水溜りの教会
更新遅れました。申し訳ございません。
――パシャッ、ピチャン
その森は、『鬱蒼と生い茂る』という言葉の権化、と評するに些かの疑問を持つ必要も無いくらい、『鬱蒼と生い茂っ』ていた。
道なき道は草木が生え、顔を上げれば木漏れ日すら差し込む隙間も無く、茂った葉たちが重なり合う。暗緑色と焦げた茶色が視界の一面を覆い、聞こえるのは葉擦れの音と、遠くで鳴る雫の音だけ。
森と相性が悪い自覚はあったが、歩いて五分。魔獣と遭遇し、戦闘となった時よりも早く音を上げ始めた由乃の手をミレオミールが取り、由乃の役目は、音を聞き分ける事のみに限られた。
時折鳴る雫の音。
由乃はそれを聞きわけ、ミレオミールの手を引き、そして音源と思しき方向を指さす。頭の奥の方から鳴るその音を聞き分けるのに、由乃は案外神経をすり減らされた。等間隔に鳴ってくれれば良い物を、数秒後だったり、何分後だったり、十数分後だったり。右で鳴った筈の音が、数秒後には左から聞こえたり。
振りまわされはしたが、導はそれしか無い。
由乃の滅茶苦茶な指示を、それでも信じて進んでくれたミレオミールには、感謝以外の何も表せはしないだろう。
「…………やっと、抜けたぁ……」
「お疲れ、ユノ」
指示は無茶苦茶だったが、森は比較的早く抜ける事が出来た。それでも疲弊はしているので、由乃の持久力の無さに耐性のあるミレオミールは、足を止めて軽く労い、周囲の様子を見渡す。由乃もそれに倣い、周囲の状態を確認した。
薄暗い森を抜けたその場所は、由乃とミレオミールが出てきた森に、四方を囲まれていた。小さめの建物を挟んだ反対側には、拓けた、道と呼ぶに十分な整備がされている空間が見てとれる。こっち側にも是非作って欲しかった、と由乃は大きく溜息を吐く。
建物の入り口はこちら側からは見えず、陰に見える申し訳程度の石畳が、由乃達から見て左側にあると解る。
建物の他に目ぼしいものは無く、地面は黄緑色に若々しく輝いて、空は青く、周囲は木々に囲まれていた。乾いた喉を潤せるような水場は無く、由乃とミレオミールは、お互いに視線を交え、認識を共有させる。
――ピチャン、ピチャン、パシャッ
「……まだ鳴ってる」
「何処から?」
「多分……建物内部」
森に入った瞬間から聞こえていた水の音は、ミレオミールには聞こえないらしかった。故に由乃が聞き役に徹し、先ずはその水音の原因を探ることにしたのだ。
ミレオミールならば、例え方向感覚を失ったとしても、森から出ることなど容易いのだから。窮地にさえ陥らなければどうとでもなる。お互いに一致した結論に、異議など全く無かった。
手を繋いだまま、ぐるりと建物の周囲を一周する。
建物は、古い教会のようだった。
蔦に覆われた外壁は、ところどころ崩れ、穴が開いてしまっている。高い位置にステンドグラスで彩られた窓があり、そこには水面から跳ねる魚の様子が描かれていた。外から見ても老朽化の激しい建物ではあったが、ステンドグラスだけは酷く綺麗なままで、体表の光を反射する。内部では、きっと綺麗な色とりどりの光が射しこんでいることだろう。
由乃もこれで女子である。何だかんだ、綺麗なものは好きだし、教会には憧れも抱いていた。聖歌隊や、祈りの時間。憧れの対象が結婚式という華やかなものでは決して無かったが、それでも。
「水場無いね」
「そうね」
ミレオミールの言葉に、由乃は同意する。
教会の周囲は、由乃の膝より高い背の草が伸び放題になっており、かき分けようが石を投げてみようが、水気らしきものは全くない。
散策する間も水の音は止まず、森の中よりも鮮明に、体中を洗い流すかのような清らかな音色が、由乃の頭のてっぺんからつま先までを流れていった。
それでも、やはりミレオミールには聞こえないらしく、由乃が不意に顔を上げる度、「聞こえた?」と確認を取る。正直に頷けば、彼はふわりと浮いた返事だけを寄こし、考えこんでしまったから困りものである。
外に異常は無い、ならば中。
内部に入るか迷い、二人は森と入口、丁度中間の当たりに立って、両開きの、壊れて片方の扉を失ってしまった入口から、内部の様子をそっと窺う。
形の保たれた横長い椅子が並び、奥には祭壇らしきものが見てとれる。祭壇は白い石造りで、側面には水を模した模様が描かれていた。
由乃は教会の正しい内部を知らないが、そこで結婚式が行われそうかと問われれば、答えは是。扉から直線状にある祭壇に向かって、赤い絨毯が敷かれている。長椅子は絨毯を挟んで左右対称に置かれ、あとは神父が居れば完璧、だろうか。
ぼろぼろの外観同様、ある程度の破損は見られたが、中はそれほど崩れてはいないらしく、廃墟と言えども人が住めそうな環境ではあった。
「……ミオ」
由乃がミレオミールの名を呼べば、彼はそれだけで意図を察し、こくりと一つ頷いて、何でもない様に答える
「うん、合ってるよ、ユノ」
手が離れたのはいつの事だっただろうか。散策の途中、どちらともなく放し、それでもお互いの視界から消えることは無いよう、二人は気を配りながら周囲を漁った。
ミレオミールの言葉を待つ由乃だが、答えはもう解りきっていた。肯定を示した時点で、既にそれが答えである。
それでも律義に、ミレオミールは言葉を続けた。
「――ここ、目的地。俺たちの仕事場だ」
目的地。
ティグリス・ジア・リディアの持ちかえってきた情報。
『南西の方――そこは元々、迷いの森や精霊に対する信仰心が根深く――水の精霊の名もなき眷属を祀った、小さな教会が在ったと聞きます』
水の精霊の、眷属。
水霊、ネロを祀った、小さな祭壇。
□■□
「いやあ、ヨシノ様、お久しぶりでございますね」
大らかにはははと笑うその人物を、由乃はある程度知っていた。
黒い髪に浅黒い肌。瞼の奥にある瞳は灰色で、身長は高く、ナイルと丁度二十五センチ差らしいと聞いたことがある。左目は眼帯で覆われ、額から左目を突き抜けて小さくない傷痕が二本。魔族との戦闘で負ったものらしい。
むき出しの二の腕は太く、分厚い筋肉に覆われていた。魔法の腕はからっきし。好きな事は筋トレという根っからの武人で、この国一の剣豪。それが、ティグリス・ジア・リディアという男である。
武器は大きめの片手剣で、普通の剣よりも長めのもの。彼の腕ならば大剣に属する両手剣すら片手で扱えそうなものだが、彼はそれなりに速度も出せる、ある程度の重量備えた長めの片手剣を愛用しているのだ。
丁寧な口ぶりながら、彼の顔は人の良さそうな笑顔に彩られている。
子供好き、人好きのティグリスである。雄々しく野生的な見た目をしていたが、目元は垂れていて優しい。良い人だから人から好かれはするのだが、ごめんなさいの友達止まり。現在彼女募集中のまま三十代に突入してしまった、オッサンと呼ばれたら傷つく繊細な心の持ち主である。
「ジア様お久しぶりですーお帰りなさい。息災そうで何よりですー」
ティグリスは呼びにくいため、由乃は彼をジアの名で呼んでいた。通称はティスだが、やはり舌を噛んでしまいそうなので却下。恐らく彼をジアの名で呼ぶのは、由乃くらいのものだろう。
「ティス、お帰りなさい。良く帰ってきたな」
ナイルが彼に声をかけると、ティグリスはしっかりと腰を下り、とても丁寧に言葉を返す。
「ただいま帰りました、ナイル様。ご報告したい事がございますので、どうぞそちらに、お掛けください」
十二神将内にも、序列はある。ティグリスはナイルよりも下位に当たり、だが年齢はティグリスの方が上なので、ナイルは居心地が悪そうに「あぁ」と複雑な表情で首肯した。
示した場では、既にミレオミールが片側の一席を陣取り、饅頭を黙々と食べていた。ナイルに隣の椅子を指さし、由乃にはミレオミールの手前の椅子を示す。そうなると、ティグリスは由乃の隣だ。
ティグリスに何を言われようと、こちら出身で無い由乃にはさっぱりである。例え仕事として向かうのが由乃だとしても、話や説明を聞くのはミレオミールやナイルの役割なのだ。
第三作戦室は、作戦室とは名ばかりの、使い終わった作戦の資料から、まだまとめられていない報告書が一時的に置かれている、言わば物置状態にあった。元々他の作戦室に比べ、それほど大きさも無い。狭い部屋で、壁側の椅子に座ってしまったため、由乃は広い室側の椅子をティグリスに座られ、酷い圧迫感に苛まれた。
難しい顔をしていれば、目の前のミレオミールがそれに気付き、どこからともなく出現された饅頭を由乃に一つ寄こした。何なんだ、買収か? とされる理由も無いことを考えたが、「さて」とティグリスが話を始める。
つまるところ、手持無沙汰になる由乃に、暇潰しを与えたに過ぎない。
「さて、じゃあヨシノ様たちには先ず簡潔に。仕事の件についてだけお話してしまいましょうか」
莞爾と笑いながら、ティグリスは由乃の頭を大きな掌で、雑な動作とは裏腹に繊細に撫でる。髪は乱れない。彼の謎の技術である。
まるで由乃達のためのように言うが、彼が先に仕事の話をするのは、それが先決であるからだ。その後、ナイルに此度の遠征の報告をするのだろう。最早魔導士では無くなったミレオミールに、その報告を聞かせるわけにはいかない。勇者である由乃は兎も角、勇者のお供であれ、ただの一般人と化したミレオミールには。
(一番の問題は、ただの一般人になり下がった癖に、一般人っていうレベルを完全に逸脱してる、ミオの多面的な実力だろうけどなぁ)
うんうんと頷きながら、由乃は饅頭を口に含んだ。
□■□
「――水霊ネロを祀る教会の付近では魔族が感知されない。だからその原因を探って来い――って、絶対に勇者じゃなく、術師さんたちの仕事だと思うんだけど……」
要約すると、そんな感じだった。
南西へ魔獣討伐に赴いていた筈のティグリスが見つけたのが、魔族の存在を一切感知する事の無い領域である。
教会を中心とした、森を含む一帯。
ティグリス本人はそこに足を踏み入れてはいないが、魔獣との交戦中、はぐれてしまった一部隊がそこへ迷い込んだという。森の外では数多にいた魔獣だが、森内部では一切遭遇しない。不思議に思い、丸一日迷った末に生還した村にてティグリスの本隊に報告し、その後魔獣たちの討伐がてら分布図を確認したところ、ぐるりと森一帯を取り囲んでいる事が判明した。
一応大方の討伐は済ませたが、謎の領域である事に変わりは無い。特に、魔獣たちが取り囲んでいたという事は、魔族が執着する何かがそこにあると言う事。
だがティグリスたちでは、地図上では中央に存在するはずの境界まで辿り着けなかった。
帰還して、エトワールへ報告の後、やはり勇者に一任すべき――と言うよりも、勇者に付随した元魔導士たる大魔術師の働きを期待して、勇者である由乃に仕事を持ってきた、と言う方が正しいだろう。
「…………はぁ、なるほ」
「ほー……これは……すごいな」
教会に足を踏み入れた時の一言は、由乃もミレオミールも、質は違えど感嘆によるものだった。
教会内部は、外から窺った通り、白を基調とした内壁と、重みのある焦げ茶色の長椅子が左右対称に四脚ずつ並び、ところどころ退廃は見せたが、それでも風は凌げるし、椅子で寝る事もできる。ホームレスが此処を通りかかったら、歓喜して住みかにするであろうことが目に見えた。
射しこむ光がステンドグラスを通りぬけ、真っ白な床に敷かれた真っ赤な絨毯に青色の影が映り込む。魚が水面から飛び跳ねる音が響いた。
――パシャッ
……リアルに飛び跳ねた。と言っても、跳ねたのは影だけだが。
風の凌げる、ホームレス歓喜の廃屋は、決して普通の建物では無かった。
神を――水霊を祀った教会であることを差し引いても、この建物で寝泊まりしよう等と思う者は、先ずいないだろう。
歩くごとに、足を置いた場から波紋が立ち、ぱしゃりと水を踏む音がする。ステンドグラスが淡く影を作る位置で、不意に何かが揺れる。それは魚の尾鰭のように見えた。
床も壁もしっとりと水の膜が張っているように見え、確認するようにミレオミールが手を触れてみるが、波紋や音は立てども水気は無い。サラサラとした石の感触が手に残り、彼は仕草と雰囲気で、それを由乃に伝えた。
水霊『ネロ』。
一体全体どう言った物なのか、由乃には全く想像がつかなかった。
故郷の神のように、形など無く、恩恵も目に見えない、居るのか居ないのか解らない、人々の心の中にのみ在る存在かと思えば、瞳に映るのは超常現象とも呼んで差し支えが無い状況だ。
「……これも、水霊さんの仕業?」
由乃よりは詳しいであろうミレオミールに問えば、彼は「さぁ」とどっちつかずな答えを漏らす。
「多分、としか言いようがない。そうだとは思うけど……俺もこういう、本物の教会って所に来たのは、これが初めてだからな」
「? 偽物があるの?」
「そりゃあね」
軽く肯定をして、その後の説明が無い。
今度聞くか、と一時疑問を胸に仕舞い、由乃は今必要な情報を共有することにした。
「森で水の音を聞いたってのは、証言にあった?」
由乃が森で聞いていた水音の根源が此処だとするならば、何故それがミレオミールには聞こえなかったのか。由乃には、音を聞いた瞬間からそれが気になっていた。
もしこれで聞いている者が隊の中に居り、尚且つ統計的に分析することができれば、解決は近いのだが。
由乃の問いに、ミレオミールは「あった」と簡潔に答えた。
「だから俺も、ユノの言葉に確信をもったんだ……。でも、あいつらは中心のこの教会に出ることは無かった。一体、何の差なんだろう……」
考えこむミレオミールに、由乃はさらりと言う。
「単に音を辿って来たか、闇雲に歩いてたかの差じゃないの」
「…………」
返ってきた沈黙は、熟孝の末か呆れか、果たしてどちらなのだろう。
後者の可能性が高いので、由乃は敢えて聞かない事にした。
(ゲーム脳、なのかなぁ……)
由乃はぱしゃぱしゃと音を立てながら歩き、枯れた花が供えられた祭壇前の、比較的傷みの少ない長椅子に腰を下ろした。
道無き森というのは、由乃の体力を根こそぎ奪っていった。勇者に託された調査ではあるものの、神だの霊だの、そんなことを言われても、由乃には専門外以外の何物でもない。なので調査はミレオミールに丸投げだ。ティグリスやエトワールも、それを望んでいるのだろうし、由乃の出る幕は皆無と言っても過言ではない。
「……水霊、水。魚。『ネロ』……辿り着けない教会に、魔族――魔獣の入れない領域。廃屋。荒廃。祭壇には枯れた花――」
ぶつぶつとミレオミールが呟くのは、現在彼が持ち合わせている情報、なのだろう。
背もたれに上半身を投げ出し、頭からも力を抜き切り、天井を眺める。見上げた瞬間、ぱしゃりと魚が跳ねるのが見え、やはり此処には何かがいるのだなと、由乃の背中に冷たい何かが走った。怪談話は嫌いではないが、自分が関わるのは嫌なのだ。
周囲の壁やら床やら、こちらは一切濡れている様子の無い椅子やら、祭壇やら花やらステンドグラスやら。ミレオミールは総てに手を触れ、この世界の七不思議に名を連ねそうな状況を確認する。
最初の感嘆の声や、興味深げに辺りをうろちょろする様子を見ると、この現象はミレオミールですら知らない事柄なのだろう。
「これは魔法か、いや、それとも――」
水の膜が張った壁を小さくトンと突くと、小さな魔法陣が現れ、その部分だけ水をはじき――
そこまでぼうっと眺めていた由乃の目が、ゆっくりと見開かれる。
ミレオミールは変わらず壁を観察し、次は履物の先で床を軽く蹴った。
発動する魔法陣。円の形に水は弾かれ、その付近を小魚が逃げ惑う。
ミレオミールはふんふんと頷くが、由乃はそれどころでは無い。
心臓はゆっくりと速度を上げ、脳みそは血が上ったようにぐわんぐわんと視界を揺らした。ばしゃり、と音を立てて身体を動かせば、気付いたミレオミールが、意外そうな顔で由乃を見やる。
そして奇妙な顔で驚愕を表す由乃に疑問符を浮かべ、首を傾げて安否を問うた。
「どうしたユノ、大丈夫?」
「……ごめん、多分、大丈夫じゃない」
由乃は顔を俯かせて、右手で額を抑える。
(そうだ、一回寝よう)
疲労は敵だ。そして疲労の敵は、充分な休養。
埃っぽい長椅子で、上質な睡眠が得られる筈も無い。それでも眠らないよりは、幾分マシだろう。
「ミオ、私はちょっと寝ようと思う。帰る時に起こして……」
「……ユノの様子は気になるけど、ま、後で聞く事にするよ。俺はちょっと外から色々調べてみるから」
「はぁい」
右腕を枕に、椅子の上に倒れる。足は床へ投げ出したまま、左腕で顔を隠すように壁を作り、右腕に顔を埋めた。
先ほど見た物を、由乃は忘れようと思った。恐らく、森での疲労が溜まった結果見えてしまった、幻覚か何かだったのだろう。
(起きてもまだ見えたら、ミオに相談……)
日もまだ高く、昨夜の睡眠もばっちりだった。幸運な事に、昨夜泊まった村には宿があり、ベッドも二つ用意されたから、ミレオミールも同じ事だろう。森は疲弊したと言っても、彷徨った時間は数時間程度の物。
この現象が、疲労によって引き起こされたという可能性は最も低いが、由乃が最も希望するのはその可能性なのである。もし違ったとしても、一つの可能性を潰してから相談するのは、悪いことではないだろう。
瞳を閉じ、闇と夢色の世界に身を投じようとした時――
「ユノ、ちょっと起きて、こっち来て」
邪魔された。
深刻そうな声音では無かったが、由乃は沈黙のまま起き上がり、入口付近で由乃を振り返ったままの、ミレオミールの隣に立つ。もう日は沈みかけているらしく、外に見える世界は、薄らと黄ばんで見えた。
「なんですかぁ」
由乃の天秤は、完全に睡眠へ傾いていた。手段としての選択ではあったが、やる気になったところを止められると言うのは、勉強しようと思った瞬間「勉強しろ」と言われた時の様な、妙な脱力感及び憤懣が生まれるというものだ。
ノロノロと嫌そうに訪れる由乃に対し、ミレオミールは謝罪しながら頭を撫でる。
けれども意識は目の前の、四分の三壊している扉へと向かっていた。
「?」
彼に倣い、由乃も扉の外を見つめるが、別段替わった様子は見られない。
小鳥が時折飛んで来ては、地面を突いてまた飛び立つ。そんな和やかな風景しか、広がっていなかった。
ここに在るのは平和だけ。じきに夜は来るだろうが、上手く付き合えば、夜も危険すぎるという事は無い。魔獣も近寄らない、安寧の空間。
由乃が不思議に思っていると、ミレオミールは宙に手を伸ばし、掌を広げ、掲げた。
遂に由乃は首を傾げた。まるで自転車のペダル部分だけを盗まれたかのような不思議さだ。彼は一体、何がしたいのだろう。
だが、そんな考えも、ミレオミールの淡々とした、事実だけを述べる透明な一言に、総てが吹っ飛んだ。
「……出られない」
順当な思考ができるようになるまで、暫しの時を有した。
由乃の復活を、表情か雰囲気で察したミレオミールが、視線で由乃を促す。
一つ頷いて、ゆっくりと左手を前へ伸ばし――
「……ほんとだ」
出られない。
見えない壁に阻まれて、中途半端なパントマイムのように、由乃はミレオミールと似たような体勢で、何もない空間に手を掲げた。
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