豹変
(私としたことが……。獲物を横から掠め取られるなんてなんたる不覚! しかもあのイケメンがっ!! 素敵筋肉じゃなかったあぁぁぁーーーーーっっ!!!!!)
内心でグチグチと悪態をつきながら、褒姒は欲求不満になってしまったこの鬱憤を晴らそうと真っ直ぐに辟方の元へと向かう。
すると、いつの間にか大輿から降りていた辟方は、上将軍の項燕に布で包まれた毒付きの匕首を渡し、この騒ぎの指示を出しているようだった。
「後は指示通りにしろ」
「分かっとります」
そっと近づいた褒姒に気付いた項燕に声を掛けられる。
「管后様、お怪我は?」
「そんなへまはしないわ」
「危険に晒してしまい申し訳ございませんでした」
軽く答えた褒姒に項燕は真面目に頭を下げてきた。
その真面目腐った対応に褒姒は嫌そうに顔を顰める。
「そういう面倒なことは全部後よ。ここでなくても出来るでしょう?」
「褒姒」
項燕の謝罪を受け入れないような態度に、辟方が褒姒を窘める。
咎める様なその響きに言い方が悪かった自覚のある褒姒は、罪悪感を感じ慌てて言い訳を言い募った。
「別に謝罪を受け取らないと言っている訳じゃないわ! けじめをつけるにしても此処じゃなくてもいいでしょ?」
「管后様の仰る通りですな。では陛下、頃合を見て号令はお願いしますよ」
軽く笑って流してくれた項燕に感謝をしつつ、彼の同意を得て「そうそう」と頷くと、辟方は肩を落としてため息を付いた。
「あんまりこれを甘やかしてくれるな」
「ああ、そうでしたな。それは陛下の役ですからな。折角の機会を奪ってしまっては恨まれてしまう。陛下、失礼致しました」
「なっ?!」
思わず絶句した辟方と、そんな彼を見て豪快に笑う項燕。
はっきり言ってマヌケ面を晒している彼の姿を初めて見て、褒姒は感心してしまった。
「おおぉ~! すごいな、林上将! 口だけでも仕留められるのか!」
「わっはっは! このようなに褒められるのは存外に嬉しいものですな!」
「そうなの?」
「はい。皆、小官を恨むか呆れるのです」
「恨む必要も呆れる必要もないのにおかしな者たちだね」
「全くですな。……陛下、まだまだですなぁ。しっかりと心を掴まなくては駄目ですぞ?」
前半は真面目に褒姒に頷き返していた項燕は、しかし後半、にやにやと厭な笑いを浮かべながら辟方を眺めて忠告をする。それに辟方はすぐさま言い返そうとしたが、周囲の状況を思い出した彼はぐっと言葉を飲み込み、ぷいっとそっぽを向いて項燕を無視した。
簡単にあしらわれている辟方は幼い――と言うよりも子供っぽく、目を丸くして二人を見ていた褒姒は思わず笑ってしまった。流石に辟方に悪いと思い、笑い声を抑えようとしたが、くすくすと小さい笑い声がどうしても漏れてしまう。
「くっ、ぁはっ……! そんな顔も、するんだね、辟方」
褒姒は先ほどまで抱えていた不平不満をすっかり忘れるどころか、外にいるために力んでいた余分な力が抜けて、なんの衒いもなく無邪気に笑った。
褒姒の素の笑顔はにへらと顔がだらしなく緩んでいて、はっきり言ってときめくものは何もないのだが、その笑顔に辟方ははっと見惚れる。
褒姒はやっとのことで笑いの衝動を収めると、自分のことをじっと見ている辟方に気付いた。
「どうしたの? 顔に何か付いてる?」
「っ! いや! なんでもない……」
凄い勢いでぶんぶんと首を横に振りつつ、力なく答える辟方を褒姒は不思議そうに眺める。
そんな辟方の初々しい様子と鈍感な褒姒の姿に、流石の項燕も苦笑してしまう。
部下に呼ばれた項燕が去り、二人になったところで辟方が口を開いた。
「なぁ……、戦うなとは言わんがせめてもう少し控えてくれないか?」
「突然何?」
「お前に何かあったら困る」
「えっ?」
褒姒はドキッとして、どういう意味だろうかと考える。だが、意味が分からない。
そんな褒姒の様子に気付いていないのか、辟方は続ける。
「お前は強いんだろう。でも、強者とて絶対ではない。お願いだから毒を仕込むような暗殺者に向かって行くな」
見たこともない辟方の様子にぱちぱちと瞳を瞬いた。だが、彼は真剣な表情をして褒姒の手を掴み、瞳を覗き込んで来る。
口調は変わらず偉そうで命令口調なのに、それを裏切る表情と態度に褒姒は訳もなく動揺してしまう。
(いいい一体何がどうなってるの?! 何で? 何で急にこんなんになったのぉっ?!)
内心ですらどもり、狼狽して左右に無駄に視線が泳ぐのを止められない。
一向に答えない褒姒に、辟方は掴んでいた手を額に当てて瞳を閉じる。
それから吐息と共に囁いた。
「戦ってくれるな」
願いを込められたその言葉に熱を感じてビクッと身体が震えた。
辟方の突然の変貌にどうすればいいのか分からず、褒姒はみっともなくオロオロする。
(どどどどうしたのよー?! 訳が分かんない……)
意味もなく泣きそうになって、眉尻が下がる。
しかも、いつの間にか避難したはずの民衆が遠巻きにこちらを見て、「ほら、やっぱり!」「陛下は皇后様を待ってらしたんだ」「御二人は漸く結ばれたのね」「いや~ん! アツアツ~!」などというおかしな科白が聞こえてくる。
褒姒は更に泣きたくなった。
わいわいと賑わう民衆に、それはどういう意味か問い質したいのにその答えを聞きたくない。思考が回転して、ついでに目も回っている気がした。それなのに顔が熱い。
訳が分からなくて真っ白だか真っ赤だかになっている褒姒に、更に追い討ちをかけるように辟方が再び口を開こうとする。
それに気付いた褒姒は、顔を真っ赤に染めて半泣きになりながら慌てて叫んだ。
「わ、わかった! 分かったからもう止めてぇ!」
「本当か?」
「ひっ! ほ、本当! 本当だから!」
嘘を許さないように迫って来た辟方に、何故か恐怖を感じて一歩後ずさる。
だがそこに嘘はないと納得した彼は、ほっと安堵の息を付いてにっこりと笑った。
「そうか。なら戻ろう」
そう言って手を差し出した辟方に、褒姒は首を傾げる。
「何?」
「手。危ないだろう?」
「……は?」
いやいや何言ってんだこいつ? と思いつつ差し出された手をじっと見ていると、焦れた辟方が褒姒の手を取ってそのまま繋ぐ。
すると何が嬉しいのか、再びにっこりと辟方が微笑んだ。
そうして、何故か手を繋いで一緒に大輿に戻った。
「褒姒が俺の“李華”だったんだな」
途中、小さく呟かれた辟方の言葉は幸か不幸か褒姒の耳には届かなかった。