上将軍
「管后様、お初に御目にかかる。小官は禁軍上将軍を任されております林項燕と申します。以後お見知りおきを」
一歩前に出て立礼をした項燕の動きには優雅さはなかったものの、力強さと頼もしさが感じられた。
漢らしいがっちりとした筋肉に馴染んだ仕草に、内心で大歓声を上げつつ熱狂してしまう。
(何て素敵な筋肉! こんな素敵な筋肉に出会ったのは二度目だわ! あの背中に飛びついてあの素敵な上腕二頭筋に頬擦りしたいぃ~~っ!!)
褒姒としては、飛びついて撫で回して擦り擦りして質問攻めにしつつ、手合わせを願い出たいところであった。だが、タイミング良く聞こえた叔牙の空咳で現状を思い出す。
冷静になり、衆目に晒されている中ですべき言動ではないことに思い至った褒姒は、内心、ガッカリしつつもにこやかに笑って項燕に頷き返した。
「林上将、こちらこそ宜しく頼みます」
「承知致しました」
褒姒の返礼に、にかっと漢らしく笑った項燕は、思わず興奮してしまうほど素敵で、褒姒はキラキラした眼差しを一心に注ぐ。
そこに不機嫌そうな顔をした辟方が割って入ってきた。
「項燕、勝手なことを言うな」
「おや、陛下。何がいかんのです?」
「部下が動揺するだろうが」
呆れたように言いつつも真剣な眼差しで見つめてくる辟方を、項燕は軽く笑い飛ばした。
「はっ! そんなことで動揺するような軟弱者はいませんよ」
「……そうでもなさそうだが?」
項燕の台詞を聞いた途端、周りの兵士たちが一瞬にして静かになった。項燕の姿を視界に入れないように目を逸らす者や顔を引き攣らせる者、汗をかいている者らがあちこちに見える。
そんな部下の様子に気付きながらも、項燕はきっぱりと言い切った。笑顔で。
「護衛対象である皇后様よりも軟弱な者がいたら、そこは責任を持って地獄を見せますよ」
ひぃっという情けない悲鳴がちらほらと上がる。入り口の方に立つ兵士など、顔色が青を通り越して白くなりながら、尋常じゃない量の汗をかいているのが見えた。
気の毒過ぎるその姿に憐れみを誘われた。とは言え、細かい所まで口を出すのは辟方の方針ではない。仕方なく釘を刺すに留める。
「はぁ……項燕。兵士を使い物にならなくされると困るのだが?」
「任せて下さい」
そう言いながら「わはは」と豪快に笑う項燕は見るからにやる気満々で、辟方の釘などでは止められそうになかった。
二人の話が少々脱線していた所に叔牙から声を掛けられた。いつの間にか少し離れていた彼は、穏やかに笑いながら歩み寄って来る。
「陛下、皇后様のお望みですし、構わないのでは?」
「叔牙?」
「元々、参詣での移動は輿で行うものですし」
いぶかしむ辟方に、話しながら彼に歩み寄った叔牙は声を潜めて報告した。
「夷吾殿からの報告です。車には揮発性の毒物が塗布されています」
「!!」
「祭祀用の大輿は密閉空間ではないので同じ心配はありません。大輿を夷吾殿が調査した結果、細工された様子はないと只今報告がありました」
周囲にいた兵士たちには聞こえなかったようだが、すぐ近くにいた褒姒と項燕には聞こえたらしい。項燕はにやりと不敵に笑い、褒姒は喜色満面の笑顔を浮かべた。
そこで喜ぶのは間違っているだろうと辟方は叫びたい気持ちをため息として吐き出す。
「分かった。大輿を用意しろ」
「直ちに」
辟方の命令に叔牙が頭を下げて、後ろに控えていた文官に伝令を伝える。伝令を聞いた文官は一礼するとそそくさと奥へと消えていった。
それを見届けてから叔牙が再び声をかけてきた。
「陛下。陛下は皇后様とお話になって下さい」
「は?」
「あんなに興奮していては何をしでかすか分かりません」
ちらっと辟方の後方にいる褒姒を窺いつつ、にっこり笑いながら呟いた言葉はかなり失礼だった。
しかし辟方はその言葉を訂正することなく、厭そうに顔を顰める。
「俺にアレを宥めろと?」
「貴方の妻でしょう?」
「……はぁ」
笑顔で突きつけられた事実に泣きたくなってきた。なんだか褒姒の夫と言うより、保護者か飼い主な気分だ。
辟方は少し肩を落としつつ、褒姒の元へ歩いて行く。
叔牙がそんな主の後姿を眺めていると、まだそこにいた項燕が歩み寄ってきた。
「面白い姫さんだな」
「興味がなかったのでは?」
「興味出た」
項燕の言葉に思わず叔牙が顔を上げて項燕を見上げると、彼はにやり笑いかけた。
叔牙は瞳を細めて真偽を見極めようとする。
「何故です?」
「あんな期待に満ちた瞳で見つめられたらねぇ? 俺に何を期待したのか知りたくなるってもんよ。
しかも、それを見た陛下はムッとしてるし、ありゃ絶対面白くなるぜ?」
顎に手を当てながらにやにやとにやける項燕の問いには賛成出来なかった。と言うか、したくない。
「貴方は引っ掻き回すだけですから、性質が悪いんですよ……」
「あの二人が心からくっつくのは悪くないだろ?」
「それは構いませんが……」
言い渋る叔牙は、しかしこの件に項燕が関わるのを断固として拒否したかった。
(そもそも貴方と褒姒は気が合いそうだから会わせたくないというのに。この二人に好き勝手に暴れられたら止められる者がいなくなるでしょうが……)
そんな叔牙の気苦労を項燕はもちろん誰も知る由はなかった。
叔牙が内心で深々とため息をついている頃。
褒姒が未だ見ぬ襲撃者に思いを馳せていると、辟方が声を掛けてきた。
「褒姒、少し落ち着け」
「……何ですか?」
水を差された褒姒はあからさまにむっとする。
そんな褒姒のぶっ飛び具合に顔を引き攣らせながら、辟方は上から言い聞かせるように見下ろした。
「いいから聞け」
そこに昨夜感じた冷気を感じて、渋々辟方に向き直る。
「喜んでいる所悪いが、お前は戦えないだろう?」
「何故ですか?」
「武器を持っていないだろうが」
「持っていますよ?」
予想外の返答に辟方は目を見開いた。
「そんな報告は受けていない!」
苛々してきた褒姒は叫んだ辟方を馬鹿にするように見つめながら、淡々と言い返す。
「武器の4つ5つ、誰にも気付かれずに隠すくらい簡単です」
「そんなわけあるか!」
「良い女の嗜みです」
「勘違いだ! どこでそんな間違った知識を教えられた?!」
「母様が言っていました」
忌々しそうに舌打ちをする辟方に、褒姒の苛々が更に積もる。
「ちっ! これだから管一族はっ! お前の母が間違っているんだ!」
「父様も頷いていました」
「お前の両親が間違っているんだ!」
「私はそうは思いません。陛下が間違っておられるのでは?」
家族を悪く言った相手に優しくするほど褒姒はお人好しではない。辟方思いっきり冷めた瞳で見返すと、彼は苛々と叫んだ。
「ああ言えばこう言いやがって……!」
それはこちらの科白だ、と褒姒は内心で毒づいた。自分の非を認めようとしないなんて狭量な男だな、と彼に対するなけなしの好感度が一気に下落していく。
二人はお互いに顔を背けて視界からその姿を消すと、用意が調った旨を告げに叔牙が声を掛けるまで、お互いに一歩離れた場所に立ったまま苛立ちをぶつけ合っていた。
あれ? 何故だろう?
イチャイチャからどんどん遠ざかっていく……。
自分の一目惚れを信じられない性質のせいで、予定より遠回りしそうです。
きっかけとしては信じるんだけどね。うん。