第三話 初朱宴
誓約の儀が無事に終わり、誓言の間を出た褒姒は、すぐに陛下とその場で別れ、王宮内にある大広間近くの控えの間に通された。
「此方でお待ち下さい」
「ありがとう」
ここまで先導してくれた近衛隊兵に小さく声をかけてから部屋に入ると、そこで待機をしていた女官服に身を包んだ二人の女性が揃って頭を垂れる。
「此の度の御成婚、御祝い申し上げます」
「おめでとう存じます」
「ありがとう。顔を上げて頂戴」
褒姒は二人が顔を上げたのを確認してから長椅子に腰掛けた。
一人はすらっとした体型の綺麗なお姉さんといった風体の女官で、黄緑の長い髪をきっちりと結い上げ、赤茶の瞳を細めて微笑んでいる。
もう一人は、背は高く女性らしい肉感的な体型ながら可愛らしい雰囲気の女官で、赤いゆるふわな髪を頭の高い位置で団子にして余った髪を背中に垂らし、茶色の瞳をこれでもかと見開いてきらきらと輝く眼でこちらをじっと見ていた。
(何だろうこの凝視。后妃に対する女官の態度として間違ってないか……?)
その強烈な視線に内心では若干引きながらも、表面上はにこやかな顔を保っていた。
すると、こちらも微笑を浮かべたまま隣の女官の態度を見事に流した綺麗なお姉さん女官は、私の方に近づき一礼をする。
「お初に御目文字仕ります。私は魏香玉と申します。此の度、管后様付きの侍女に任ぜられました」
「お初にお目にかかります。同じく管后様付きの第一侍女の任を拝命仕りました陳梅瑛と申します」
香玉が挨拶をすると、いつの間にか彼女の横に並んでいた梅瑛が続いて一礼した。
その変わり身の速さに驚きを通り越して感心しつつも、心中で「ねこねこねこ」と呟いて内心を隠す。
「これから宜しく頼みます」
たおやかに微笑んで言う彼女には独特の貫禄があった。一種の威圧感とも言っていい。
それに当てられて一人はうっと怯み、一人は変わらずに微笑んでいた。
*
「本日はお慶び申し上げます。私めは春官大夫が馬石父と申しまして、この佳き日を一日千秋の思いで待ち侘びておりました。管后様におかれましては――」
褒姒は幾度目かも分からぬ祝辞を適当に聞き流していた。
あれから侍女たちに衣装や化粧を直してもらい、連絡に来た近衛隊兵に呼ばれ大広間へと案内されると、広間の手前の小室で皇帝陛下が既に待っていた。
待たせたことの謝辞を述べると直様「構わぬ」と返した陛下に手を取られ、そのまま大広間へと連行される。
再奥の壇上に設えられた皇帝皇后の席へと腰を下ろすと、空かさず酒盃が配られ皇帝の挨拶を皮切りに初朱宴と呼ばれる祝宴が始まった。
そこからは慶賀祝辞の嵐だ。初めの内はにこやかに聞いていた褒姒だったが、何度も何度も心にもない同じ様な祝福を受けてうんざりしてくる。
しかも、陰口にもならない悪口がそこかしこから聞こえてくる上に、それが綺麗に着飾った麗しい女性たちから聞こえてくる様が更なる追い打ちをかけていた。
(あんなに綺麗なのに残念な人たちだなぁ……。というか美人の鈴の音のような声から出る罵詈雑言って想像以上に破壊力あるわ。あの差異が気持ち悪い……)
そんな理由で気持ち悪くなるのは褒姒くらいだろうが、確かに気持ちの良い光景ではない。
本人には祝辞を述べておきながら、陰で悪口を言う。しかも性質が悪いのは、それを聞こえるように言っている所だ。
(ああ、またそんな事言って……。あの娘たち、大丈夫かな?)
皇后の座にも皇帝陛下自身にも特別な感情のない褒姒としては、彼女たちの言動に心配が募るばかりだ。
そもそも何故気づかないのだろう?
私に聞こえるという事は隣に座っている男にも聞こえるという事だ。
陰湿な陰口を公の場で周囲に聞こえるように話す人間に誰が惚れると言うんだ?
寧ろ失望しかしないだろう。
(こういう事は誰も見ていない場所でこっそりと行うべきだろうに……)
更に付け加えるならば、暴力に訴えると尚良し! だ。
そんな事を褒姒に思われているとは知らない彼女たちは次第に白熱していく。
「御覧になって? あの黒い髪と瞳。なんと凶々しく不吉な色でしょう――」
「ほんに。死を告げる鬼のよう――」
「実際にあの方の周囲ではよく人が死ぬそうですわ――」
「まぁ、恐ろしい――」
「そもそも下民で野蛮な夜郎ではありませんか――」
「傭兵などという蛮族と寝食を共にするなどはしたない――」
「きっとその男達に媚びて卑怯な手を使ったのでしょう――」
「穢れた売女のくせに生意気ですわ――」
「聞きました? あの方、妖とも寝食を共にしているそうよ――」
「悍ましい。妖怪にまで腰を振るとは――」
「何れ腹を破って妖魔が生まれるのではなくて――?」
「嫌だわ! そんなモノを飼っていらっしゃるなんて穢らわしい――」
「妖魔などを腹に宿しているんですもの。あれは畜生以下の生き物よ――」
「そんな生き物この世にいまして――?」
「いないわよ――」
クスクス。クスクスクス。
褒姒は「よくもまぁそんなにぽんぽんと出て来るなぁ」と感心しつつ、目の前の料理を見苦しくならない程度につまむ。
(うん、美味しい。でも私は温かいものの方が好きだなぁ……)
暢気な事を考えながら広間の様子をチラリと観察すると、彼女たちと同じようにヒソヒソと陰口をたたく者、縮こまってそれに相槌を打つ者、無関心を装う者、顔を顰めて不快感を露にする者、表情を全く変えず内心が読めない者とに分かれていた。
父夷吾からの助言によると、陰口をたたく者=小物(三流悪役)、相槌を打つ者=捨て駒、無関心を装う者=保身主義、不快感を表す者=自己主張が強い、内心が読めない者=腹黒狸、だそうだ。
今の私が気にすべきなのは小物一派と腹黒狸一派だ。保身主義は大局が動かぬ限り現状維持で、自己主張強一派は必ず変動の前に兆候があるのでそれまでは気にする必要はないらしい。因みに捨て駒一派は数が多いので動きがあるまでは放置だそうだ。
小物は目先の利益に釣られて行動を起こしやすいので監視対象で、腹黒狸一派の中の婚姻反対派に知ってか知らずか操られている可能性が高いので、彼らを釣る餌に使う、と夷吾が宣言していた。それはそれは穏やかな笑顔で。……父は間違いなく腹黒狸一派だな。うん。
兎にも角にも、今覚えるべきは小物一派の人物。
(あれは春官下大夫の胡家当主、あっちは秋官行司馬の郭家当主の嫡男、あそこにいる集団は地官と冬官の大夫と下大夫……)
「何か面白いものでもあったか?」
顔だけでも覚えようと褒姒が熱心に広間を見渡していると、突然横から声がかかった。
まさか話し掛けられるとは思っていなかった褒姒は、思わず素のまま返答をしかけて焦る。
「え、あ、い、いえ。宴の席に出たのは久方ぶりなので……」
しどろもどろに返事をしながら、語尾を濁す。ついでに困った時は笑っておきなさい、という母の言葉に従い、うふふと笑っておく。
「そうか……? 疲れているならば下がるか?」
褒姒の(引き攣った)笑顔を見ながら問い掛ける皇帝は実に楽しそうな微笑みを浮かべていた。
そこに癇の障るものが含まれている事を敏感に感じ取った褒姒は見えない所に青筋を立てながら、今度は完璧な微笑みを浮かべる。
「お心遣い痛み入ります。ですが大丈夫ですわ、陛下」
ナメンナヨと瞳に刻みながら綺麗に笑う褒姒の背後には燃え上がる炎が見えた。
だが、傍から見ると二人は仲睦ましげに微笑み合っているように見えるから不思議だ。そして、そんな二人の姿を見てぎりぎりと嫉妬と憎悪に顔を歪めている人物がちらほらと見える。
実情を理解している者たちは二人を見て苦笑をし、愚者たちを見て嘲笑するのだった。
当然そんな状況の中、祝辞の挨拶に来る者などおらず、既に目的は達せられたために祝宴も終わりに差し掛かろうとしていた時、玲瓏な声が広間に響き渡る。
「茜帝、茜后様、御成婚おめでとうございます。ですが随分と急でしたね? お陰で私のような者がこの宴に出席するという栄誉に与れたのですが、本国の者たちも随分と驚いておりましたよ」
柔らかな微笑みを浮かべて広間の中央から堂々と褒姒たちに近付くのは、朱金の長い髪を緩く編んで背中に流し、翠の瞳に親しげな光を宿した長身の偉丈夫だった。
細身で正しく麗人と言うに相応しい彼の姿に、顔を歪めていた女たちがうっとりと見惚れている。
「お前か。よくも間に合ったものだな?」
「運良く貴国に人を訪ねておりまして。お陰でこうして参じる事が出来ました。――茜后様にはお初にお目にかかります。湯国礼部にて主事に就いております范蘇従と申します。以後お見知りおき下さい」
流れるような仕草で横に伸ばした右手の甲に左手の手のひらをぴったりと重ね合わせ、その手を掲げて頭を垂れるという湯国の正式な礼式を取った蘇従の背後に、ぱぁっと華が散ったのを視た褒姒は思わず感心してしまった。
「なるほど……。かの有名な“湯国の神愛華人”に祝福して頂けるとは、此方こそ光栄ですわ」
褒姒は上品に微笑みながら、内心では
(これは確かに麗しいわ~。ここまで来るともう芸術品ね。でも嫁の来手はなさそう)
などと考えていた。失礼な奴である。
とは言えそんな心中は微塵も垣間見せず、褒姒は麗しい微笑みを浮かべる蘇従におっとりと微笑み掛ける。
「此の度茜国国主が李辟方に嫁しました管褒姒です。范殿は陛下と同じ学びの徒でいらしたとお聞きしたのですが」
「はい。以前は大綱鳳凰院の学徒でした。一時は恐れ多くも陛下に教授していた時期もあったのですよ」
「まぁ、優秀だったのですね。その頃の陛下の話など御聞きしたいですわ」
「是非とも」
「楽しみにしております」
お互いに微笑み合い、のほほんとした空気を醸し出しながら二人が話をしていると、再び鋭い視線が褒姒に集中していた。しかも今度は女達だけでなく男の嫉妬混じりの殺気も混ざっている。
あからさま過ぎる周囲に、流石に蘇従も微かに眉尻を下げているのに気付き、褒姒は苦笑を浮かべて小さく首を振った。僅かな動きだったが、それに気付いた蘇従はにっこりと微笑むと小さくありがとうございますと呟き、礼をしてから立ち去った。
「はぁ……」
嫉妬や憎悪混じりの鋭い視線は気にならないが、慣れない気遣いや、上品な笑みを長時間顔に貼り付けているのは想像以上に疲れる。何より殺気は感じるのに戦えないのが辛い。殺気に反応して否が応にも昂まる身体を、理性で縛り抑え付けるのは欲求不満が溜まる。
思わず吐き出た褒姒の溜め息に反応したのは辟方だった。
「闌も過ぎた。そろそろ我らは退くか」
「え――?」
「冢宰、大宗伯、我らは戻る。後を頼むぞ」
「かしこまりました」
二人が拱手を組み立礼するのを見届けてから、立ち上がった辟方に手を取られ、褒姒は強引に退室させられ、広間の外で待っていた近衛隊兵二人に後宮の自室へと案内された。