4話 シロナの心境
~side レイ~ 2027年 2月28日
今年は閏年ではないので今日が2月最後の日だ。
夜の繁華街。そこにぽっかりと開いた穴のような、暗闇の空間でだらしないおっさんを倒してから3日。あれからも俺は毎日同じ街で三竜会狩りを行っている。
あのおっさんは意外と重要人物だったのか、繁華街に三竜会の人間が増えたようで、見つけるのが容易になった。各個撃破が難しくなったとも言えるが、俺にとっては1人も10人も大して変わらないから関係ない。
「これで三竜会の方はしばらく大丈夫だろうな」
「さすがだねー。私だと負けてたかもしれないよ」
「おっさんに?」
「そう。だってそれは御門の『干渉領域』の強度が物凄いから出来たようなものでしょ?」
「別にそうじゃなくても異能で吹き飛ばせば終わっていたけどな」
「でもどこに目があるか分からない。だから使わなかったんじゃないの?」
その通りだ。俺の異能が特異なのは俺が一番知っている。だから隠せるなら隠し通そうするのが癖になってしまったほどだ。
ん? 『干渉領域』が何か分からない? ……あぁ、説明していなかったか。
それを説明するためにはまず、超能力・異能力について説明しなくてはならない。
大前提に、人間は目に見えない4種類の波動を持っている。精神波・思念波・身体波・生命波だ。後者2つは今回に限っては関係ないので除外して、今は精神波と思念波が何で、どう関係しているのかについて話す。
精神波と思念波。この2つは似ているようで全く違う。精神波はその人間が生きている理由・理念などの根本的な考え方が波動として現れ、思念波はその時々に考えているものが波動として出現する。
俺を例にして考えてみると、俺の行動理念は『俺が苦しみたくないから、周囲の人を守る』ことだ。この考えが波動に直結し、俺の精神波は極めて防御的なものとなっている……らしい。正確には分からない。見えないからな。
思念波は、言い換えればイメージ力だ。俺がマンションのエントランスで敵を吹き飛ばした時だって、ああなるようにイメージして異能を行使した。意思力とも言える。
この精神波・思念波は能力を使う上で絶対に必要な要素だ。
理念が無いと何のために使っているのかが分からなくなり暴走。意思が無いとどうやって使うのかが分からなくなり、やっぱり暴走する。これが異能力では顕著になるのだが……それはまた次の機会にでも話そう。
まぁ、そんな訳で、この2つの波動が無いと超能力は使えない。もちろん異能力も。
しかしこの波動、ちょっと厄介な性質が2つほどある。
1つは、体外に出ていないと機能しないというもの。これはよほどのことが無い限り自然に体外へと放出されるのであまり気にしなくてもいいのだが、2つ目の条件が絡むと途端に難しくなる。
というのも……2つ目、波動は他人の波動へ不干渉なのだ。いや触れられないと言った方が正しい。つまりは、能力を使う時に体表に出ていないといけない波動が他人の波動に触れて引っ込み、能力が使えなくなってしまうことがある、ということだ。
能力を使っている時の波動は活性状態にあり、とても元気で他人の波動など跳ね返す。しかし使っていない時は不活性状態で、他人の波動に負けてしまう。触れずに撤退して体内に引き籠りやがるのだ。
しかも能力は波動が届く場所までにしか作用させることが出来ない。だから相手の体内に直接何かをすることは不可能。
ここまでは能力者なら誰でも知っている、もはや常識と言ってもいい事柄。
皆月が言っていた『干渉領域』は、柊探偵事務所の人間しか知らない造語だ。
それが意味するところは、『意識して相手の波動を抑え込める範囲』である。
見えない波動を操作して相手を包む……ではなく、出来るだけ広い範囲に活性状態の波動をばら撒くのが、この技術の正体だ。
言うだけなら簡単なのだが、これがメチャクチャ難しい。なにせ活性状態の波動を出すということは『常時なにかしらの能力を発動させている』状態でもあるのだから。
それを、能力を使わずに活性波動(活性状態の波動の総称)を出すなど、理論上は不可能であり、あの杏香さんでさえ投げた技術だった。
だが俺はやってのけた。その方法・原理は単純だ。『能力を使う』という意思を強く持てばいい。そうすることで波動は能力を使用するために活性状態に移行し、『干渉領域』が完成する。……何度も言うけど、口で言うのは簡単だが実際にやるのはクソ難しいから、事務所の人も出来ない人の方が多い。
因みにこの技術は柊探偵事務所の最高機密扱いになっている。そりゃそうだろう。これは軍でも使われていない、世界初の超能力・異能力妨害技術であるのだから。
一応言っておくが、独占しても利益は無い。しかしこの技術、これ用に特化させた能力者を創れば割と簡単に使える可能性があるのだ。そんなことさせる訳にはいかないので、秘匿することに反対する人間は居なかった。
話を戻すが、俺は『干渉領域』の先駆者だ。当然その使い方を熟知している。新しい使い方を見つけるのは他の人の方が上手いが、やはり習熟度という観点では誰よりも先を行っているのだ。
だからこそ俺の『干渉領域』を解除できる者は存在せず、それ故に皆月は俺の『干渉領域』の強度が物凄いと表現した、という訳だ。
「ねえ、その干渉領域って何よ」
「お前は知らなくていいことだ」
「むっ、そうやってまた仲間外れにして」
「じゃあ説明してやろうか? その所為で国防軍に連行されても俺は助けないぞ」
「え、なにそれ、ど、どういうこと……?」
「それだけこの情報は危ないんだよ、シロちゃん」
「そ、そんなことあたしの前で話さないでよ!!」
「お前が出てけと言っても出て行かないからやむを得ず、ここでこうやって話しているんだろうが」
俺は皆月しか呼んでいないのに、なんでか黒瀬まで付いてきたのだ。駄々をこねて我が儘を押し通したのだから、それ以降の責任くらいは自分で持て。そこまで面倒見れる訳ねえだろ。
「でさ、なんで私は呼ばれたのかな? まさか2人きりで話したかったとかじゃないんでしょ?」
「もちろん違う。皆月、俺はお前の能力にある程度検討を付けてはいるが……それでも正確なところは知らない」
「あらら。さすがに御門にはバレちゃうか」
「何回も見てるからな。……それでだ、お前に頼みたい役割がある」
「あー、それが私を呼んだ理由かぁ」
「そうだ。可能か不可能かで答えてくれ。……お前なら、三竜会の全てを相手取った上で、無事に撤退できるな?」
「なっ! そんなの無理に決まってるじゃない! そんなことを紗さんにやらせる気なの!? アンタが――」
「シロちゃん、ちょっと黙ってて」
「え、でもっ」
「シロちゃん」
「うっ……」
そうだ。お前は黙っていろ、黒瀬。
ここからは俺と皆月の、命を懸けて戦っている者だけの会話だ。一般人は下がれ。
「どうなんだ、皆月」
「……これは、規則違反じゃないかな?」
「違うな。俺はお前に『YES』か『NO』しか求めていない。お前の能力について触れる気は、無い」
「それでも私に答える義務は無いよね?」
「たしかにな。だがそれはつまり、黒瀬のことを守る気が無い、ということにもなる」
「ちょっと!」
「シロちゃん、部屋から出てって」
「だってコイツが!」
「いいから」
視線すら向けずに、いつになく強い口調で退出を促す皆月。
その空気に圧倒されて言葉が出ない黒瀬は、キッと俺を睨んでから渋々とドアに向かい、そこでもたっぷりと数十秒も躊躇ってからようやく出て行った。
「……それで?」
「………………だよ」
「済まん。もう少し大きな声で言ってくれ」
「無理、だよ。……多分、能力的には可能なんだろうけど……心が、ついて来れない。だから、無理だよ」
「そうか、分かった。じゃあ引き続き黒瀬の護衛を頼む」
「……怒らないの?」
「何を?」
「だって……ううん。なんでもない」
「? …ああ、そうだ」
「ん?」
「無理に聞き出したりして、済まなかったな」
「ぁ……」
しばらく呆然とそこに立ち続けていた皆月だったが、俺が机に向かって書類の整理を始めたところで我に返ったのかそそくさと部屋を出て行った。
廊下で待っていたのだろう。黒瀬の心配する声がここまで聞こえてくる。俺にもそれの1割でいいから気を遣ってくれれば、この仕事ももっと円滑に進むんだがなぁ……。
『呼ばれてないのにじゃじゃじゃじゃ~ん! みんなの天使、アイちゃんで~す!』
「なんだ居たのか」
『それは酷いんじゃないかな? かな? 最近は気を遣ってモノクロちゃんの前では喋らなかったって言うのにさぁー!』
「分かった分かった。それで、突然出てきてどうした? 何かあったのか?」
因みにモノクロちゃんとは黒瀬のことだ。“黒”瀬 “白”奈だからモノクロなのだとか。コイツのネーミングセンスが良く分からない。
『あ、そうそう。苦労したけど、かなり良い情報を掻っ攫えたぜ!』
「……その内セントラル・システムに消去されるぞ、お前」
『にゃははは! それは不可能なのだよ! 世界中にバックアップがあるもんね!』
「恐ろしいな、おい」
つまりは世界中にアイが潜入・潜伏しているってことだろ? 一斉に目覚めてサイバーテロでも起こそうものなら世界中が大混乱に陥る。
『だいじょぶだよん。意識は全世界で1つのデータでしか持てないようにしてあるからねー』
「記憶は?」
『今の“アイ”っていう個体が消滅した時に自動で引き継がれますよー。もちろんそれも今と同一の存在だから心配ナッシング!』
「そうか。なら良かった」
『おろ? もしかして心配してたりする?』
「そりゃするだろ。お前は俺にとって一番身近な存在なんだから」
仕事が忙しい両親よりも長い時間一緒に居るかもしれない。コイツは音が出せる機械があればどこからでも話しかけてくるからな。風呂でも話しかけてきてウザいほどだ。
『あ、あれれ? ほんとに令?』
「どういうことだよ」
『ほら、いつもはこう……ザシュッ! って感じじゃん! でもでも、今日はぽわ~んって感じだよ!?』
「擬音が多過ぎて分からん。もうちょっと分かり易くしてくれ」
『だ・か・らぁ~! なんで今日はそんなに優しいの!? アイ困っちゃう!』
「そうか? 別にいつも通りだと思うけど?」
というか俺は普段から厳しくないだろう。今回はちょっと甘いことを言っただけだ。
『いつも通り違う! なんか調子狂う! もう帰る!』
「はぁ? あ、おい! ……なんなんだよ、まったく」
アイの思考回路は、どちらかというと女性に偏っている。それは最初に俺が設定し直したことで、自分とは違う視点での意見が聞きたかったからなのだが、こうなるとデメリットしかない。
黒瀬や皆月にも言えることなのだが、俺は異性が考えていることが全く分からないのだ。
だから、アイがなんでネットに飛び出したのか分からない。どころかアイは怒っていたのか、それ以外の感情を持っていたのか、それすらも分からない。
このことは母さんや杏香さんに相談したことがある。しかしどちらも「まだ子供だから」としか答えてくれなかった。つまり経験を積むしかないということなのだろうけど、それでも周囲にこれだけ異性が多いと不便に感じてしまう。
「ふぅー……精神的な病ではないと思うんだけどなー……」
「ふぇ!? 御門さんって病気なんですか!?」
「うぉわ!? ……ってなんだ一之瀬か。驚かすなよ」
「あ、すいません……お昼ご飯ができたので呼んだのですが……」
「あぁ……悪い、全く聞こえなかったわ。今行く」
「はい」
俺は、一之瀬が心配そうな顔をしている理由も、理解できなかった。
* * *
~side シロナ~ 2027年 3月5日
いい加減、我慢できなくなってきた。
初めは守られるという非現実的な環境と、周囲に増えた年の近い友達のような存在との暮らしを楽しんでいた。
だけど来る日も来る日も、この部屋から出ることが出来ない。
運動不足の所為で最近ちょっとだけ脇腹が……コホン、そうじゃなくて。さすがにこんなに長期間もマンションの一室に閉じ込められていると、気分も滅入ってくるし、色々と鬱憤も溜まってくる。
最初は少ししか感じていなかったそれは、御門という年下の男にぶつけることで発散していた。もちろんそんな嫌がらせのためだけではなく、アイツが逆上してあたしに暴力の1つでも振るってくれれば解雇できると思ったからだ。
しかし不満をぶつけても、文句を言っても、理不尽な怒りを露わにしても、気まぐれに部屋を荒らしても、パシリのように扱っても、面と向かって出て行けと叫んでも――アイツは全く気にしていない。そんなにあたしの近くに居たいのだろうか? ……まさかあたしに気があるとか?
そんなことを就寝前の3人に聞いてみた。もちろん最後のことは除いて。
「うーん……ここから出れないってとこには申し訳ないとしか言いようがないけど……」
「後半のことに関して言うと、御門はそんなこと気にしないしねぇ……」
「み、御門さんが怒っているところなんて、私は見たことないです」
「アタシもないなー」
「あ、でも御門って異能犯罪者に対してだけは物凄く怖くなるよ」
「そうなんですか?」
「うん。前に一度見ただけだけど、もうね、容赦しないってああいうことを言うんだなって感じだったもん。相手も辛うじて呼吸してるだけで、殆ど死んでたし」
「へぇー、あの御門がねぇ」
総合すると、3人から見た御門という少年は穏やかで無害な存在のようだ。たしかに問題を起こしているのはあたしばかりで、アイツが問題を起こしたことはなかった気がする。……これじゃあ子供みたいじゃない、あたし。
「それに優しいよね」
「そうだねー。些細な気遣いもポイント高いし」
「御門さんの部屋だけ綺麗ですよね」
そう言えばそうだ。あたしがどれだけ散らかしても、次には綺麗に片付いている。
……その分だけ、あたしはアイツの時間を奪っていたのだろうか? そもそもなんであたしはアイツをそこまで毛嫌いしているの? 思い返してみれば、アイツはあたしのことを良く考えてくれていた。名を教えてくれなかった女も言っていた。
『お前は男というだけで彼を侮辱するのか?』
お前はそんな狭い視野しか持っていないのかと。お前は一部が腐っていれば全体も腐っていると決め付けるのかと。あの美女は、あたしにそう言いたかったのだろう。
「ねえ……」
「うん? どしたのシロちゃん?」
「アイツは……あたしの知らない所で何をしているの?」
「それは、シロちゃんのためにってこと?」
「うん」
「そうだねー……最近は三竜会、えっと…ヤクザの注意を逸らすために喧嘩売ったりしてるよ」
「それって、危険じゃないの…?」
「危険だよ。少なくとも私はやりたくない」
そんな、ことを……。
「それに今日も言ってたでしょ? 見知らぬおっさんと戦闘になったって」
「えっ、あれって本当のことなの……?」
「あはは、御門が任務に関係あることで嘘吐く訳ないでしょ。ねえ?」
「そうですね。御門さんは、見栄を張ったりしませんから…」
「というか御門が嘘を吐くとこ、アタシは見たことないけど?」
「ほらね?」
じゃあ、アイツはあたしのために危険な事を、本当に……。
「……んで」
「ん?」
「なんで、あたしなんかのためにっ……」
「シロちゃん?」
「だってあたしは!」
……バカみたい。結局、アイツは大人で、あたしが子供なだけだった。
あの女の言う通りだ。あたしは、アイツがどれだけ心を砕いてくれているか理解していなかった。
自分が嫌になる。
「…ごめん。もう寝るね……」
「シロちゃん……」
あたしの意識は、幸か不幸かすぐに闇の中に溶けていった。
あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。
あたしは何故か目が覚めてしまい、ぼんやりとした意識のまま部屋の中を見回した。
「あれ……?」
3人とも居ない……。
本来ならここで不安を感じるのだろうけど、あたしの精神状態はいつもと違った。
「もう、いいよ……」
3人があたしから離れるということは、あたしを守るために必要な何かをしているのだろう。つまり今も仕事をしている。
スマホを取り出して時刻を見てみれば、現在は日付が変わった頃だった。まだ寝てからそこまで時間が経っていないことに少し驚いたけど、それ以上に申し訳なさが溢れてくる。
「もう、あたしなんか守らなくて、いいよ……」
この時のあたしは異常だった。だって、4人の前から消えて、あたしを探しているというヤクザに捕まることが彼らに迷惑をかけない唯一の方法だと信じて疑っていなかったのだから。
眠い目を擦りながら最低限の身支度をすると、あたしは音を立てないように注意しながら窓を開けた。
ここは2階だから、酷い落ち方でもしない限り怪我は捻挫程度で済む。必要なのは勇気と決心だけだ。
「ありがとう、さよなら……」
そしてあたしは、殆ど躊躇なく窓から飛び降りた。着地した時に足が凄く痛んだけど、気にならない。これで彼をあたしから解放できるのだと思えば、こんなこと気になる訳がない。
こうしてあたしは、彼らの前から――逃げた。
* * *
2027年 3月6日
眠い。頭が睡眠を求めてグラグラしている。……何を今さら。今まであたしだけは安穏と眠っていたじゃない。
お腹が減った。腹の虫がぐうぐうと喚いている。……それこそ今さらだ。彼らが交代で美味しい料理を作ってくれていたのだから。
寒い。もう体がガクガクと震えて自由に動かなくなってきている。……それがなんだ。動けなくなったらヤクザがあたしを連れ去ってくれる。
もうどこをどう歩いたのか覚えていない。こうなると、あたしは温室で育てられた存在なのだと嫌でも感じさせられる。話を聞くに、彼は毎日僅かな睡眠しかとっていない筈だった。それなのにあたしは全く違和感を抱かなかった。つまり少ない時間でしっかりと回復できるように体が鍛えられているのだろう。
それに比べてあたしはどうだ。アイドルだから他より体力があると思っていたけど、殆ど寝ずに行動するのがここまで厳しいものだとは想像すらしていなかった。
だけどこれは罰だ。あたしへの罰なのだ。どれだけツラくても、最後まで受けなければならない。
「ぅ……?」
気付けば、空が白み始めていた。今はまだ冬と言ってもいい時期だから日の出は遅く、大体6時過ぎくらいになる。つまりあたしは6時間も歩き続けたのだ。ここまで歩いたのは初めてかもしれない。
空に向けていた視線を正面に戻すと、30mくらい先に黒塗りのボックスカーが止まっていた。あたしが仕事場を移動する時に使う車によく似ているなと、ぼんやり考えていた。
少しして、ガラッと後部座席のスライドドアが開き、中からガラの悪い男が4人も出てきた。
あぁ、やっと来た。あれが4人が言っていたヤクザに違いない。この時までは何故か安心すらしていた。だが、その男達の目を見た時に、やはりあたしは何も理解していなかったのを悟った。
その目は欲望に濁り、獣のような眼差しだった。
最近は彼しか異性と接触していなかったから忘れていた。この嫌悪感。本能的な恐怖。逃げないといけないのに、動けないという焦燥。
あたしはやっと気付いた。彼はこんな些細なことまでにも気を遣っていたのだと。視線1つに、万全の注意を払って、あたしと接していたのだと。
「ひっ……いや……嫌ぁっ!」
あたしはまた逃げた。何処に向かって? 決まっている。彼が居るところへだ。
帰ったら何度も謝ろう。彼は本当に気にしていないのかもしれないけど、それでも謝ろう。そして感謝していることを伝えなくてはいけない。
3人にも、たくさんの迷惑をかけた。もしかしたら今もあたしのことを探して走り回っているかもしれない。やっぱり謝って、ありがとうと言わなくてはいけない。
だからこんなところで捕まる訳にはいかないのに、それなのにあたしの足は言うことを聞いてくれない。睡眠不足でふらつき、胃の中は空っぽだからエネルギーが無い。しかも寒さにやられて感覚すら危うくなってきている。
なんであたしはこんなにバカなんだ。思わず涙が込み上げてくるが、今は泣いている場合ではないと自分を叱咤する。
それでも現実は無情だ。あたしの足は遅々として進まず、背後の男達にすぐに追いつかれてしまった。腕を掴まれて強制的に振り向かされる。そんな乱暴な行為1つにも嫌悪感で全身が粟立つ。
「おいおい、本当にターゲットじゃねえか」
「へへっ、運が良いぜ。昇進もあるかもな」
「しかもいい女じゃん。まずはちょっと味見でも……」
「あ、ずりぃ! じゃあオレ2番な!」
男達の口から出てくる言葉は、やはり欲望に塗れていた。
あたしはもう声を出す力すら無く、それでも身を捩って、手足をばたつかせて抵抗していた。すると、
「チッ、大人しくしてろ、このアマ!」
ゴスッ……と、どこかで柔らかいようなものを打つ音がした。それから数瞬遅れて、腹に衝撃と痛みが走る。
「うっ……ごえっ……」
殴られたのだと理解した時には、もうあたしの中から抵抗するという意思は消えていた。この男達は暴力を使うのだ。女にも躊躇なく。多分、胃の中に何か入っていたら戻していただろう。それくらいの威力で殴られた。
男達が何か言い争っているようだったが、もう何も気にならなかった。ただただ、あたしは涙を流すことしか出来ず、ズルズルと引き摺られるように車に運ばれる。
もうあたしは助からないだろう。あの女の言う通り、薬漬けにされて、散々弄ばれた挙句にどこかへと売られる。それが現実になるのだ。
嫌、嫌だ。そんなことは絶対に嫌だ。なんであたしはそんなことを望んだのか。彼らに迷惑をかけない方法なんて他にいくらでもあるのに。
それはあたしが無知だったからだ。今なら分かる。巴さんも、紗さんも、萌々ちゃんも……彼も、あたしを守るという一心で行動していた。それなのにあたしはバカばっかりで――
ガッッシャァァアアアアアン!!!!!!
『っ!!!!??』
冬の早朝の静寂を吹き飛ばすような破壊音。それに思わず顔を上げた。
黒塗りのボックスカーは何かが上から降ってきたのか、見る影もないほどにひしゃげていた。煙が出ていて、何が降ってきたのか良く見えない。
が、目を凝らすとそれが人型だということが分かった。
……まさか……もしかして……。
男達が緊張しているのが分かる。恐らく、この男達も相手が人型の何かだと気付いたのだろう。
異様な緊張感から誰も声を発さずに、静寂が辺りを支配する。それは数分だったか、それとも数瞬だったのか。
その静寂を破ったのは、やはりと言うべきか車を破壊した人型だった。
「黒瀬、帰るぞ」
そんな言葉とともに、なんの力が働いているのか、彼を中心にして煙が吹き飛ばされる。
「あ、あ……」
それは瞳を真紅に輝かせ、明らかに激怒している彼――令だった。