希望と謎の少女たち
――どうか私を祀らないでほしい。
私は行使する力を持たぬ弱者。
地上に存する執着も無く。
水中に溺れることすら叶わぬ空。
□■□
由乃の居なくなったエトワールの私室は、程良い沈黙に包まれていた。
彼女も静寂の場を積極的に邪魔していく性格では無いので、その場の雰囲気を察し、必要な時はちゃんと黙っていられる性質なのだが。何だかんだで、彼女を構いたがるミレオミールがいる。隙を見つけては彼女を退屈させない様に自分を、エトワールを、彼女自身を動かす手腕には敬礼。なので、ただ時間を潰すような、ゆったりと時に身を任せるような沈黙が訪れるのは、いつもあの元気な『勇者』がいなくなった後か、来る前に限られる。
エトワールは静かにお茶を飲む。ミレオミールは、原本の続きを読むものと思われていたが、それもせず、座布団を枕に、エトワールに背を向けて寝ころんだまま、微動だにしなくなってしまった。彼の正面には窓がある。青空の切り取られた、そう大きくも無い窓が。
恐らく、先の発言が尾を引いているのだろう。
由乃に対しては「いいよ」と言ったが、彼は彼なりに、そこそこ気にする性格なのだ。ねちっこいと言っても良い。周りにはそれを知らせぬようと必死だが、エトワールが彼にのみ本心を見せられる分、彼も、エトワールにのみ本心を見せられる部分が、少なからずある。
他者を無視して彼が好きにする空間。
覚えの鮮やかな既視感に捕らわれつつ、エトワールは小さな勇者を想った。
彼に選ばれ、慕われる勇者――『ユノ』。
「ヨシノ様は……『ユノ』は、良い子ですね」
寝ていないことは解っていたので、独り言のように、彼に話しかける。
狸になるつもりはないらしく、「まあね」という短い誇りが返ってきた。そして暫くの沈黙ののち、始まるのは、懺悔。
「……タイミングを、間違えたかな……」
弱気な、今度こそ本当の独り言は、窓の外を騒がしく通り過ぎる小鳥にすら届かない。ふわふわとシャボン玉のように宙を漂い、エトワールの耳元でピシャリと弾ける。
「ヨシノ様が知りたい時に、お応えになった。それだけです」
例え、その内容を知らなかったとしても、タイミングを決めたのは、由乃の方だ。
ミレオミールはそれに応え、彼女の知りたい情報を与えた――途中でミレオミールが逃亡したので、全部を伝えきれてはいなかったが――だけである。彼が責められなくてはならない所以は、無い。
それは由乃自身が良く解っているだろう。ミレオミール自身、由乃の言葉から、その気持ちを十二分に受け取っていることだろう。
『ミオ、有難ね』
彼女の言葉は、総てを物語っていた。
ミレオミールが、あの話題を避けていた理由。
吐き捨てた言葉に対する想い。
総てを抱き、由乃は、『ユノ』は感謝だけを、彼に与えた。
(……まぁ、今は失われた知識である過去の罪まで、総て彼女に伝える必要は、無かったかもとは思うのですが……)
それだけ、知っておいてほしいのだろう。
この国の、闇。この世界の綺麗な所だけじゃ無く、汚いところも、余すことなく、総てを。
――誠実でありたいのだろう。
『ユノ』という、少女に対して。どこまでも。
(でもやっぱり、無駄な自己嫌悪に足を止めるのは、自己陶酔と変わらないんですよ)
それは、自分もまた同じ。解っているからこそ、その愚かさが身に沁みる。
エトワールは、誤魔化す様にお茶を啜った。
「……『ユノ』は」
ぽつんと、彼女の名前――彼だけが呼ぶ、彼女の名を唱える。
ミレオミールは何となく、特にこれといった理由も無く、窓から覗く青空に手を伸ばす。
外に見える風景には小鳥が舞っており、眩しすぎる太陽は、建物に隠れて見えることはない。
「ユノが――ユノなら……きっと、全部を終わらせてくれる」
太陽は、見えない方が良い。ミレオミールの肌は弱く――現在は魔法で防御しているが――すぐに焼けて、ヒリヒリと全身を弱火で調理されている気持ちになるからだ。
この世は、神の箱庭だと。
太陽すらも神の所有物で、神はいつでも、ミレオミールの命も、エトワールの命も、雨も、民も、勇者も、魔王も。総てを気紛れな指の動き一つで、奪いつくしてしまえるのだと。
生あるものに生存権は無く、当然のように神が――強者が搾取して行く世界。
そんなもの、くそくらえ、である。
「『死に場所は、自分で選ぶ』」
それは、酷い言葉だ。
自分以外の総ての想いを無碍にして、自らの欲望のみを満たそうとする、蛮行。
それでも
「――ユノが、俺の希望だ」
宵の闇を纏ってやって来た、月の光のように照らす導の少女。
弱さを投げうって、恐怖を従えて。脅威の前に、震える心で立ちふさがる。
八色由乃。
彼女こそが、ミレオミールが待っていた希望。
ミレオミールが認めた、唯一人の、『勇者』。
「――違いますよ」
ミレオミールの背後から投げかけられた言葉に、ミレオミールは身体を少し傾けて、エトワールを視界に収めた。
彼はまっすぐ前を、自身の部屋へ顔を向けたまま、只管に透き通った微笑みを浮かべていた。
まるで父親のように。
聖者のように。
ただ、微笑んで。
「わたくしたちの、希望、です」
希い、望むもの。
総てを暴く強烈な光では無く、暗闇に灯る、微かに、それでも足元を照らす。
ミレオミールは、肯定も否定もしないまま、顔を窓の外へと向けた。
窓枠に切り取られた真っ青な空は、まるで己の無力さを嘲笑うように美しかった。
けれど。
――それから二人は何も言わないまま、光ある日常に想いを馳せ、安寧の沈黙を分かち合った。
□■□
「初めまして、お嬢さん」
城下から帰った由乃の耳に飛び込んできたのは、初めて聞く、心地いいソプラノボイスだった。
まるでテレビの中に住まうアイドルの様な、可愛らしい声。けれども由乃の苦手な甘ったるい媚びた調子は無く、地に足ついた、自分に自信を持ている、確りとした声。これは女子のそれだろう。しかも、可愛くて頭がいいタイプの。
ある意味でそれは由乃の天敵だが、由乃はそういうタイプは嫌いでは無い。
振り返った先に居たのは、二人の女性であった。
年上、だろうか。それとも年下だろうか。可愛らしい見た目からは判断が難しいが、奥に立つ女性は由乃より身長が高く、胸の大きさは次元が違うし腰は細いし、スリーサイズは宇宙の真理かと思うようなモデル体型の人だ。由乃の少ない語彙で表すとすれば、人智を超えた黒髪の清楚系美人、である。美人、と言うよりは、『美しい人』と態々称したくなるような、丁寧な美しさを持った女性だ。
もう一人は、近場で由乃に挑発的な視線を向けていた。手入れの行き届いた、艶やかな長い金髪は、両脇で耳の高さに結いあげられている。橙に近い赤の瞳は、煌々と闘争心に満ちていて、細身でスラリとした、けれども美人と言うよりは可愛らしいが強い見た目の、整った顔立ちの少女である。そして、ヒールを履いているいるにも関わらず、彼女の身長は、由乃よりも低かった。見下ろすような勝気な瞳の割に、実際彼女は由乃を見下ろせてはいない。
ちょっとした意地悪を思い付き、由乃は踵を上げた。つま先で立ち、少しだけ己の身長を誇張する。
ピクリと眉を動かした少女は、可愛らしくも、由乃より高所に立とうと、自身も踵を上げようとした。けれど、既にかなりの身長をヒールで水増ししていたため、それは叶わなかった。
(何だこの子、アホの子かな。激烈かわいいな)
由乃が真顔でそんなことを考えていれば、「うふふ」という、落ち着いた女性の声が聞こえてきた。それは少女よりも遠く、黒髪の、口元を優雅に手で覆った、黒髪の女性のものだった。
「アーニャ、何をお馬鹿なことなさってるの? 素早く済ませないと、ロナ様に見つかってしまいますよ」
「解ってるわよ! うっさいわね!」
つま先立ちで震える少女――アーニャは何度か足踏みをし、由乃へと数歩の距離を詰める。顔をずいっと寄せ、由乃は今度は逃げるように踵を上げ、右足を後ろへ下げた。
それがお気に召さなかったらしく、アーニャは自身の右足を前へ出し、由乃の左足を、ヒールが当たらないように踏みつけた。
「いっ……」
「逃げてんじゃないわよ」
声色に険を乗せ、至近距離から由乃を睨みつける。足にかかる体重も増え、由乃に対してよろしい感情を抱いて無い事だけは、由乃にも確りと伝わった。
あなたのパーソナルスペースがおかしいんですよ、と思ったが、別段由乃は事を荒立てたいわけではない。小さく「すみません……」と返せば、正解だったらしく、不満げではあったが、足を退け、身体を少しばかり離してくれた。
由乃は安堵し、一度溜息を吐く。
少女は無い胸を張り、踏ん反り返るように腰に手を当て、仁王立ちをする。
自信に充ち溢れた姿は、確かに彼女を魅力的に見せてはいたが、高圧的な態度はいただけない。由乃はどちらかと言えば、和やかで穏やかな雰囲気が好きなのだ。そう、それはもう、エトワールのような。
後ろで佇む女性は、常のその顔に笑みを絶やさなかった。由乃がそちらに視線をやっても、「私は関係ありません」とばかりに微笑むだけ。清楚で穏やかな微笑みに間違いは無いのだが、エトワールのそれとは全く性質の違う物だった。どちらかと言えば、顔と名前しか知らない、十二神将の一人とよく似ている。その人も、凄い美人でいつもニコニコ微笑んで、けれども冷やかに目前で土下座する人間の頭を踏むようなお人だ。女性なので、その道の人ならば御褒美だろう。
言うなれば、慈愛では無く、傍観。優しさと言うよりは、絶対零度。
そういう類のものである。
少女は髪を揺らしながら、「挨拶に来てあげたの」と尊大な態度で呟いた。
「あなたのお名前、聞かせてもらえる?」
由乃とはまた別の、後方の女性と同じ制服の様なものを纏った美少女は、右足に重心を乗せながら、腕を組み、片方の手で自身の髪に指を絡めた。由乃を見据える瞳には、やはり敵愾心がむき出しである。
こんな少女も、女性も、二人が着用する制服も、由乃は見たことが無かった。
兵士見習いと呼ぶにも、戦闘が得意そうな雰囲気は無い。どちらかと言えば、不得意そうに、由乃の目に映る。
「……ちょっと、聞いてるの?」
訝しげ、というよりは、不機嫌そうに訊ねる少女。
何と言ったものか暫し悩み、ふと、由乃も少女たちの名を知らない事に気付いた。
(いや……金髪貧乳美女の方は、アーニャだっけ?)
恐らく、少女にとって酷く不本意な渾名で、由乃は彼女たちを識別していた。ちなみに、女性の方は『黒髪腹黒系美女』である。美女という言葉を付ければ総て許されるとでも思っているような、ぴりりと毒の効いた渾名になっていた。
では、と由乃は決め、背中側に両手を回し、指を絡めた。
彼女たちに、恐らく敵意は無い。何事かあったとしても、由乃が今居る城の中庭、この丁度真上は、エトワールの私室である。由乃の予想が正しければ、二人はまだ、そこに居るはずなのだ。
「……私が名前を教えたら、あなた達も私に教えてくれますか?」
交換条件としては、当然のものだろう。
由乃は至って普通に、首を少しだけ傾けて問いかけた。
が、少女は馬鹿にしたように笑うだけだった。
「それは無理ね」
一言で、バッサリ、である。
何故かを答えることは無く、「で、名前は?」と聞いて来る辺り、彼女はかなり自分勝手だ。
だが、自分勝手では、由乃も負けてはいない。
「いや、それ、フェアじゃないでしょう。なのでやです。言いません」
「…………はぁ!?」
バッサリというよりサッパリとした由乃の言い分に、少女は唖然とし、非難の声を上げた。由乃は彼女に微笑むだけで、他に言葉は続ける気は無い。
「じゃあ、私はこれで」
こう言うのは、逃げるに限る。由乃は一礼し、さっさとこの場を離れようとしたが、そうは問屋が卸さなかった。
「ちょ、ちょっと! 待ちなさいよ!」
「えー」
上着を翻してその場を去ろうとした由乃の手を掴む事によって、少女は由乃の逃亡を阻んだ。やる気の無い由乃の不満の声が響き、それがさらに少女をいらだたせる。
「こっちはアンタの名前を聞いてんの! どっか行くんなら、答えてから行きなさいよ!」
「私はそれを拒否した筈なんですけどもー」
もしかしたらこの少女、言葉を発してはいるが、言葉を理解してはいないのかもしれない。
時々いる、『言葉の通じない相手』だ。
そういった相手は、自身の言葉が絶対であり、相手の都合はお構いなし。嫌という言葉も聞かなければ、予想したものと違う言葉が返って来れば、正しいことを言っていようとも、うそつき呼ばわりする。頭が痛くなるような人種である。
「アンタに拒否権なんて、無いの。アンタは私たちに名前を伝える。それだけよ」
「だから、嫌だって言ってます」
「だから、拒否権は無いって言って――」
「拒否権は剥奪されようとも、黙秘権はある。取り調べの基本ですね」
言ったは良いが、そんな基本を由乃は知らない。
「私は名乗りませんので、自分で他の人に聞いてくださいませ」
「ふっざけんじゃないわよ! 私は!」
「――はいはい、そこまでだよお嬢さんたち」
やっぱり通じてねーな、と思っていた由乃の耳に、聞き知った声が降ってきた。
その声に、由乃にしがみついていた少女も、傍観していた女性も、由乃も同時に頭上を見やる。
「アーニャ、シャーリィ、やるならもっとこそこそやりな。そんなんじゃ、俺以外の目も誤魔化せ無い――」
「ロナ様! そんなところにいらっしゃったのですね!」
「降りてきなさいこのチャラチャラ男! 今日こそ私がぶちのめしてやるわ!」
「……クイ気味はやだなぁ」
彼は、自身の言葉をさえぎられるのがあまり好きではない。
頭を掻きながら仕方なさそうに呟き、顔を上げたかと思えば、大きな欠伸を一つ。あいつ寝てやがったな、と由乃が小さく息を吐くと――ミレオミールはそれに気付いて、窓枠に頬杖をつき、反対の手で小さく手を振りへらりと笑った。
ロナとは、ミレオミールの事らしい。
由乃は由乃の知らない十二神将だかカルロディウス国の重鎮の事かと思っていたのだが、なるほど、と納得した。どこに『ロナ』要素があるかは不明だが、ミドルネームか何かなのだろう。
「ユノ、ナイル様が探してた」
「わーまじで。良いタイミング。有難うミオ」
少女達も、ナイルの名は知っているらしい。ぎょっとしている間にゆるんだ手を素早く抜き、少女たちから距離を置く。
「アーニャもシャーリィも、今度機会を作ってやる。変な事したら、ただじゃおかない。それと、リュネ様がお会いできるってさ。顔見せまだだろ、行って来い」
「何でアンタの言う事聞かなきゃならないのよ!」
「はい、ロナ様。すぐに向かわせていただきますね!」
口々に相反する事を言いつつも、彼女たちは従順に、ミレオミールの言葉に従った。
擦れ違う際、少女――やはり、アーニャは由乃を睨み、女性――シャーリィは由乃に微笑みかけ、長めの襟をマントのように翻し、ぐちぐちと言葉を交わしながらその場を後にする。
何だか良く解らないが、良い感情を持たれていないことだけは、ひしひしと伝わる事となった。
「……ミオー」
「ナイル様なら、あっち」
「そうじゃなくてだね」
ミレオミールが指さしたのは兵士たちの訓練場だった。それは置いておく。元々予定に組み込まれていたし、由乃は約束を反故にするような性質で無ければ、ナイルも最近は、態々由乃を探したりはしないのだ。逃走の日々は確かにあったが、心を入れ替えて頑張っていることくらい、ナイルにも充分伝わっていることなのだから。
由乃は視線を地上へ戻す。
少女たちが消えて行った、城への入り口。
「ユノ」
呼ばれ、もう一度ミレオミールへ視線を戻した。
落ちて来る赤い歪な球体。
少し立ち位置を整えて受け止めれば、それは熟れた林檎だった。
「ありがと。……今度、機会を設けてくれるんだよね?」
「うん、まぁ、言っちゃったしね」
本当はやりたく無い、とでも言いたげな言葉だった。表情は笑顔。彼を信じることはできるが、この裏の在りそうな性格のひねくれ加減。
投げた本人も林檎を齧りながら、それでもやはりどこかどうでも良さそうに、空の彼方に視線を投じている。
「ミオ」
名を呼んで、由乃は片手を腰に持って行き、先ほどアーニャがしていたように仁王立ちしながら、念を押すように、ミレオミールに告げた。
「私、面倒事は、嫌だからね」
釘を指すようにそれだけ言えば、ミレオミールはひらひらと手を振り、解ってるのか解ってないのか曖昧な微笑みで、「解ってる」と、由乃の言葉を肯定した。
次回の更新は、土曜日を予定しております。




