褒姒という娘(2)
引き続き辟方視点です。
皇帝の私室である通称“龍の間”。
辟方がそこに戻ると、すぐに側近である孔叔牙がやって来た。
「お疲れのようですね」
常に笑顔を浮かべ穏やかに佇む彼は、弱冠28歳でありながら国政を統括する天官の大夫になった実力者だ。彼はその能力を先代皇帝に認められ、10年ほど前から辟方の側近として政務の補佐をしている。
だがそれだけではなく、辟方にとって叔牙は師であり兄であり友であった。彼は辟方が心安く共に居られる数少ない人間の内の一人で、その姿を見た辟方は、思わず叔牙を半眼で睨んでしまう。
「……あれはどういう人間だ?」
「あれ、ですか?」
突然の悪態にも全く動揺することなく、綺麗に笑ったまま問い返された辟方は苦虫を噛み潰したように顔を顰めた。
そもそも、辟方が叔牙に褒姒のことを訊ねるのは当たり前なのだ。叔牙は夷吾に師事していた過去があり、彼と旧知の仲であることは有名だ。その娘である褒姒ともよく顔を合わせており、彼女の友人であると過去に叔牙が話していたのを辟方は覚えている。
ならば褒姒という娘をよく知る叔牙に話を聞くのは、ごくごく基本的なことだろう。
そういったこちらの意図が分かっているのにも関わらず、敢えて訊ね返す胡散臭い笑顔が憎らしい。
「管褒姒だ」
「皇后様ですか? それならば以前調査書を奏上いたしましたが?」
「……」
「御覧になっていないのですね?」
そうだったかと、辟方が表情を変えずに記憶を掘り返していると、叔牙が重ねて問うてきた。その問いは、疑問系でありながら、既に答えを確信している問いかけだった。
「……お前と夷吾の推薦だ。二人のことは信頼している」
むっとしながらも、だから調査書など必要ない、と切って捨てた辟方に叔牙の笑顔が変化する。その顔は確かに笑顔なのに険しく、こちらを責めているようだった。
同じ笑顔なのに……。
「陛下。私共を信頼していただけることは大変ありがたく存じます。しかし、信頼と依存は違います。それは陛下の甘えであり、油断です。皇帝がそのような態度を取ってはなりません」
「……」
明後日の方向を向いて反省する様子のない主に、叔牙ははぁとため息をつく。それから彼は抱えていた書簡の一つを差し出してきた。
「以前奏上いたしました管褒姒に関する調査書です」
その言葉に目を見開いた辟方は、慌ててその書簡を受け取り内容を見る。
「管褒姒は冢宰、管夷吾の一人娘です。幼い頃は両親と共に各地を旅し、6年前に我が国に居住。それ以後は上流階級の宴に出席しつつも、街の食堂で下働きをしたり、傭兵として隊商の護衛についたりなどと、貴族の姫らしからぬ行動を延々と繰り返し、“変人姫”と呼ばれる現在に至っています」
淡々と補足をしながら説明する叔牙の言葉に、辟方は頭の中に褒姒の姿を思い浮かべる。ふと、そこで気になったことがあった。
「そういえば外見は両親に全く似ていないな。夷吾の祖先に夜郎がいるのか?」
それもそうだろう。夷吾は金髪茶目、三娘は髪も瞳も薄青で、その子供が黒髪黒目になる要素がどこにもない。それに加えて、この世界では身体に黒の色を持つのは夜郎の血をひく者だけであると決まっている。
だからこその辟方の問いかけであった。
「いいえ。彼女は養子です」
「養子?」
「はい。夷吾殿は婚姻前に国を出奔していたので、その事実を知っている者は少ないですが、本人も知っています」
そんな話は聞いたことがない辟方は不可解な顔をして首を傾げる。だが、叔牙が断言するのであればそれは裏付けのある事実なのだろう。
だが、そうなると別の疑問が出てくる。
「ならばあの娘は夜郎なのか?」
「違います。確たる証があるわけではありませんが、夷吾殿がそのことについては断言していました。彼女には夜郎の血の一滴すら入っていないと」
「黒髪黒目で?」
「はい。あの方が断言するのですから、根拠がおありなのでしょう。ただそれを示さないだけで」
叔牙の考えには賛同出来る。
管夷吾という男は有能ではあるが一癖も二癖もある。しかし、祖国を愛する心に嘘はない。なにせその愛する国のために、一度は出奔したこの国に舞い戻ったほどだ。
だからこそ、夷吾は忠誠を誓った主である辟方に決して嘘はつかない。国の大事が関わっているならば尚更だ。
だとすれば。
何故褒姒はあんなにも暗殺者に会えることを喜んでいたのだろう――?
「……ふん。夜郎ならばあの態度も頷けるのだがな」
「あの態度?」
「囮になれ、と告げたら暗殺者が来るとはしゃいでいた」
「それは……」
流石の叔牙でもそれは予想外の反応だったのだろう。珍しくも目を開けて絶句していた。
辟方はそんな彼の様子を面白そうに眺めながら笑って問いかける。
「己が夜郎ならばその理由にも納得がいくだろう?」
「……強ちその考えは間違っていないかもしれません」
辟方の問いに暫く何かを考えていた叔牙は、苦笑を浮かべて肯定した。その意味が分からず辟方は目を丸くして先を促す。
「うん?」
「彼女は自分と同じ色を持つ者に興味を持っていました。……それに、彼女は三娘殿に似て強い者が好きなので、単純に会って戦ってみたいのではないかと」
「戦闘狂いなのか?」
「どう、でしょうか。彼女は積極的に喧嘩を売りませんが、売られた喧嘩は必ず買うので」
「……厄介な」
げんなりと呟いた辟方に、叔牙は楽しそうに付け加えた。
「陛下よりも強いですよ。私でも接近戦では敵いません」
「お前は中距離や遠距離の方が得意だろう」
「それでも負けはしませんが勝つことも出来ないでしょう」
「それほどか……ふむ、李周といい勝負が出来るかもしれん」
顎に手を当てて褒姒の実力を予想した辟方がぽつりと呟く。しかし、その呟きを聞いた叔牙は困ったように苦笑した。
「李周様がお相手では彼女の負けでしょう」
「何故だ?」
「彼女は武に優れておりますが、智には優れてはおりません」
しれっと放たれた叔牙の台詞は多分に失礼なものだった。そのあまりの言い様に辟方は目を見開き、それから盛大に呆れてしまった。
「はっきりと言うな?」
「事実ですから」
「ふん、覚えておこう」
苦笑した辟方を叔牙はじっと観察する。
智に優れるも武に向かない辟方と、武に優れるも智にむかない褒姒。二人が協力すれば、互いに足りない部分を補い合っていけるだろう。だからこそ、叔牙は妻として申し分ないだろうと彼女を推したのだ。
そんな叔牙の様子に気付いたのか、辟方は更に苦笑を深めた。
辟方とて分かってはいるのだ。正面にいる彼が自分のために策を弄していることくらい。
そして、彼女を退けるという選択肢を持つことが許されない以上、今ここで彼女に悪印象を持つことは得策ではないということも。
ただ、叔牙は少し思い違いをしていた。というより、主の性質を忘れていた。
辟方は決して褒姒を苦手に思ったわけでも、嫌悪したわけでもなかった。
彼女のその変人ぶりの片鱗を見て、我慢していたのだ。
彼女を愛でてしまわないように。
徐々に色々な片鱗が見え始めました。
けれどこの時点だと一番ヤバそうなのは辟方な気がする……
おかしいな……、一番ヤバイのは別の人の予定なのに……