約束
「何処へ行く?」
「何処ってあそこ」
何を決まりきったことを、と褒姒は戦闘の場を指差しながら答えた。
そんな褒姒を見て、辟方は特大のため息を零す。
「お前、約束はどうした?」
「約束? なん――」
「『何の?』とか聞いたら縛り付けるぞ」
「……」
言葉を遮って低く呟かれた脅しに褒姒は思わず黙り込んでしまった。
こちらを見てくる――というか睨んでくる辟方の瞳の中に、先ほど垣間見た色を見つけて褒姒の背中に冷や汗が垂れる。
(何なのよさっきから!! 私の方が強いのに、どうやって縛るのよバァーカ!!)
内心でぐちぐち呟きながら、褒姒はその半面で懸命に記憶をさらっていた。
(というか、辟方と約束なんてしたっけ? 囮なら戦っていいはずだし、服はちゃんと女物着てるし、武器や防具はちゃんと隠してるし、味方を襲撃したりもしてないし……)
なかなか思い出せない褒姒を見て、段々と辟方の目が剣呑なものに変化していく。
それを見て褒姒は焦った。
えーっと、えっと……
「あ! さっきの戦いの後の!」
「忘れていたんだな?」
うっと、褒姒が詰まる。
正直あの時は驚きと困惑の中で脅されたので、その内容までは気にも留めていなかった。
ようやくそれを思い出してすっきりした褒姒の笑顔が辟方の顔を見た途端に凍った。それはもう見事に。
この気配には覚えがある。叔牙が本気で怒った時ととてもよく似ていた。
綺麗な笑顔なのだ。とても。
背後に真っ黒い空気も見えない。
だのに身体が竦み上がるほどの恐怖を感じる。
褒姒はなんとか誤魔化そうと頭を働かせるが、元々頭の良くない褒姒には、当然ながらすぐに解決策が見つかるわけもなく、悪戯に目が泳ぎ、意味のない言葉が漏れるだけだった。
「え? あ、いや、えーっと……」
「明らかに今思い出していたのに白々しいな? しかも思い出すのにかなり時間がかかったくせに」
「そ、そんなこと――」
「あるよな?」
「……はい」
反論する度に綺麗な笑顔が近づいてくる。終いには鼻と鼻がくっつきそうなほど顔を近づけられ、褒姒は早々に白旗を揚げた。
何故だろう。あの襲撃の後から、辟方の目の色が時々変わるのだ。
豹変した辟方は、夷吾によく似ていて褒姒には逆らえない。逃げ出したいのに、逃げた後の方が怖くて結局従わざる得なくなる。
夷吾は褒姒よりも弱い。純粋な個人の戦闘能力に関しては。
でも、はっきり言って褒姒は夷吾には勝てない。一生無理だと思う。
何故なら夷吾は戦いに発展させないのだ。その前に自分の得意分野でトドメを刺す。必ず自分の目的とする成果を上げる。
夷吾に勝てるのは三娘くらいなものだ。
どうやらその技術は、正しく夷吾から叔牙へ、そして叔牙から辟方へと伝えられているらしい。
辟方の背後に叔牙や夷吾の幻影を見た褒姒は、『勝てない戦闘は早々に放棄し、逃げるが勝ち』という家訓に従い、素直に頷いてしまった。
だが、褒姒は戦いたいのだ。
そのためには辟方を丸め込まなければならない。
ならば、どうすればいい?
「この場でおとなしく護られていろ」
「でも!」
「それがお前の役割だ」
「……」
きっと普通はそうなのだろう。
だが、褒姒はそれに素直に従うわけにはいかない。
何も言わずに黙って俯いた褒姒を見て、辟方は納得いかないながらも了承したと思ったらしい。頭に手を乗せてぽむぽむと軽く叩いてきた。
褒姒はそれに構わず、打開策を考え続ける。
(何かないの? 父様みたいな……。
そうだ。相手の言葉を利用するのがいいんだっけ? えーっと……)
ぱっと顔を上げた褒姒は思いついた答えを口にする。
「そう! 襲撃者らは毒を仕込んでないわ」
褒姒の言葉で彼女の意図に気付いた辟方は呆れ顔でため息を漏らす。
「はぁ……確証がない。却下だ」
すぐに却下されたが、褒姒はめげずに続けた。
「えーっと、その、暗殺者じゃないわ。彼らは訓練された傭兵か兵士よ」
「それも確証がない。加えて言えば、暗殺者だろうが兵士だろうが殺そうとしてくる相手に変わりはないだろうが。却下だ」
「うっ……え、うーんと、それじゃあ、えっと、あー、そうだよ! 君は『戦ってくれるな』って言った!」
「……」
すぐに反論が来ず、口を引き結んで黙り込んでしまった辟方の姿に、褒姒はここぞとばかりに勢い付く。
「私は、それは戦って欲しいっていう意味だと思ったわ!」
さぁ、どうだ? とばかりに微笑んだ褒姒に辟方はこっそりと苦笑を漏らした。この程度で丸め込めると思ったら大間違いだ。それに、養子とは言えこれが夷吾の娘かと思うと可愛く見えてしまう。
「確かに、『戦ってくれるな』だけならばどちらの意味にも取れるだろう。だが、俺はその前に言ったな? 『戦うのを控えて欲しい。向かっていくな』と」
「あ」
口と目を真ん丸に開いている褒姒を、辟方は更に容赦なく追い詰めていく。
「それに、明らかに今思いついて発言している言葉に説得力があると思うのか? すぐに出てこなかった時点でそう思っていなかったと白状しているも同然だろう」
「うぅ!」
「悪あがきは止めるんだな。俺はそう簡単に言いくるめられないぞ? 俺を言いくるめたいのならば夷吾くらい腹黒くなることだ」
褒姒は唇を突き出し、尖らせて憮然と呟いた。
「それは無理」
「ならば潔く諦めるんだな」
容赦なく切り捨てる辟方に、しかし褒姒は頷けない。
「それも嫌」
「ならば約束を破るか?」
「……やぶる」
ぼそりと小さく肯定すると、辟方の顔が一気に笑顔に変わる。
「とは言ってないでしょう!!」
それを見た褒姒は慌てて付け足した。
脅しに負けたとは言え、自分で肯定してしまった褒姒は不満をため息として吐き出す。
「はぁ……分かったわ。約束通り今は控える。でも、必要になったら私は戦うからね」
あくまでも今は戦闘を控えると言う褒姒に、好きなだけではない、何か譲れないものがあるのかと辟方は疑問を感じて尋ねた。
「何故そんなに戦いたがる?」
「必要だからよ。そして、それが私なの」
特に表情を変えることなく、当たり前のことのように語る褒姒に、辟方はきょとんと問い返した。
「どういう意味だ?」
「言葉通りよ。なんと言われても戦うことは私が今の私であることの証。例えそれが誰であれ、それを奪うことは許さないわ」
見たことのない表情をして見据えてきた褒姒の強い瞳に思わず辟方は魅入られる。黒い瞳の奥に微かに揺らめく闇が、表面の光をキラキラと輝かせていた。
「許さないとは具体的にどうするんだ?」
「拳で語って分かってくれればよしね。それでも理解しないなら、私はその人とは付き合えないわ」
褒姒は拳を振り上げてニヤリ笑った後、肩を竦める。
彼女の拳を見て辟方は口許を引き攣らせた。
「関係を解消するということか?」
「いいえ。縁を切るということよ」
「どう違う?」
「その人の前には姿を現さない。口を一切利かない。完全に縁を断つわ。それはもう徹底的に」
笑顔で答えた褒姒の言葉に辟方はげんなりと肩を落とし、ぼそりと呟いた。
「……なんというか、お前は極端な奴だな」
「そんなことないわ。管家の家訓のひとつだもの」
「訂正しよう。管家は極端な奴らだな」
「そうかなぁ……?」
呆れを通り越して、気の抜けてしまった辟方に褒姒は首を傾げるのだった。