◇002 蟠りを捨てる。
あれから、数週間たった今、転校生への風当たりはお世辞にも良くなっているとは言い難かった。
むしろクラス混合授業などで多クラスの生徒とも会ったことで、拍車をかけて嫌われているようだった。
未だに草津から名前は聞けないし、女子には避けられるし、体育の時間になるとボールの的になることも多い。
教師すら助けようとしないその状況は、一歩離れた玲弥の目にはひどく異様に見えていた。
何より、嫌われて居心地が悪いだろうにへらへらと笑っている彼自身が信じられなかった。
もしかしたらあいつは嫌われても良いのか、と邪推していたころ――彼らの運命を揺るがす“事故”が起きる。
「玲弥!」
その日、玲弥は生徒会の仕事で下校時間ぎりぎりまで学校に残っていた。
この学校ではクラス委員長から生徒会に所属する生徒が選ばれていて、玲弥は二年生になって副会長に任命されたのである。
上へ向かう階段に足をかけた玲弥を溌剌とした声で呼んだのは芽衣――クラスメートで幼馴染の長谷川芽衣だった。
ぱたぱたと駆ける足音に振り返った玲弥に彼女は満面の笑みを向けた。
「芽衣……こんな時間までどうしたんだ」
「部活だよ、部活! そろそろ大会だからね、最近はずっとこの時間だよ」
「……まさかいつも一人で帰ってるんじゃないだろうな」
「違うって! 今日は玲弥がいたから部活のみんなには先に帰ってもらったの。一緒に帰ろう?」
ふわりと笑って腕を引く彼女に玲弥は小さく困ったように笑った。
この二人、実は校内で有名である。
性格も成績も良く、人受けする美男美女カップルとなればそれも頷けることだが、当の本人たちはそれに気付かない。
さらにどう見たって両思いなのにも拘らずお互いがお互い片思いだと思ってるから中々発展しない、よくある少女マンガのような展開を年頃の高校生はいつも固唾を飲んで見守っている。
今はもう下校時間間近なのでデバカメ隊はいないが、芽衣が玲弥と帰るということを知った部活仲間は妄想を膨らませていることだろう。
取られていた腕を自分の方に引き戻しながら、玲弥はちらりと階段の上を見上げた。
「構わないが……教室に鞄を取りに行く」
「あ、待ってよ。私も行く!」
明るく話しかけてくる芽衣に言葉少なに返しながら、玲弥はふと目に入った教室に訝しく眉を顰めた。
初夏とはいえ、下校時刻間近の校内は薄暗い。
廊下の照明も消されている中で、煌々と光のこぼれる教室はひどく目立った。
目的地でもある教室の照明がまだ落とされていないのに、玲弥に遅れて芽衣も気が付いて、きょとんと首を傾げた。
「あれ? 誰かいるみたいだね」
「それか、消し忘れだな。どちらにせよだらしのない」
「まだ下校時間まで二十分ぐらいあるもん、あんまりお堅いことは言いっこなしだよっ。いなくたって私達が消せばいいんだし、ね?」
にぱっと笑う芽衣に玲弥は毒気を抜かれたように相好を崩して、穏やかに肯定を返した。
玲弥は芽衣に弱い、クラスメートにも把握されている委員長の真実だった。
兎も角、生徒がいるなら忠告するくらいで良いか、と不機嫌な度合をランクダウンさせて、彼は半開きの扉に手を伸ばした。
「――もしもし」
ひたり、とその手が止まった。
聞き覚えのある声だった。
ちらりと芽衣を見ると、彼女は剣呑な瞳を扉の向こうに投げかけていた。
玲弥は嫌悪感を振り払うように一瞬目を閉ざした。
「何か御用でしたか」
聞き覚えもあるはずだ。
何せ数週間前から隣の席で聞こえていた声なのだから。
大きく溜め息を吐きたくなって、玲弥は声を噛み殺した。
「解りました。明後日の――」
しかし、何か違和感を覚える声だ。
いつもは飄々としているが、トーンの高い声で話しかけていたように思うが。
今聞こえるこの声は、穏やかではあるが、どこか抑揚に欠けて、色がない。
「……はい。失礼します」
ぴ、と軽い機械音が教室の中に響く。
ついでぱたん、と携帯電話を閉じる音がして、玲弥ははっと我に返った。
何故、盗み聞きまがいのことをしているんだ、と心中呟いて、彼は手をかけていたドアを勢いよくスライドさせた。
件の人物は窓際に腰かけてぼんやりと虚空を眺めていた。
「――……、……あれ、帰りかな。ふたりとも」
「あなたに関係ある?」
「ううん、ないね」
素気無い芽衣の言葉に彼は首を振って、手元にあった鞄を背負った。
身軽に窓際から飛び上がると、圭吾は携帯をポケットに突っこんで、いつもより幾分色のない顔をちらりと外を向けた。
一方の芽衣はあしらうように躱されて、怨嗟を吐くように瞳を濁らせていた。
その様子に玲弥はぞわりと寒気を覚えた。
芽衣は万人が認めるお人好しだ。
人好きで話もしない人間を嫌いになることなど一度もなかった。
玲弥の見る限りで芽衣は圭吾と話したことはなかったし、嫌われるような行動をとっているようにも思えなかった。
「……六堂」
気付けば、玲弥は外へ視線を注ぐ転校生に殊更静かな声をかけていた。
緩慢に振り返った彼は、ゆっくりと首を傾げると、何かな、といつもより幾分小さな声で返した。
体調が悪いのか、と玲弥は思ったが、さして話している訳でもないのにそんなことを聞くのも戸惑われた。
「……お前は」
「ん」
「自分が嫌われている自覚はあるのか」
「まぁ、そりゃあね」
圭吾はいつもと同じようにへらりと笑ってひらひらと手を振った。
その顔は普段通りなのにも拘らず、薄っぺらなのに気が付いて、玲弥は小さく歯噛みした。
例え気付いているからと言って嫌われているのを知っているか、なんて直球で聞かれて、良い思いをする人はいない。
「……すまない」
「ん?」
「いや……その、嫌われる理由、というのか。……お前の嫌われ方は尋常じゃないように思う」
「――赤崎は、あれだな、すっごい冷静だな」
普通はそんなの気付かないもんだけどな、と圭吾は笑い、それから考えるように視線を宙にやった。
うろうろと彷徨った視線が玲弥の背後にいる芽衣に向けられると彼女はすっと目を尖らせた。
「なに」
「……ん、いや。赤崎はさ、俺が何でこんな不自然な嫌われ方するのか、気になるってことだよな」
芽衣については気にしないことにしたのか、圭吾は玲弥に首を傾げて笑みを向けた。
その笑みは普段とは違い、穏やかでどこか優しげなもので、玲弥は瞠目する。
「そう、俺も解んないんだよね」
「は」
「数学学者が言うには何兆分に一かの確率で、霊能力者が言うには呪いで、科学者が言うには微量の毒素で、他の科学者が言うには多少害のある音波なんだって。生まれた時からこうだからさ、俺は体質だと思ってるけど」
詳しい理由はさーっぱりだよ、へらりと圭吾は笑う。
そんな体質があってたまるか、というのが玲弥の正直な気持ちだったが、他に今の状況を説明できる言葉を持ち合わせてはいなかった。
ゆっくりと咀嚼するように玲弥が考え込むのを見咎めて、圭吾はからりと笑った。
「赤崎はお人好しだな、気にしなくて良いんだよ。俺を嫌うのが正しい反応なんだからさ」
「……正しいか、どうかは解らない。嫌悪感も、確かに感じる」
「うん」
「だが、その体質とやらの所為で嫌いになるのは、癪に障る」
きっぱりと言い切った玲弥に圭吾は一瞬ぽかんとして大きく噴き出した。
その自然な笑顔に、玲弥は訝しげな顔を返す。
彼自身は可笑しなことを言った覚えはなかったのである。
首を傾げる玲弥の様子に圭吾は更に笑い声を高くした。
玲弥の後ろで話を聞いていた芽衣は憤りを隠すように両手を組んで唇を強く噛みしめていた。
何故、玲弥はこのいけ好かない転校生と話すんだろう。
委員長だから気になるのは仕方ないかもしれないけれど、嫌いなものは嫌いで良いじゃないか。
じろりと転校生をねめつける。
それに気付いた圭吾は満面の笑みを苦笑に変えて玲弥に視線を戻した。
「うん、ありがとな、赤崎。少しでもまともに話してくれて嬉しいよ」
圭吾はにっと笑って見せると、大袈裟な仕草で時計を仰ぎ見た。
ぎょっとした顔で時間を確認する彼の様子はこの話は終わりだと言っているような気がして、玲弥はどこか悔しい思いを覚えた。
「やっば! もう下校時刻になんじゃん、俺先に帰るからお二人さんも気を付け、――!」
不意にぞわり、と妙な感覚を覚えて、圭吾は扉の方に向けていた足を止めた。
同時に玲弥も湧き立つような力に咄嗟に芽衣を庇おうと彼女の腕を掴んだ。
芽衣は、地を這うように闇が動いているのを見咎めた。
良くないものだ、と彼女にはそれが解った。
それは瞬く間に地面を覆い、声をあげる暇も与えず三人を飲み込んだ。
第三者がその様子を見れば、突如床から黒い繭が生えてきたように見えたことだろう。
煌々と教室を照らしていた蛍光灯が一瞬光を失う。
ちか、ちか、と瞬きを続けて、やっと教室内が明かりを取り戻すと、黒い繭はその姿を消していた。
どさり、と二つの鞄が床に投げ出される。
教室は何事もなかったように静けさを取り戻した。
主を失った三つの鞄を、人工的な明かりが淡々と照らし出したまま。
†
「――……あ、れ?」
芽衣は気付けば一人、ぽつんと立っていた。
玲弥はいない。
あのむかつく転校生もいない。
辺りは白っぽい砂が巻き上がって見えないが、大きな建物が規則もなく立ち並んでいるようだった。
ぞくっと全身が粟立つのを感じた。
ここはどこだ、煩く鳴り響く心音の向こうに自身に問いかける妙に冷静な自分を感じて、芽衣は慎重に辺りを見回す。
「――知らない、ところ」
確認するように呟きながら砂煙の向こうに足を踏み出す。
砂が入らないよう目を細めながら、彼女はまた一歩一歩と大きな建物に近づく。
「……」
じゃり、と足元の石を踏み鳴らして、芽衣は存外近くにあったそれを振り仰いだ。
背をそらすように見上げても頂上は見えない。
砂のヴェールの所為もあるだろうが、何より薄らと見える影の高さに目が眩んだ。
家の近くにある高層マンションくらいはあるだろうかと目測しながら、芽衣は大きく息を吸い込んで、咳き込んだ。
砂煙を吸い込んでしまったらしく、喉の奥に細かい異物感を感じた。
芽衣は暫く咳き込んで涙の滲む眦をそっと指で拭った。
苦しさはあったものの、そのお蔭で、彼女は少し冷静になった。
「やっぱり、あの黒いのが原因、かな……白昼夢を見てるとかじゃなければ、だけど」
小さく呟いて、芽衣はもう一度辺りを見渡した。
砂埃が舞っている所為で正確な判断はできないものの、大きな建造物が辺り一面に見受けられた。
それも計画的に建てられたものではないようで、乱立しているといった方が正しいようだった。
道に沿って建設されているのではなく、そこに隙間があるから建物を建てているような印象を受ける。
人気もなく、打ち捨てられた都会のような雰囲気を感じて、芽衣は小さく身震いした。
「……玲弥、いない?」
芽衣の小さな声は存外辺りには響いたが、応えはなく、彼女の不安を煽るだけだった。
不意に、がしゃん、と左方から金属音がして、芽衣は肩を跳ねさせた。
ついでがしゃん、がしゃん、と重なるように聞こえる音は次第に近づいてくるように聞こえた。
反射的に希望を感じて、芽衣は声をあげる。
「玲、弥?」
またしても、答えはなく、ただ耳障りな金属音が少しずつ近づいてきているのだけ解った。
その金属音に交じって軽い足音がいくつも聞こえたが、それが玲弥のものだとは思えなかった。
誰かいることはいるらしい、それが玲弥である可能性はほとんどない。
そして、答えがないということは言葉が通じないのか、答えなんて返す気はないのか――。
芽衣は、背筋に冷たいものを感じて固まった足を無理やり右へ向けた。
言葉が通じなくても話す気があるのなら、何かしら声をあげるはずだ。
誰かいるのか、とかそこで待ってて、とか芽衣自身なら絶対にそうだ。
それに、この金属音。
耳に馴染みのない音だからぴんと来なかったけれど、全身鎧の足音のような気がした。
実際に見たことも、聞いたこともないが、音の重さや、段々と近づいてきていることを考えれば、強ち間違ってはいないだろう。
ここは、違う。
こんな場所は知らないし、TVや何かで見た覚えもない。
鎧で動く人なんて見たこともない。
芽衣が走り出すと、後方で一瞬遅れて、金属音が追走してきた。
やはり、自分を捕まえようとしているんだろうか、不安が芽衣を襲った。
足元ではガラスが踏み鳴らされて、いる位置が歩く度に相手に伝わっている。
相手は重そうな足音だったから速さはないかと高を括っていたが、存外追いかけてくる足音は速い。
芽衣もバスケ部に入っているから足は速い。
だが、持久力は部内で下位で、長い距離を走るのは苦手だ。
次第に近くなってくる足音に、芽衣は恐怖した。
振り返れば、すぐそこに鎧がいるような気がして、足が縺れる。
相手は、止まらない。
「やだ……っ!」
引きつったような声が喉から絞り出された。
それが精一杯の最初で最後の悲鳴で、確かにそれは届いた。
「――長谷川っ!」
「……え」
焦ったような声は横合いから聞こえて、右腕を掴んだのはその声の主だった。
ぎょっとして自分を見る芽衣に彼は――圭吾は苦く笑って、彼女を引っ張った。
「赤崎じゃなくて悪い。とりあえず走るから、足元だけ気を付けてな」
彼はそう言うなり芽衣の手を引いて、狭い建物の間を縫うように走り出した。
余裕を感じさせる圭吾の声に芽衣は彼を嫌っていたことも忘れて、安堵を感じた。
優しく握られた手からは確かに温度を感じて、安心こそすれ、嫌悪感の欠片も感じていなかった。
同時に何故自分を助けてくれたのかと疑問が首をもたげたが、予想外に速い彼のスピードに足を動かすのが精一杯だった。
砂埃が立ち、視界も良好とは言えないコンディションで、圭吾はその先が見えているように障害物を避けて走る。
だから彼の言うように足元に気を付ける必要すらなくなったが、足が追い付かない。
そもそも履いている靴だってバスケシューズやスパイクじゃなくて学校指定の上靴だ。
外を走るのに適しているとはとても思えない。
それなのに、平気で走る圭吾の方が可笑しくはないだろうか、と芽衣は頭の片隅で考える。
だけど、と芽衣は前を走る背中を見つめる。
今言わなかったら、きっとタイミングを逃す。
「あ、のっ!」
「ん、どうかしたー?」
「助けてくれて、あり、がとうっ!」
圭吾がほんの少し驚いたように芽衣を振り返った。
鳩が豆鉄砲を撃たれかけたような顔をしていた、と芽衣はのちに思い出す。
兎も角こちらを見た彼に笑いかけると、圭吾は照れたようにはにかんだ。
「えーと、どーいたしまして」
「それとっ、嫌ってて、ごめんっ! ほんとに、ごめん!」
握られていた手を握り返すように力を入れて言うと、彼は今度こそぽかんとした。
これこそ鳩が豆鉄砲を撃たれた顔だ、と芽衣は心中で呟いた。
何がすごいって、そんな状況でも走るスピードが欠片も落ちないことだろうか、と芽衣は思う。
何度か目を瞬いた圭吾はゆるゆると笑顔を浮かべた。
それは玲弥の前で見せた笑顔と似ていたが、それよりずっと穏やかで照れくさそうな笑みだった。
「だから、その、こんな時に言うのも変だけどっ」
「うん」
「友達になってっ!」
視線を逸らすように前を見た圭吾が、明るい笑い声をあげた拍子に砂埃を吸い込んで咳き込みながらも、YESと返したのは言うまでもなかった。