民許の賜り
蒼天の空がどこまでも広がっていた。雲一つない空に太陽が燦燦と輝き、人々を祝福している。
その空模様は、まるで今日の儀式を、その中心である二人を天が祝福しているようで、集まった人々は皆期待と喜びに心を震わせていた。
人々の視線の先、玉橙宮円舞台の後方に、手に手を取り合って歩む仲睦まじそうな男女が現れると、人々は示し合わせたように歓声を上げる。
その歓声の大きさに驚いたように足を止めた娘。彼女の異変に気付き、同じように足を止めて娘を振り返り、微笑んで何かを呟く男。
彼が繋いでいた手とは反対の手で彼女の手を優しく撫でると、二人は再び歩き出した。
そして、円舞台の中央に立つと二人は手を繋いだままそれぞれ片手を上げて人々の歓声に応える。
花嫁としてやって来た娘の初々しいその姿に。
娘を優しく気遣い、導く男のその姿に。
何より二人が仲睦まじく寄り添うその姿に。
人々は明るい未来を予感させた。
自分たちの歓声に応えてくれた二人の姿に、自分たちの声が届いているという現実に、喜び勇む人々は再び歓声を上げる。
その合唱はまるで地面を揺らすようで、空を突き抜けて天にも届くだろうと人々が感じるほどだった。
***
「すごい、ね」
パチパチと目を瞬かせる。
褒姒は実感していた。これがこの国の民なのだと。皇帝である辟方が、そしてこれから皇后として褒姒が背負っていく生命たち。
知識として知っているのと、実際の現実としての実感は別物だ。
目の前に広がる人の海。彼ら上げる声は紛れもなく希望と喜びに満ちていた。
それは皇家への期待と信頼の証だ。
褒姒の身体に震えが走って思わず足を止めてしまう。漸く実感した国という重み、それは今まで感じたことのないほどの重責で、精神も身体も萎縮してしまい竦みあがっていた。
褒姒を掴んでいる手が後ろに引っ張られ、辟方は一歩先に進んだ所で立ち止まる。彼女が立ち止まったために手を後に引かれたことに気付いた辟方は、後ろを振り返ると目を丸くした。
彼の視線の先には、見たことのない表情をして自分を見上げる褒姒の姿があった。よく見ると、褒姒の瞳が困惑と不安と恐怖に揺れて潤んでいる。
それは、昨日から辟方に対峙していた褒姒からは想像出来ないほど弱々しい姿だった。まるで迷子になった幼子のような彼女の姿に、辟方は場違いながらも彼女を置き去りにして思う存分愛でたくなった。
自分の思考の、彼女を愛でる方向への傾き具合に危機感を覚えつつ、その欲望を理性で抑え付け、辟方は褒姒に囁く。
「怖気づいたか?」
挑発するようなその言葉に流石にむっとした褒姒が目だけで辟方を睨む。それでもその視線は昨日の射るような圧迫感のあるものではなく、寧ろどこか縋るような眼差しに見えた。
辟方としてはそうやって怖気づく姿には好感が持てる。それを大衆の面前で表に出してしまっている未熟さはあるものの、皇后位に就く恐怖を感じるのは自分のパートナーとして望ましい。
だが、そこで怖気づいて終わるような人間では困るのだ。そんな人間ではこの先共に生きていけない。
もし、褒姒がそんな人間ならば、これからの彼女との関係を考え直さなくてはならなくなる。今更この婚姻を白紙には戻せないが、結婚さえしてしまえば彼女をどうにかする方法などいくらでもあるのだから。そう思いながらも褒姒を気に入り始めている辟方はまだそれ(・・)を実行する気は全くないのだが。
辟方は一から十まで褒姒を助けるつもりはない。だが、この場でこのままという訳にもいかず、取り敢えずは彼女の気を落ち着けるにはどうすればいいかと考えて、ふと彼女の手が小さく震えているのが目に入った。
いや、手だけではない。全身が震えていた。
それを見て、辟方は反射的に繋いでいなかった右手を彼女の手に重ねると、優しく撫でた。
彼の突然の行為に驚いた褒姒が辟方を見上げると、思いがけず優しい眼差しで自分を見ている彼に気付いてドキッとする。それと同時に、冷たくなっていた褒姒の指先に辟方の指が優しく触れて、まるで彼の熱が移ったかのように温かくなった。
たったそれだけのことで褒姒の震えは止まっていた。自分の手を見てそれを確認すると、辟方を見上げてゆっくりと微笑んだ。
自然に笑んだ褒姒の顔を見て、辟方は満足そうに微笑み返し、再び前を向いて二人一緒に歩き出す。
そして到着した円舞台の中央で、彼らは割れんばかりの歓声に微笑みながら応えたのだった。
それから三十分。
途切れることのない歓声に、若き皇帝夫妻は終始笑顔で応え続けた。
「――」
背後で名を呼ばれた気がして辟方がちらっと背後を盗み見ると、いつまで経っても戻ってこない二人に焦れたのか、春官が国民には見えない位置から焦ったように手を振っているのが見えた。
その春官に向かって軽く頷くと、握っている褒姒の手に少し力を入れてこちらへの注意を促す。
「戻るの?」
「ああ」
前を向いて手を振ったまま小声で聞いてきた褒姒はとっくに背後の春官に気付いていたらしい。確認するように聞かれた問いに、辟方は小さく頷いた。
二人は横目で目を合わせると、円舞台上で国民に優雅に礼をし、再びの歓声が轟く中、円舞台から前室に向かってゆっくりと歩き出した。
「さっきはありがと」
円舞台から充分に遠ざかってから、褒姒は辟方を見上げて微笑んだ。
まさか自分があの場面で竦んでしまうなど考えてもいなかった。周囲の人間もハラハラしただろうが、その変調に一番驚いたのは褒姒自身だ。
儘ならない自分自身に困惑して頭が真っ白になり、徒に焦るばかり。
そんな褒姒を落ち着かせてくれたのは辟方の言葉だ。彼の言葉が褒姒を正気に戻し、そして彼の温もりが褒姒に勇気を与えてくれた。
それを思い出すと自然と褒姒の胸がほっこりと温まり、笑みが浮かんでくる。
辟方はその花のような笑みに思わず見惚れた。鼓動が速くなっていくのが分かって無意識に焦ってしまう。
空回る思考のせいで彼女の言葉に何と答えていいのか分からず、辟方はぎこちなく頷いて応えた。
それを見てにっこりと笑った褒姒は再び前を向いて歩き出す。
辟方は褒姒の隣を歩きながら、その笑顔を見て円舞台前で見た彼女の笑みを思い出した。それはまるで固い蕾がゆっくりと花開く瞬間を見ているかのようだった。
普段の彼女は特別美しいと言える容姿をしていない。漆黒の髪と瞳は珍しいが、どちらかと言えば十人並みと称されるだろう平凡な顔立ちをしている。
しかし、先ほど鮮やかに微笑んだ彼女はとても魅力的だった。自然と目が惹き付けられ、はっきりと彼の心に刻み付いた笑み。
それを思うだけで何とも言えない疼きが彼の内に生まれて、苦笑する。
「こんなつもりじゃなかったんだがな……」
辟方の呟きは歓声に掻き消されて、誰に届くことなくただ風に攫われていった。
そんな二人を前室から温かく見守る三つの影。
「素敵……! とってもお似合いですわ! ていうか、小瑛様! 何ですかあれ! 皇后様初々しくてすっごい可愛いんですけどっ!!」
興奮し過ぎて自分の上司でもある小瑛の肩をバシバシと叩きながら、頬を染めてキラキラと二人を見つめる梅瑛。
流石に興奮し過ぎている彼女に呆れて、小瑛が鋭く窘める。
その横で叔牙は二人を見つめたまま静かに微笑んでいた。
※辟方はロリコンではありません。(笑
文章を読み返すとこれ、ロリコンにも取れるなぁ……と改めて気付きました。
そういう嗜好は持っていませんので期待しては駄目です。
非常に残念ながら応えられません。
えー、今回ちょっと物足りない感じになってしまってすみません。
私も書いていて物足りなかったです。
とは言え儀式についてはこれ以上掘り下げる必要はないし、二人の関係もここではこれ以上進む予定はないので我慢ス……。