◆001 刃を向ける。
「また逃げるのか」
男は低く、呻くようにそう言った。
そうだ、この相手はいつもいつも逃げる。
そうして碌に話すらしない。
手にした真白い剣が彼を狙うのに、それでも奴は逃げて、逃げて、そして逃げ果せるのだ。
どんな技を使ってる、そう聞いても奴は口の端を吊り上げて笑う。
どうして逃げると聞いても、奴はただ目を細めて笑う。
それでも一度だけ奴は大笑いをしたことがあった、男はそう思い出す。
こうして追いかける契機になったあの時、背を見せて逃げるなど戦人として恥ずかしくはないのか、と男が言ったあの時。
戦人じゃないよ、と彼はひいひいと苦しそうに笑いながら目尻を拭った。
武士でも、騎士でも、兵士でも、傭兵でも、暗殺者でも、忍でもないよ。
その言葉はどうしてか相手は笑っているのにひどく空虚に聞こえた。
「何故逃げる」
何度も問いかけたその質問に、奴はいつもとは違う反応を見せた。
にまりと人を喰うような笑みを見せて何も持たない手を男に向けたのだ。
「君が追うから。人と関わりたくないから。戦うのは面倒だから」
つらつらと並べられるその答えに男はらしくもなく目を瞬いた。
答えが返ってくることを正直もう期待もしていなかったのだ。
そのきょとんとした顔を前に相手はなお続ける。
「君は何故逃げるのかと問うけど、俺には君の方が不可解だな」
これで何度目かな、と奴は緩慢に首を傾げた。
その言葉に、男も口を閉ざした。
何度目――数えてなどいないが恐らく両手両足を使っても足りない程度にはこうして会っているだろう。
「最初はあれだな、報酬があっただろ。そう安くはない報酬。だから俺を追いかけて国境付近まで来た」
「……ああ、お前を生きた状態で捕まえろと依頼があった。だからお前を追いかけた」
「そう、だけどその依頼はもう破棄されてるよな」
「ああ、その通りだ。数か月前に終わりを告げられた」
相手の言葉に鸚鵡返しをしながら、男は相手をただひたと見つめていた。
何故追うか、初めは意地。
成功率は八割前後、相手から破棄された依頼だからその範疇に収まることはないにしても、多くの依頼を成功させてきた男としてはあっさりと逃げられ、挙句相手は戦人ではないと言い出すのだから堪ったものではない。
見る間にプライドがずたずたになった。
しかし少し間をおいて考えれば冷静になれたし、ただの意地で幾つもの依頼を蹴るほど男も考えなしではない。
「俺が憎いからか?」
「憎む、理由がない」
「俺が目障りだからか?」
「目障りなら追いかる必要がない」
「じゃあ――何であんた俺を追っかけるんだ?」
問いかけられたそれに、男は考えるように口を噤んだ。
自分のことながら確かに言われてみれば不可解だ。
逃げるのは――まぁ確かに出会い頭捕らえようと剣を向けられれば逃げるだろう。
何も答えないのは癪に障るが、そうおかしい事ではないかもしれない。
では追いかけるのは?
追うのには金がかかる。時間がかかる、やる気がなければここまで長く追い続けるのは不可能だ。
ただ、その理由に、男は思い当たる節がなかった。
だから、男はただ剣を握る。
「さあ、な」
「うわぁい、超適当!」
「だが、お前を捕らえればその理由も解る――気がする」
「うわぁい、そんなあいまいな!」
奴はけらけらと笑って腰に差された赤いナイフの柄を掴んで一気に引き抜いた。
初めて、奴は武器を手に取った。
それが高揚となって男を震わせた。
感触を確かめるように奴は何度か空を引き裂く。
手慣れたその様子を引き込まれるように見ていると奴は面映ゆそうに笑って遂にそれを構えた。
「なあ、名前教えてよ。あんたは俺を知ってるだろうけど、俺はあんたを知らない」
「……初めに会ったときに名乗ったはずだが」
「一回言われただけで覚えられるかっての!」
口で不平を紡ぎながら、男は戦場で感じた昂りを、あの時よりも強く感じて抑えきれずにいた。
知らず、弧を描く唇を誓いのように剣に触れさせてから男は厳かに声を張り上げた。
「我が名はラルーグ・ゼル・イシュヴィナ。気高き異国の英雄、マデッド・イシュヴィナの血を継ぐ者。一騎打ちを申し入れる」
奴はにまりと笑った、笑って、それだけだった。




