移動
茜国皇家の婚姻の儀は三日に亘って執り行われ、その三日の間に花嫁は自国の民と近隣諸国に大々的に披露される。
一日目は近隣の有力者への披露目が、二日目は国民への披露目、三日目は国の官吏たちへの披露目が行われるのだが、その中で最も大変なのが二日目であった。
何故ならその日の行動が儀式によって定められているため、誰もが皇帝と皇后の動きを知っているのだ。
しかも、大宗廟へ詣でる参詣の儀では皇帝と花嫁、その護衛たちから成る参詣行列は必ず大通りを通ることが決まっている。
そのために万全の警備体制が敷かれるのだが、それでも総ての害意を防げるわけではない。事実、何代か前の皇帝の時代に、二日目の参詣の儀の移動中に暗殺された花嫁がいるほどだ。
だからこそ二日目の移動時には殆どの花嫁が怯えてしまい、壁がなく周囲から丸見えの輿ではなく、しっかりとした壁がある車での移動を花嫁が希望する。その上王宮の外に出ること自体を渋ったり、車から降りるのを嫌がったり、今度は大宗廟から帰ることを拒んだりと花嫁が怖がって問題を起こすことが多かった。
それ故にいつも以上にピリピリとしていた、参詣行列の警備担当である禁軍第一軍――通称“近衛隊”――の面々の口が呆けたようにぽかんと開いていた。
「だから私は輿で行くと言っている」
「し、しかし……」
「何を揉めている?」
褒姒が目を据わらせて男と言い合っていると声が掛かる。振り返ると、叔牙と知らない大男を連れた辟方が歩いてくるのが見えた。
***
先ほど、円舞台から前室に戻った褒姒と辟方は、次の参詣の儀の準備のために別行動になった。
あまり時間がないらしく、辟方が叔牙を連れて慌しく出て行くのを見送ると、褒姒も小瑛、梅瑛と共に前室を後にした。
それから、自分の室に戻ると素早く羽織を着せられ、頭に薄布の付いた冠を付けられる。
「これ透けているけど、この薄布って必要なの?」
「はい。皇后様のご尊顔を直接拝謁するのは恐れ多いことですから」
薄布を片手で掴みながら褒姒が尋ねると、小瑛が丁寧に答えてくれた。
しかしその理屈に納得がいかない褒姒は眉を寄せる。
「その理屈はよく分からない」
「ふふふ。ならばこれも儀式のしきたりとお考え下さい」
素直に言葉を返す褒姒の様子が微笑ましく、小瑛は悪戯を教えるように言った。
その言葉に「そんなものなのか」と呟く彼女に小瑛の笑みが深くなる。
「では皇后様」
「うん。行きましょう」
小瑛が呼びかけると、すぐに顔を引き締めた褒姒は小さく首肯し、小瑛の後ろに立って歩き出す。
その後姿を、参詣にはついて行けない梅瑛が頭を下げて見送った。
そして辿り着いた王宮玄関前には青毛の馬に繋がれた豪奢な朱い車が待っていた。
褒姒はその車を見て足を止める。
足を止めた彼女に気付いた小瑛が褒姒を振り返り問いかけた。
「皇后様、如何致しました?」
しかしその問いに一向に答えない彼女に小瑛は不審そうに眉を寄せる。
すると、皇后の姿に気付いた近衛隊の一人が足早に近づいて来た。怪訝そうに褒姒の姿を見た後、隣にいる小瑛に説明を求めて視線を向ける。
「……何故車が用意されているの?」
漸く口を開いた褒姒の言葉に小瑛と男は目を見開いた。
***
それから褒姒と男は辟方が来るまで延々と言い争っていた訳だが、二人は辟方の姿を認めると同時に声を上げた。
「陛下」
「辟方! 君からも言って」
「ん?」
二人の――というよりも褒姒の剣幕に驚きつつ辟方が話を促すと、男が口を開くよりも先に褒姒が口早に言い募った。
「妖獣は駄目、馬も駄目、輿も駄目。この人駄目としか言わないのよ!」
忌々しそうに訴える褒姒の言葉は意味不明だ。余程怒っているらしく、圧倒的に言葉が足りない。
しかし、状況から鑑みて大宗廟への移動手段について言っているらしいと辟方はあたりをつける。
「ふむ。車の何が不満なんだ?」
辟方は今回の移動は安全性の高い車でと考えていた。だからこそ車を用意させたのだが、それを褒姒が何故不満に思うのかが分からなかった。
「当たり前でしょう! 折角襲撃出来る機会なのよ? 車に乗ってどうするのよ!」
「……」
褒姒の言葉に周囲にいた人間が唖然と目と口を見開いた。
彼女の可笑しな発言に空間が凍りついていた。
それもその筈である。
襲撃される側の褒姒が、瞳を爛々と輝かせてその機会を好機として語るなどと誰が思うだろう――?
しかし、逸早く立ち直った辟方は既視感を感じて苦笑を浮かべた。
その光景は正しく昨夜の再現である。
どうやら彼女の強者に会いたいという欲望は本物らしい。
いや、どちらかと言うと戦闘出来る機会を逃したくないだけのようにも見えるが。
しかし、褒姒と言い争っていた男には気の毒なことをしてしまったようだ。
彼女の安全を最優先に考慮したにも関わらず、その相手に文句を付けられたのだから堪ったものではないだろう。その上、その相手が自国の后では反論も出来まい。
男の泣きそうな表情と額にびっしりと浮いた汗――冷や汗だろう――が何とも言えず哀れだった。
兎にも角にも、褒姒は車での移動を断固拒否しているようだ。
しかし、警備配置は勿論のこと、兵士たちにも車での移動を前提とした警備を言い渡してある。
それをこの土壇場で変えるとなれば、兵士たちの間に少なからず動揺を招くだろう。そうして生まれた隙を突かれて、本当に襲撃されては目も当てられない。もしそうなれば、国民に軍への不信感を植え付けてしまいかねないのだ。
ここは褒姒には悪いが、我慢して車で移動するよう説得するしかない。
辟方が考え込んでいる一方で、褒姒は腹立っていた。
こちらの言い分を聞いた筈なのに、何かを考え込んでいる辟方は難しい顔をしたまま黙っている。
いくら鈍い褒姒とて、その表情を見れば何を考えているのかは分かる。分かるからこそ腹が立った。
辟方は明らかに車で移動させる気だ。頭ごなしに安全性を説いて反対するだけ。
昨夜、自分の実力の一部を見たはずなのに、辟方は褒姒の力を理解していないらしい。まるでお前は無力だ、と言われているようで、そのことが何よりも腹立たしくて仕方なかった。
もし、この場にいるのが父である夷吾ならば、褒姒の力を信じて任せてくれただろう。だのに何故辟方は信じないのか、そう考えるだけで無性に苛々する。
「いいではありませんか」
そこにやけに力強い声が響く。
その低い声の主を探すと、そこには辟方と共にやって来た大男がいた。茜国でよく見られる茶色の髪と瞳をした彼は、筋骨隆々の身体に武具を身につけ、だらけたように立ちながらもそこには一切の隙もない。
そこから窺える彼の実力と堂々としたその体躯に、褒姒は先ほどまでの苛立ちを瞬時に忘れて見惚れた。その視線に確かな羨望と尊敬の念を込めて。
そんな褒姒の様子に気付いた辟方は、ムッとして顔を顰める。しかし、大男を無心に見つめる褒姒が彼の様子に気付くことはなかった。
※文章中の“車”とは、自動車のことではなく馬車のことを指します。
中途半端な所で切ってすみません~
続き、早く更新出来るよう頑張りまーす