幕間 結婚前夜
今回の婚姻に関して、皇帝陛下からの文句が出なかったことで、今まで后位問題で頭を悩ませていた官吏たちは俄然やる気を出した。
陛下の気が変わることを最も恐れた彼らは、通常の執務をこなしながら異常な速さと熱意で婚姻の儀の準備を終わらせたのだ。
その結果、褒姒が縁談話を父である夷吾から聞いた2日後には婚姻の公表がなされ、春官の長である大宗伯自らによって占われた吉日により、婚姻発表の1週間後には正式に婚姻の儀が執り行われることとなった。
褒姒はそのあまりの素早さに驚きを隠せなかった。
隣国である湯国ほどではないが、それなりに歴史を持つ茜国でも祭事では伝統が重んじられる。皇帝の婚儀ともなれば、それなりの段階を踏まなければならないため、正式な公表から半年から1年ほど掛かるのが通例だった。
幾ら世情に疎い褒姒とてそれくらいは知っていたので、婚姻に了承はしたもののかなり暢気に構えていたのだが、どうやら今回ばかりは勝手が違うらしい。どうしてもこの婚儀を成功させたい官吏たちは、“省けるものは最大限省く”を掲げ、最速の婚姻を目指していた。彼らにとって今回に限っては伝統は最低限守られればいいらしい。
まぁ、恐らくは夷吾が率先して官吏たちをせっついているのだろうが。
そんな異様な事態のせいで、褒姒は慌しい一週間を過ごした。
後宮に入ってしまえば街に出るどころか、王宮内ですら自由に動けなくなる。何より急な婚姻で、嫁入り道具が全く揃っておらず、花嫁衣裳やら何やらの準備に東奔西走して休まる暇のない日々を過ごしていた。
それを口実にして、褒姒は外出しては街や街の外にある森をちゃっかりと遊び歩いてもいたが、此処での追求は止めておこう。
そんな非日常の目まぐるしい時間の中で、褒姒は確実に変化していく毎日を実感していた。
夜が来る度に増す寂寥感に襲われて、夜になってもまともに眠れない日が続く。
そして、婚姻の儀の前日――
管家で過ごす最後の日だけあって夜遅くまで談笑に花を咲かせていたが、人々が帰り、皆が寝静まる時間になると、屋敷はひっそりとした空気に包まれた。
自室の寝台に横になったものの、全く眠れない褒姒は寝ることを諦めて部屋を出た。寝静まった屋敷の廊下を、音を立てないように気をつけながら歩いて行く。
中庭に出ると、晴れた夜空に真円を描いた真白い月が輝いていた。月の光が庭の山吹を優しく照らしているその景観に褒姒はなんだか泣きたくなってくる。
「眠れないのかい?」
感傷に浸っていた褒姒は夷吾の気配に全く気付かなかった。声を掛けられ、驚いて振り向くと父が笑顔で立っている。
「父様……」
迷子の子供のような顔をしている褒姒に夷吾は驚いてしまった。しかし、久しぶりに見た子供らしい幼い顔に愛しさが溢れる。
夷吾は笑顔で褒姒の隣に立つと、優しく彼女の頭を撫でた。
父の子ども扱いに反論しようとするが、嬉しいことに変わりはないので、恥ずかしさで赤くなりながらも大人しく頭を撫でられたままにする。
しばらくそうしていると、波立っていた心がだんだんと落ち着いてきた。それでも心に忍び寄ってくる不安を抑えきれず、ぽつりと本音を漏らす。
「私が嫁ぐのにはやっぱり問題があるよ……。相手は皇帝だよ? 下手をすればこの国に影響が出かねない……」
「褒姒……」
「ねぇ、父様? 私だって自分がどれだけ危ういのか分かっているわ。今まで父様たちが私の知らないところで守ってくれていたことも、悔しいけど、私一人じゃダメなことも知ってる」
山吹の花を見つめながら淡々と続ける褒姒の話を、父はただ黙って聞いていてくれる。そのことに勇気をもらった褒姒は、そのまま自分の気持ちを吐露した。
「皆が私を守ろうとしてくれるのは嬉しい。けど、それ以上に怖いの! 怖いのよ……」
褒姒には分かっていた。
父たちが皇后問題で行き詰っていたのは本当だろう。
でも、その皇后に選ぶのは自分でなくても良かった。
むしろ危険の高い自分でない方が良かったことも。
両親が全てのリスクを承知した上でこの縁談を進めたことも。
自分を案じてくれる兄のような叔牙が、それを知って承諾したことも。
だから自分も覚悟を決めて嫁ぐつもりだった。なのに、自分だけ、覚悟が出来ていなかった。
「不安が消えないの。私のせいでこの国に災いが訪れるかもしれない。父様や母様、叔牙を危険に晒して苦しめるかもしれない! それに、私はいついなくなるか分からない。……私はこれ以上大事な人を作りたくない」
怖いの、褒姒は苦しそうにそう呟いて俯いた。
すると、ぎゅっと優しく抱きしめられる。
背中をぽんぽんっと優しく叩く手に、無性に泣きたくなった。まるで本当に幼くなってしまったみたいで、自分が情けなくなってくる。
「久しぶりだね。褒姒がそんな風に頼ってくれるのは」
優しいその声に顔を上げると、父が微笑んでいた。
そういえば、ここのところ褒姒も夷吾も忙しくて、こうしてゆっくりと話すのは一週間ぶりだった。
久しぶりにちゃんと見る父の顔は、少し痩せていて疲れが隠れ見える。それに気付いた褒姒は自分の漏らした弱音を恥じた。
「ごめんなさい……父様たちは頑張ってくれているのに……」
「褒姒はいつもそうやって私たちを思い遣ってくれる。だから大丈夫だよ」
にっこりと笑う父を見て、褒姒の瞳からぽろりと涙が一粒零れ落ちた。
その涙を見て、夷吾は笑みを深める。
「これから例え何かが起きたとしても、それは褒姒だけのせいじゃないよ」
「父様……」
「今回の婚姻は私たちの我が儘だ。だからその責任を褒姒が負う必要はない」
「けど、これまで縁談をずっと拒み続けてきたのも私の我が儘です」
褒姒はきっぱりとそう言い切った。
父の優しさは嬉しいが、責任を父だけに押し付けるわけにはいかない。
だが、父にはそんな褒姒の考えもお見通しだった。だから反論はせずにただ優しく訊ねた。
「そうだね。……褒姒は何故今回の縁談を受けたんだい?」
「事情を聞いて……」
「君はそれでも断れた。それは分かっていただろう?」
「……」
言葉に詰まってしまった褒姒は、黙ったまま俯いた。
そんな彼女を優しく見守りながら、父は黙って彼女が答えるのを待っている。
すると彼女は少し考えてから口を開いた。
「今まで父様は国の中枢に関わる相手との縁談は持って来なかったでしょう? なのに、今回は違った。だから、無理を押し通してでも薦めるわけがあるのかなって……」
「興味が出た?」
「うん」
笑って聞いてきた父に素直に頷く。
きっとその“わけ”も自分のためだったのだろう。そう思うと、その“わけ”が知りたいのと同時に何だか興味が湧いてしまったのだ。
褒姒の返答に、父はどこか面白そうに笑った。
「褒姒は少し私を買い被っているよ。今回のはね、単純に興味があったんだ」
「興味?」
褒姒はきょとんとした。
そんな彼女に父は茶目っ気たっぷりにウインクしてみせる。
「君なら陛下とどう接するのだろうかとね。そして、君なら陛下と共にどう歩むのだろうと」
「……それだけ?」
「それだけ。……それに君たちはとてもいい関係になれると思ったんだよ。私と三娘のように」
想定外の答えに上手く反応出来ずにパチパチと瞬く。
その顔が可笑しかったのだろう、父が褒姒の鼻を軽く摘んだ。
それで我に返った彼女は父を軽く睨む。
「それはないと思う」
呆れたようにきっぱりと断言してから、目が合った父と声を出して笑い合った。
褒姒の中の不安が完全に消えることはない。
けれど、不思議と陛下と会うことが楽しみになっていた。
1話の回想のその後の話です。
お父さんは妻と娘にはべったべたの甘甘なお方なのですよ。
なので妻も娘も一度も叱られたことはありません。
但し、叱られない代わりに泣かれます。結構ウザいです(笑)