前室
軽く朝餉を食べた後、褒姒は梅瑛に容赦なく飾り立てられた。
豪奢に飾り付けられるのが嫌いな褒姒は、しかしこれも皇后の務めの一つと自分に言い聞かせて我慢した――はずが、さっきからボロボロと本音が零れ落ちている。
「じゃらじゃらと邪魔臭い……頑丈じゃないから武器にも使えないし布が多すぎて動きづらいしこんなにヒラヒラさせなくても綺麗に見せることならいくらでも出来るじゃない」
本人は内心で呟いているつもりなのだろうが、小さくではあったが確実に音になっていた。それを聞いてしまった梅瑛は、流石に目を丸くする。
“変人姫”と称される元となった噂の数々は知っていた。だが噂というものは往々にして尾鰭が付くもので、梅瑛としては、それは権力者の情報操作の一つという認識をしている。ましてやその姫が冢宰である管家の一人娘であれば、父親の権威の失墜を望む数多の輩が積極的に悪意ある噂を流すだろう。
だから梅瑛は端から噂を信じていなかった。どうせちょっとした失敗を適当に大きくしたものだろうと。
しかし、その考えはどうやら正しくはなかったようだ。自分は彼女のことを少々見誤っていたらしい。
そんなことを考えられているとは知らない褒姒は、尚もぶつぶつと小声で毒を吐き続けていた。
「失礼致します」
「どうぞ」
と其処に、落ち着いた温かさの感じられる声が響いて、室に一人の女性が入って来た。白髪交じりの髪をきちっと結い上げ、立ち姿の美しいその女性は、褒姒の前で立ち止まると流れるように立礼する。その礼はとても自然で、華やかさは感じられないが、今まで見た誰の礼よりも美しかった。
「お初に御目文字仕ります。私は後宮女官長の任を拝しております鄭小瑛と申します。昨日は御挨拶も申し上げられずに大変失礼致しました」
その隙のない身のこなしに見惚れて褒姒の口許が綻ぶ。
「これから宜しくね、小瑛。それから、私は気にしてないわ。貴女が陛下についているのは知っているもの。私には梅瑛がいるから、小瑛には陛下を第一にお願いするわ」
「お心遣い、感謝致します」
褒姒が言外に滲ませた「自分への気遣いは無用」という意味を正しく汲み取った小瑛に、褒姒は満足げに頷く。それを確認してから小瑛が梅瑛に向き直ると、彼女は上官に対する礼をした。
「皇后様の御準備、滞りなく調っております」
「そう。……皇后様、本日の公務の御説明を致します。婚姻の儀の二日目である本日は、これから王宮前広場にて“民許の賜り”の儀を執り行います。その後、陛下と共に大宗廟に詣でて頂き、王宮に戻っていらしたらそれで本日の公務は終了になります」
「貴女の心遣いに感謝するわ」
梅瑛の報告に軽く頷いた後、淡々と今日の予定を説明した小瑛を褒姒は労った。それに返礼をして応えた小瑛は、「それでは」と言って褒姒を促してしずしずと室を出て行く。その後に、少し歩きづらそうにしながら褒姒が続いた。
***
茜国の王宮は“玉橙宮”と呼ばれている。国の国色である橙の屋根と、国の特産物である玉を、王宮の要である玉座と誓言の間の国章の壁に使っていることからそう呼ばれるようになった。
そして、この王宮には他国の王宮とは違う特徴がある。それが王宮広場を見渡せる“円舞台”と呼ばれる場所だ。
茜国がある大大陸。其処にある他の三国では皇帝は雲上の存在で民草の前にその姿を晒すことはない。
しかし、唯一茜国だけは違った。
初代茜国皇帝――始まりの皇帝として臣民から敬愛の念を込めて“橙祖帝”と呼ばれている――は皇帝位に就いてから、民と交わる機会がないことに不満を抱き、民との繋がりの場を求めた。その結果、王宮に後から造られたのが玉橙宮の円舞台だ。
なるべく多くの人を集められるよう造られた広大なスペースの王宮前広場。その何処からでも見えるよう設計された円舞台は、国の儀礼や祭事によく利用され、その都度民は皇帝や皇族の姿を垣間見ることが出来る。言い換えれば、その機会にしか見られないのだが、それ故に数少ないその機会には広場に民が殺到し熱狂するのが茜国の常だった。だからこそ茜国では、皇帝は雲上の人ではあるが、畏敬の念を抱く相手ではなく、敬愛の念を抱く相手であるのだ。
そんな円舞台に続く道に繋がっている小室――通称“前室”――に褒姒が入ると、そこには既に嘉礼服を隙なく着込んだ辟方が待っていた。
堂々としたその立ち姿に「うん」と一つ頷いた褒姒。その後で梅瑛がほうっと感嘆を漏らす。
どうやら見惚れているらしい彼女に苦笑していると、外を眺めていた辟方がこちらを振り向いた。
「早いね? 仕事してたんじゃないの?」
彼に歩み寄りながら褒姒がそう言うと、辟方が驚いたように軽く目を見開いていた。その反応の意味が分からなかった褒姒はきょとんとして辟方を見つめる。
と、彼の横に立っていた叔牙も表情こそいつもの笑顔だったがア然としている気配がした。
更に首を傾げた褒姒がちらっと後を振り返ると、目を丸くしている小瑛とはっきりと驚愕している梅瑛が見える。褒姒の視線に気付いた小瑛は、すぐに取り繕って微笑んだが梅瑛は未だに口を開けて驚いている。
思わず眉を寄せて再び視線を辟方に戻すと、彼は何故か可笑しなものでも見たように笑っていた。
「そっちこそ遅かったな?」
「質問に質問で返さないでくれる?」
それでも辟方に普通に話しかけられたので、褒姒は素直に反論した。とは言え、皆の訳の分からない反応と辟方の返答に不満が溜まっていた褒姒は、ぶすっとした顔で辟方を睨んでいたが。
そんな褒姒の様子には一向に頓着せず、不敵な笑いを浮かべた辟方は話を進める。
「まぁな。それで?」
「答える気はないわけね。なら私も答えない」
「はぁ?」
「何か文句でも?」
「っはははは。子供みたいな拗ね方だな?」
「うるさい」
「はは……俺は、朝の仕事が思いの外早く終わったんだよ」
こんなことで拗ねるなんて意外と子供っぽいな、と思いながらも段々と据わっていく褒姒の目に、これ以上からかい続けるのは不味い、と読み取った辟方は漸くからかうのを止めて先ほどの褒姒の問いに答えた。
しかし、既に機嫌を損ねていた褒姒はそこで素直に答えられるほど大人ではない。そっぽを向いたまま頑なに口を噤んでいると、堪えるような小さな笑い声が聞こえた。
それを聞き咎めた褒姒は、声の主をムッと睨みつける。すると、その視線に気付いた辟方は、笑いながらも次はそっちの番だと、目で促した。
それで少し冷静さを取り戻した褒姒は、室内に生暖かい空気が漂っているのに気付いた。自分達を侍女たちが微笑ましく見守っている。
そこで褒姒は先ほどまでの遣り取りがいかに子供っぽいかに気付いてしまった。あまりの恥ずかしさに、カッと頬に血が上る。
流石に決まりが悪くて、俯いて視線を辟方から逸らしつつぼそぼそと小さな声で呟いて答えた。
「……私の呼び方で、少々お願いをしてて」
ごにょごにょと答え始めた褒姒を辟方は微笑ましく見守っていたが、彼女の答えは彼の予想したものとは違っていたので思わず問い返してしまう。
「呼び方? それだけ?」
「他に何かあるの?」
そんな彼に褒姒は不審そうな視線を向ける。その視線に少し怯みつつも、辟方は好奇心に負けて聞いてしまった。
「……李の花はどうした?」
「ああ、あれ、辟方が置いていったの?」
褒姒が辟方の名前を気軽に呼んだことに、侍女二人がまた驚いた。小瑛は驚いたまま「花……」と小さく呟いている。どうやら彼女は花のことを知らなかったらしい。
大きな驚きの中にいる侍女たちとは対照的に、叔牙は一人可笑しそうにクスクス笑っていた。
そして辟方はそんな外野を無視して話を進める。
「まあな」
「ふーん、それなら昨夜直接渡してくれればよかったのに」
「……」
辟方に習って褒姒も外野を無視して軽く相槌を打った。
すると、辟方がぽかんと目を見開いている。はっきり言ってマヌケ面だった。折角きっちり着込んでいるのにそのマヌケ面のせいで総てが台無しになっている。
それ故に彼の驚きが大きいことを示されて、そんなに驚かれる覚えのない褒姒はきょとんとしてしまう。
褒姒が周りを見回してみると、皆がア然と褒姒を見ていた。
またもや理由の分からない皆の反応に苛々が積もる。これではまるで自分が無知だと言っているようではないか。
そんな彼女に気を取り直した辟方が躊躇いがちに訊ねた。
「お前……華連夜がどういう儀式か知ってるか?」
「馬鹿にしてるの? 初夜の性交ことでしょ?」
「いや、まぁ、そうだが……」
そんなことを聞かれるとは思っていなかった褒姒は心外だと辟方を睨みつけ、早口に言い募る。
怒りも露に直接的な言葉で答えた褒姒に辟方の口元が引き攣った。それに気付かないのか褒姒は彼を睨みつけたまま捲くし立てる。
「それを三夜連続でやるのが華連夜でしょ? それ位ちゃんと父様が教えてくれたわよ」
「……夷吾の仕業か」
片手で目を覆い、小さく呻いた辟方。
その呟きで大まかの事情を察した小瑛と梅瑛、そして大体の事情を把握していた叔牙。その三人の脳内ににこやかに笑う夷吾の姿が浮かんだ。
前室に奇妙な雰囲気が流れる。
それを破ったのは、叔牙だった。彼は困ったように苦笑すると、褒姒に説明してくれる。
「皇后様、華連夜の儀式では夫婦が契った証として、翌朝に男が花を置いていくんですよ」
「は?」
「新婦を花に見立てて、その花を手折った証として茎を折った花を置いていくんです」
「何で?」
「まぁ、周りに判るようにするために、ですね」
「?? じゃあ何で今朝花が置いてあったわけ?」
「……」
流石の叔牙でも其処は言葉にはしなかった。その代わりに、にこにこにこにこと笑顔を向けられる。
その意味に気付いた褒姒は目を丸くして慌てた。ばっと振り返ると、小瑛には微笑みながら軽く礼をされ、梅瑛には感激で輝かせた瞳でじっと見つめられた上に、合わせていた両手をサムズアップされた。
貴族のお嬢様なのにそんな平民の仕草をよく知っているな、と褒姒はつい関係ないことを考えてしまう。
しかし、そうやって現実逃避しても事実はひとつだ。
ぐりんっと首を勢いよく回すと、辟方を睨みつけながら彼に詰め寄った。
「ちょっとどういうこと?!」
褒姒は声を荒げて問い糺そうとした。
しかしタイミング悪く前室に春官が入ってきて、時間が来たことを告げられる。流石に知らない官吏の前で皇帝を問い糺すわけにもいかず、褒姒は言葉を飲み込んだ。
すると、辟方がにやりと笑って手を差し伸べてくる。褒姒は眉を寄せて厭そうにその手を見つめると、仕方なくそこに手を重ねた。
そして、前室を出て円舞台に続く道を二人一緒に歩き出した。
今回はちょっと長めです。
というか、書いてて思ったんですが。
こんな遣り取りばっかりしてて本当に惚れられるんか?
ちょっと疑問に思ってしまいました。
ははははは。