁に語って見せる。
「いいですよ。そのおかげで、ヨシノに家まで送ってもらっちゃいましたし」
ロニの言葉に、フェリアは半目になり、曖昧な返事を投げた。
いくらロニの由乃に対する想いが本物でも、それが既知の事実だったとしても、フェリアに色恋事の話はどうにもむず痒い。言ってしまえば、肌に合わないのだ。
「そうかい」と軽くあしらいつつ、眉間に皺をよせながら、先ほどよりも豪快に自身の頭を掻いた。ロニも「ふふふ」と含んだ笑い声を零し、笑顔だけは可愛らしく純粋なまま、フェリアの事を見つめる。これに『繊細で壊れやすい硝子の心』が備わっているなどとは、内面を知るフェリアには到底思えない。きっと、超合金コーティングされているに違いないのだ。
ふと、フェリアはきょろきょろと周囲を見回した。
ここには彼女とロニしかおらず、周囲には湿った土と、水を得て生き生きとしている雑草や森の姿しか見当たらない。
「? 姉さん、どうしたんですか?」
きょとんと小首を傾げる少年に、フェリアは簡潔な言葉で疑問を放った。
「妹は?」
普段ロニは、妹のミシェルと行動を共にする。
それは小さい妹に独り歩きをさせられない両親の愛情と、何より彼女がたった一人の兄に大層懐いている事実と、兄の仮面を無視しても有り余る、ロニの面倒見の良さに起因した。彼は妹を放っておくことはできず、外で遊びたい盛りの妹の世話役を半ば自然と請け負ってしまった。
そこに一片たりとも不満を覚えないのが、ロニの自己犠牲的な、他者に嫌われないための処世術が彼自身に浸透しきってしまっている事を、如実に物語っているとも言える。
ロニは「あぁ」と呟いて、右手を上げて、フェリアの奥を指さした。釣られて視線をそちらにむければ、あるのはフェリアの家である。
「フレドおじさんに会いましたので、ミシェルはそっちに」
恐らく、今朝フェリアの母が焼いたマフィンを、一緒になって食べているところだろう。フェリアの家では、稼ぎ頭で大黒柱であるはずのフレドが足を悪くし、どこかに属して稼ぎに出るという事が出来ない。家で農作業をする分には問題無いが、組織という物は、一つでも歯車が狂えば、上手く稼働しなくなってしまうからだ。
故に、主な収入は、フェリアの母――ユリアの手料理を売って得たお金になる。彼女が作るのはパンやマフィン。今朝作ったのはマフィンで、ノルマ分は既に売れてしまっていたので、余った分は自分たちで消費したり、客人にもてなす為に使用されるのだ。
それほど気になったわけではない。フェリアにとっては、ちょっとした疑問だった。なのでロニの答えに、聞いたにも関わらず「ふうん」と気の無い返事を返す。
ロニはフェリアの隣に腰かけ、フェリアににっこりと天使の笑顔を向けながら、本日のフェリアの行為を総て無碍にする爆弾を投下した。
「ヨシノなら、来ませんよー。今、遠征中ですから」
「!?」
フェリアは酷く狼狽えた。体を硬直させ、呼吸の方法を忘れる。
油の切れたロボットのようにロニから視線を外し、自身でも驚く程の混乱具合で、カタコトに言葉を紡いだ。
「なん……の、こと、かなぁ……アタシはただ、その……暇を持て余してた、だけで……」
「暇を持て余したら、身体を動かすのが姉さんの特徴だから。こんな所でぼーっとしてる場合、それにはしかるべき理由があるってこと、僕じゃなくても知ってますよ」
「…………」
『あんたは解り易いのよ。拗ねると口利かなくなるし、怒ったり後ろめたい事があると、良く動くかすぐ部屋の隅で銅像になってるかの極端な二択なんだから』
母の台詞である。
本心をひた隠す性質のロニとは違い、フェリアは感情と行動が常に一致していた。表情を取り繕う事も出来やしない。由乃は「フェリアの長所だね」と笑ったが、フェリアにはそうは思えない。自分だけ相手にバレバレで、相手は自分以上に自分を知りつくしている。これでは、誰に勝つことも出来ないではないか。
「…………いつから」
「結構前です。姉さんが機嫌悪くした次に日に発つって聞いて……二週間くらいで帰ると言ってたので、まだまだ帰ってこないでしょうね」
「何処に行くって?」
「南西の、県境って言ってました」
またか。
フェリアはその三文字を、脱力しながら頭に浮かべた。
一番近い遠征でも、由乃は南西の方へと遠征に出ていた。大型魔獣を討伐するとかしないとか、できたとかできないとか。多くは知らないが、由乃はちゃんと帰還し、フェリアに無事な姿を見せた。それなのに、また南西部で、由乃は戦闘を繰り返すのか。
「…………」
脱力した筈の身体で、膝の上に乗せた両腕に力を込める。
毎日のように会っていたわけではない。由乃の遠征を厭っていたわけでもない。それが彼女の仕事で、『勇者』の在るべき形で、人々を助け、導くために鍛錬を積み、この国の、世界の魔族を追い払うのが、『勇者』の役目なのだから。
そして、それを何だかんだ言いながらも頑張っていた彼女を、フェリアは確かに、尊敬していたのだ。
でもそれは、最初の頃だけ。
最初の遠征から帰還し、フェリアに笑顔で会いに来た、その日。
ロニの家に賊が入り込み、由乃が奮闘した、あの事件。
あの時、やっとフェリアは理解したのだ。
勇者と持て囃される少女が、フェリアと同じ、ただの少女でしか無いことを。
「姉さんは、ヨシノが居なくなっちゃうのが嫌なんでしょう?」
「…………」
フェリアは小さく頷いた。
見抜かれていることを、恥ずかしいと感じる余裕も無い。
ロニの表情を窺う事も出来ず、自身の涙腺のコントロールすらままならない。
潤む視界は、誰のための涙だろう。
自分の馬鹿さ加減を憂うのか、由乃との避けられない別れを嘆くのか。自分の内から溢れる感情の基盤が解らないのは、初めて受け入れた他人である由乃が、由乃という存在のまま心の内を揺さぶるから。
由乃は『勇者』だった。
異世界から来たから。勇者の剣を持っているから。勇者の剣を抜く事が出来たから。彼女自身が――勇者になることを、決めたから。
だが同時に、由乃は、『ただの少女』だった。
戦いの最中、いつ死ぬかも解らない。そんな脆弱で、儚い存在。
決して『勇者』などという大役を担えるような、特別な存在などでは無い。
フェリアと変わらない、戦う事を恐れ、嫌だと言っては逃走する、どこにでもいる一般的な少女なのだ。
逃げていた彼女は、自分で勇者になる事を選んだ。
逃げて、逃げ続けた結果、彼女は逃げることを止めた。剣が選んだからでは無く、異世界から来たという理由でも無く。
『だって、一番嫌な事が変わったら、二番目に嫌な事で手を打つしかないでしょ?』
身も蓋も無い言葉。
それでも、由乃の顔に後悔は無く、嫌悪も無く、人を騙す意図も無い、どこまでも当然であると言いたげな笑顔。何もかもを受け入れた、前を向いた笑顔だった。
楽観視はしていない。この世の苦痛の総てを背負い、総てを背負わされ、それでも『自分で選んだ事』を真っ当する事に、一切の躊躇いを排除して。
フェリアはそんな由乃に、『勇者』を見た。
明け透けな物言いも、自身で選んだ事を貫き通す姿も。それこそが彼女の信念で、彼女ならば、きっと何もかもを終わらせてしまえる。
そんな、希望。――光。
彼女は、フェリアにとっての指標であり、遠く輝く恩恵の象徴。
けれど――
フェリアにとって『ただの少女』は『勇者』となり、そしてまた、彼女が『ただの少女』であったことを思い出す。
『ただの少女』に、魔王を倒す事など不可能で。
『勇者』なら、この世の平和を取り戻す事ができそうで。
ただ、共通する物は――
避けられない、別離。
『ただの少女』は魔王の手の者に殺され、『勇者』ならば、魔王を倒し、彼女が度々口にするように、彼女は――由乃は、自身の世界へ帰ってしまう。
「そりゃそうですよ姉さん。僕だって嫌です。僕だけじゃ無くてそりゃ、ヨシノと関わった皆、きっと」
馬鹿だなぁ、とロニは言う。馬鹿と言われたことに怒りを覚える暇は無い。
言葉とは裏腹に、ロニの声色は酷く優しい。同情等では決して無い、本当の意味で同じ心、同じ感情を持った果ての言葉だ。
優しくて、だからこそ、厳しい言葉だった。
世の中には、仕方の無いことがある。諦めなくてはならないことが、確かに在る。
絶対にどうしょうも無いことがあり、如何しようも無く、諦めるしか無く、手を伸ばすことすら罪悪で、悔恨に喘ぐしか無い事実が。
けれど。
フェリアはゆっくりと、ロニの方を見た。
母と同じ柔らかい金髪は、陽を受けて穏やかに輝く。若葉の様な瞳は瞼の奥に隠れ、見えないことが彼の微笑みの安寧を物語った。
「……姉さん、知ってます?僕、魔法の素質、とってもあるみたいなんですよ」
ミールさんのお墨付きです、とロニは笑う。
希代の大魔導師、ミレオミール。
彼のお墨付きと成れば、否定する者はいないだろう。否、否定出来る者などいない。魔法に関して研究を続ける彼だからこそ、魔法に関して下手な嘘を吐く筈が無いのだから。
「内緒ですよ」
穏やかで優しげな微笑みの奥に居るのは、純粋な悪戯っ子の素顔だ。
子供らしい姿は仮面。本心はいつも笑顔の奥の底の裏。そんな少年が変わったのも、由乃という存在。
「僕ね、野望があるんです。魔法都市で魔法を学んだら、変えて行きたい事」
空は優しい色を保ち、雲の隙間から光が差す。
天が祝福する様な。それとも、ここまで来てみろと嘲笑うような。
手を伸ばすことが罪悪だとしても、諦めなくてはならないとしても。
そこに在るのが絶望としても、絶望を超えた先に、確かな希望があるのだから。
人差し指を立て、唇の前で掲げて見せる。
悪戯っ子の様な、穏やかで優しげな、幸福を得るための代償を覚悟する、一人の人間として成長を遂げた者の笑顔。
「僕ね、創るんです。ヨシノにもう一度会う魔法と、この世界と向こうの世界を行き来する法律を」
夏の青空よりも突き抜けた深い瞳に覚悟を湛え、ロニはフェリアに、そう宣言した。
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