二日目 ~真実の欠片と褒姒のお願い~
私は特別なものなど何もないような所に住んでいた。少し歩けば田んぼのための水路があって、林や山があって、肝試しにもってこいの墓地があって、幼い私が無邪気に過ごす分にはそれで充分だった。
私がいつも遊んでいる遊び場。そこは学校の校庭と一緒になっていて、その広大な土地には鉄棒や運悌はもちろんのこと、カラフルなタイヤで作られた馬とび台、同じタイヤと土管で作られた山、ブランコ、シーソー、ターザンが出来る滑車などまるでアスレチック公園のようだった。
そこで、私はいつも遊んでいる。近所――と言っても歩くと20分程離れている――の家の3つ上のお兄ちゃんとその友達の男の子たちに混じって、鬼ごっこやかくれんぼ、ドロケイ、どんふみなどをして、5時の放送があると家に帰るという日の繰り返し。
平凡で当たり前の日常が、どれほど幸せであったか、この時にはまだ何も理解していなかった。気付けてすらいなかった。
そして、日常というのは、突然起こる非日常によって簡単に失ってしまうものであるということも。
私はいつものようにお兄ちゃんたちと隠れ鬼をしていた。
鬼に見つかりそうになった私は、全速力でカラータイヤの山を登ってから再び下りて土管を潜る。音が響く土管の中は忍び足で静かに歩き、後を窺いながら進んで外に出ると、さっきまでより明るい光が目を刺した。
「え?」
私は立ち止まって呆然と呟く。目の前に広がっていたのは見慣れたタイヤ山ではなく、見たこともないほど高い山々と点在する薄桃や碧の色とりどりの湖、そして大地の変わりに広がる雲海。
「うわぁ~! 何これ! すごぉーいっ!!」
見たことのない壮麗な景色に目を奪われてそのことしか考えられなくなる。
私はその景色をもっとよく見たくて、棚台になっている岩の淵に立った。そこから身を乗り出して下を覗き見ると、自分が今居る場所がどれだけ高いのかが分かって吃驚する。高層ビルなど全くない場所で育ったため、3階建ての学校の屋上以上に高い場所に上ったことのない私は、そのあまりの高さにゾクゾクして楽しくなってきた。
だがそこに突然風が吹き荒れて、私はそのまま真っ逆さまに落ちそうになった。慌てて手に力を入れて、落ちそうになる身体を棚台に引き戻すと、背後に巨大な気配を感じる。さっきまでなかった気配を不思議に思い、振り返ろうとした私に低い低い声が響いた。
「汝、我が求めに応えし者か?」
「え?」
問いかけの意味が分からなくて私はばっと振り返った。目線の先には、其処にあるはずの土管がいつの間にか消えていて、あったのは登れないほど高い石壁と見たこともないほど巨大な黒い影。その影が口を開いた。
「この地に縁を持たぬ者よ――汝に我が祝福を与えよう」
その言葉と共に与えられた――痛み。
***
勢いよく目を開くと、そこには見知らぬ天井が広がっていた。
褒姒は少し考えて、そこが管家の屋敷ではなく、後宮にある新たな自分の寝室であることを思い出す。
「……私、嫁いだんだった」
久しぶりに視た夢のせいで記憶が混乱していた。
「もうずっと視てなかったのに……」
ぽつりと呟いた声は、微かに震えていた。
褒姒はきつく目を瞑る。するとさっきまで視ていた夢の残像が甦ってきた。無意識にお腹を押さえながら思い出す。
あれはこちらに来た時の記憶だ。まだ管褒姒ではなかった頃の自分。
「14歳にもなって隠れ鬼で満足とは、私も随分無邪気だったんだな……いや、こっちだと7歳か」
以前いた日本という国。それはこの世界――天彌宮には存在しない。
天彌宮に存在する国家は茜、湯、波、炎、兎、貝、象、融の僅か八国、それ以外は少数民族の独立自治領が散らばっているだけ。そして、彼女の目の前に広がった世界は日本とは全く違うものだった。天体、大地、草原、田畑、森、山、何よりも見たことのない建築様式の街、建物、衣服。
その中でも一番の違いは言葉と文字だった。とは言え、こちらに来て既に八年も経っている褒姒には問題のない違いだが。
そんなことをつらつらと考えながら、ふと横を見るとそこには誰の姿もない。褒姒が手を伸ばして横の布団を触ってみると、其処は冷たくなっていた。
横に寝ていたはずの夫、辟方は随分と前に起きて室を出たようだ。
「ん?」
辟方がいたはずの白い布団の上に鮮やかな色があるのに気付いた褒姒は“それ”を持ち上げる。
「李花……?」
その“花”の意味を知らない褒姒は、茎の折れた李花を見て首を傾げた。
「お目覚めになられましたか?」
考えごとをしていたせいで人の気配に気付かなかった褒姒は、反射的に枕の下に手を突っ込みながら声の主を見遣る。そこには見慣れぬ女性が微笑んでいた。
彼女は笑顔で寝台に近づくと、褒姒の持っている“花”に気付いてきょとんとした。
「あら? ……まぁ! 陛下が皇后様をお待ちになられていたのは本当だったのですね!」
「え?」
「ずっと皇后様御一人を一途に想っていらっしゃったのですね……。感激ですわ!」
「は?」
両手を合わせてうっとりと呟く彼女を、ついていけない褒姒はぽかんと口を開けて見つめる。
「えっと……?」
確か彼女は昨日慌しく紹介された人の中にいた気がする。だが、誰だか思い出せない褒姒が困ったように聞くと、漸くそんな褒姒の様子に気付いた彼女が優雅に礼をした。
「この度皇后様付きの第一侍女の任を拝命仕りました陳梅瑛と申します」
「宜しくね、梅瑛。覚えてなくてごめんなさい」
「いいえ! お気になさらないで下さい! 昨日は慌しくてきちんとご挨拶出来ませんでしたから」
「そう言って貰えると助かるわ」
褒姒がにっこりと笑って言うと、何故か梅瑛はうっとりとして頬に手を当てた。何故そんな反応をされるのか分からなくて訝しげに彼女を見ていると、彼女の瞳がじんわりと潤んでくる。
益々不可解な彼女の反応に訳も分からず寒気がした。
「ど、どうしたの?」
動揺して少しどもりつつ、褒姒が問いかけると、ぱっと瞳を輝かせた梅瑛が膝をつき、がしっと褒姒の手を両手でしっかりと握って訴えた。
「私、嬉しいんです! 陛下の長の想い人が皇后様のように臣にも心を砕いて下さる方で!今まで乗り込んできたのは愚かで醜いお馬鹿さんばかりで……。また欲に目の眩んだお馬鹿さんが来たら、今度こそ私たちの手で! と気を揉んでおりました。しかし、それは無用の心配でしたわ。何より皇后様は陛下がお選びになられた唯一人の御方……。その皇后様ならば私たちも心よりお仕え出来ますわ!」
「……よく分からないけど、梅瑛は面白いね」
キラキラと瞳を輝かせて見つめてくる梅瑛に、褒姒はゆっくりと笑った。梅瑛はその言葉と笑顔を見て、感極まったように目に涙を溜めるも、それを零すことはない。それを見て褒姒は何故あんなにも溜まっている涙が流れないのだろうとよく分からないことを考える。
「ああ! 皇后様!」
すると何故か叫ばれた。
訳が分からないながらも、あのテンションについていきたくない褒姒は、それを今追求するのは諦めて昨日から思っていたことを口にした。
「梅瑛、私のことは褒姒と呼んで?」
「そんな! それは光栄至極に存じますが、恐れ多いことですわ!」
後宮という場でこんなことを言うのは決して誰かのためなどではなく、ただの我が儘だろう。だが、これから自分の傍にいてくれる梅瑛には“皇后”という号ではなく自分の名を呼んで欲しかった。
梅瑛がこのお願い拒否するのは正しい判断だと分かっている。だからといって褒姒には命令する気もなかった。それでは意味がないのだ。
この件について褒姒は全く折れる気がない。その想いを込めてじっと梅瑛を見つめて重ねてお願いする。
「私からのお願いよ」
「……畏まりましたわ、褒姒様」
「ありがとう」
暫くの間、褒姒の目を申し訳なさそうに見返していた梅瑛だったが、相手に折れる気配がないことを悟った彼女は、降参して困ったように笑って頷いた。その笑顔に、褒姒は嬉しそうに微笑み返した。
遅くなりましたが、無事更新出来て良かったです。
今回の話は二つに分ける予定だったのですが、中途半端だったので1話にまとめました。
そのため通常より少し長くなってしまいました。
すみません。
ここから色々と始動する予定なので、どんどん楽しくなる、はず(笑)
どうかお楽しみに~