婚姻の儀
(私が甘かったわ……まさか皇帝があんな条件を飲むなんて……)
褒姒は自分で条件を突きつけておきながらそのことは棚に上げて、条件をあっさりと飲んだ横の男と心の距離を取る。今は残念ながら身体は離れられないが……。
何故なら、今、王宮内にあるこの誓言の間では褒姒と横の男――基今上帝李辟方との婚姻の儀が執り行われていた。
『誓言の間』というのは、国家に関わる儀礼や祭祀を執り行う場で古くからこの王宮に存在している。その室内は豪華というよりは流麗だった。目にも鮮やかな朱色の柱が等間隔に並び、壁には純白の布が幾重にも垂れ下がっている。天井窓から降り注ぐ陽光をその布が反射して、室内に神秘的な雰囲気を醸し出していた。そこに正装の高官と春官がずらりと並ぶ様は壮観であった。
更に室の奥、床が少し高くなっている壇上の奥の壁にはこの国の国章が刻まれ、その前に設えられた式儀棚には、国の神器である銅鏡と銅剣、銅器が置かれ、銅器の中には灰が詰まっており、そこには儀礼で使用する式儀香が刺さってゆらゆらと煙を上げていた。
その式儀棚の前には礼法や祭祀を司る春官の長である大宗伯が立ち、朗々とした声を室内に響かせながら婚姻の宣誓を宣っている。
だが、壮麗な儀式の中、壇上に上がる階の下で皇帝と並びながらその声を聞く褒姒には、難しい宣誓の祝詞の言葉も意味も理解出来ないため、退屈しきっていた。
そこでことの始まりに思いを馳せていた訳だが、思い出していたらその時の不満をも思い出してしまい段々と考えが愚痴っぽくなってくる。
(それにしても、なんで皇帝の婚姻の儀がこんなに早い訳? 公布が出てからまだ十日しか経っていないのに……本当に最悪……)
褒姒は周囲には気付かれぬように小さくため息を付くと、すぐに思考を切り替える。不満を挙げても現状が変わるわけではないのだから、それは不毛な行為だ。そう割り切ってすぐに考えるのを止めると、今度は暢気なことを考え始めていた。
(大宗伯の爺爺、良い声してるなぁ……渋くて痺れる)
というのも、そうでもしないと気がまぎれないからだ。褒姒としては、儀式のためにと過度なほど飾り付けられた衣装や飾りが鬱陶しくて仕方なかった。
皇后の嘉礼服である翟衣は丈が長く、袖口も広く布をふんだんに使った代物で、鮮やかな朱色の絹地に金糸などによって描かれた鳳凰の刺繍が優美に舞っていた。また、彼女がまとっている黒く細長い領巾も、黒の絹地に金糸等によって李花などが刺繍されている。こんな見ただけで高価な品だと分かる上に、肌触りも良くて傷付けたり汚したりしないかと気を遣ってしまう衣装は嬉しくない。逆に疲れる。
その上、髪の毛はどこがどうなっているのかも分からない程複雑に編みこまれ、櫛やら簪やら真珠やらをふんだんに飾り付けられていて、重くて痛かった。
流石の自分でも婚礼衣装にはうきうきとはしゃいでしまうかと思っていたのだが、そんなことは全くなかった。それ所か今すぐ脱ぎたいぐらいだった。
褒姒はちらりと横に立つ皇帝を盗み見る。
此方も嘉礼服である冕服を着てしっかりめかしこんでいた。丈が長く、袖口も広く布をふんだんに使った代物で、ただし彼女の衣装とは違い此方は鮮やかな朱色の絹地に刺繍は一切ない。交領には黒の絹地に李花などが刺繍されていて、下裳には荘厳な龍が描かれ、見事に映えている。更に髪をきっちりと結い上げられ、黒い冕冠を被っていた。
見ているだけで肩が凝りそうな衣装だ。だが、皇帝は全く顔色も表情も変えることなく大宗伯の祝詞を聞いている。
褒姒は「こんな格好をしていてよく平気な顔をしていられるな」と思わず感心してしまった。
ついでとばかりに夫となる男をじーっと観察してみる。だが、視線を感じたのか皇帝が横目で此方を見た拍子に彼とばっちり目が合ってしまった。
その視線に値踏みするような意図を感じた褒姒は反射的に横目で彼を睨みつける。すると、皇帝は意外そうに目を見開いた後、愉快そうに口端を吊り上げた。
その反応は馬鹿にされているようでものすごく腹が立った。怒りの情動のままに彼に掴みかかろうと思ったが、タイミングよく大宗伯が二人に声を掛けてきた。
「お二方、どうぞ前へ」
その言葉ではっと我に返った褒姒は、怒りを飲み込んで前を向くと皇帝と足並みを揃えて階を上った。壇上に上がってから三歩進んでピタッと立ち止まる。
「では、誓言を」
目の前にいた大宗伯が静かに下がり、褒姒たちは再び揃って歩く。今度は式儀棚の前で足を止めると、片膝を付いて両手を合わせ、拱手の型をとり、頭を垂れて礼をする。その後、頭を上げ、体の中心で三度拍手を打ち、誓言する。
「古くより此の地を護りし英霊よ。我が一族に新たな血が加わることを御報告申し上げる。此れより先は新たな血と共に国のために尽力し、民に繁栄をもたらすことを、そして、対となる新たな血を愛し護りゆくことを茜国国主李辟方が誓う」
堂々とした声で皇帝が告げた。それを聞き終えてから、一度深呼吸をして褒姒も声を上げる。
「古くより此の地を護りし英霊よ。彼の一族に新たに加わることを御報告申し上げる。此れより先は一族の一員として共に国のために尽力し、民に安らぎをもたらすことを、そして、対となる一族を愛し支えていくことを管家一姫管褒姒が誓う」
声が震えなかったことに満足しつつ、再び頭を垂れる。それから立ち上がって振り向くと、褒姒は横から差し出された手に自分の手を重ねた。そのまま壇上の終わりまで戻ると、それに合わせて二人の後ろに立った大宗伯が声を張り上げる。
「ここに誓約は成された。国を代表して言祝ぎ申し上げます」
「おめでとう御座います」
後半を二人に向かって優しく告げた大宗伯の言葉に続き、誓言の間に集った立礼した官吏たちからも祝いの言葉が合唱された。
それに褒姒と皇帝は軽く頷くことで応える。
「これにて誓約の儀は無事終えられた」
「朱の国旗と祝音を上げろ。これより三日続く『朱の祝祭』の始まりだ!」
大宗伯の言葉によって誓約の儀は締めくくられ、続く皇帝の言葉で国を挙げての宴が始まった。